思い出を食べて、行ってきます

岸本歩子

思い出を食べて、行ってきます



             

 最近は仕事が忙しく、ろくなものを食べてなかった。


 朝はコーヒーで済ませ、昼は味気ない社食。むさ苦しい同僚と食べる飯は、なんだってこう、美味しく感じないのだろう。夜は会社の帰り道で購入した、売れ残りの半額弁当。これが本当にまずいんだ。油をしみこませた紙でも食べている気分。さらにテレビを見ながら適当に食べるせいか、何を口に運んだのか、何を咀嚼そしゃくしているのか、わからないことが多々ある。


 もはや食事が、生きるための作業になっていた。


 ただ、今日は違う。


 今日は、ご馳走だ。それも、顔ぶれは見知った者たちばかり。


 手を合わせて「いただきます!」と元気よく発する。隣に座っている叔母さんがビール瓶を傾けてきたので、有り難くいただく。俺も叔母さんのコップにウーロン茶を注いだ。


 まったく、飲み物くらい自由に飲ませてほしいものだ。こういう場でのマナーはわずらわしいものばかりで好かない。こういう面倒くさいしきたりのせいで、せっかくの食事を心から楽しむことができない。




「それにしても久しぶりじゃなあ、いっくん。大きくなって。お仕事は順調?」

「はい、まあまあですよ。あ、でも最近景気が良くなったのか、臨時ボーナスが出たりして」

「あら、よかったなあー! ……それで、いい人はおらんの?」



 叔母さんが皺の多い小指を立てる。



「あ、まあ……ははは」




 ずかずかと土足で俺に踏み込んでくる彼女に、軽く苛立ちを覚えてしまう。久しぶりに会っただけで、なぜこうも根掘り葉掘り質問されなければならないのか。無視をしたいところだが、俺の中には多少なりともこの人の血が入っている。邪険にはできない。いつかなにかで世話になるかもしれないし。



「かっちゃんはもう二児のパパじゃで〜。あんたもがんばんなさい!」



 俺の兄貴を指差して、叔母さんは俺の肩を遠慮なく叩いた。


 兄貴はビール瓶を片手に、せわしなくテーブルを回っていた。彼の奥さんも、二人の子供を抱えながら兄貴の後についていく。俺はそれを、ぼんやりと眺めるだけだ。


 俺は昔から、兄貴と比べられることが多かった。十歳離れている兄貴は、昔から何でもできる奴だった。親父と親戚は、鼻水垂らしていた十歳の俺に、名門大学へ通う兄貴の背中を追わせていた。勉強、スポーツ、品行、どれも叩き込まれた。彼らを喜ばせるために努力するという無意味さとプレッシャーに、毎日押しつぶされそうだった。


 母さんは、そんな俺の味方をいつもしてくれた。隠れて泣いている俺をすぐに見つけて、頭を撫でて「かっちゃんはかっちゃん。いっくんはいっくん。なのにねえ」と優しく笑う。その言葉にどれだけ救われたことだろう。


 俺は兄貴と同じ大学を目指したが、だめだった。滑り止めの無名の大学へ通うこととなり、激昂した親父は俺に暴力を振るった。母さんと兄貴は身をていしてかばってくれた。


 そんな自分が、よけい惨めになった。いたたまれなくなり、家を飛び出して一人暮らしを始めた。



 あれから帰省もろくにしないで、大学の近くにあった中小企業に入社して、数年が経過していた。


 そして今日、一時的に帰省したのだった。久々に帰った実家は、兄家族の写真や絵がたくさん飾られていた。俺の部屋は、兄貴の子供の部屋になっていた。仕方のないことだが、俺の帰るべき居場所がなくなったみたいで、少しさみしかった。大嫌いだった頑固親父も、ただの還暦過ぎた弱々しいジジイになって、口喧嘩すら始まらない。



「あら、このお寿司美味しいで! ほら、いっくんも食べてみんちゃい。あらぁ、さっきから全然箸が進んでないで~?」

「あ、はい」



 しまった。今日はせっかくご馳走にありつけるのだった。ぼんやりしていてはもったいない。とりあえずナマモノは先に食べておこうか。


 目についたマグロの握り寿司を口に入れる。



「……!」



 ――少し生臭い風味が、過去の記憶を呼び起こした。






 俺が小学生のときのこと。地元のデパートの絵画コンクールで、俺の描いたひまわりの絵が優秀賞を受賞した。母さんはえらく喜んでくれたので、賞品である商品券をプレゼントした。



「じゃあこのいっくんの戦利品、さっそく使っちゃおう!」



 母さんはいたずらっ子みたいに笑って、その商品券を使ってふたりだけでこっそり回転寿司を食べに行った。ひとつの皿に乗ったふたつの寿司を母さんと半分こして、たくさんの種類のお寿司を食べた。


 いつもは親父に「誰の金で食っとる? わしじゃろ? 感謝しながら食え!」と威嚇いかくされるので、遠慮して三皿くらいしか食べられない。そんな俺には夢のようなひとときだった。



