04.一つ目の壁
IDカード、PDA、そして銀弾機関謹製のコート。無機質なロッカーからそれを取り出して、感極まったルーキーは小さく呻いた。ロッカールームに誰もいなかったのは幸いだろう。隠しきれず満面に溢れたにやけ顔でコートを抱きしめる様は見られずにすんだ。
IDカードを首に掛け、おずおずとコートの袖に手を通し、PDAをコートに収める。胸元で揺れるIDには紛れもないルーキーの顔がプリントされ、ルーキーが銀弾機関の一員であることを誇示している。数秒ばかり写真の自分をじっと見つめ、じわじわとこみ上げる火照りから逃れるように手を泳がせた。
今朝の光景がリフレインする。雨中でのサムライとの立会だ。あの最中に車中に取り残された人達を少しでも安堵させられただろうか。最初のシルバーバレットの如く。銀弾機関の如く。そうであればこれ以上の喜びはない。そして今、ルーキーは紛れも無く銀弾機関なのだ。
「よし!」
気合一声、ルーキーはロッカーのドアを音立てて閉める。無機質な機械音が鍵の掛かったことを伝えると、ルーキーはその扉を見た。扉の中央に据えられた、未だ名前の入っていないプレートを。今に――今に自分をそこに刻み込む。
翻って見る周囲のロッカーにはそれぞれに多種多様の感情を伺わせる字で持ち主のコードネームが刻まれている。例えば不知火、例えばザントマン、例えばシャード、例えばプライム、霹靂火、ナグパ、ボンド、ボーマン、杞憂。聞いたことのある名もあればそうではない名もあった。
シルバーバレットの名、英雄の名だ。それを追っていたルーキーの視線が一点でぴたりと止まる。フューリアス。相棒となったシルバーバレットの名の上で。期待と気合に満ちたその顔に、小さく影が差した。
◆◆◆
ロッカールームを出ると、腕時計に目を落とすプライムの姿があった。
「すみません、お待たせしました」
慌てて頭を下げる。構わないと言う言葉を受けて、そのままほっと安堵の息を吐く。そっと確認した時計は入った時から五分ほど経っており、少しばかり、そう少しばかり長居しすぎたらしいことに気がついた。そうさせたルーキー自身の舞い上がりをなんとか心の深いところに押し込めて深呼吸。
そして顔を上げる段になって、ようやく目の前にいる人物に意識が向いた。プライム。銀弾機関のプライム。銀弾機関の英雄の一人だ。知っている名前、どころではない。幾多の難事件を打ち破る活躍を見せ、メディアへの露出も多い銀弾機関の顔の一人。
他のシルバーバレットの存在もあった会話の場ではそれほど気にはならなかったし、ここへの移動はフューリアスが気がかりだった。だが今になって気付けば憧れる英雄と二人きりだと言う事実に、ルーキーは俯いたまま顔を朱に染めた。
「あ、あのあの……プライムさん、よろしくお願いします!」
勢い良く顔を上げ、ルーキーは勢い込んでそう言った。前のめりになった様子に、プライムがふむと頷く。その所作を見るだけで笑顔が広がっていくのに気付いたが、ルーキーにはどうにも出来ない。
「インタビュー記事とか全部見てます。三ヶ月前の巨大植物が空港で発生した事件とか、実は私もそこにいて……」
言いたいことが多すぎて、ルーキーは顔を上気させてあたふたする。ああどうしようと口にして、どうしようもこうしようも無いまま助けを求めるように周囲を伺う。生憎、ここにいるのはルーキーとプライムだけなのだが。
ルーキーをひとしきり眺めて、プライムはなるほどと合点する。
「ルーキー、君は憧れて入った口か」
その一言にルーキーはギクリと震えた。バツの悪そうな顔をして、おずおずとプライムを見る。とは言え、プライムは相変わらずの鉄面皮。怜悧な声も相まって聴くものに問い詰められているような錯覚を抱かせるが、しかしそれ以上のことは何も教えてくれない。
行こうと促され、ルーキーは半ば荷台に載せられた子牛の心持ちでプライムの後を追い始めた。おっかなびっくり、プライムがどんなつもりかも分からない分その動きはどこかぎこちなく、プライムを伺うようになるのも仕方のないことだろう。
