死霊術士、跳ぶ
飛来するのは先ほどと負けず劣らずの愚かさと凶暴さをその顎と目と口の端から垂れる涎で誇示する三頭の飛竜。我先にと
気付くに遅れた三人も、咄嗟に応戦の構えを向ける。
「近過ぎる」
とカシオンが漏らしたのは、今しも先頭を行くワイヴァーンがアネットまで一息の距離に詰めていたからだ。この距離ではちょっとやそっとでは誤魔化せぬ。ワイヴァーンは翼に任せるまま突っ込んで当たるを幸い大暴れするだろう。果敢にも弓を構えたアネットは素早く二射放ちながら一歩飛びすさり、突っ込んできたワイヴァーンに槍を向ける。見事な手練れ、戦闘者としては申し分ないその動きも、しかし一頭を止めたところで残る二頭の脅威を減じるには至らない。剣呑な牙が槍の穂先に食いついて火花を散らす間に、なまじの
「厄介な!」
カシオン、口をついたその言葉に続けて秘言を綴り、お得意の《恐怖喚起》を紡ぎ出す。
アネットを襲う飛竜達は猛々しくも、その動きは精彩を欠いている。先の飛竜と同じだ、カシオンの与える恐怖に囚われて翼のもたらす自由闊達な動きなど何の意味も無い。だがもう一頭だけは訳が違う。自在な移動は鋭く天地を行き来して、地を這う他ない三人を掠め飛ぶ。二頭の手綱を取ってこの地上に縛り付けるのは良いが、それを手放せない以上空のワイヴァーンを新たに拘束するのも難しい。縦横無尽に空を飛ぶ獣を相手取ろうにも、しかし二頭が前に立つアネットを啄むのを無視できない。たとえ怯えがその身を鈍らせていたとしても、そも図体が違う以上うかうか一撃受ければ致命傷になり得るところ。
「やはり多いな、三体は」
困難どころではない、致命的な脅威である。盾を構えたフェリアがアネットを襲う毒針を払いのけても、そこにワイヴァーンの尾は二本ある。もう一本がしなったかと思えば牙が唸り、爪が閃き、怒濤の如きワイヴァーン達の攻め手は数撃てば当たるの典型で、真綿で首を絞めるように二人の余裕を奪っている。
「逃げるべきだ」
「できない」
短く返るその声の合間に、カシオンは空を舞うワイヴァーンに影の領域から取り出した冷気を投げ掛けたが、その旺盛な生命力がなまじの呪文を撥ね除ける。舌打って、カシオンはワイヴァーンの軌跡を追った。
「背を向ければ――」
理由らしきものを続けるアネットに、カシオンも理解せずにはいられない。背を向ければその隙を突かれる、上からも襲われよう。足を止めればただ無防備に後ろを晒しただけになる。もう少し、いっそ劇的な何かが必要だった。少なくとも足を止めての殴り合いは、今逃げ出すには中々不向き。
カシオンの口元が歪んだ。投げ掛けた《目潰し》の
蛮竜め様を見ろとカシオン会心の笑みを漏らしたのが過ちか、それとも飛竜を甘く見たか。牙に貫かれるのを止めたところでその巨体が迫るのを押しとどめることなどできるものではない。勢い余ってカシオンの背が地に着いた――結印したその手は次なる呪文の下準備、逃げ道の一つや二つ学派魔術師のならいと、その筈が。
強く圧し潰される感覚にカシオンは苦しく息を吐いた。亜竜の鋭い爪が枷となって、重たい脚がカシオンを抑え込んでいた。となればどうなるかは一目瞭然、カシオン冷や汗の流れるままに天を遮るものに目を向けた。荒い息と獣臭さを吹き出すワイヴァーンの、その目が一度カシオンを覗き込んだ、ここまでで一刹那。
地を離れる感覚に、内臓をかき混ぜられたような錯覚すら覚えてカシオンの声に苦悶が混じる。ぎりぎりと締め付ける飛竜の爪の痛み、これは紛れもなく愛用のコートも酷いことになっているだろう。なるほど頭が良い、と半ば他人事めいて感心したのは紛れもなく五分の逃避、この時カシオンはワイヴァーンの足に吊るされて宙にある。思いもがけぬ空中旅行、などと冗談ではない。逆さまになった視界、見る間にフェリアの赤髪が遠ざかる。思わず己の頬の引きつるを感じて、カシオンの目が祈るようにワイヴァーンに向けられた。高いところから投げ落とそうというのならまだ術はある。しかしこのワイヴァーンがうまうまと、逃れられない上空でカシオンを料理しようというのなら。
