黒い月と鼠の雷

泉 燈歌

始まって終わる物語


「一番槍ィ! 魔王の首は俺のもんだァ!」


 バァーン、と力強く扉を蹴り飛ばし、喚き立てる人間がいた。

 しかしそれを聞く者はその部屋にはいない。


「どこにいるんだよその魔王ってのは!」


 人間の後に続く、これまた大きな人間が来た。

 人間は部屋に入った直後にそう言い、苛立ち紛れに床を蹴った。


「奴さん、さてはビビって逃げ出しちまったかな」

「チキンかよだっせーな」

「いねーじゃんかくそかよ」


 更に後から後から次々と人間がなだれ込んでくる。



「「「魔王! 魔王! ……魔王っ!」」」




(騒がしい……眠れないではないか)


「さてはこの人数に怖気づいたな。臆病者め!」


(――なんだ。まだ日が暮れておらんではないか。今日は随分と早い)


「黒き疾風の名が泣いているな!」

「見てくれだけは立派な屋敷だが肝心の主がそれじゃあなぁ!」

「盗られるような物もねぇのになにが縄張りだふざけやがって!」


 闖入者の集団は苛立ちを露わにして部屋という部屋、物という物を手当たり次第に壊しては踏み荒らしていく。

 その場にいる全ての者は鉄などの金属や動物の革を加工した武具を身に纏い、自らを誇示するかのように派手な振る舞いをしていた。

 ある者は人の背丈よりも長い槍を。ある者は自らの身体よりも分厚い盾を。ある者は美術品とも見紛う煌きを放つ杖を。ある者は腕よりも太い矢を番えた弓を。ある者はともすれば線にも見える薄く細い剣を。




(――面倒だ。できることならこのまま帰ってはくれないだろうか)


「まったく。本当になんもねぇな。つまらねー」

「どうすんだよこれ収穫無しとか冗談じゃねーぞ」

「こんだけ集めて空振りとかふざけんなよなー」


「――いっそ景気付けに燃やして帰るか?」


(……ほぉ?)


「どうせこんな辺鄙な場所に魔王がいるなんてガセネタだったんだよ。魔女の館だかなんだか知らねぇけどよ。適当に討ち取ったってことにして済まそうぜ」


 誰かが放った言葉は不思議と周囲に馴染み、特に反対意見が出ることもなく可決された。どうやら、この一団は余程暇らしい。

 それからなにかを待つこともなく、合図も号令もないままに油の臭いが近付いてくる。このままなにも起きなければ結果は火を見るまでもなく明らかだろう――文字通りに。

 数刻と経たずにこの屋敷は火の海に沈む。


「それは困るな」


 壊すのはまだいい。

 貶すのも別にいい。

 なにを喚こうとどうでもいい。

 そんな些事ではなんの揺らぎも見せられない。


「しかしだな。――火はダメだ。無論、水もダメだ。当然、風もダメだ。言うまでもなく、土もダメだ。そして……光もダメだ、論外だ。――そうとも。ここは闇だけが許される場所だからな」


「……誰だ、てめぇ」


 先程まで騒いでいた荒らくれ者とは思えないくらいに緊張を孕んだ、真剣な声が返ってくる。一団は自らが手に持つ武装を構え直し、円陣を組む。


「散々呼んでくれただろう? 私を。この私を。主より賜りしこの屋敷を守る我を。――我輩を。不名誉な名までご丁寧に付けてくれて。呼んだであろう?」




「まさか……魔王」


「魔王。魔の王。不愉快極まりない。ただの小童に過ぎない我輩如きを煽り立てる不相応な――魔王という称号。我輩はそれが気に食わない、気に入らない、気に障るのだよ。やめてくれたまえ。黙らせたくなる。噛み殺したくなる。遊びたくなる。――いや、いらない捨ててしまおう。所詮は塵芥」


