死霊術士、生を寿ぐ

 獺人ウィテルの庵は屋内まで野の侵食著しく、日のあたる壁面にはびっしりと木蔦が生い茂っているかと思えば、それ、振り返ってみれば垂れ下がった藤が暖簾カーテンの如く風に揺れ、潜るだけで森の中に踏み込めるようになっている。隙間風には森の湿り気を帯びた冷たいが紛れ込んで、いやはや真っ当な人間の棲処すまいとは思われぬ。これが獺人の流儀か、あるいは森の司の職掌に由来するものかは余人には知れたものではない。

 しかしながらそれがどちらであろうとも、薬湯を前に腕組みするカシオンには慰めとはならないことと思われた。


 一日で獣道ですらない山の中を往復し、そこから更に数名の村人を逆枝に送り届け、灰分けに帰ってくるまでで二日、都合三日の仕事から解放されたカシオンが何故この森の司の庵に放り込まれているかと言えば、ちょうど今このときに村長の家にて村人たちが寄り集まって、逃げるのどうのと押し問答をしているからだ。まったく、カシオンに言わせればそんなことは送り届けている往復のうちに終わらせておくべきだ。往復で二日となれば大体のところ、あと13、4回、一月弱も往復すればすっかり村から人が失せる計算だというのに。それで済むなら当初の予定から少し遅れる程度で片がつく。まあ連日の山道往復となればカシオンも一苦労、休みが挟まるのは歓迎だが、と言って先の見通しが立たないのであればただの足止めだ。


「お飲みよ」


 ごりごりと、何やら薬研で碾いていた獺人オトーが、ふと作業を止めたかと思うとそのやけに丸い目玉をカシオンへと投げかけた。獺人ならぬ身には年齢を幾年重ねたものとも知れないが、その声ばかりは老婆のごとく響くもの、つむじ曲がりの婆さんが何か気に食わぬところあって目と声にそれを明かしているものと思えば、然り。


「飲め」


 と、カシオンを後ろから突いたのはエアノールで、然様、カシオンが村長の家を追い出されるのであれば、似通った扱いのエアノールもまた同じ道をたどるのが道理。このエルフの野伏レンジャーは森の司を前にすると何か後ろめたさが先に立つものか、すっかり口数は少なく、山道を行く時の不敵さは鳴りを潜めている。これが渋い顔で器に入った薬湯を啜っているのを見れば、カシオンでなくともできれば御免被りたいと思うものだろう。カシオンは一声唸ると、堂々首を振って、それから器を見下ろした。手はじっと膝の上、触れもせぬとの意思表示。


「僕は遠慮しておこう」

「そうかい」


 凝ッと、ウィテルの眼差しがカシオンに注がれたが、これが怖い、なんと言っても獺の、獣の顔がそのまんまに人の大きさだ、毛艶のある顔の中で怪しく光る目が狙いすまして見える。しかしてカシオンは前言翻すもなく、うむと一つ頷くのみ。


「エルフ、飲んでも構わないよ」


 素っ気無い声に、エアノールが横目を向けて、無言のままカシオンの前にあった薬湯を口にするのは、果たして一体どんな心持ちか、半眼になったカシオンと視線は絡み、無為な時が流れるばかり。


 飲み干したエアノールが、そっとカシオンの前に器を滑らせると、ひとまず口ではもてなしの礼を述べ、しかしウィテルと同じ程度にはむっつりと、不満の色もあからさまな、いや、カシオンもなにも沢から汲んだばかりの清水を出せとの我儘もない。不満の内容は、恐らくウィテルにも同様気がかりな、即ち村人たちが村を出ることを良しとしないということだ。


「とりあえず礼は言っとこうかね」


 と、ウィテルの軋むような声がカシオンに先んじた。


「エマーんところの婆さんはね、元々身体が強くないところにここんところの不安でどうにも弱っちまってたんだ。ここを離れるにゃいい機会だったんだろう」


 述べ立てるのは先立って村を離れた一家について、ウィテルの言う通り、持病もあって外からの薬もろくに手に入らない状況を打開するためこの村を離れる決断をした、という次第。ウィテルの語る婆さんを山道歩かせるには難儀するかと思ったが、実際のところはエアノールの逞しい背中に負われ本人にとっては何やら楽しい体験だったらしいと、そう語ってはいたものの、ウィテルがどこか憂い顔を見せる程には、なるほどこの村に思い残すこともあったらしい。村を出るとは言え、遠縁の親族のところに向かうということで、懐かしい顔を見るのを楽しみにしていたのが幸いであろう。


 とは言え、カシオンにしてみればこんなことは礼を言われぬにも当たらぬと。


「もともとそういう依頼だろう。できればすべて終わってからその礼を聞きたいもんだが」

「こまっしゃくれたことを言うもんじゃないよ」


 ぴしゃりと躾けるように応じると、ウィテルは柔らかな毛で覆われた手で頬を撫で撫で、毛並みを整えながらいかにも呆れた風に嘆息してみせる。


「しかしだ、森の司殿。いついなくなるとも知れないワイヴァーンの退去を待って村に引きこもって何になる? 今のところは良いが、下手をすればこの村を見つけ出して襲ってくるかも知れない。僕が見たところではワイヴァーン相手に一働きできるのはあんたと村長がせいぜいで、他は尾の針でも喰らえばお陀仏だ。いや、ちょっと待てよ。あれは本当に耐えかねる。僕も危うく命を落とすところだった」


