第8話 承 ー陸ー

「ここね、後方支援部は」

 藤原中尉は初めて訪れた兵科の学棟にもかかわらず、迷わずに芦原少尉の所属していた部隊の駐屯室へたどり着いた。髪をサラリと耳にかけるその仕草に、相変わらずの妖艶な色気が匂い立った。

「樹軍曹はいるかしら?」

 ノックしてドアを開けるなり、藤原は部隊の青年たちににっこり呼びかけた。

 部隊訓練の汗を流すシャワー後だったのか、半裸でくつろいでいた支援部の彼らは、ギョッと息を飲んで驚いた。しかしすぐに、藤原のその美しい容姿を見て、全員が「俺だ!」とばかりに手を挙げた。おかしいくらいに鼻息を荒くしている。相対的に、幼い顔だった。

「本物の、樹軍曹を、探してるんだけど?」

 再び、青年たちは元気よく手を挙げる。

 藤原は(しょうがないなぁ)とやや呆れて微笑み、自分のお腹を愛おしく撫でながら、

「……彼の赤ちゃんができたの」

 言い終わらないうちに、全員が揃ってひとりを指差した。

 死刑台に突き出されたその青年は、よってたかって藤原の前へと引き立てられる。すぐに他の生徒たちは、いそいそと逃げだしていった。

「ご、ごめん。あの晩が、決っして特別じゃなかったってわけじゃないんだけど、全てが全てを覚えてるわけじゃなくて……」

 生け贄に差し出された軍曹は、しどろもどろに慌てながら言った。切れ長で面長で、女性的な肌を持っている。髪型もオシャレにウェーブさせた、良い香りのする今時の青年のようだ。法務科の地味な男たちとは、ずいぶんと違う。

「うふふ、赤ちゃんは嘘よ。安心して」

 藤原は妖艶に笑いかける。軍曹は、フーッと汗を拭いた。よっぽど、あちこちに心当たりがあるのだろう。

「聞きたいことがあってね。あなた、芦原少尉とルームメイトだったそうですね?」

 藤原は、好ましい青年の可愛い狼狽に、好意的な微笑みを向け、クイッと自分の制服の襟をつまんだ。見たトタンに、軍曹は大慌てで敬礼した。

「し、失礼しました、中尉殿!」

 拭いた汗が、また大粒になって吹き出している。

「敬礼はそこまでで良いわ。楽にして。……あなたも、貴種の出だそうね?」

 優しく問い掛けた。

「少尉とはいとこ同士で、入学とともにルームシェアするようになりました」

 休めの姿勢で答えた樹軍曹は、タオル一枚腰に巻いただけの格好で緊張している。藤原は、そのことに無頓着だった。

「貴種の出で軍に入って、有利に働くことってあるかしら?」

 可愛く小首を傾げた。

 そのガラス細工のような可憐な仕草に、若い樹軍曹も(うわぁ~…)と顔を赤くした。これが藤原の武器だ。どんな相手でも魅了してしまう。世間で一般的に知られている魔法とは違う、美しき女性のみが持つ魔力だった。

 女性への免疫は相当ありそうな樹軍曹に対しても、その威力は変わらない。

「正直、そんなにはありません。生まれつき魔法力が高くても、それを使いこなせなければ、意味がありませんから。むしろ成果を上げないと、貴種の出だけに、余計にプレッシャーがかかります」