「姿を現せよ……訳のわかんねぇことばっか言いやがってよ」


「――よかろう。貴様等全員、仲良く死の花道を歩ませてくれようぞ。我輩、人前に出るのには慣れている」


 そう言うが否や、シュバッとでも擬音が差し込まれそうな俊敏さで一同の目の前に立つ。つい先程まで天井裏で惰眠を貪っていたとは思えない動きだった。


 黒い体毛に覆われた身体は一切の光を拒んで。

 その瞳はどこまでも見通すアクアブルーの光を秘めていて。

 勤勉な耳と利発な鼻は正面の不届き者共を捉えて。

 ピンと伸びた髭はどこか得意気に風を感じていて。

 胴に比べて遥かに細く、しかし柔軟さと強靭さを兼ね揃えた手足があって。

 第二の顔とも思える表情豊かな尾が振れて。


 黒き疾風。魔王。

 そう呼ばれる者が姿を現した。




「……猫?」


「如何にも。我輩は猫である。名前はまだ無い――ことも無い……が。貴様等風情に名乗る価値は無かろう。我輩の名はそこまで安く軽いモノでは無いのでな」


 体高は一般的な猫と同じく人の膝下までしかなく、黒猫を前にした一団は目線を下げるのに少々難儀した。主に後列が。


「なんの冗談だこりゃ」

「使い魔を操ってる奴がどこかにいるかもしれないぞ、探せ」

「油断するなよ、もしかしたら罠かもしれん」

「あるいは幻術か、俺らの目を惹くための囮に――」


「――めんどくせぇな、雑魚共が。たかが猫一匹、さっさと片付けて俺は帰るぞ」


 矢が放たれた。

 動揺を露わにしていた一団の人と人の間を縫って通された、素晴らしい腕前の使い手だ。狙いは過たれず黒猫に吸い込まれる。


 そして、矢は吸い込まれた。

 黒猫の身体に刺さったかと思った次の瞬間、矢は消えていた。

 外した訳ではない。躱された訳ではない。防がれた訳ではない。

 飲み込まれたのだ。


「戦闘開始だ。ゴングを鳴らしたのはそちらだぞ」


 そう、無慈悲に宣言した黒猫の影が蠢き不規則に揺れる。

 影は床を伝って一団へと伸び、それが人間の足に重なると人間は沈んだ。


「な、なんだこれ!?」

「抜けねぇっ! 誰か引っ張ってくれ!」

「くそっ! どうなってんだよ!?」

「やめろ、来るな、来ないでくれ!」


「怨むのであれば、連携のなっていない自分たちの愚かさを怨めよ。人間」


 阿鼻叫喚。

 黒猫を前にし、余裕を見せていたはずの人間はどこにもいない。

 足から沈み、腰まで飲み込まれて半狂乱になる者。バランスを崩して頭から突っ込んでしまい手足を痙攣させ、やがてピクリとも動かなくなる者。片足を飲まれて手持ちの武器で足を斬り飛ばそうと躍起になる者。沈む仲間と繋いでしまった腕を振りほどこうと足掻く者。

 ――そして。影が届く前に後退し、遠距離から反撃する者。


 光を纏った矢が黒猫に突き刺さる。

 しかし貫通した黒猫の姿はぼやけ、やがて消える。そこに残るのは床に刺さった矢だけだ。射手はそれを見て気だるげな表情を消し、乾いた笑みを浮かべる。


「ははっ! なんだよそれ何者だよお前!?」


「我輩は猫である。少しばかり魔に触れた、ただのちんけな黒猫である。貴様は何者か? 歪んだ異能を持つ者よ。それは人の範疇を超えている」


「俺はただの人間だぜ? それ以上でもそれ以下でもない。ちょっとばかしレベリングし過ぎただけの……ただの人間だ!」


 黒猫の問いへの答えは、それはまるで自分自身に言い聞かせるような響きを含んでいた。彼自身、その答えが正しいのか判りかねているような。


「ふむ。レベル……レベリングか。――壊したのか。殺したのか。殺し尽くしたのか。魔物を、人を、獣を、自然を。ありとあらゆるモノを。己の糧とする為に。破壊してしまったのか、殺害してしまったのか」


「それの何が悪い!? そうすればレベルが上がるんだ! そうしなきゃレベルが上がらないんじゃあ……殺して壊すしか無いだろ! そうしなきゃ強くなれないんだからさあ!」


「システムか。囚われたか、呑まれたか。哀れよの。それはヒトのまま届いてはいけない領分だというのに。あるべき自己を見失うなどと」


「わけわかんねぇことばっか言うなよ、勝手に知った風な口を! 大人しく経験値になってとっとと俺にレベルを上げさせろ! お前が本当に魔王だってんなら――俺に討たれるのが筋だろう!?」


