第7話 承 ー伍ー

 昇降機で地下施設へと渡った廣瀬たちは、清潔に保たれている医療病棟の受け付けで照会を求めた。

「しばらくこちらでお待ち下さい。手続きをして参りますので」

 芦原議長と高嶺嬢に告げ、廣瀬は関係者室にためらいなく入る。

 数分の後に、若い看護婦を連れて出てきた。すっかり話をつけてきたのか、入室許可のパスを人数分用意していた。

「こちらのリングを腕に巻いていただきますと、青色のエリアのみ立ち入りを許可されます。お問い合わせいただいた安置所は、青色エリアの二番目の部屋です」

 二十を幾つも越していそうにないその若い看護婦は、少し乱れた髪を気にしながら、芦原議長と高嶺嬢に丁寧な説明をしてくれた。

「はい、これで仕事はお終い」

 と一息つき、その振り向きざま、

 バチーーンッ!

「この恥知らず!」

 廣瀬の頬を容赦なく張った。顔を赤らめ、そのくせ潤んだ目でくるりとキビスを返すと、関係者室の扉を力一杯閉じてしまう。

「いったい、何事でしょう?」

 理解出来ず、芦原議長が目を白黒させる。

「あなた、あの女性に何かしたのですか?」

「いいえ。あれは単なる軍隊式の挨拶ですよ。『じゃあな、また』って意味の」

 稚拙な廣瀬の説明に、芦原議長は「まさか」と鼻で笑った。

 赤、黄、緑、橙等々あるカラフルなラインのうち、青色エリアのラインをたどって、安置所までいく。廣瀬はそこでも受付の窓に顔を突っ込み、担当の看護婦へ声をかけた。

 バシーンッ

「よく顔を出せたものね!この…ケダモノっ!」

 その看護婦も、廣瀬を見るなり容赦なく頬を張り、罵声を残して逃げていった。

「『じゃあな、また』」

 見送り、廣瀬は手を振る。

「……」

「…そんな目で見ないで」

 背後から、呆れた芦原議長と高嶺嬢がジトッと睨んでいた。


 安置所に入ると、軍医の山本弘毅大尉が、何枚もの不気味な写真をコピーしている姿があった。廣瀬と同期ながら、すでに大学を卒業しているこの優秀な医官は、良い奴なのだけれども理解し難いコレクションをしている。

「珍しいな、わざわざアポをねじ込んでまでお前がここに来るなんて。ん?あぁ、ずいぶんと挨拶をされたみたいだな」

 極彩色のグロテスクなそれを壁に飾り、山本はへっへっとせせら笑った。

「ほっとけ」

 廣瀬はばつの悪そうにほほを掻いた。まだひりひりと痛い。

「で、何の用だ?」

「遺体との面会がしたい」

「名前は?」

 ギシッとイスを軋ませ、山本は端末を起動する。

「芦原健吾少尉だ」

 端末が温まるまでしばらく待ったあと、カタカタと文字を打ち込んで検索する。

「あぁ、あの厄介な遺体か」

 拗ねたように、鼻から息を吐く。山本は椅子をクルリと回転させた。

「厄介?」

「色々と上層部から注文が多いんだ。面会は出来ないな」

 廣瀬の促しにめんどくさそうに応えた山本へ、

「注文が多いとは、どういうことですか?」

 聞き咎めた芦原議長が声を上げた。

「?このひとは?」

 山本に礼儀感覚は乏しい。不躾に目を凝らし、廣瀬に聞いた。

「皇国議会の委員会議長の芦原秀子議員だ。少尉の親御さんだ」

「あぁ、それでか」

 山本は手を打って軽薄に笑った。

「?」

 どういうことだろうか、と廣瀬にもわからない。

「検死が終わったらちゃんとした日取りを決めて軍隊葬をするんだと。それも最高級の。事故死した一介の少尉殿にしちゃあ不思議だったが、納得した」

 “議長の子”という身元への、明らかな侮蔑を臭わせて山本は言った。大方お坊っちゃんが、間抜けにも自分のミスで死んだんだろう、という冷淡な感情を込め、目を細める。

「死に顔に逢うだけだ。いいだろ?」

 同じく侮辱を感じとった議長と婚約者のたまらぬ抗議を抑え、廣瀬は山本に訊ねた。

「遺族が会いにきているのだ。面会するくらい良いだろう?」

「う~ん、こちらも規則があってなぁ。同情したいのは山々なんだが」

 あからさまに困った顔をして、山本は首を振った。本当は屁とも思っていない規則を、こんな時だけ盾にとる。

「小太りなオヤジでどうだ?」

 廣瀬はため息をつき、懐から抜いたそれを山本に握らした。

「昼飯にもなりゃしねぇ」

 嘲るように吐き捨てて言う。

「じゃあ白髪のメガネオヤジもつけよう」

「……」

 追加した分でも、山本はそっぽを向く。

(…こんにゃろう)