 藤原と会話できるだけで嬉しいと感じているかのように、上官を前に緊張しているはずの樹軍曹の口は、饒舌に言葉を並べた。

「芦原少尉も相当苦しんでいたようね。わりと無口な青年だったらしいし」

 藤原が、持ってきたメモをめくった。細々と小さく綺麗な字で、裁判に関わる重要な情報が書き込まれている。

「ええ。侮られないためにも、私たちは努力を怠るわけにいきませんから。庶民の手本たる貴種。少尉はその中でも、特にその意識の強いひとでした」

「事故が起きた演習、その参加が決まった前後に、少尉の状態はどんな感じだった?」

「と、いいますと?」

 藤原は細いフレームの眼鏡をかけ、それをクイッとずらして上目遣いに樹軍曹の顔を覗き込んだ。

「貴種としての意識が強い少尉は、沿岸特殊警備隊の演習に招かれて相当なプレッシャーじゃなかったかしら?」

 自分を魅せるための、いろんなパターンを持っているのだ。その容姿に、問い掛けの重要性を隠して忍ばせていく。

「う~ん…、どこかよそよそしくなったのは確かです。でも、演習と関係あるでしょうか?もう1ヶ月近く前からそうでしたから。他に悩みでもあったのかも……」

 言葉が濁る。寂しさを思い出したようだ。

「いまとなっては、わかりませんが」

 藤原にとっては、重要なことだった。『少尉は特殊部隊の訓練に耐えられる精神状態ではなかった』なら、充分に監督官である大佐の過失になり得るミスだ。

「精神的な落ち込みが、少尉ほどの成績を収めている軍人に、事故死という結果をもたらしたのかしら?」

「わかりません。事故現場を見たわけではないし…あ、そういえば演習参加前に部屋を整理してましたね。そんなものも捨てるのか、ってぐらいに。私もいくつか、持ち物を譲っていただきました。いまとなっては形見になっています。……もう少し悩みを聞いたりしていれば、彼も何かを言い残せたかもしれない。あるいは違う結果になったかもと思うと、残念です」

 仲の良かったいとこの死に、樹軍曹は表情を沈ませた。藤原は(そろそろ口を閉ざしちゃうかな?)と思った。暗い気分を思い出させてしまうと、その悲しみをアピールするかのように人の口は重くなるものだ。藤原は、その容貌で相手の気を紛らわさせることが得意だが、同時に無理もし過ぎない法務官だった。

(今日はこれくらいにしておこう)

 連絡先さえ渡しておけば、日を改めて話したいことも増えるだろう。

「虫の知らせ、だったのかもね」

「かもしれません。魔法感応能力の高いひとでしたから。何か予知夢のようなのを見たのかも」

 軍曹は、何の気なしに、小尉の行動に関して適当なことを言った。

「暗い?」

 藤原も気楽に小首を傾げて合いの手を入れる。

「明るくは、なかったと思います」

 ━━誰よりも先に、真相に触れることになったのは、藤原東子中尉だった。





 翌日、朝飯もそこそこに、廣瀬と坂本は昨日の調査の続きを始めた。

 今日はようやっと、降り続いていた雨が止んだ。まだ空は分厚い雲に覆われたままながらも、気分は悪くない。

「これを、全員分調べるんですか?」

 リストの人数を見て、坂本が少したじろいでいた。彼が怯むほど、大変な作業には違いない。

「議長に納得していただくにはそれしか無いだろう。まぁ、軽く調査するだけでいい」

 廣瀬は一人目の、個人室を持っていた少佐の部屋の鍵を開けた。軍歴によると、彼は2週間前に突然退役し、そのまま実家に戻っていないという。

「海軍少佐にまでなっていて、経歴途中で軍をドロップアウトするなんて余程のことだろう?もし軍に不平不満を溜めていたのだとしたら、何か書き残したりしているかもしれない」

「そんな、あるかどうかわからないものを、この名簿の全員分で調べるんですか?」

 坂本が呆然として泣き言を呟いた。あからさまに、肩をガックリと落として嘆息している。

「それがボクたちの仕事だぜ?何も法廷で、相手を言い負かすだけが任務じゃない」

 何事も積み重ねだよ、と廣瀬はからかうようにウインクしてみせた。

 そのくせ彼自身は、その手の地道な作業をあっさり要領よくまとめてしまう癖がある。嵯峨から「嫌な奴」と眉をひそめられてしまう原因が、そこにもある。

 今回も、そうは時間をかけてやるつもりは無かった。

「日記、軍運行記録、メモ書き、端末の書き込み、出納帳でも今日何を食ったかの覚え書きでも何でも良い。少佐の個人の肉声がとれるものを探してくれ」

 部屋を調べだしてすぐに、本棚を開けた坂本が声をあげた。

「これは凄い!全部バカラの製品ですよ!」

 綺麗に並んだ蔵書の下の棚に、高級なガラス製品がキラキラと眩く光を反射していた。

「そうかい?」

 興奮で目をパチクリさせている坂本に、廣瀬は興味無さそうな気のない返事をした。坂本はそれを、(廣瀬はこういうものは好きでないのだな)と受け取り、不服そうな顔で「そうですよ」とだけ続けた。どれだけ高いか知らないんだな、と憐れみの感情も入っている。