 思わず腹を撫で擦るのは、濁濁と流し込まれた赤い液体の、その感触が思い出されたからにほかなるまい。すうと背筋も冷えたものか小さく身震い、如何に不遜の死霊術士と言えども分はわきまえているらしい。


「ともかく、エマーさんだったかな、あの一家と同じだ。彼らは薬が得られないからここを離れることにした。今は良いだろうが、じきにあれこれ足りなくなるぞ。あんたは……まあ、あんたみたいなのは森があれば十分だろうが」

「若いねぇ。本当にそうならあたしはここにゃいやしないよ。エルフ、あんたなら分かるだろ」

「……ああ」


 何やら二人、種族は違うながらもともに野を本地とするもの、無言のうちに通じるものがあるのか、エアノールも言葉少なに頷いた。

 知らぬところで何やら分かり合っている風情に、カシオンは拗ねたように頬杖をついて、左手をひらひら躍らせる。


「それなら余計にだ。ここを離れる必要があるというのは分かるだろう」

「分からない子だね。必要が全部じゃないんだよ。捨てがたい理由だってあるんだ」

「確かに……いかにするべきか、答えが目の前に見えているように思われても、そうできないこともある」


 おいおい、とカシオンは眉間に谷をひとつ。


「二人がかりか。いいとも、いいとも。僕には正直一辺倒くらいしか無い、精々自明のことを語らせていただこう。ここで死ぬか、それとも他で生きるかだ。簡単なことだろう? この辺りを苦労して拓きなおして、自分のものを手に入れたんだ、捨てがたい気持ちは分かるとも」


 誰が聞いても虚言そらごとと断じるだろう、少しばかり大仰に同意を示し、しみじみと頷いた。


「だが、ここに留まって何になる? なるほど、森荒らしのエルフやら怪しげな魔法使いとやらがいなくなればそのうち全部解決するって? あるいは、もしかしたらそうかもしれない。だがそんなものは死から目を背けているだけだ」


 滔々語るカシオンは冷めた目を二人へと向け、それから駄目押しの如くに述べ立てた。


「何もせずに死ぬくらいなら生きる道を選ぶべきだ。言うまでもないが。生きてこそだとも」


 まさか死霊術士の口から出るとも思えぬ一言だ。如何な金言も、およそどこから流れ出したものかで眉に唾つけて見なければならぬもの、野に生きる二人、揃ってわけの分からぬ碑文を読むがごとく。


「なんだい、何か言いたいことでも?」


 カシオンは悪びれる風もなく、言葉を求めるように獺人に掌を上向け、エルフに首を傾げてみせる。無論、聞かされた二人は言いたいことがあるどころではない、とは言え、カシオンの語ることには一理とてなしと言うわけでもない。ウィテルはふかふかとした指で目元を揉んで、立ち上がって腰を伸ばした。


「死霊術士の坊や、あんたの言う通りだよ。生きてこそさ。だけど積み上げてきたものが目の前にあるとね、道なんて見えなくなるもんさ」


 それに、と声を潜めるのに、カシオンたちは耳をそばだてた。


「いなくなった連中もいるんだ。その分ここにいなきゃならないやつもいるんだよ」


 ささやくようなその声に、悲哀の色も、この森の司の重ねた年輪に押し隠されてはいたものの、しかし聞くものが聴けばそれと分かろう。それが証拠にエアノールなどは、何やら悟ってわずかうつむく風ながら、カシオンは弾かれたように勢い込んで。


「それこそだ。もうここにいない人間に義理立てて死ぬのが正しいなんてどうかしてるにも程がある。大事なのは今ここにいる村人がどうするかだろう。今、この村にいない者に気兼ねする理由がどこにある」


 馬鹿馬鹿しいとまでは言わなかっただけ理性かあるいはカシオンの情を称賛すべきところ、とは言え、目の前で言われた方にその都合は通らない。

 ウィテルの、カシオンの胸元あたりにある顔に険しいものが浮かんだと思うと、伸びた腕はその短さに反して力強く、襟首掴んだかと思うとカシオンの腰から曲がり、鼻先突き合って目の高さも同じときている。


「あんたの好きな死人の話だよ坊や! この村だってねえ、切り開いてからこっち安穏と暮らしてるわけじゃないんだよ。連中のことを慮ればこの村を捨てがたいと思うのは分かるだろ」

「なら余計に分からないな。死人の情など伺ってどうする。まったく同じ話じゃないか。意味もなく死者の思惑なんかを推し量って、それでずるずる逃げ場をなくしてこの村の中で死んでいこうなんて、まさか霊媒紛いのイカサマ死霊術士バインダーだってそんなことは言わないぞ」


 目を怒らせて、即ちこの死霊術士にとって、何やら断固として肯うことのできぬ流儀の話らしい。


「死者に振り回されるだけ愚かだと言わなければ分からないものかな。死者の心情とやらに価値なんてあるものか!」

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