銀弾機関のルーキー
01.勤務時間外
窓ガラス越しに後方へ飛び去っていく光景は、今は白い帳の向こうにあった。空の上で誰かが水瓶を逆さまにしたような大雨が街を孕んでいた。
深海魚たちは束の間見つめ合い、そしてすれ違い去っていく。ヘッドライトの軌跡は今がまだ早朝であることを忘れさせるほどくっきりと残っていた。
カーラジオからはエドワード・"シルバーハンド"・ニューマン役の俳優が、Aの銀弾の新作映画を宣伝している声が流れてくる。A銀史上最大の事件。ありふれた惹句だ。
「ひっでえ雨だよな、オイ」
雨中を走る一台のセダンの中で運転手がうんざりとした声を上げ、乱暴にラジオをオフにした。窓ガラス越しにも唸るように響き続ける轟音の中で不思議とよく通る声だ。その声に追従するように、ワイパーが音を立てて飛沫を拭う。視界が開けたのも一瞬のこと。一呼吸の間もなく、横殴りの雨が世界を帳の向こうに追いやった。鈍色の窓に映し出されるのは車内の四つの人影のみだ。
「だよな?」
同意を求めるように、運転手は他の三人のうちの一人、助手席に座る大柄な禿頭の男に話しかける。男は古代ローマの哲人めいたその顔に一滴の不満を載せ、しかし感情を感じさせぬ目をゆるりと運転手に向けた。
「フューリアス」
フューリアス――この運転手を示す名だ。無論本名ではない。傍目にも分かる東洋人の彼にその名は似つかわしくはない。
「まだ勤務時間外だ。フューリアスは無しだぜ、プロム。プロメテウス」
不機嫌さを隠そうともせずに鋭く答え、フューリアスは鋭い眼光をプロメテウスと呼んだ男に向ける。これもまたただの
「ってぇ、自分だってプロメテウスーって呼んでるじゃん」
シートの上からひょっこりと女の顔が覗いて、にやにやとからかうような笑みを浮かべた。フロントミラーに写ったその顔を見て、フューリアスはまた渋面を作る。
「スパイス」
「まだ勤務時間外だ。じゃなかったっけ?」
口調を真似るように返された言葉に舌打ち。口をへの字に曲げたフューリアスは大きくハンドルを切って車を急カーブさせた。車内は揺れ、立ち上がっていたスパイスがバランスを崩す。甲高い悲鳴一つとともにフロントミラーから顔が消え、そして後ろから蛙が潰れたような声が漏れた。それを見届けて、フューリアスはやや満足そうに鼻を鳴らした。
「フューリアス。先ほど君に遮られて言えなかったことを言わせてもらおう。安全運転だ、フューリアス。安全運転をしてくれ」
席のすぐ後ろで身じろぐ二人が気になるのか、僅かに眉間にシワを寄せ、しかしそれ以上の変化は見せないままプロメテウスはそう口にする。
「してるさ。ああしてるとも。俺に出来る精一杯の安全運転はな」
無言の視線が束の間フューリアスを包んだ。そして弾丸のごとく後方に消えていく風景を追い、とうとうプロメテウスは諦めた。目を覆うようにその大きな掌を押し当て、聞こえるか聞こえないか程度の吐息を一つ。
「……何故不機嫌なのか、聞いても?」
「不機嫌? 俺が?」
まさしく不機嫌そのものの気配を漂わせて、フューリアスは問い返す。覆った指の隙間から、プロメテウスの青い瞳だけがフューリアスに向けられた。
「何のことだか知らないが、俺が不機嫌だとしたら理由は一つだ。いいか、俺はな」
「分かるよ。また黒澤警部の扱いが軽かったことだろう?」
そのまま何かを口に上らせようとしていたフューリアスを遮って、後部座席から男が顔を出した。スパイスに押しつぶされて呻いていた事実もなかったかのように、顔には笑み、感情は細められた目の奥に押し隠されている。
言いかけたまま口を開けて固まっていたフューリアスが、唇を尖らせる。
「……そんなことで不機嫌になってたら、俺は毎週A銀の翌日にゃ不機嫌になってなきゃならんのだが」
「おやおや、自覚症状はなしか。火曜の朝には君はいつも不機嫌だよ」
やれやれと言わんばかりに、白い手袋をつけた手がひらひらと揺れた。プロメテウスの口がふと持ち上がり、笑みと呼ぶことも可能なものを形作る。
「A銀の話を持ち出すなら、ボンド。そんな分かりきったことは論じるべきではない」