身体を揺すれど亜竜の爪は堅くカシオンを抱きしめ、辛うじて右腕を引き抜けた程度で左手は胴と蜜月だし、足をばたつかせたところで何になろう、野鳥に啄まれた地虫と大差ない。
その身動ぎが障ったか、ワイヴァーンの尾がぴしりと空を叩く音がカシオンの耳にも届いた。身体を必死に起こしても見えぬワイヴァーンの脚の向こうで、ああ動く気配紛れもなく毒針を先端に宿した極悪至極の凶器に他なるまい。
「それだけは勘弁し……ッ!」
それ以上言わせまいと言うわけでもなかろうが、カシオンの言葉が終わるより早く、尾針が脇腹からカシオンを襲った。咄嗟に歯も割れよとばかりに噛みしめて、カシオンの決死の形相、走る激痛はなまじのことではない。
魂消る絶叫をあげずに済んだと考えたはカシオンばかりのことで、その実食いしばった口から獣のごとき唸り声、理由を察すれば聴くものみな怖気を振るうに違いない耐ええぬ痛みが奔らせるもの。
哀れな犠牲者の脇腹に深々と突き刺さった尾の針はそのまま濁々と薄赤い体液を流し込む、その一滴一滴苦しみを生んで声を一際高めさせ、遂には己の鼓動までもがはっきりと、カシオンの全身に苦痛を伝えるためのものと化した。一事が万事己のことだ。他に気を向ける余力も無く、地上のワイヴァーン達を押さえる軛も解けて消えた。
咄嗟に懐から引っ張り出した刃を自らの心の臓に突き立てなかったのはわずかの自制の働いたから、遠ざかりゆく大地を頭上に確かめて、カシオンの手は渾身の力もてワイヴァーンの腱に深々短剣を突き刺した。と言って心臓にやっつけたわけではない。しかし確かに一撃、いかな亜竜にふさわしい屈強の肉体であろうとも、カシオンを鷲掴んだその爪はわずかに緩んだ。絶叫一つ、満腔の力を振り絞り、カシオンは暴れに暴れた。いや獣と虚弱な魔術師と、本来であれば比べようもあるまいが今はカシオンの突き立てた刃が役に立った。ふわりと浮いた心持ち、カシオンはコートを翻して空へと躍り出た。
落ちかかるに任せたカシオンの、これが魔術師の面目躍如。苦痛に浮かされて脂汗を滴らせ、振り絞るように秘言を口走る。途端カシオンは星幽界に繋がりを伸ばして己を一個のいのちの流れへと変え、エーテルの海を潜り抜け、再び物質界にカシオンとなって姿を現した時には大地の上を転がり回って必死の形相、荒い息であるだけまだ生きていると言うもの。
「い、ぐぐぐ、ぎッ!」
痛いの苦しいの死にそうだの、巡る思考のままカシオンカッと目を見開いて、空の上では例の飛竜殿、脚を強か刺されたその怒りに目を爛々と、ともあれ消え去った餌がどこにあるか、すぐには気付きもしていないよう。
このまま寝転がっていればもう一度空の旅が待っているのは疑いない。
「カシオン!」
フェリアの叫びに目を開けて、悟るのは飛竜は既に三頭が三頭とも空を舞っていることだ。カシオンの軛から逃れて、報復のつもりで落ちるカシオンを横合いから掻っ攫うつもりだったのか。生憎様にカシオンの術は見事それをすり抜けた。すうと深く息を吸って、ああもう耐えられぬ、カシオンは意識を保つために舌を動かした。
「……ッ。今し方の術は所謂ところの《霧隠れ》で世界の異なるううう層を通り抜ける事によって望んだ通りの場所に自らの身を置くう低位の転移術だ落下にも対応できるかどうかは今ひとつ確信がなかったいや僅かな高低差はどうにかあああ出来ると知っていたもののあの高さから落ちながら試すなんてフェリア、輝く者の怒りを! 連中が降りてくる前に」
己に手を差し出したまま、痛み混じりに滔々垂れ流す蘊蓄に目を白黒させていたフェリアに向けて、カシオンは叫んだ。癒しのなんのと今はそんなことを言っている余裕はない――少なくともそんなことをしていては、次に三頭襲って来た際にもう一度高みに連れられて、生憎今度は帰ってこられるかどうか。カシオンは芋虫の如くのたうった。
天を仰いで聖句を
