第5話 マキナ
塔の内部はシンプルで、内壁にそって螺旋階段が頂上に向かって続いている。見上げると、小さな黒い点がはるか遠く、動いている。翼の民だろう。
一階のフロアからは、百階くらいまで差し込んでくる光が見えるが、それ以上となると距離感が掴めない。
一歩踏み出すと一気に首まで体が沈んだ。固まった地面に見えた塔の一階は、翼の民が垂れ流すもので、汚物の湖になっていた。素早く浮力を調節する。どれほどの深さがあるのかはわからない。
装備の隙間から汚水が入ってこないだろうか。慎重に体を動かし、湖を泳ぐ。パニックにならず、心が折れずにすんだのは、すべて、マキナの笑顔、汚物まみれになっているであろうマキナの悲しみを頭の中に即座に描いたからだ。
壁沿いに泳ぎ、ようやく階段の一段目に足を置いた。汚物の湖から脱して、ふと、上をもう一度眺めた。巻き貝のように階段が伸びている。果ては見えなかった。
石組みの階段は古代から変わっていないのだろうに、ビクともしない頼もしさがあった。足の裏から、壁に沿わせる手から、視界から、毒液で滑った感触が防護服越しに伝わった。私は服に差し込まれた剣をいつでも抜けるよう意識しながら階段を上がった。
太陽の光だけでは頼りなく、頭に取り付けられたライトを照らしながら進んだ。
遥か上の方から、翼の民の狂声と、放屁と糞の音が断続的に響いてきた。
私は入り口から庭、それから一階のフロアで味わった汚濁にも耐えたこともあって、やや足取りが軽くなっていた。あとは登るだけ、登るだけであり、何の問題もない。翼の民には、剣を振りかざせば良い。大丈夫、大丈夫。これ以上汚れようがなかった。不安になりようもなかった。クソの森、クソの湖、クソを産むクソ。翼の民を刺したり、焼いたり、できるだけ苦しめて殺すことを想像し、心の平衡を保ったり、マキナの笑顔を思い浮かべたり、そしてまた翼の民を大きな槌でグチャグチャに潰すことを考える。そうしてやっと足が動く。
防護服が汚染に耐えていられる時間は限られているという。一日を越えると危険だ。半日で頂上まで行き、それから急いで下りる。あの森を抜けて、ぎりぎりだ。
休憩時間を考えて……もつだろうか。どれだけ時間がかかるか、データがない。上層階まで、どれほどかかるかも、見当が付かない。あっさり上まで登れるかも知れないし、何日もかかるものかもしれない。高さもよくわからない。塔は山より高いかもしれないし、そうではないかもしれない。雲は二〇〇〇メートルほどの高さにあると観測されているので、それくらいかもしれない。それくらいといって、楽に登れるはずもない。登山とどちらが……山道のような険しさや気候の変動はない。
だが、防護服の重さと歩みの遅さを考えると……。翼の民に妨害を受けた場合、どれほどの時間のロスになるか。時間どころか命までロストする可能性は大だ。剣を極端におびえるという、うわさに近い報告を信じるしかない。王族が征服された時の名残だ。剣と弓がいまだに心の傷になって、ずっと残っているのだ。私の先祖を滅ぼしたもので、彼らを再び制するのは皮肉だ――だが、彼らはクソに落ちた虫けら以下だ。
石段を登り続ける。上はいつしか見ないようにしていた。あまりに長大に階段が続くので、心がくじけて歩みを止めてしまいそうなのと、足元をしっかり見ないと滑って落ちたら終わりだからだ。
オギャアオギャアと頭上からかすかに聞こえてきた。
音がだんだん近付いてきて、下へと遠ざかる。
何か一つが、高速で落ちていった。ほんの一瞬、目の片隅に、音の正体を私はとらえていた。
赤ん坊だ。生まれたばかりの赤子が、クソの湖に、落ちていっている。
自分の口中に、極寒の中感じる血の味に似たものが染み出した。
オギャア―――オギャア―――オギャア―――産声は近づいては遠ざかり、しばらくしてからドボンと音が小さく響いてくる。
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