 便宜をはかるにしても、相場ってもんがあるだろうに。まぁ相手が古くからの友人の廣瀬であるために、山本も悪乗りしているのだろうが。

「わかった。王冠かぶったやせっぽちなばあさんもやるよ!」

 給料日前に、痛い出費だ。と、山本は打って変わった満面の笑みを溢れさせ、

「ご案内いたします。どうぞこちらへ」

 慇懃に恭しく、芦原議長と婚約者を安置所へエスコートした。

 重い扉を押し開けた先の真っ白な部屋は、鼻の付け根がスッとするような薬品の匂いが充満していた。

「ここは本州に駐屯している軍の遺体が集められています。病死もあれば戦死や事故、それから殺人被害者…」

 言わでものことを、山本は遺体安置棚の文字列と数列を数えながら言う。彼くらいになると、遺体は特別なものでは無くなるのだろう。

「よし、見つけた」

 山本がボタンを押すと、ガゴンッと何かが回る音がして、排気孔から冷却のガスが勢い良く吹き出した。

「芦原健吾少尉です」

 ゆっくりとせり出してきたカプセル状の寝台。冷気による曇りを拭き取ると、安らかに眠る青年の横顔が覗き見えた。

「ヒッ!」

 瞬間、芦原議長が細い喉を引き裂くような奇声を上げ、膝からガクリと砕け落ちた。高嶺嬢が気丈にもそれを受け止め、手を引いてふたりで亡骸の顔を見つめる。

 山本がガラスの蓋を開けた。冷気が広がる。

 震える指先でのろのろと、議長は愛する息子の頬を撫でた。涙が伝うのをそのままに、次いで短く切りそろえた髪に触れる。高嶺嬢も跪き、胸の上で組まれた芦原少尉の大きな手を握る。

「健吾さん…」

 もうダメだった。それを機に、ふたりは一気に感情を迸らせ、声を上げて泣き崩れた。

 肩が震え、嗚咽をしゃくりあげて泣き叫ぶ。

 ある程度は覚悟してきただろう。しかし突きつけられた悲しみに、彼女たちはか弱く、堰を切って泣くしかなかった。

 何度も何度も少尉の名を呼ぶふたりの泣き声を聞きながら、

(いやな場面だな)

 と廣瀬は直視出来ずに顔を歪ませていた。

「綺麗な遺体です。よっぽど懸命に治療されたんでしょう。傷一つ残っていませんよ」

 山本がふたりを慰めるように言った。あなたの息子さんは丁寧に扱われたんだ、と。まぁ、何の癒し効果も無いだろうが。

 ふと、廣瀬は今のうちに山本から訊いておこうと思った。

『注文が多いって、どういうことだ?』

 悲しみにくれるふたりの邪魔にならないよう、山本の脳へと直接テレパスで話しかける。

『とにかく丁重にって煩いんだ』

 山本も、口を動かさずテレパスで返事した。こちらを向こうともしない。

『そのくせ、検死にもいちいち文句言ってきてな』

 廣瀬は浮かんでいた疑惑を尋ねた。

『溺れて死んだことを隠そうとしてる?』

『溺れて?そうそう、報告書上げたら死因を水死にしろっていわれた。隠すどころかそれを主張してやがったよ』

 腕を組み、山本はうんざりした様子で答えた。

『検死は違うのか?!』

『どー見てもな。確かに肺には水が溜まっていたし全身に水霊反応もあるけど、血中酸素の飽和度は正常だ。水は治療水に使っただけで、溺死じゃねぇよ』

『海で死んだはずだが、もしかすればボートに衝突して事故死したのか!?それを隠すために水死としたがったとか』

『それも違うな』

 多少意表を突かれて混乱している廣瀬より、山本の方が冷静だった。

『どう違う?』

『見返りは?』

 へへっと笑う。

『内容による』

 さすがに不謹慎だろ、と思ったが、廣瀬は先を促した。

『どケチが。まぁ肉体の損傷は治療痕からして全身打撲だろう。肋骨だけでなく手や足も骨折していた』

『大波に襲われた衝撃、と考えられないか?』

『いや、確かに損傷痕が前面に集中してたりするが、それぞれの力のかかりがバラバラだ。しかも一回や二回じゃない。何段階かに分けて傷を負っている。落下や衝突でも無いな』

