異端の国

 その部屋は、異界の様相を呈していた。灯りの少ないその空間を満たすのは、古びた羊皮紙と洋墨、それから埃と黴のにおい。面積そのものは広いというのに、天井にまで届く大きな本棚が所狭しと並び、それが壁と為るせいで部屋の内部は迷宮のように入り組んでいる。その中央、少々開けた空間には大きな執務机が堂々と鎮座し、その上に今にも崩れそうなほど山になった書類が積み重なっているのにまた、何とも言い難い不安感のようなものを搔き立てられた。それが理由なのだろうか、多くの者はこの場に長居をしないらしい。

 無論、リュシールもその一人だ。どうせ長居をするなら風のにおいと陽の温度を感じる木陰がいい。だというのに彼女が現在この部屋に留まる羽目になったのは、ヴィクトリアから「廃砦の殲滅についての報告書を届けておくように」という指示があったからだ。でなければ好き好んでこの部屋に来たりはそうしない。苦笑交じりの表情から察するに、任務前の逃亡の懲罰も兼ねているのだろう。まったく、酷い話だ。そんな風にぼんやりと他所事に沈む思考を遮る様に、柔らかな声がする。


「相変わらず、仕事っぷりは流石だねェ」

「なによぅ、ノーラ。仕事が完璧ならいいじゃない。オリア隊長ヴィクトリアも怪我してないし、砦も粉砕してないし?」


 がさがさ、と書類の山を掻き分けるようにして現れた少女の顔。そこに浮かぶ呆れ交じりの表情にリュシールは唇を尖らせた。


「うん、だからそこは褒めてるでしょう?そうじゃなくて、リュシィはちょっと遊び過ぎ、という話だよ」


 やれやれ、と肩を竦めるノーラと呼ばれた少女は赤い髪を緩く揺らしながら言葉を続ける。この流れは説教だろうか、と勘付いたリュシールの顔が隠す様子もなく顰められたのを見て再び苦笑。いくら友人とは言え、あんまりな対応ではなかろうか。尤も、どこまでも自由人なリュシールにそんな抗議をしたところでそれこそ無意味だろう。

 とはいえ、このままの調子で話を聞き流されるのも困る。


「──まあ、説教は今は置いておくよ。そんな事よりも大事な話があるからね」


 静かに、けれどしっかりと響く声で告げれば、リュシールも彼女の纏う空気が変わったことに気付いたのだろう。居住まいを正したその金色の眼差しには真剣な光が宿っている。それをみてほんの少しの安心を憶えつつ少女は宣言する。少女──リュシィの友人の『ノーラ』ではなく、エヴリアン皇国魔法師軍機密部所属の魔法師、『芸術家の回顧録メモリワール・アルティスト』であるアリエノール=パントル=シュヴァレとして。


「エヴリアン皇国魔法師軍機密部所属『芸術家の回顧録メモリワール・アルティスト』が命じます。統括部『ホーライ』第十小隊『ヘスペリス』はテンブルクに潜入、大規模な戦争に向けたと思われる不穏な動きについての諜報活動にあたるように」

「小隊『ヘスペリス』隊長補佐、『哲学する猫シャト・フィロゾフ』。確かに拝命しました」


 アリエノールの言葉に敬礼と共にリュシールは応える。その完璧な作法で垂れられた頭の下から「面倒くさい予感がするぞぅ……」という言葉が漏れたのは聞かなかったことにした。



「さて。任務にあたって、テンブルクという国について説明しておこうか」


 執務机に大きく広げた地図を指差しながらアリエノールは瞳を細める。皇国の南東に位置する小国に記された文字はやや掠れているが、それでも辛うじて『テンブルク』と読むことは出来た。白い指先が国境を示す線をゆっくりとなぞれば、リュシールも地図に記されたその場所を金色の瞳で覗き込んで眉を下げた。元々、研究以外についてはさっさと記憶から消す性質のリュシールにとって、その国は名前以外の全てが忘却の彼方にあった。


皇国エヴリアンと比べ物になんないレベルで小さい国ってことは知ってるけど、他になにかあるの?」

「あはは……仮にも軍属なんだから少しは周辺諸国のことも知っておいて欲しいなあ……」


 悪びれた様子もなく首を傾げたリュシールに、思わず乾いた笑いを漏らしたアリエノールを誰が責められようか。とはいえ、元々そうであろうと思って広げた地図だ。このまま説明をすることに否やはない。


「まあ、テンブルクはリュシィの言った通り周辺でもかなりの小国だ。特に目立った歴史がある訳でもないし、魔法技術そのものについてはここ数年進展もなかったんだけれどね──」


 其処まで言ってから言葉を切ったアリエノールは、机の影から取り出したをリュシールの前に広げて見せた。


「──それは」

「私の使い魔がテンブルクの砦から拝借してきたモノだよ」


 テンブルクには不要な代物だったんだろうね、砦の焼却場の前に無造作に置いてあったのさ。と続くアリエノールの言葉を聞き流すほどに、リュシールの視線はに釘付けになっていた。

 は本だった。大きく描かれた可愛らしい絵を見たところ、不幸な少女が善い魔女に変身させられ城に赴き王子と運命の出会いを果たし、その後結ばれるまでを描いたよくある物語のようだ。しかし問題は其処ではない。色鮮やかに描き出された絵、つるつるとした触感の見たこともない紙、そして何よりも並べられた文字と思しき記号──リュシール達の住む世界では在り得ない謎の技術で作られた本が、其処にあった。


「これだけじゃない。在り得ないほどの製鉄技術と細工で作られたナイフ、魔力もないのに光る人形。見たこともない素材で出来た瓶──これが意味するところを分からない君じゃないよね」

「────『異界降臨魔法アヴェヌーマン・パラディゾ』……!!」


 彼女の金月の瞳がギラギラと燃える。研究者なら──否、魔法師ならば誰もが知る禁忌の魔法。口をついて出たのは「テンブルクは、何を」という低い唸り声だった。


「何を考えてるかまでは分からない。『異界降臨魔法アヴェヌーマン・パラディゾ』を用いて異界の技術を研究しているのかもしれないし、異界からなにか兵器を取り寄せようとしているのかもしれない」


 リュシールの言葉に肩を竦め、アリエノールはゆるゆるとそのサファイアの瞳を細める。この世界にない技術は、いつだって魅力的に映るものだ。

 現に目の前のこの本だって、しっかりと解析すればいったい幾つの新しい発見があるのだろうか。製本技術は勿論、製紙、洋墨の多様性、本を綴じる糸の材質──それがどれだけ多くの界隈を飛躍的に発展させることか。

 しかし、とアリエノールは思考する。『異界降臨魔法アヴェヌーマン・パラディゾ』は禁忌の魔法だ。アリエノールも、あのリュシールも理解しているほどに、重大で重要な理由で以って、遥か古にそう定められた。


「────異界とこの世界を結ぶたびに、エーテル界が世界の狭間で圧縮される。潰れ、破損したエーテルは此方の世界に災害という形で影響を齎し、また圧縮を続けたエーテル界は消滅し───」


 ────この世界から、『魔法』が消える。

 重々しく告げられた最悪の想定。思わず固唾を呑んだリュシールの口の中は、からからに乾いていた。

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