「これは甘いねえ」

「これは歯ごたえがいいよ!」



 母さんと俺は顔を見合わせて、感想を言い合った。俺がとあるグルメリポーターの真似をして、「宝石箱のいくらや~!」と言ったら、母さんがお茶を噴き出したっけ。俺の顔にかかって、熱くもないのに「熱い!」と騒いだなあ。






「やだ、てんぷら美味しいわあ〜」 

「!」



 叔母さんの声で我に返った。ついつい過去の出来事を思い出していた。ぼんやりしながら食べていたので、味わうことができなかった。久しぶりの寿司だったのに、もったいないことをしてしまった。からになった寿司のスペースを恨めしく見た。


 気を取り直して、冷めないうちにてんぷらでも食べようか。薄茶色の衣に覆われたタラの芽を箸で掴んだ。




 ――タラの芽といえば、懐かしいな。



 母さんと山菜採りにでかけたとき、他人の私有地なのを知らないで収穫しているのが見つかり、酷く怒られたことがあった。生まれて初めて知らない大人たちに「泥棒」と言われて、子供心に傷ついたものだ。



「申し訳ございませんでした! お返しします。弁償します!」



 小さい身体を地面につけて、何度も土下座を繰り返す母さん。親が見ず知らずの他人に頭を下げる姿を見たのは、それが初めてだった。俺の体は恐怖のあまり硬直して、なにもできなかった。



「許してください。どうか、警察だけには言わんでください!」

「ふざけるんじゃねぇ! そんなムシのええ話が聞けるか! さっさと身分証出せや!」

「すみません、こらえてください」



 母さんがこんなにも謝っているのに罵倒を辞めない大人たちが悪魔に思えて、きつく睨むと「なんじゃその目は!?」と棒で殴られた。母さんは俺を無理やり地面に這いつくばらせると、おでこが地面に着くくらいに頭を下げさせた。



「いっくんも謝りなさい!」



 悲鳴に近い母さんの訴えを聞くしかなくて、俺はごくりと唾を飲み込んだ。口がからからに渇いてしまい、声を出そうにも情けない「ヒュウ」という音しかでなかったけど、何とか絞り出した。



「ごめんなさい」



 警察に通報されることが免れたころには、辺りはすっかり茜色に染まっていた。母さんが泣きながら「ごめんね」と何度も言うものだから、俺も我慢していた涙を抑えることができなくなって、ふたりして声をあげて泣いた。夕焼けのあぜ道、カエルの鳴き声と混ざり合って、騒がしい帰り道となった。



 親父には山菜採りに行くと伝えていたので、帰りのスーパーで半額になっていた出来合いの山菜てんぷらを買った。かなりしなびていたので、二度揚げしてから夕食に出した。


 何も知らない親父が「やっぱり採れたては違うなあ! 新鮮な味がするわ」と玄人くろうとぶって言っていたのがおかしくてにやにやしていたら、お袋が人差し指を唇に当てた。泣き腫らした赤いまぶたを細め、「内緒だよ」と口をぱくぱくさせたので、俺は慌てて両手で口元を隠しうんうんと何度も頷いた。


 二度揚げしたおかげか、出来合いでも衣はさくさくとした食感だった。タラの芽自体にはじっとりと油がしみてしまっていたけど、美味しかった。お袋とふたりだけの秘密が、こそばゆくて温かったから。






「酢はね、体にええんよ!」



 叔母の声で現実に戻った。


 いかん。またぼんやりとしてしまった。ながら食べの癖がついているのだろうか。

酢の物でも食べて頭をシャキッとしよう。



 ――そういえば、俺は酢の物が嫌いだった。いつごろから食べられるようになったんだっけ。





 ……そうだ。ある日いきなり、母さんが作る酢の物が美味しく感じるようになったのだ。


 たしか三杯酢を煮立たせて、酸味を飛ばしていたんだ。


 親父が帰ってくる前に食事の準備ができていないといけなかったから、煮立った三杯酢を冷ますのに扇風機を使っていた。その酸っぱい風がテレビゲームをしていた俺と兄貴に直撃して、しばらく涙とくしゃみが止まらなかったなあ。余計に酢が嫌いになりかけたが、夕飯に食べた酢の物がとても美味しくて、珍しくおかわりをねだったっけ。


 母さんはよく、「子供の好き嫌いは成長によってころころ変わるから、こっちが合わせるしかないんよ」と言っていた。


 たしかに今、好き嫌いがない。いて言うなら、子供の頃好きだったお菓子類を、好んで食べようとは思わなくなったくらいか。





「この煮物の味! レシピが知りたいわあ〜」



 叔母はなんでも美味しそうに食べる。ただもう少し声を抑えてほしい。


 眼下の煮物を箸でつつく。俺は子供のころ、煮物もあまり好きではなかった。甘じょっぱいのが、どうも口に合わなくて。





 しかし大学生のころに、じいちゃんの法事のために帰省した時の、夕飯の肉じゃが。あれは最高だった。


 自炊なんてろくにしてなくて、でもバイト代だけじゃ買い食いなんてできなくて、もやしばっかり食べていたから。まさに「お袋の味」である肉じゃがを食べた瞬間、体にみるというのはこのことかと実感した。