 しかし廣瀬は廣瀬で不服だった。

(どぎつくてセンスが無いな)

 言われて見回してみると、事務机の上の文具にも、ことごとくにバカラのイニシャルが入っている。

 ガラスのペンやデザイン照明はともかく、地球儀の真鍮枠にまで入っているのはどうだろう?まるで、同じブランドの調度品で全てを揃えていれば安心、というような露骨さがあった。金額が張ろうがどうしようが、そんなもの、廣瀬の趣味ではない。

 廣瀬は坂本を無視して机の引き出しや棚、端末などを開いて、何らかの書き置きが無いかと調べてみた。物持ちの良い人だったのか、いろんな学術の資料が束になって残っている。教科書から授業に配布されたレジュメまで、全て丁寧に揃えられていた。

 それだけに、違和感があった。

「見つかったか?」

「いいえ、全く」

 坂本も何冊もの辞書をめくって調べ、腑に落ちない様子だ。

 ここの住人だった少佐の、手書きのものが何一つとして見つからないのだ。

「どういうことだ?」

 全く勉強などをしない不真面目な学生だったのか?いや、有り得ない。少佐クラスでそれは無いだろう。

「よほど記憶力が良い方だったんですかね?」

「見たものをそのまま記憶できて、わざわざ書き記したりする必要が無かったってか?まさか、嵯峨じゃああるまいし」

「?嵯峨中尉は、そんなに記憶力が良いんですか?」

 坂本が感心して訊いた。そんな隠し技まで持っているのかと、尊敬の気持ちを新たにしたらしい。

「ああ。いつまでも昔のことを、グチグチグチグチと嫌味ったらしく言ってくるよ。まったく、どれだけ覚えてりゃあ気が済むんだか」

 廣瀬は肩をすくめる。

「ずっと前に、ちょっとからかっただけのことを。まったく、ネチっこいんだよ、彼女は」

 へっへっと笑う廣瀬に、坂本は呆れた顔でため息をついていた。

「それはそれとして、少佐本人の映像を調べてみたらどうでしょう?」

 坂本は本棚にあったバカラガラスの小品を、廣瀬に手渡した。ガラス製品は、持ち主の痕跡をシャープに残す特徴がある。これを触媒に、再現魔法を使ってみようというのだ。

「それは良いアイデアだな。書き残しが無い以上、行動から推察するのは悪くない。しかし、少佐は落第じゃなく、退役して軍を去ったんだったよな?軍の除隊リストからすると」

「ええ、そうなっていますね」

 廣瀬は嫌そうな、怪訝そうなへの字口に、納得いかない疑問で表情を歪ませた。

「だったら軍の所有物である端末機や教本はともかく、明らかに私物っぽいこのガラス製品が、なぜ残っているんだ?しかも高級品だ。これなんかは、バカラの第三工房の逸品だぞ?軽く二、三万はする」

 廣瀬はそれを、手の上でカラカラと振った。心地良い澄んだ音と、細分化された反射光が散る。

「よく、ご存知ですね」

「まぁね」

 興味無かったんじゃないのか、と恨みったらしく坂本にジトッと睨まれ、廣瀬はポリポリと頭を掻いた。

(別にお前を虚仮にしたわけじゃねぇよ)

 キュイィィンと手のひらに魔法力を集中させ、廣瀬はバカラガラスを通して持ち主の姿を投影しようとする。

 が、

「あれ?」

 映らないのだ。

「反応が鈍いのかな?」

 坂本が別のガラスを持ってきた。取り替えてみる。

 それも、映らない。

「痕跡が消されてる…?」

 清掃処理班(スイープ隊)が入ったのか?と廣瀬は周りの痕跡マナも調べ始めた。その調査は、住人の基本的行動を覗くだけでなく、それぞれが特にプライバシーを守るための空間の、使用熱量を測ることまで始めだした。

「それは許可されていませんよ!」

 個人情報の侵害に繋がるために制限されている行為に、坂本が慌てて静止の言葉を荒げた。しかしまぁ、痕跡が残っているかどうか見てみるだけだ。問題無いだろう。

「やはり、だ。荷物は残っているのに、もう掃除人が入ってマナを消してしまってる。蔵書も全部、新品に交換してあるんだ」

 誰もが作る、他人のマナの入ってこれない2m四方の個人領域すら、この少佐の場合は消されてしまっていた。

 手元のメーターを見つめ、動かない針に廣瀬は苦々しく吐き捨てた。

「カスを掴まされたよ!佐官の個人室(の調査)が許可されたからおかしいと思ってたんだ。不都合なものは処理済みだから、調べられても大丈夫ってか?これだから参謀本部の事務方ってのは嫌いなんだよ!」