「そう固くなるな、ルーキー。自分は何も批判めいたことを言いたいわけではない」
指摘を受け、ルーキーは更に僅かな間申し訳無さに震え、やっとのことではいと一言返事を返した。
「そもそも自分の知る限り、銀弾機関の門戸を叩く理由で一番多いのがそれだ。次が危険手当目当て。少なくともルーキー、君のそれは恥じるようなものではない」
それを聞いてルーキーは困惑と納得の入り混じった奇妙な顔になった。恥じるようなものではないと言われて安心はしたが、それを口にした当のプライムが特殊な事情でやむなく銀弾機関に所属したという旨の記事を読んだことがあるからだ。
「できれば君の話を聞きたい。自分のように時代錯誤な人間は、そうでもないと取り残されてしまうからな」
足を止め、プライムは振り返る。ルーキーが慌てて駆け足になり並ぶと、一度頷き歩調を合わせて再び歩き出した。
横から覗いたプライムの表情は、それでも結局ルーキーには読めない。それでもその顔を見ることが出来ただけで、少しは安心した。更に一息、未だ上気した顔を冷ましてルーキーは口を開く。
「あの、憧れっていうのも本当なんですが、それだけでもなくて。自分の技能を活かすことができるのはここかなと……誰かのために使えるなら、その方が良いですし!」
「なるほど、なんでもできるのだったな」
プライムの応答に、ルーキーは恥ずかしげに身を捩る。それ相応の自負はあるが、なんでもできるというのは大言壮語だ。その上いくら複数のタスクを修めたと言っても、その分野において達人には一歩も二歩も譲ることになる。
「日常においては身につけた技能に意味を持たせるというのは難しいか。出来たとしても余さずとはいくまい。あたら腕前を錆びつかせる気にはならんか」
そうですね、とルーキーは頷いた。平穏の中ですべての分野に触れ続けるのは難しい。それでは身につけた意味も無い。かと言って、技を実践できるならどこでも良いというわけではない。
「身につけた技術を、銀弾機関で振るいたかったんです」
僅かな間を置いて、プライムはなるほどと呟いた。
「その機会はすぐに訪れるだろう。だが、そうか」
合点したらしきプライムに、ルーキーはどうしましたと声を掛ける。いつの間にか、雨音が外から届いていた。
「いや、存分に技を振るいたいのであれば」
プライムの視線が、ついと前へと向けられる。ルーキーもまたそれを追う。玄関は既に間近にあった。
その更に向こう、雨の中に一台の車が待ち受けていた。雨に濡れた窓越しに不機嫌な顔が見て取れる。
「君の一つ目の壁は、彼だろうな」
◆◆◆
車中に言葉は無かった。
わずかでも音があったと言えるのは走り出してすぐ、フューリアスがカーラジオをつけた時程度。そのラジオも、元ヒーローの知事当選、羽化登仙エステ、アマルガムサイバーウェアの新商品の宣伝と続いたあたりで舌打ちとともにオフにされた。
それ以降、険しい顔のフューリアスは運転に集中していると言う体でルーキーに何も告げず、ルーキーもまたそんなフューリアスに言葉を向けない。それも無理は無いだろう。プライムに壁と明言され、かつ負の感情をぶつけてきたフューリアスはルーキーにとって腫れ物のようなものだ。
ルーキーはそっとミラーを覗きこむ。頼りのプライムは後部座席で腕組みし、あたかも二人に合わせるかのように心情を伺わせない顔で沈黙を保つばかり。
静寂の時間もルーキーの心情を解決してくれない。隣にいるフューリアスに一体どう振る舞えばいいのだろう。指導役なのは理解しているが、それでも打ち解けるのは容易ではない。何も解決出来ないまま、しばらく車は走り続けた。
ようやく沈黙が破られたのは、フューリアスがハンドルを切って小さな駐車場に入ろうとした時だった。
「ルーキー」
フューリアスの声は、低く重い。返事はせずただフューリアスを振り返る。ほんの一瞬、フューリアスの目がルーキーを捉えた。前を向き直ったフューリアスは一拍置き溜息を付く。