「水を使わずに野菜だけの水分で作るけん、旨味がお肉やじゃがいもにたっぷり染み込んで美味しいじゃろ? 栄養満点じゃで!」



 ドヤ顔をした母さんは、皺だらけですっかり老け込んでいたけど、笑顔はずっと変わらなかった。


 誰かのことを考えて、食事を作ってくれる人がいることがどんなにありがたいか。その気持ちごと美味しいのだと、そのときやっと気がついたのだった。






「いっくん、そろそろ挨拶回り行ってきんちゃいよ。不安なら叔母ちゃん、ついていこうか?」

「あ、いやいいです。そうですね、そろそろ行ってきます」

「あ、果物が残っとるで! もったいない! 美味しかったでぇ~! 食べてから行ったらええがん」

「……そうですね」



 とことんマイペースな叔母に掻き回される。ため息をつきながら、表面が乾燥して瑞々みずみずしさのなくなっているオレンジを口にする。




 ――俺は、結局、母さんに手料理を振舞うことはなかった。作ってもらってばかりだった。



 唯一、料理とよべるのかわからないが、果物を切って食べさせたことはある。


 オレンジ、りんご、桃。何が良いのかわからなかったが、缶詰よりは生の果物のほうがいい気がして、スーパーで適当に買って剥いた。


 お袋の口に入るように小さく切って、爪楊枝つまようじでさしたものを用意した。すっかりやせ細った母さんがそれをつまもうとするが、手が震えてうまくいかなかったので、仕方なく俺が口へ運んだ。俺が小さなころ風邪を引いたときは、こうやって母さんが食べさせてくれたっけ。立場が逆になるなんて、時の流れを感じた。



「ありがとう。……うん、美味しいなあ。このところ、ずっと点滴だったから、久しぶりの固形物じゃわ。……ああ、美味しい。いままで食べた中で、一番美味しい。美味しいわあ」



 病床びょうしょうせていた母さんの食事制限が解除された意味が、俺にはなんとなくわかっていた。



「果物が一番美味しいって、安上がりだなー」

「何言っとん。果物は高価じゃろ!」

「そういう意味じゃなくてさ、果物って皮剥くだけで食べられるじゃん? 手間暇かけないから、なんか味気ない感じ。……そうだ、肉じゃがのレシピ教えてよ。今度はそれ作って持ってくるから。俺の手料理食べたことないだろ?」

「いっくん、料理ができるようになったん? すごいがん! ……ああ、でも味が濃いけん、先生に怒られちゃうわ」

「じゃあ、調味料を半分にして作るよ。薄味バージョンでさ」

「あれはお水を使わないレシピじゃけん、それだと水分が足りなくて焦げてしまうんよ」

「へー。そうなんだ」

「ええんで、そんなに気を遣わんで。お母さんにとって、仕事で忙しいいっくんがわざわざ会いに来てくれて、一緒に何かを食べることが、最高のご馳走なんじゃけん」

「……」








「いっくん、オレンジの汁がシャツに散っとる! 大変!」



 叔母さんが俺のシャツに散ったオレンジ色の液体をハンカチでぬぐう。



「ふふ。姉さんが入院中、よくいっくんの心配をしとったけど、その意味がよぉーくわかりました。さ、行ってらっしゃい」



 まだ元気だったころの母さんによく似た顔の叔母さんが微笑み、未開封のビール瓶を渡してくれた。俺はそれを受け取り、兄貴の姿を目で探す。



「ご無沙汰しております! お元気ですか?」

「かっちゃんか。ますますヒデに似てきたなあ。……ところでヒデは今日はどしたんなあ? 姿が見えんけど」

「すみません。父はいろいろ……受け止めきれてなくて、まだ、その」



 母さんが死んだことに酷くショックを受けて、家から出てこない親父の代わりに、兄貴がひたすら頭を下げている。俺も、早くそちらへ行かなくては。




 ひたすらに亡き母さんの面影を追って、線香の香りばかりを胃に溜め込んでいたせいか、久しぶりのご馳走は何の味もしなかった。


 叔母さんはどれもこれも美味しい美味しいと言って、食べていたのになあ。


 つまらない日常ばかりを飲み込んで、俺の味覚はどうかしてしまったみたいだ。


 ……つまらなくしていたのは、俺か。



 俺はそっと、重い腰を上げた。


 兄貴にはなれなくても、母さんの恥にならない俺になるために。


 そしていつか、お袋とのご馳走の思い出を上塗りしてくれるような、そんな誰かに出会うために。




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思い出を食べて、行ってきます 岸本歩子 @kishimotopoco

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