 あまり誉められたものではない上層部批判をし、廣瀬は新品の軍事教典を放り投げた。バタンと、思っていたより大きい音が鳴り、坂本がビクッと小さく驚く。

 この少佐も、もしかすれば軍への不平不満を並べ立てていたのかもしれない。いや、臭いものに蓋をされたのだから、人間関係に悩んでいたのか、どちらにせよそういう気配の痕跡は、綺麗サッパリ消されていた。

 脱走で軍を逃げ出したんじゃないかという疑いは、思っていたより濃厚になりつつある。

「少佐の人となり、調べますか?」

 坂本が、なかなかと気の利いたことを言った。感心したが、褒めてやろうかと振り向いて見た坂本の嫌そうな顔からは、単に思いついてはみたものの、めんどくさくてやりたくないな、と思っている感情がありありと覗いていた。

「まぁ調べる価値はあるかもな。軍に不満があって、それで自分から退役したのではなく、例えば上官から追い出されたりしたっていうのなら、素直に実家に帰ってないのもわかる。推測の域を出ないがね。とりあえず、少佐個人を調べるのは他の部屋を調べてからだ」

 廣瀬は、リストの中で調査許可の下りている、次ぎの名前にチェックマークを付けた。

「よし、次ぎに行こう」

 廣瀬はなるべく先入観は抜いていこうと、軽く自分の頭を振り、それでもいくつもの仮定が泡沫のように頭の中で組み立てられるのを、やや困ったように走り書きでメモしておいた。

 ━━そんなこんなが、調べに入ったいくつかの部屋で、同じように廣瀬と坂本を悩ませることになる。


「……調査許可の出た8件中、マナ痕跡の残っていたのは3件。その全てが初任兵で、訓練についていけなくなった生徒。落ちこぼれて鬱気味になったケースか…」

「彼らも軍への不満をかなり抱えていましたから、あまり他には見せたくなかったでしょうに、それならどうしてマナが消されず、調査を許されたんでしょうか?」

 頭を掻く廣瀬の横で、坂本も一緒になって、悩んだ風な表情で顔をしかめていた。彼には事態の見当をつける経験が不足しているため、与えられたわずかな情報だけでは想像力が働かず、途方に暮れてしまっている。

「そりゃあ、影響力の差だ。いくら二等兵曹が不満を言ったところで、本人の我慢と努力が足りないと言われるだけだ。実際部屋を調べた限りでは、軍の名誉に関わるような理由で除隊していない。自業自得なケースだよ」

 それに関しては、廣瀬はつまらなさそうに吐き捨てた。問題なのは、再現魔法で見た新兵の残像が聞くに耐えない不満暴言を吐いていたことではない。

「じゃあ、マナを全て消されていた5部屋の住人は、軍の名誉に傷をつける可能性のある何かを、抱えていたっていうんでしょうか?仮定の話ですが、それが原因で脱走したのを、軍が隠そうとしたとか?」

「わからんね。それはあくまでボクらの想像だ。一応は全員が、自主的な退役ってことになっているからな。まぁ、その可能性があるって程度なんじゃないか?」

「その理由に、何か大きな問題がありそうですね」

 ようやく、納得したように頷いた。謎解きゲームと勘違いしていそうなくらい、坂本は事件の裏を読みたがっている。得てしてそれは、経験不足の底の浅さを露呈させる結果にしかならない。

 現実は推理小説ではない。裏ばかりを読みすぎると、結局は独りよがりな思い込みになってしまうものだ。“こうじゃないかな?”が“こうだといいな”になり、“こうにちがいない”と固まってしまう。

 廣瀬に、いちいちそれと付き合ってやる趣味は無かった。

「だが、そんなわけありな人間の部屋を、お前ならこんな簡単に調べさしたりするか?それらしきものを、先に消してしまっているとはいえな」

 否定する言葉を、冷たく言い放つ。坂本はまた、盲点を突かれたように表情を変えた。

「あぁ、確かに…。では大尉は、どう考えてらっしゃるんですか?」

「だからまだわからないって。とにかく、このままじゃ消息不明な連中の居場所の手掛かりすら無い。議長の要求に応えるには、許可が保留されている残り二十数人の動向も、調べてみる必要があるな」