「ルーキー。そのコートは置いていけ」
「……はい?」
その言葉に視線を落とす。ルーキーの身につけているコートはと言えば銀弾機関のコートのみ。ようやく手にした銀弾機関の証を置いて行けと言われたルーキーは困惑、そして音を立ててフューリアスに振り返る。
「何故ですか」
問う声は警戒混じりの鋭さを帯びていた。
サイドブレーキを引いて、フューリアスの指先がハンドルを叩く。
「面倒事を呼びこむからだ。お前みたいな半人前なら確実にな」
つまらないことを聞くな、と態度が能弁に語っている。半人前、と呟いてルーキーの顔が険しくなった。
「なんですか、私が足手まといになるって言うんですか」
「ならないつもりか?」
なりません、とルーキーは断言した。
「私の実力は見たでしょう! そうそう遅れは取りません!」
返ってきたのは嘲笑だ。フューリアスは心底呆れたと言いたげに肩をすくめ、プライムを振り返って盛大に溜息を吐いて見せた。
「ぶん殴りゃあなんでも思い通りか。そうなりゃ結構だがな」
「ち、違います!」
「違わないさルーキー。お前らはいつもそうだからな。力をひけらかせばなんだってできるつもりでいる。王様気取りか? 笑わせるなよ」
辛辣な言葉を投げかけられて、ルーキーはしばしたじろいだ。それでもなお、フューリアスは更に続けようとする。彼が苛立たしげにハンドルを叩いた時、フューリアス、とプライムが呼びかけた。
「今日は余程機嫌が悪いようだが、フューリアス。できればルーキーに君の主張の理由を説明してくれないか。勿論君の個人的性向の話ではなく」
ルーキーはミラーを覗きこんだ。ようやく口を開いたプライムは、しかし何を考えているのか窺い知ることは出来ない。
フューリアスは数秒口を閉ざし、最後に舌打ちをしてルーキーを見た。
「銀弾機関のコートは悪目立ちする。お前みたいな半人前がそれを着て歩けばなルーキー、どんな馬鹿が絡んでくるかも知れたもんじゃない。力尽くで追い返してもいいがそんなことに一々かかずらう余裕があるか? それだけじゃない。比較的マトモな奴でだ、街中で暴れてる銀弾機関に関わりたいって奴がどれだけいるか」
怒涛のように言い切って、フューリアスは腕を組む。分かったかと言われ頷くが、ルーキーにはどこか釈然としないものが残る。勿論、フューリアスの言にある程度の理はあるのだが。
「ですが、だからと言ってコートを手放すわけには。置いて行ってしまえばいざという時に困りますし、この車の中に置いていくのも……」
いつ何があるか分からない、というのは事実だ。その時にコートが必要になる、というのも。渋い顔をしたフューリアスに、ルーキーはコートを開いて中を見せる。鞄の一つも持ってきていないルーキーにとって、収納はジャケットの裏に各種ポケット、更に腰のユーティリティベルトがある程度。いずれもコートを収めるには小さすぎ、まったく見えないようにするというのはいかにも困難だ。
「……分かった。置いていけってのは無しにしよう」
よし、と小さくガッツポーズを取る。それを見届けて、ただしとフューリアスは言葉を繋いだ。
「お前がそいつを見せびらかさずに我慢できるならだ」
ほらたためたためと煽り立て背負う紋様が隠れるようにたたむ手真似をするフューリアスから目を背け、ルーキーは一人コートを畳んだ。我慢できるなら、という馬鹿にした言葉への苛立ちは我慢して、それを袖にかける。
鼻を鳴らし、ひとまず満足したらしいフューリアスはそのままミラーの中に映るプライムへと目を向けた。
「それで、プライム。そろそろこっちについてきた理由を伺っても構わないかな? ルーキーに脱げと言った手前、騒動上等のアンタがいると気まずいってどころじゃないんだが」
フューリアスの軽口を軽く受け流し、至って真面目な顔のプライムは無論と返す。
「君一人ではルーキーと友好的な関係を築けないだろうと判断した。先ほどの助言はまさに当を得た援護だと思うが」