 部屋の外に転がり出ると同時に三本の矢を番え、一息に解き放つ。

 人の背丈にも届こうかというサイズの大弓から撃たれる矢のエネルギーは強大で、影に飲み込まれている途中の人間を薙ぎ払ってなお勢いを殺さず黒猫に迫る。

 だが、黒猫には当たらない。時に影に潜り、時に姿を偽り、時に位置を入れ替え、黒猫は矢を逃れる。


「くそっ! なんで必中でも当たらないんだよ!?」

「確かにそれだけは中っているぞ。それだけだがな」


 いくら彼が矢を射ろうとも。

 どれだけ彼が優れた射撃精度で狙い撃とうとも。

 隠し玉であったはずの属性付与を使おうとも。


 黒猫には効かない。意味を成さない。


「どんなチートだクソ猫がぁぁぁ!! アタックカンスト舐めんなァァァ!!」

「我輩も聞いた言葉でしか知らないが……『当たらなければどうということはない』そうだ」

「ふぁっく、ふぁっくふぁっくふぁぁぁぁぁぁっく! 死ね死ね死ね! すぐ死ね今死ね即死ね死んでしまえェェェ!!」

「生憎と――我輩はまだ死ねんのだ。……奴にくれてやるわけにはいかんしな」




 走る黒猫に音の壁を突き破った白銀の矢が迫る。

 黒猫は貫かれ、しかしそれは幻のように消え失せた。


 黒猫が近付く。


 駆ける黒猫に四方八方から矢の雨が降り注ぐ。

 黒猫は巧みな足捌きと軽やかな身のこなしでその僅かな隙間を掻い潜る。


 黒猫が近付く。


 数十にも及ぶ光の矢が織り成す奔流が黒猫に迫る。

 黒猫が存在するであろう地点は光に飲み込まれた。

 凄まじい爆音と轟音、それと余波の閃光で彼の足が止まった。


 彼は光の方向から目を背け、目線を下げていた。




 そこで――黒猫と目が合った。






「我は闇。我は影。――光は論外だと。そう言ったはずだが」




 彼の悲鳴が辺り一面に響き渡ったが、それを聞く人間は屋敷のどこにも残ってはいなかった。





















「――ふむ。遊びすぎたか」


 ふと黒猫が呟く。

 足元には擦れささくれた影のオブジェクトが薄っすらと残っており、その傍らには大きな弓だけが置き去りにされていた。

 その弓の持ち主がどうなったか。どんな末路を辿ったのかは――黒猫にしかわからないことだろう。少なくとも幸せになれなかったことだけは確定している。猫は無情也。


「夜の時間だ」


 黒猫が振り返ると崩壊寸前だったはずの屋敷はまるで時間が巻き戻るようにして元の形を取り戻していく。割れたガラスは再び集まり、散らばった壁は宙に浮いて動き出す。崩れ落ちた天井も、壊れた装飾品の数々も、なにもかもが元通りに。

 ……元々ボロかった部分は変わらないままだが。


「残るは……一人か」


 屋敷の修復模様を確認した黒猫は敷地の外へと歩み出す。

 歩幅が狭く速度は出ないが目標はすぐに見えてきた。


 馬車。


 1頭引き2頭引き4頭引き――なんでもござれの馬車市場だ。売り手は皆死んでしまったが。

 馬車の一団を中心とした、四方に結界石と呼ばれる物を利用して生み出される特殊な安全領域の手前で黒猫は足を止めた。

 黒猫は馬車に繋がれたまま、帰ってくるはずも無い持ち主を待ち続ける馬を見回した。どの馬も大人しく、けれど抑えようも無い恐怖の感情を瞳に映して佇んでいた。その視線の先にいるのは語るまでも無く黒猫だ。


「賢明な判断だ。聡明な家畜達よ」


 黒猫の評価が伝わったのか、馬達は小さく嘶いた。

 喜んでいるというわけではなさそうだが。恐れている感情はやや弱まった。


「そこな人間。そろそろ出てきても良いのではないか」


 黒猫が見つめる先にはひとつの幌馬車があり、それを牽く馬は一目見れば素人でもわかるような一等立派な馬であった。

 黒猫の呼び掛けに引きこもることを諦めたのか、それとも決心がついたのか。居残りにして最後の生き残りが姿を現した。


「……ネコ?」


「肯定しよう。我輩は猫である」


 幌馬車から顔を覗かせたのは小さな少女であった。

 清楚な顔立ちにくすんだ黄色い髪色。健康的な顔色と体形。側頭部には彼女がただの人間ではないことを示す小さな耳が見えた。獣の人。獣人。推定される分類は鼠。普通の人間の姿をベースにし、獣の要素が薄っすら入っているだけの彼女は獣人の中では特に珍しい部類に入る。