「そんな…、許可が出ていないのに勝手に調べたりしたら、違法捜査になってしまいますよ」

「沢山の申請の処理に時間かかっているだけだ。許可なんて明日にはまた出るよ。ただ順番を待ってるだけのことだ。多少早くなったところで、問題ない」

 そう廣瀬が言うと、坂本はあからさまに慌てて唾を飛ばしてきた。新任らしい固さのある坂本は、規則を無視した行為に対する免疫が強くなく、廣瀬のこなれた感じに違和感を覚えるらしい。

「無茶ですよ!違法な捜査で手に入れた証拠は、たとえそれが決定的なものでも無効にされてしまうんですよ?!手続きの不備でそんなことになったら大変じゃないですか!」

 法務課の授業で口を酸っぱくして叩き込まれたことを、いろんなことを馬鹿にしては適当にこなす先輩に、一所懸命説く。それを廣瀬はヘラヘラ笑い、

「裁判になるんならな。これはただの内部調査だ。証拠能力が無くなっても何も困らんよ」

 頭の悪さを憐れむように坂本の肩をポンポンと叩いた。その仕草が、いちいち坂本の神経に障る。

「……それなら、明日にしたっていいでしょう?もう夕方になってますし」

 ゴホンッと咳払いして、坂本は廣瀬への腹立ちを我慢して言った。もっとも、坂本の本音はそこだったのか、廣瀬もその指摘に「あぁそうか」と気づいて苦笑した。確かに一から調べていくだけで、随分と時間をかけてしまっている。晩飯にはまだ早い時間だが、坂本が音を上げてしまうのも無理のないくらいの時間が、調査を開始してから経過していた。

 しかし命令に追従していた坂本とは違い、自分で思いつくままの調査をおこなっていた廣瀬には、疲労があまり溜まっていない。まだまだ精力的に動ける体力が残っていた。

「じゃあ、またマナ痕跡が消された殺風景な部屋を調べたいのか?もしかしたら今この時間に、せっせと処理班が働いてるのかもしれないんだぜ?先手を打つことが大事なんだよ、何事も」

 そう言ってやると、坂本はぐうの音も出ないのか、少し拗ねたように唇をとがらせて黙りこんだ。道理だろうが、付き合わされる方はたまったものではない。

 その不服そうな様子に、廣瀬もやや呆れながら続ける。

「……って、なんてな。別にそれぞれの部屋の中を調べるつもりはないさ。おそらく問題があったりしたら、とっくに消されている。一番最初に退役した少尉でひと月半前、最近ので二週間前だ。調べるといっても、いまさらだろう。第一、連中がどれだけ軍に都合の悪い非難を残していたところで、それが今の居場所に繋がるとは思えない。それよりも…」

 得意気にリストを指で叩き、坂本に示してやった。

「書き残したものも行動の痕跡マナも無いんなら、交友関係の方を調べればいいんだ。どこで油を売っているか、知ってるかもしれない」

 その案に、坂本はハッと気づいたように顔を上げた。そうだ、それなら徒労に終わらない成果が出るかもしれない。なにせ廣瀬の提案は、曲がりなりにも昨日自分が思いついたアイデアなのだ!

 廣瀬の言葉に、坂本は納得して賛成の声を上げた。

 実に単純で、かつ有効な基本的手法。初心者らしい無邪気さが、坂本の頭脳を意欲的に鮮明にした。

「今日見て回ったリストの人たちは、それすら処理されてたりするかもしれませんが、これだけの人数、まだ全てに手は回っていないかもしれない…。それが、調査許可の認証が一日ずれた理由でしょうか?」

「か、単なる事務処理の怠慢なだけかだな」

 坂本の回答に、廣瀬はニヤリと笑った。それを見て、坂本も嬉しそうに顔をほころばせた。

 自分から気づく、そして自分から何をやるべきか思いつくと、人間誰しも、疲労感無く行動出来たりするものだ。

「先ずはこの伍長から調べるか。ふたり部屋で、ルームメイトがまだ居るはずだ」

 廣瀬の指示に、坂本は深く頷いた。


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