第9話 医療ミス

 リハビリ&デートを開始してから6日目の朝、いつも朝寝坊の僕を叩き起こしてくれる早起きのゆかりちゃんが、今日に限って起きてこなかった。


 僕が眠い目を擦りながらベッドを仕切られているカーテンを開けると、ぐったりとベッドに横たわるゆかりちゃんの姿があった。ゆかりちゃんは、顔を赤く火照らせながら荒い息を吐いていた。


「ゆかりちゃん、どうしたの!?」


 僕は足を引きずりながらなんとか隣のベッドに近づくと、ゆかりちゃんのおでこに手を置いてみた。ゆかりちゃんのおでこは、何かに焼かれたかのように熱かった。僕の手が触れると、ゆかりちゃんは薄目を開けて言った。


「晶くん………き、気持悪いよ………」


 ゆかりちゃんの口から出たのは、いつも元気な姿からは想像もつかないぐらいのか細い声だった。僕は急いでナース・コールのボタンを押した。


 そういえば、昨日からゆかりちゃんの様子がおかしかった。


 昨日、昼過ぎの回診にきたのは、陽気で優しい草野先生ではなく、同じ系列の病院から来た三雲という30歳ぐらいの男の先生だった。忙しい草野先生に代わって新しく担当になるということだ。


 その三雲という先生が、草野先生からの指示を受けて薬剤を点滴注入した直後から、ゆかりちゃんは『気持が悪い』といって何度も吐いていた。それに、僕は寝ぼけててハッキリとは覚えていないけど、夜にゆかりちゃんが何度も起き出していたから、もしかしたら夜の間もずっと気分が悪かったのかもしれない。


 僕が心配な眼差しでゆかりちゃんを見ていると、ナース・コールで呼ばれた看護士のお姉さんが慌てる様子もなくやってきた。


 お姉さんは、ゆかりちゃんのおでこに手をやりながら、『お熱を計りましょうね』と言って電子体温計をゆかりちゃんの耳に当てた。赤外線を利用して一秒で計れる最新の体温計だ。


 ピッという音で計り終えた体温計を見た看護士のお姉さんが、ちょっとだけ眉を寄せたのを僕は見逃さなかった。


「ゆかりちゃん、ちょっとお熱があるから水枕をするからね」


 そう言って、お姉さんは水枕を取りに病室から出て行った。僕はその隙をみて、置いていった電子体温計を見てみた。体温計は、39度1分を示していた。


 僕は、水枕を持ってきた看護士のお姉さんに言った。


「ねえ、ゆかりちゃんの熱が高すぎるんじゃないの? 先生に言ったほうがいいんじゃないの?」


 僕の言葉にお姉さんは少し考えるそぶりをしてから、


「そうね。じゃあ、一応、三雲先生を呼んでくるからね」


 お姉さんはすぐに三雲先生を呼びに行ったが、三雲先生が現れたのは昼過ぎのいつもの回診の時だった。


 三雲先生は、やってきて開口一番、


「熱ぐらいで僕を呼んだりしないでね。熱は、昨日の薬の副作用だよ。熱は薬が効いてる証拠。今日も点滴を打つからね」


 付き添いの看護士のお姉さんも不安気な表情を見せたけど、何も言わずに点滴の準備を始めた。


「いや! 点滴なんか打ちたくない!」


 泣きながら抵抗しようとするゆかりちゃんに、三雲の奴が厳しく言った。


「わがまま言うんじゃない! 病気を治したくないのか!」


 三雲は、嫌がるゆかりちゃんの左腕を強引に取って、点滴用の針を差し込んだ。

 僕は、あまりの対応に口を挟んだ。


「ゆかりちゃんが痛がっているじゃないか!」


 僕は、こいつを気に入らなかった。人を馬鹿にした態度もそうだけど、こいつの頭の上のロウソクを見て不信感を感じたからだ。齧られたリンゴの芯みたいなロウソクの形の上に下品な紫色の炎、何よりも黒々としたロウソク自体の色は、生理的に受けつけなかった。


 僕が怒りの目で睨みつけると、三雲の奴が冷たい視線で僕を見た。


「先生が一番良くわかっているのだから、何も知らない子供は横から口を出さないでくれるかな?」


 三雲は仕切りのカーテンを勢いよく引いて、僕を締め出した。


 ――10分後。三雲の奴が去ってから、僕は仕切られたカーテンを恐る恐る開けた。


 僕は、点滴につながれて苦しそうに顔を歪めたゆかりちゃんを見て、かけようとした声を飲み込んだ。


 驚いたのは、ゆかりちゃんの頭の上にあるロウソクの青黒い小さな炎が、今にも消え去りそうだったからだ。それに異常としかいえないぐらいの速さでロウソクが溶け出している。


 直感的に『これはヤバイ!』って思って、僕はすぐに車椅子に乗ってナース・ステーションに駆け込んだ。


 ナース・ステーションに着くと、三雲と一緒に回診にきていた看護士のお姉さんを捕まえて早口で言った。


「おねえちゃん、ゆかりちゃんがすごく苦しんでるよ! あの苦しみ方は異常だよ! もしかしたら大変なことになってるんじゃないの!?」


 焦る気持が前面に出てしまって、僕は叫ぶように話していた。周囲にいた看護士たちも何事かと驚いて振り向いたけど、話しかけてたお姉さんが仲間に『何でもないのよ』と手で制してから僕に言った。