当然のことをしたまでである、というその態度にフューリアスは頭を抱えた。
「俺はそんなにアテに出来ないってか」
「事実だろう」
そう口にして、プライムは首を縦に振る。表情こそ変わらないものの、ようやくルーキーにもプライムの心情がかいま見えたような気がした。つまり、彼女は満足気に頷いたのだ。
それに気付いたのか否か。小さく呻いたフューリアスは俯いたまま気を取り直すように口を開く。
「……いいから出ろ、お嬢さんがた。少し歩くぞ」
たたんだコートを肩に掛け、フューリアスは雨空を見上げて溜息を吐いた。
◆◆◆
ブレイン・ハンターの犯行現場と目される場所を三ヶ所巡り、一通りの状況確認を終えた頃には十二時が迫っていた。
昼食がてら三人が訪れたコーヒーショップは昼前というのもあってまだ人は少ないものの、それでも賑やかになりはじめている。注文を終えて、コートを椅子に掛けたフューリアスは背を伸ばした。
「収穫は無しか。ま、こんなもんだろうな」
侮る言葉に憤る心を、ルーキーはなんとか押さえ込んだ。騒いで無駄に注目を集めるつもりはない。
「すみませんね、何も気付かなくて」
出来る限り静かに、けれど恨みがましく口にする。その言葉を受け取って、フューリアスは小さな嘲笑を返した。
「お前一人が僅かな時間で見つけられるようなものも探せないようじゃな、ルーキー。シルバーバレットはとんだ無能揃いだろうが」
調子に乗るなと告げるフューリアスから目を逸らしてプライムに援護を求めるが、返ってきたのは無言の首肯。無論、フューリアスに対するものだ。確かに現場は少し前のもので、銀弾機関が総掛かりでも自分に劣るなどと自惚れることは出来ない。うなだれ、手持ち無沙汰にPDAの中の事件資料を探す。
「……そうですか」
なら連れて行かずとも、と口にするのはやめておいた。少なくとも嫌がらせで連れて行ったわけではないのだろう。プライムの姿あればこそそう思うこともできる。プライムがまったく無駄なことに個人の悪意で付き合わされ、ただ唯々諾々と受け入れるとは思えない。そう結論付けて、更にPDAのディスプレイをスクロールする。フューリアスが何も言わずに見ているのには気付いていた。
「お待たせしました」
ウェイトレスが告げて、会話の止まったテーブルに注文したものが届けられる。ウェイトレスへの応対のあとは再び無言が場を支配した。
フューリアスはコーヒーを啜りながらルーキーへと時折視線を投げかけ、ルーキーはPDAを覗き込みながらワッフルを齧る。我関せずと言った風なプライムはカップに立て続けに四つほど角砂糖を投げ込んで、静かにかき混ぜていた。
店内のざわめきがテーブルを覆いかけたころ、カップの底がテーブルを叩く音が響いた。ようやく目線を上げたルーキーは残ったワッフルの一欠片を口の中に押し込んで、そういえばと口にする。
「ブレイン・ハンターの目的は分かってるんですか?」
「いいや、まだだ」
速やかな返答に少し驚き、ルーキーは手早く紙ナプキンで口元を拭った。
「まだって、全然?」
「こいつは外の連中が知ってる通りだ。俺達がブレイン・ハンターについて掴めている情報は少ない」
フューリアスの言葉に、ただし、といつの間にかカップを空けていたプライムが口を挟む。
「いくつか憶測は存在する」
その言葉に、一瞬フューリアスが渋い顔を向ける。無論プライムがそれで動じるわけもない。唇を引き結んで更に数秒沈黙し、溜息と共にルーキーを見やった。
「聞くか?」
「え? え、ええ」
問いかける理由も分からない答えの決まった質問に、ルーキーは頷く他無い。そうかと頷いたフューリアスは肘をついた手を口元にやって、束の間目を閉じた。
「愉快犯、行為そのものが目的である、捕食目的あるいは頭部を何かに利用しようとしている、それとも首を切り落とすことに儀式的な意味があるか……当初は怨恨もあったがそいつは切った。俺が覚えている範囲じゃそんなところだ」
言い切り、伺うような目をルーキーに向ける。その言葉を反芻して、ルーキーは思考を巡らせた。