 少女の足元からはじゃらじゃらという金属音が微かに聞こえてくる。

 ぱっちりと大きく開いた瞳をいっぱいの涙で潤わせた少女は腕に抱えた巨大な矢を見せ付けるようにして黒猫の方へと鏃を向け、


「あの人は……どうなりましたか」


 と訊ねた。

 あの人とはどの人か、と問い返すような察しの悪いことはしない。その巨大な矢を番えることができる弓を持っていたのはあの一団の中ではただ一人だけだった。

 だから黒猫は嘘を吐くこともせず。ただ一言、


「死んだ」


 とだけ告げた。死んだも何も殺したのは黒猫だが。

 饒舌な黒猫にしては珍しく簡潔な返答であったが、遠くから彼の断末魔を聞いていたであろう少女にとってはその言葉だけで十分だった。

 少女の頬が一筋濡れる。


「これを開けろ。我輩の力加減では無理に壊そうとするのは少々危険な故。できれば穏便に済ませたい」


 てしてしと肉球で安全領域こと結界を叩く黒猫。触れる度にバチバチバリバリと空気が張り裂けそうな音と衝撃を発し結界に罅が入り――それは徐々に増えていく。

 自分達の安全が脅かされていることを悟った馬達が一斉に騒ぎ始めるが、悲しいことに馬車に繋がれている状態では満足に身動きが取れない。


「解除したら……アナタは私をどうするのですか」


「――ふむ」


 そういえば考えていなかった。と黒猫は視線を宙に彷徨わせる。

 甚振ってから殺すか、死なない程度に弄ぶか、用が無いなら見逃すか。

 ……屋敷に侵入した不届き者であれば特に悩むことも無く殺戮するだけなのだが。


「どうすれば面白いと思うか?」


「……あんまり痛いのや苦しいのは嫌なのです。それなら私だって抵抗くらいはしてみせるのです」


「そうであろうな」


「窮鼠猫を噛むのです」


 文字通りに。

 黒猫に一矢報いることができるかと言えば……まぁまず不可能だろうが。

 猫と鼠だから、ではなく。存在そのものの格が違うのだからどこをどう頑張ろうと戦闘に関しては足掻きようが無い。たとえ自滅覚悟で人が実現できる限りでの最大級の規模で自爆しようと黒猫に被害を及ばせるのは難しいかもしれないだろう。例え核撃であろうと逃れる術はいくつもある。


「では、約束しよう。契約しよう。――誓約しようではないか。【我輩は結界を解いた貴様に危害を加えない】と」


「………………」


「これを受け入れないのであれば我輩はこれを破壊する。力尽くでな」


 どうだ悪くない話であろう、というか貴様に選択肢があること自体譲歩しているのだがな? と黒猫は尻尾を揺らめかせながら返答を待つ。


「アナタの提案を……受けるのです」


 黒猫にとっては短く、少女にとっては長い時間が過ぎてから。

 少女は四隅に置かれている結界石の一つを矢で弾く。


 結界が消える。電源が落ちるように。式が崩れるように。


「ご苦労。――そら、貴様の為に我輩手づから用立ててやったぞ。蝙蝠」


「これはこれはご丁寧にどうも。先を越されて。いやまさか気付かれていたとは思いもよらず。挨拶も無く突然のご訪問と登場と紹介を。お詫びします。御機嫌ようご新規のお嬢様? アテクシはデヴィルで御座います。位はミッドのコー。世間一般に語られる恐ろしくも卑しく素直で高潔な存在である悪魔で御座います。以後お見知りおきを」


 黒猫が虚空に視線を向け、話しかけたかと思えばそこからヌルッと得体の知れない出現方法で参上したのは燕尾服を着こなした若い男。背中には黒猫の身体と同じ色の羽を持っていた。