『つまり?』

 シンプルな答えを期待した。

『一番素直な解釈は、何者かによる殺害。正しくは戦闘による闘死、だな』

『……』

 言葉も出ない。全然話が違うじゃないか。

『訓練で事故、にしては酷すぎる傷だ。致命傷と考えられるものが複数個あって断定できない程だ。良家のお坊ちゃんみたいだから、妬みでリンチでもされたかな?その後の手厚すぎるケアも不自然だし。大方、証拠隠滅のためか……まぁ、そんなことまで俺が詮索することじゃねぇが』

 山本はズケズケと言い放った。やはり、少尉への敬意は無い。

『本人のマナは、調べたのか?』

 マナを解読すれば、その人物の感情や視界にアクセスする事ができる。死の直前の網膜の映像だって、そこから調べることができるのだ。捜査には重要な情報になるのだが、

『プロテクトがかかってる。生前に自分でかけていたんだろう。魔法力からは何もわからないよ』

 山本は無感動に言った。

『それこそ俺の仕事じゃないし、守秘義務ってのもあるしな』

 あくまで、彼は職分以外のことをしようとしない。プロ意識といえば確かにそうだし、廣瀬の哲学とも合う。

『お前の見立ては間違ってる。法務科を選ばなくて正解だったな』

 しかし、廣瀬はなぜか苛つきながら山本の見解を否定した。

『少尉の成績は学園でもトップクラスだ。リンチなんかでやすやすとは殴られないだろし、何より沿岸特殊警備隊の演習に呼ばれての事故だ。彼らほどの軍人たちが、わざわざ客に招いた人間を妬む理由が無い』

『あっそ。そら、すまなんだな』

 簡単に、山本は意見を引っ込めた。その軽さがまた、ひとを馬鹿にしている。

『でもまぁ、少なくとも少尉の死には何か隠されているのは間違いないみたいだ。とてものこと、議長さまには言えないが』

 廣瀬はいまだ泣き続ける女性ふたりを見つめて思った。五藤大佐を問い詰めるくらいはさせてもらいたい。事故だというから、同僚が危険地域に行くことになったのだから。

 そこで廣瀬はテレパスをやめた。

「遺体はいつご遺族に返還を?」

 声に出して予定を聞く。議長と婚約者には、廣瀬と山本の会話はここだけしか聞こえていないだろう。

『まず、け…』

 山本も、テレパスから声帯に換えた。

「まず検死結果報告書を仕上げてからだ。そして裁判が終わるまでは保存が規則で定められている」

 第一回公判は4日後。それから軍隊葬にしても、そう日にちはかからないだろう。

 廣瀬は議長たちに裁判傍聴の申請手続きを促した。議長は涙を拭きながら、山本に丁寧に礼を述べ、廣瀬に導かれるまま安置所を出た。

「また、会いに来てもよろしいですか?」

 その喪失感に打ちのめされた声に、山本は優しく頷いていた。



「坂本、少し手伝ってくれ」

 議長を乗せた高級車をお見送りした後、廣瀬はすぐに准尉を呼び出し、書類の束を渡した。その分厚さに、坂本は目を丸くする。

「調査令状の申請書類なんだが、書式は知っているだろう?」

 手書きでないといけないし枚数も多いため、新人とはいえ資格のある坂本を使う。小心者なだけに、丁寧な字も書けるから丁度良い。

 坂本は初めて書く公文書に緊張していた。

「そんなに肩肘張るなよ。これから大量に書くことになる書類だから、書き方の練習のように思ってればいい」

 ついでにボクも楽できるしな、と廣瀬は言って書き方を教えた。必要な記述と、不備で突き返されないために抑えておくべきテンプレートの文言。

「わからなくなれば訊いてくれ」

 そうして根気のいる事務仕事を後輩に丸投げすると、廣瀬は自分のデスクで端末を開き、怖いくらいに集中した表情で検索を始めた。

 いくつもの数値や文字がチカチカと走り、それをスピーディーに選別していく。画面では何枚もの窓が開いては消え、廣瀬はやっと、軍の除隊者リストにたどり着いた。

「なるほどね、こりゃ問題にされない方がおかしいわな」

 各部隊、各組織の名簿から以前と現在との差異を探す。数を調べると、確かにここ数ヶ月の学園での除隊率は、他の時期と比べると目立つほどに高かった。“急に増えている”というべきで、特に、芦原少尉の死亡した前後が顕著だった。ほぼ毎日、誰かしらが軍学校を去っている。