「生あるものは畏れよ、輝く者の怒りは我らを焼く」
「伏せろ!」
カシオンの言が飛ぶに前後して、輝く者の愛子の口早の朗誦が結句する。高々掲げた盾に刻まれた聖印が神の奇跡に煌めいた。輝きは自ずから天へと昇り、寸刻の内に陽光を模して、模して、その昂りは今や張り裂けそうな程に湛えられている。
「受けよ《
宙にある飛竜達に向けて奔った球光は、その鼻先に至った瞬間に白く炸裂した。膨れ上がる神気を帯びた輝きが爆炎となってワイヴァーン達を呑み込んだ。震える大気に聾されて、カシオンの口は自らにも聞こえぬながら滔々と。
「あれは輝く者の信徒のうちでも陽光の輝きを称揚するううう優れた神官の扱う呪文で《輝く者の怒り》と呼ばれているがその呪文学的働きはほぼ我々があああ扱うところの《爆破》と同工異曲その効力の起源がどこにあるかが異なるという程度の機序のよし聞こえてきたアネット霧をこの場合の霧というのはあなたの呪文書に記されていたあれだこれで連中が落ちてくれれば幸いだが生憎そうは行かないようだし逃げてくれれば嬉しいが痛みや恐れで逃げを打ってはくれないようにも」
「承知した」
爆炎の残した煙が未だ消えぬうち、この見習い術士は短く小さく息を吐き、エルフ語の呪句を舌に載せてみせた。空では爆発に巻き込まれたワイヴァーン達が混乱しながらも、必死にその態勢を維持しようと翼を忙しなく羽撃かせ、苦悶の声を上げている。呪句の残響の響くにつれて、辺りは白く、白く、深い霧が立ち籠める。《迷い霧》のこの呪文は、一吋先すら見通せぬほどの、まとわりつくような霧で辺りを覆い隠す。
「すまない司祭殿こちらへ見えるうちに触れてくれついででででなんでもいいから痛みをどうにかしてくれ死ぬ死んでしまうあああアネット手をほとんど見えなくなってきたがこれは僕の目がいけなくなったのではなくて霧のせいだと言って頂きたいこれ以上は不味いよし触れた!」
「少し静かに!」
カシオンの死力を尽くした呪句を絞り出すとほぼ同じくして、フェリアの祈りが癒しの力をカシオンへと流し込む。霧の中、仄かな柔らかい光だけがそれを証立てた。
天にあって地を睥睨する飛竜達も、その身を包んだ爆炎の晴れた下を見れば雲海の如き霧に満たされている。とは言え獲物の声は霧の内から響いたし、この好天の下いつまでも霧が立ち残る訳も無い。焼かれた痛みがその蛮性を刺激したか、耳障りなその声にも敵意と怒りが著しい。苛立ち混じりに我武者羅空を征き、屈強な肉体を矢のように霧を貫いた。それが二度三度と繰り返すうち、当然のごと地を這う三人を護るものは消えていく。厭らしい嘲り混じりの咆哮をあげ、悠々霧上に円を描いて飛竜三頭待ち構え、霧が晴れれば饗宴と洒落込もうと企んでいる。
最後に音立てて風が吹き、ひとかたまりとなっていた霧も溶けて消え、あたりはすっかりと見通しの良さを取り戻した。しかし飛竜は飛びかからない。いや、何も獲物に最後の猶予をやろうというのではない。ワイヴァーンのその鋭い目を以てして、カシオン達三人の姿を見いだせないでいるだけだ。眼下に三人の姿無く、しかし霧から飛び出す姿があれば飛竜の目が見逃すはずはない。困惑と警戒を交えた鳴き声を交わし、疑うような目付きで辺りを見回した。
しかし動くものと言えばそよと吹く風に揺らされる草木のみ。動かぬものにも人の姿無く、しばし旋回し、目を凝らして探したとて何も見つからない。先のカシオンの、爪をすり抜けて逃げた姿を覚えているものか、ついには探すのに飽いて、どこか遠くに目を向けると、ふいと向きを変えて三頭倣って離れていく。
ワイヴァーンが遠ざかると、辺りは先ほどまで争いあったとは思えないほどの長閑さで、陽光燦々と辺りを暖めるばかり。
飛び去ったワイヴァーンがすっかり見えなくなった頃、何もないそこにカシオンの声がする。
「ああ……連中が目に頼ってくれていて助かった」
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