 黒猫の耳は寝ており、男に対してあまり良い感情を持っていないことが見て取れる。男は気にしていないようだが。

 一方の少女は突然現れた不気味な男に気圧されて馬車の陰からそっと様子を窺っている。男が語った自己紹介の半分も耳に入っていない。


「影からは既に送っておいた。好きに持っていけ」


「これはこれは大量にどうも。今回もまた大変良い品揃えとなっておりまして。いつものように全てで?」


「そこの娘以外だ」


「ほァい! 毎度有難う御座いますゥ!」


 男が威勢の良い奇声を上げると少女の身体が面白いほどよく跳ねた。

 黒猫はなんの感情も反応も浮かべずに聞き流す。だが尻尾の毛は男が現れてから逆立ったまま微動だにしていない。


「アテクシ人間の死体は大好物でして。いえナマモノは生きたままの方が好ましいのですけれども。聞くは涙語るは嗚咽な深い深い事情が御座いまして」


 ナマモノと口に出したところで男は少女へ細い目を向け、しかし馬車に遮られる。

 今にも舌なめずりしそうな怪しい気配を漂わせる男に黒猫の機嫌も悪くなる。尻尾がブンブンと振られている。


「用が済んだのであれば疾く失せろ」


「いえいえ。今しがた重要なお話ができまして」


 つい、と黒猫の視線が向く。尻尾の動きも若干落ち着く。

 場の空気が変わったことに興味を惹かれた少女も馬車から顔だけ出し、黒猫に釣られてやや怯えながらも男を見る。


「契約の完了を確認致しました。管理権限及び修繕機能の放棄が認められます」


「……誠か」


「アテクシ共は嘘が吐けません。ご存知の通り。お分かり?」


「………………」


「ご主人様の復活で御座いますよ。喜ばしい事では? 念の為確認させて頂きますと条件は【生前の縁と交わる事】で御座います。お忘れでは? 無いでしょうね、ええ」


 黒猫の尻尾は上向きに伸び、微妙にゆらゆらと揺れている。

 その顔はどこか遠くを見ているようで、実のところどこも見ていない。


「アテクシが申せるのはここまで。今後ともアテクシの回収サービスを御贔屓に」


 そう一方的に言い残し、男は出現時と同じように姿を掻き消した。ヌルッと。

 そして男と同時に全ての馬と馬車がヌルッと消えた。それはまるで異界の裂け目に飲み込まれたかのように、唐突に。

 突然身を隠す馬車がなくなった事に理解が追いつかない少女を尻目に黒猫はこれからの予定を考え直す。


(屋敷を管理する者が必要だ。御主人がお帰りになられるまで、いつまでも保ち続けなければならぬ)


 当然、猫の身ではそんなこと家事ができるはずもなく。

 残された少女へと目が向く。


 ――目と目が合った。


「貴様は奴隷であろう」


「……はい、です」


「しかし貴様の持ち主は死んだ」


 殺した、とは言わない。黒猫にとってはちょっと本気で遊んでやっただけで壊れる方が悪いのだから。

 少女は死という単語に身を固くするが、黒猫からは逃げられるはずもないので大人しく話を聞き続ける。


「そこでだ。我輩が貴様を拾ってやろう。丁度人手が入り用でな。屋敷を管理する必要がある」


「……痛いことはしないです?」


「貴様が自らの価値を示し続ける限り、我輩は貴様を守ろう。生きる権利を、働く義務を、尽くす名誉と誇る尊厳をくれてやろう」


 ちなみにここで断ると……別に今はどうもならなかったりする。

 黒猫は既に少女に危害を加えることはできないのだから。


 まぁ。嵐のように現れては消えていった悪魔がどう出るかはわからないが。

 いなくなったはずだが、いないとも限らないのが悪魔だ。ナマモノ好きなら尚更。


 それを感じ取ったのか、それとも野生の勘かはたまた女の勘か。少女は決断した。


「……私は、アナタの物になるです。精一杯ご奉仕させて頂きますご主人様」


「我輩を『御主人様』と呼ぶな」


 不愉快だ、と黒猫は表情を変えず吐き捨てる。


「では、なんと呼べばいいのですか」


「――Luneリュヌ。我輩の真名だ……が。普段はクロと呼べ」


「わかりましたのです……クロ様」


「貴様の名を。それをもってして契約は為す」




「私の名は――Tonnerトネ、です」











 クロと呼ばせる黒猫とトネと言う名の少女。

 この奇妙なコンビがこれからどうなるのか。

 何を為していくのか。


 魔王とは。魔女とは。魔法とは。


 それはこれから語られる物。


 それが物語。




 そんなお話。

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黒い月と鼠の雷 泉 燈歌 @SeNNT

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