二章 いまだ消えない寵姫のうわさ_1
ユーリアは歩くのがはやい方だ。
姿勢よく前を向き、大きい
ところがこの十日間、ヒンギスのいる大神殿と執務室のある城の
けっして仕事をサボろうとしているわけではないし、柱廊から見える庭園に
ユーリアはため息をつきたいのをこらえ、意を決して視線を下げた。
つむじだ。つむじがある。これがユーリアの行く手をさえぎる障害物。
「ユーリアお姉さま、お近づきになれてうれしいです!」
キラキラくねくねと、ひとりの神官少女がものすごい角度の
ちなみに姉ならともかく、妹が生まれた
「もう尊敬です! あの女好きと名高い
少女は興奮気味に
「あたし『風切の
先を急いで一歩を踏みだそうとするユーリアに、身をよじらせながらまとわりついてくる。
はじめはなんだコイツと思ったが、どうやら同じくツェルト・ウーリ族の出身らしい。『風切の鞍』は天剣峯のとなりの山にある、ツェルト族の集落のひとつだ。
出歩くたびに、こうしてツェルトの
「あのね、はげしい誤解があるんだけど、私はただの補佐官として……」
「あ、いいんですいいんです! わかります! そういう
「いや、それわかってないから」
「あっもう
きゃ~とわけのわからない
(でもなんとなく、ウワサが
ふたたび風をきって歩きだしながら、さりげなく周りに視線をめぐらせる。
寵姫(断じてデマ)のユーリアをみかけ、好意的な視線をおくってくる者の多くはツェルト・ウーリ族の出身者だ。彼らは身内から寵姫が選ばれたことでほくほく顔で、デマだなんてまるで聞く耳をもたない。
逆に敵意ある視線をはりつけてくるのは、主にガレ・ウーリ族という、おなじく氷竜山脈にくらす高地民族の出身者たちのようだった。彼らはツェルト族とひとつの泉をめぐり対立をつづけてきた民族だ。いまその泉は中立地帯になってはいるものの、ユーリアが寵姫となったことでツェルト族が幅をきかせ、とりきめを
(……ああもう最悪だわ)
トンデモなウワサを支えているのは、彼ら高地民族だ。まちがいない。
そもそも寵姫じゃない! と声を大にして言いたいが、というかすでに言っているのだが、だれもが
(だれか、私に的確な助言を!)
ユーリアは
どん、という
「あ、ごめんなさい! だいじょうぶ?」
「も、申しわけございませんでしたっっ!」
少女はすばやく立ちあがり、頭を下げる。
「ほ、ほんとうに、あの、申しわけございません……っ」
「だいじょうぶ。書類は
「お
「いや結構。それじゃ」
まだなにか言おうとする少女をおきざりにして、ユーリアは制服をしぼりながら先を急いだ。どうせかかったのはただのミルクだ。これが
ところが城の
「まだなにか?」
仕方がなく足を止めると、少女は
「これは、着替え?」
きれいにたたまれた、神官のローブだった。
「──で、それに着替えた、と?」
「ツヴィングリー
「べつに
名誉か不名誉かはそれぞれの価値観しだいだし、そういう問題ではない。
ユーリアは着席してからそっと足首を見おろし、うめいた。
ローブの
どうやら手の込んだことに、ミルクをぶっかけたあげくやたら小さい服に着替えさせるという二段構えの
おそらくは
「クク……それにしたって
「気づいたときにはもう、もとの制服は片づけられていたんです。自分の部屋に戻って着替えていたら時間のムダじゃないですか」
「ユーリア、時間ならだいじょうぶだから、着替えてきていいよ。それともメイドに持ってこさせようか?」
笑いをかみ殺すエルンストとはちがい、シモンはとりかかっていた文書から顔を上げ、心配そうにそう提案してくれた。さすが見ため王子さまは性格も紳士だ。
「ありがとうございます。でももういいので、昼まではこのままで」
正直言えば今すぐにでも着替えたいところだけれど、いまは時間が
ユーリアの執務机には、たまった書類が山積みになっているのだ。
経験のないユーリアがまずあたえられた仕事は、決裁の終わった公文書の
今日も急いで、けれど
書面の一字一句を確認し、サインをチェックし、場合によっては記録をのこし、あるいは
トレイがいっぱいになったら、城の関係先、あるいは書簡伝達係にそれを届けに行く。定刻には神官長ヒンギスのもとへ行き、彼が決裁した書類を受けとってこなければならない。
決してむずかしい仕事ではないけれど、それでもわからないところはいちいちシモンに
しかも、神官長ヒンギスの書類の決裁がやたらと速いのだ。受けとりに行くたびに、あの老人いったいいつ
もう、時間が足りないことこのうえない。服がダサいなどと言ってるヒマはなかった。
「ユーリア、あまり根を