怨恨の線を切ったというのは理解しやすい。既に十件を越えたブレイン・ハンターによる事件において、被害者の関係性が密接なもので無ければ怨恨とは考えにくいだろう。
捕食目的と言うのは非人間性を持つ存在を想定したものだろう。それも理解できる。しかし。
「殺人自体が目的というのは、それは実質的に何も分かっていないのと同じことなのでは……」
「憶測だ。外の連中の与太話程度に考えてアテにはするな」
腕組み、フューリアスは顔を背ける。
「ええと、頭部を何かに利用するというのは」
「まずはカルト系……に限らんが、生首を集めて儀式をやらかすパターンだ。この場合身体を残してるのは意図的な可能性もある」
「それに関しては該当するようなグループの存在は確認されなかった」
そっとプライムが言い添え、フューリアスが頷いて肯定を示す。前者のパターンであればむしろ調査は容易かもしれない。
「まずはと言いましたけど、他にも?」
「ああ、研究やら開発やらで脳髄を使うってパターンだな。非合法の実験をしてるって噂のある企業はそう珍しくもない。そういう連中が何かやってるんじゃないか、ってな」
「聞いたことはありますね」
倫理よりも実利を優先する大企業が非合法な人体実験を行っている、という噂は根深い。噂ばかりではなく、時折一部署の暴走として報道されることもある。かつてシアトルにいた頃に、ルーキーもそういった話に触れたことがある。銀弾機関やそれに類する組織の存在しない地域ではその傾向は更に強いと聞く。
ルーキーの顔に浮かぶ嫌悪感に、しかしフューリアスは口を挟む。
「だが、連中にしちゃあ後始末が雑だ。派手な動きをすればこっちが気付きもするが、わざわざ死体を残していくか?」
フューリアスの言ももっともだ。心を落ち着かせ、ルーキーはフューリアスに頷いた。
「そうなると、被害者の関連性に目を向けたほうが良さそうですか」
「だがそれが問題だ。サイキックから始まって白魔女、テレパス、巫覡に悪魔憑き、そういう方面かと思いきや格闘家二人にガンスリンガー、その後もバラバラで数少ない共通点はどいつもこいつも大した超人ばかりだってことくらいでな」
それが狙いだとしても、だからと言って次の狙いを絞り込めるわけでもない。
「かと言って狙われる可能性のある程度の連中を片っ端から保護するわけにもな。だいたい
不機嫌そうな言葉が途中で止まる。訝しんだルーキーがフューリアスを確かめると、その眼は卓上のルーキーたちを離れどこかを見据え、探るような色を浮かべていた。
「あ、えと、フューリアスさん?」
視線を追いかけて振り返りながら問いかける。ああ、と少し上の空の声が返る。辿っては見たが、分かるのは客の誰かを見ていたと言うことくらい。おそらくルーキーが背を向けていた誰か、としか。
「ああ、すまん」
思いの外素直に謝罪したフューリアスにまあいいですがと小さくつぶやき、再度後ろを見回した。
「何を見ていたんですか?」
「ん、いや。大したもんじゃ、」
言いかけ、フューリアスはプライムを一瞥。そのすまし顔から何を読み取ったか、諦めたように肩をすくめてプライムに手のひらを差し出した。
「後ろ三列目窓際の卓、前列通路側。我々に背を向けている彼女だろう」
フューリアスが頷く。あたりだ。今度は小さく目立たないよう、椅子の背に隠れるようにしてルーキーはそこに座る誰かを探した。
後ろ姿しか分からないものの、そこにあるのは普通の――本当に普通の、フューリアスが今気を留めるほどもないような女性の姿だ。二秒ほど眺め、フューリアスに向き直って溜め息をつく。
「仕事中じゃないんですか?」
「見覚えがあるんだよ。少し引っかかった、それだけだ」
無論、そう言った理由であろうことはルーキーにも分かっていた。
カップを手に取り、空のそれを弄びながらフューリアスは続ける。
「ま、今は真っ当な様子だ。気にするもんでもない」
「勘働きっていうやつですか」
「鬼平じゃねぇんだぞ」