「晶くん。ゆかりちゃんを心配する気持はわかるけど、ゆかりちゃんが本当に元気になるためには、今の治療が必要なのよ。ゆかりちゃんが苦しんでいる姿を見るのは辛いかもしれないけど、今は我慢して見守ってあげて」


 お姉さんは、僕をなだめすかそうとしたけど、僕はどうしても納得しなかった。


「もう、いい!」


 僕は怒ってナース・ステーションを後にしたが、病室には戻らずに隣の棟にある診察室に向った。三雲の奴が来る前に、ゆかりちゃんを担当していた草野先生が内科の診察を手伝っていると聞いていたからだ。草野先生は50代の経験あるお医者さんで、三雲の奴と違って患者を大切にするし、子供の僕に対しても親切で話しのわかる人だ。


 隣の病棟に来ると、診察室の前のソファには、大勢の人が暗い顔をして自分の順番を待っていた。いろんな形のロウソクの人たちばかりで、いつもなら興味津々になって凝視している僕だけれど、今日はその人たちには目もくれず、“草野”と書かれた表札が掲げられた診察室に飛び込んだ。


 診察室の中は、さらにいくつかの部屋に仕切られていて、その入り口ごとに長椅子が設けられていた。草野先生が診察している部屋の前にある長椅子に座っていた患者3人が、いきなり車椅子で入ってきた僕を訝しむように見た。


 車椅子だと診療している部屋に入ることができず、僕は構わず診察室で、大声を張り上げた。


「草野先生! 草野先生! ゆかりちゃんが大変なんだよ!」


 看護士のおばさんが中から診療部屋の扉を開けると、中では、診察を受けていたおじいちゃんと草野先生と向き合って話していた。


「あれ? 晶くんじゃないか。ダメだよぉ、入ってきちゃ。今、診察中なんだから」


 ちょっと驚いた草野先生に注意されたけど、その口調はいつものように優しかった。


「先生、ゆかりちゃんが大変なんです! 昨日から吐きっぱなしで、すごく苦しんでいるです!」


 僕は、外へ追い出そうとする看護士を押しのけて、草野先生に訴えかけた。


「晶くん、ゆかりちゃんの病気は白血病といってとても大変な病気なんだよ。ゆかりちゃんは元気そうに見えても、まだまだ治療が必要なんだ。完全に病気を直すためには、我慢しなきゃいけないことがたくさんあるんだよ。それに今のゆかりちゃんの担当は三雲先生なんだ。ゆかりちゃんのことは三雲先生がすべてやってくれるからね」


 草野先生は押しかけた僕に目くじらを立てることなく、優しく諭すように言った。でも僕は引き下がらなかった。


「三雲先生に言ってもゆかりちゃんのことを気にしてくれないんだ! 今だって、高熱でゆかりちゃんが苦しんでいるのに、無理やり点滴を打ったんだよ!」


 涙目になりながら訴える僕の言葉に、草野先生の顔が真剣になった。


「ゆかりちゃん、高熱が出たの? それなのに薬を打ったの?」


 僕が頷くと、草野先生は裏にいた医師に声をかけた。


「すいませーん。ちょっと席を外しますんで診察を代わってください。――じゃ、晶くん。病室に行こうか」


 草野先生は隣の部屋にいた医師に声をかけた後、自ら僕の車椅子を押してゆかりちゃんのいる病室へ向った。


 病室に到着すると、草野先生はさっそくゆかりちゃんの様態を見た。


 おでこを触って熱を確かめ、首筋のリンパ腺を両手で挟むようにして触診した。


 ゆかりちゃんは本当に苦しそうな表情をしていて、草野先生の問いかけにまともに答えることができなかった。


 僕が草野先生を連れてきたことを聞きつけた担当の看護士のお姉さんが慌てて病室にやってきたけど、草野先生に『この子の投薬記録を急いで持ってきて!』と指示されて、看護士は追いたてられるように出て行った。


 数分後、看護士の持ってきたカルテを見て、草野先生が大声を上げた!


「この子をすぐに第二治療室に運ぶんだ! それと三雲先生をすぐに呼んで来い!」


 先生の頭のロウソクの炎が興奮して黄色く一気に燃え上がった! いつもの優しい口調とは打って変わり、草野先生は点滴のチューブを引き抜きながら厳しい口調で怒鳴った。


 すぐに数人の看護士が病室に飛んできて、ゆかりちゃんを治療室に運んでいった。


 ちょうど病室を出た時、草野先生と三雲の奴がかち合った。


「ちょっと草野先生、僕の患者をどうするんですか? 先生はもうこの患者の担当じゃないんですよ」


 不満顔で言う三雲に、草野先生はカルテを突きつけて大声で罵倒した。


「お前は、カルテも満足に読めないのか! よく見ろ! お前はこの子に2週間分の抗がん剤を一気に投与したんだぞ! 患者を殺す気か!」


 草野先生のあまりの剣幕にさすがの三雲も言葉がなかった。


 子供たちが大勢いる小児科病棟であることも忘れるくらい怒り心頭の草野先生だったけど、周囲の看護士になだめられてゆかりちゃんが連れて行かれた治療室へ急いで向っていった。


 残された三雲は、カルテを片手にひとり呆然と立ち尽くしていた。そんな三雲に声をかける人は誰もいなかった。

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