「はい。ただこのあたりの束は昼までに……ん」
言いながら、文書をチェックしていたユーリアの表情が変わる。
(……これは)
ふたたび読みかえし、席を立つ。
書棚から、関連するいくつかの資料を取りだして記録を調べた。
「おや
「この、オーバーラント各地にある
「ああ、それはどうしようもない。その神殿の長になってるのはみんな、その周辺の有力者とか、あとは歴代の公のお気に入りになった一族とか、まあそういうのだから」
あっけらかんと言われて、ユーリアは
「ええと……。それだとつまり、税金から
「まあ、そういうことになるのかな?」
頭がくらりとする。
「……これは、
感情をこらえて、事実だけを述べる。
「そもそもこの
まくしたてるように言うと、エルンストは気だるげに肩をすくめて見せた。
「それらを改めたいなら、監査全員の首をすげ替えなくちゃいけない。きみにそれはできないよ。
「ヴァルディールさま、ですか…………」
こらえきれなくなり、ついにユーリアは机をたたいて立ち上がった。
「それは存じていますがね! その
鼻のつく勢いで詰めよられたエルンストはもとより、向かいの机で仕事をしていたシモンまでもが顔をあげ、姿勢を正す。
「たしか、補佐官は護衛や侍従につぐほどヴァルディールさまのおそばにいる時間が長いのだ、と説明をうけた気がするのですが!」
「やあ、それは事実だよ。顔を合わせないだけで、今日だってとなりの部屋にはいる」
エルンストはくいっと親指でとなりの部屋へとつづく内
「ずいぶんとお静かでいらっしゃいますが、読書でしょうか、執務でしょうか」
「それは、殿下のご自由なんじゃないかな?」
自由なわけあるか! と
「だいたいですね、決裁の終わった公文書のチェックをしている私のもとに、ヴァルディールさまのサインがされたものが一枚も届かないってどういうことなんです!」
どこをどうめくってみても出てくるのは、神官長ヒンギスが『城代』として代理決裁をしたもの、重要書類でないものでは、一部権限をあたえられたシモンがサインをしたもの、そればっかりだ。
ヴァルディールの名が書かれた書類は見かけていない。一枚も!
「もう限界です。公に直接お話を聞いていただきます!」
もともと
(なにが、補佐官となれば四六時中モンクたれ流せる、よ! 四六時中顔も見せないくせにどうやって!
じっさいにはモンクたれ流せるとは言われていないのだが、ユーリアはずんずんと書斎へつづく内扉の前へとつき進んだ。
「そこ、
エルンストの声を聞き流し、まず冷静にノックしてから声をかける。
「失礼いたします、ヴァルディールさま。お
「────臨時給付金? それはすでに決裁済みであろう」
すこしの間を置いてから、返事がかえってきたことにひとまず安心する。いちおう書斎までは来ていたようだ。どこかをほっつき歩いていたわけではないようで、それにはほっとした。
しかし扉を開ける気配はない。
「はい、たしかにヒンギス神官長が可のサインをしておいでです。しかし神殿への給付金の可否を神官長がなさるということもそうですし、それ以前に監査についている者が……」
「よい」
短い、けれど確固たる声に、ユーリアは
「必要なものということだ。理解せよ」
「必要? 使途不明金ですよ? まずここをお開けくださいませんか」
じっと、ヴァルディールが開けてくれるのを待つ。
しかし中から聞こえてきたのは、
「あの、ヴァルディールさま?」
どすどすと走りまわる重量級の足音、がしゃんと
(いやこれ……白狼とじゃれて遊んでいるようにしか思えないんですけど)
こうなったら力ずくでも開けて話を聞いてもらうしかない。よし、リンゴを
「ヴァルディールさま!」
いままさに扉を(鍵もろとも力まかせに)開けようとしていたユーリアは、今だ! と書類をにぎる手に力をこめて、はっとした。
ヴァルディールの顔色がひどく悪い。
「話はまたの機会にせよ。時間は後日とる。──エルンスト、少し歩く。供をせよ」
「はっ」
そのままふたりは
「お待ちください、ヴァルディールさまお加減が……」
呼び止めようとした、そのとき。
ぐらり、とヴァルディールがよろめいた。
「な……っ、ヴァ、ヴァルディールさまっ!」
エルンストに支えられた体は、そのまま糸を失ったあやつり人形のように力を失った。
「だれか、だれか医師を呼べ! はやく!」
ぐったりとしたヴァルディールを
あまりにもとつぜんのことに、ユーリアもシモンもなにが起きたのかわからず、ただぼう然とするばかりだった。
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