フューリアスはむっとした顔で腕を組む。ちらりと一瞬だけ視線をルーキーの後方に向け、そのあとはもう見る素振りを見せようとしない。機嫌を損ねたかと危惧したが、不機嫌は元々だ。気にすることでもない、とルーキーは卓上に目を戻した。既に出された品は片付いて、あとはもういつ出ても良い。
「そろそろ出ますか?」
「いや、少し待とう」
そう口にしたのはプライムだ。その目はフューリアスの見ていた女性の方に注がれている。釣られて振り返り、ルーキーはああと頷いた。
「少しばかり気恥ずかしい」
彼女は今まさに席を立ったところだ。話題の俎上にあげておきながら平然とした顔で同じタイミングに出るのはうまくない。
立ち上がりかけていたルーキーは椅子に深く座り直してもたれかかった。
「くつろぎ過ぎだ。どうせすぐに出る」
コートを腕に掛けたフューリアスが時計を改めながら叱責する。ついで顎をしゃくり、会計カウンターを示す。彼女は既に会計を終わらせて、そのまま出ていこうという姿勢だ。
「……そうですね」
しぶしぶ頷いて、ルーキーは椅子に掛けたコートに手を伸ばした。
と、その時だ。出入口からガラス戸に何かを叩きつけたような音が轟き、ドアベルが甲高く鳴り響く。更に何を言っているのか分からない怒声。
咄嗟にルーキーは振り返る。閉まったドアの向こう、背中を押し付けられる女の姿が見えた。フードを被った男が一人、彼女の首を掴みドアへと押し付けているようだった。
男は何事か叫び、更に彼女を押し付けた。木枠とガラスが軋みをあげる。もう何秒と持たないだろう。いや、それは女も同じか。どれほどの力がその手に加わっているのか、苦しげに呻くその声すら無い。
男の感情は女もドアもあるいはその他の周囲あらゆるものを斟酌せず、ただひたすらにボルテージを上げているのが見えた。まずい、とその場の誰もが感じただろう。
ルーキーは飛び出した。席を蹴立ててコートを纏うのも煩わしく。しかし更に早く、フューリアスがルーキーを遮るようにテーブルを蹴り倒した。
炸裂した。
それだけが分かった。圧倒的な暴威と衝撃が駆け巡り周囲を粉砕し人々の脳を打ちのめす。テーブルを砕き柱を削りその場にあるあらゆるものを吹き飛ばした。その源が男であることは明白だ。彼を中心に、感情のままに振り回された
その流れに叩き伏せられて、ルーキーの視界が暗くなる。頭に一撃、それから身体にいくつもの破片がめり込んだ。痛む額を抑えて立ち上がる。纏いかけたコートのお陰か、身体へのダメージは小さい。視界は明滅し、音もロクに聞き取れない。グラグラと揺れる身体を抑えて、粉塵の中を見回した。
すぐ目の前で、瓦礫を押しのけフューリアスが立ち上がる。少し離れた場所に客を庇うプライムの姿が見えた。どちらも少なくとも無事だ。そう判断して、ルーキーは男を睨んだ。
男はようやく女の首を掴んでいた手を放した。瓦礫に女の身体が落ちる。弱々しく苦しみ咳き込んでいるのは生きている証だ。
ルーキーは静かに床を蹴った。これだけ大きなことをやったにしては、あるいはやってしまったからか男は隙だらけだ。瓦礫の上を跳んで迫るルーキーに気付いたのはいましもその手が触れようかというタイミング。躱すのも間に合わずルーキーの掌打が男に触れた。
だが弱い。弱すぎる。男に届きはしたものの、揺らされて未だ朦朧とする身体は男を打ち倒すだけの威力を持っていない。不利を悟ったがもう遅い。意識を向けた男の、今度は指向性のある力がルーキーを襲う。
壁に叩きつけられ肺腑を絞られる。落ちた衝撃のそのままに立ち上がる。ぐるりと一周りして吐き気に襲われるも、そんなことにかかずらっている余裕はない。男は背を向け、逃げる構えだ。
「追います!」
自分にも聞こえないまま叫ぶ。振り返った視界の中でフューリアスが何事か叫んだが、それを読み取る余裕はない。惨劇の原因を追って、ルーキーは駈け出した。
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