 データ好きの軍隊が、これを放置したまま何も対策を立てていないとは思えない。その割には、それらしき通達が出たという様子もなさそうだ。

(まあいい。必要なことさえわかれば……)

 何人か、議長からのリストで見た名前を検索してみる。彼らの所属は、皇国軍内の各兵科に渡っていた。

「特に…共通点は無し、か……」

 新任の初等兵が、厳しい軍隊生活についていけず逃走した、というわけでもないようだ。確かに入隊数ヶ月での除隊者も複数人いるが、割合にすれば古参兵の方が多かった。

 その古参の生徒たちの場合も、階級から年齢から何もかもがバラバラだ。成績は、優績者ともいえるエリート士官もいれば、劣等生な下士官までいて、その関係の離れっぷりからは、彼らの相互の繋がりなんてものは見えてこない。受けているカリキュラムも、重なりようが無いからだ。

 無理に共通点を探すとすれば、全員が皇国籍の男性ということくらいだろうか。女性の除隊者はいない。括る範囲が広すぎて、何の手掛かりにもなりやしないが。

 これでは、芦原議長の言う母親団体が危惧したような、軍が何らかの原因(重大な過失or陰謀)によって大規模な行方不明者が出てしまったことを隠している、という憶測は、正直言って難しい。たまたま偶然が重なって、それによる芳しくない結果であると判断した方が、この場合は自然な理由といえた。

「これは、議長の満足いく回答はできそうにないな」

 この状況で陰謀説はこじつけられなくもないが、それでも客観的にはクレームと変わらない。

 しかし、やや呆れ気味に端末を操作していた廣瀬は、ふと気づいて顔を歪めた。

「なんだこれ、単なる退役じゃないか」

 議長のリストで行方不明とされていた生徒たちは、軍リストだと行方不明などではなく、ただ単に軍学校を辞めただけと記録されている。任期途中の中退者が多いが、他にも兵役を終えて正式に退役した者や、任地に赴いた者もいた。

 軍の記録上、行方不明などとされている生徒は、ひとりもいない。

 事故死も同様、やはり件の芦原少尉ひとりだけが、そう記されているだけだった。

「おかしいな?家族には行方不明になったと伝えておきながら、軍籍では何の問題も無いことになってる」

「どちらかが嘘をついてる?」

 坂本が、廣瀬の独り言に付き合って、言った。

「もし仮に、軍が嘘をついたのだとしたら、何で母親連中を不安にさすようなことを言うよ?逆だろ、普通は」

 実際に訓練中の事故で行方不明が出たとして、嘘をついてまで誤魔化すのなら、母親側を言いくるめようとするだろう。軍として、そんな嘘をつく必要はない。かといって、芦原議長が虚偽の証言で要求をねじ込んできたとも思えない。

 では、手続き上軍を辞めて、しかし素直に帰郷しなかったという軍生徒の場合、考えられる事は……


「「敵前逃亡」」


 廣瀬と坂本の声が重なった。

 つまりは、“意図的な脱走”だ。

「それしか無いな。除隊手続きが正常に完了しているのは、それぞれの所属している隊の長を処罰しないためだろう。ボクたちを通さないことで、上手く誤魔化されたんだ。家族の方へ“行方不明”と通知したのは、逃亡の事実を公表しないで済ますためと、捜査し、逮捕した後にかけるであろう軍法会議の結果を、ある程度家族に覚悟させておくためだな」

 廣瀬は、端末の画面から視線を外さずに続けた。右手でカチカチと、器用に矢印を操る。

「いまのご時世に、いくら卑怯なる軍からの脱走とはいえ、軍法会議で死刑判決なんか出やしない。でも、長期の投獄は免れないだろうからね」

 事を荒立てることなく、出来れば秘密裏に処理したいための措置だ。居なくなった生徒のためではない。抜けられた隊の、他の真面目な隊員達に連帯の責任をとらせないためだ。

「ボクらに話を通さなかったのも、それなら納得いく」

 これはあくまで、仮定の話。しかしこれだけのごまかしをするのだ。裏に何かが、無くはない。

 芦原議長の要求は、当たらずとも遠からずなのだ。それだけの、脱走とおぼしき除隊が頻発したのには、何か原因があるのだろう。

「まぁそれは別として、これだけの事務処理をどこがやったのかは気になるな。ボクたち以外でこれ用の公文書を扱えるのは…」

 廣瀬は端末の画面を前にして、頬杖をついてムスッとした鼻息を吹き出した。前髪が一筋、揺れた。

「何かお持ちしましょうか?」

 手を休めた坂本が、廣瀬の顔色を伺うように立ち上がった。何をするのもトロいくせに、あれこれと気だけは回してくる。絵に描いた小市民だな、と廣瀬は鼻で笑った。

「あぁ、頼むよ。……そういえばさっき、議長が来られていたときに茶を持ってくるように言ったのに、なぜ持ってこなかった?」

「あ、あれは…」

 廣瀬に責めるつもりは無い。ただ話の継ぎ穂にしただけだ。

「何か変なマナが流れ込んできてて、言われてた茶葉とかが、ほとんど湿っ気てしまっていたんですよ」

「給湯室がか?」

 坂本の言い訳じみた回答にイラつくわけでもなく、廣瀬は不思議なものを見るように、キョトンと坂本の薄い顔をながめた。坂本が、そういうつまらない自己保身なんかで嘘をつくような人間でないことは、知っている。

「あそこの学棟は管理が行き届いてるはずだが、珍しいこともあるもんだな」

 最高級の調度品を揃えているだけに、余所よりも圧倒的に、清潔かつ最適の環境に整えられているはずだ。同じ学棟にある第五図書館は、士官クラスでも一部のエリートのみに、閲覧を規制されてるほどのところだった。いくら鬱陶しい雨が続いていたとはいえ、変なマナなど、どこから流れ込んできたのだろうか?

「わかりません、かすかに臭った程度なので。ただ、かなりの人工的な感じはしました」

 申し訳なさそうに、頭を垂れた。

「でも勿体無かったですよね。私も一度は飲んでみたい。前に土居大尉が、『人生の味がするよ』と言ってました。一体、どんな味なんでしょう?」

「そりゃあ、苦いんだよ」

 いつも人生というものについて考えてるような、土居のインテリ顔を思い浮かべて、廣瀬はアッハと楽しそうに笑った。

 坂本は、いまいち分かっていないようだった。

「まぁいい。コーヒーでも淹れてくれ。ちゃんと、コーヒー味のするやつをな」

 廣瀬は適当に相槌を打つと、再び画面とにらめっこを始めた。

「とりあえず、個室を持っている士官クラスから調べていくか。この少佐は二週間ちょっと前の訓練中に不明…と。どんな訓練をしてたのか、軍の業務運用記録に当日の行動か何かが、残ってるかもしれないな」

 廣瀬は、軍リストで退役となりながら、行方不明者として芦原議長の名簿に名前が載っている理由を思って、ひとり苦笑した。他にも一部、軍リストではただの落第除隊扱いにされている人間が、数名いた。

(軍を辞めて、家にも帰らずに何をしてるんだか。これが単に、どこか女のところにでも転がり込んでるだけなら、たまらんなぁ。まぁ……)

 ジジジッと、ふたつのリストに共通する名前をプリントアウトしながら、廣瀬はそれをボーっと見つめた。

(大方はそうなんだろうがね)

 我が身を振り返り、苦笑した。落ちこぼれて母親に合わせる顔がない男は、優しくしてくれる女のもとに逃げ込むものだ。全部が全部とはいわないが、この中にも、ただ母親に心配をかけているだけの親不孝者が含まれていそうだ。まず自分が落ちこぼれて、故郷に逃げ帰る立場なら、嘆きながらも馴染みの女性のとこへと、甘えん坊のように慰められに転がり込んでしまうだろうからね。もっとも、廣瀬は成績優良で、落第なんかするわけがないが。

 そんな廣瀬は、優しい心を持った馴染みの女性の顔を思い浮かべて、表情を曇らせた。

(嵯峨たちは、大丈夫だろうか?)

 遠く魔巣窟の空を思い、胸を押してくる焦燥に、同僚の安否を気遣った。


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