「そりゃどういうこった、プロム!」
「理由はどうあれ君が不機嫌なのはいつものことだ、ということだよ、フューリアス」
「確かに、プロムの言うとおりだ」
ミラー越しにプロメテウスとボンドの視線が交わる。楽しげに体を揺する二人に、フューリアスはうんざりしたように溜息。
「はいはい! プロムさんプロムさん、フューリアスのいつものことは置いとくとして、それなら何を話すって?」
いつの間にか起き上がっていたスパイスが何事もなかったような顔をして、フューリアスの後ろに顔を出す。プロメテウスはその顔に浮かんだ笑みを幾らか得意げなものにして、小さく息を吸う。
「決まっているだろう、スパイス。それは勿論黒澤警部に常に付き従っている、あの部下だよ! 見たまえ、彼女は常に黒澤警部の側にあって、可能な限りのサポートを彼に向けている。どんな理不尽を向けられたとて、だ。私の分析によれば彼女は警部殿に惹かれている。間違いない。感情の機微には詳しいんだ」
ただし現実のものを除いてだが、と悲しげに、或いはそう見えるように努力した表情で首を振る。無論のこと、その『勿論』はプロメテウスの中だけの話であって、公式に言及されたことはないし取り立てて話題に上がるようなものでもない。車内の空気は一瞬緩んで、誰かが小さな笑いを吹き出した。
「いっつも思うんだけどさ、プロムは思考が先走り過ぎじゃない?」
「
悲哀を帯びた視線が天井を越えてどこか遠くを彷徨った。スパイスは呆れ顔だ。否、その場にいる誰もが呆れ顔になった。
「つまんねぇよ、それ」
「僕らはなんど君のキメ顔のおまけ付きでそれを聞かされればいいんだろうね。プロメテウスがどんな意味かも、もう耳にタコだ」
一人は短く、いま一人は懇切丁寧にプロメテウスの台詞を否定してのけると、その場には表向き和気あいあいとした空気を残した沈黙が降りた。
呆れ顔の沈黙は数秒。わざとらしく周囲を眺め回し、プロメテウスは肩をすくめる。
「どうだね、フューリアス。少しは機嫌が良くなったかね?」
「何の話だプロム。機嫌なんざ悪くもない」
やれやれとフューリアスは首を振る。とは言えその表情は先刻のものに比べれば随分と柔らかいものに変わっている。
「ま、もしも俺が機嫌が悪いとしたら答は一つだ。ああ、俺はな」
不意にフューリアスの懐から無機質な電子音が響いた。どこか耳障りな着信音に顔をしかめて、フューリアスは右手だけでジャケットの内側を探る。間を置かずに取り出された手が掴んでいるのは震えながら応答を迫る無骨な携帯電話だ。
「プロム、ボスからだ」
一瞥もしないまま、フューリアスはそれをプロメテウスへと軽く投げた。くるくると回るそれを空中に軽くキャッチ。プロメテウスはディスプレイに目を落とし、頷いた。ボス、即ち彼らの上司からの着信。小さく息を吐き、プロメテウスはそれを受けた。
「どうも。目的の相手でなくて失礼。プロメテウスです」
スピーカーからの声は小さく、プロメテウス以外の耳には届かない。フューリアスは無言でアクセルを踏む足を緩め、後続車に道を譲る。跳ね上げられた雨水が一時窓を深海に変えていく。三台目が追い抜いたとき、畏まって相槌を打っていたプロメテウスの目が伺うようにフューリアスに向けられた。
フューリアスは大袈裟に右手を額に当て、その下からプロメテウスを覗いた。
「おいプロム、俺はどこに向かえば良い?」
ハンドルを握り直した右手が、不機嫌そうにリズムを取った。
「あ、ああ。いや待て、まだ私達が出るとは」
「呆けたこと言ってんじゃねぇぞプロム。勤務時間外にボスがわざわざ繋いで来てるんだ。俺たちに動けってのとどう違う。俺がどこをどう走って誰を乗せてるかなんてボスには先刻承知だろうが。まだるっこしいことやってる暇があるならとっとと行き先を教えてくれ」
捲し立てられたその言葉に、答えかねてプロメテウスはぐうと唸る。電話の向こうでくぐもった笑いが起きた。
「ま、良いんじゃないのさ、プロム。
「フューリアスもやる気みたいだしね」
援護射撃を受けて、プロメテウスは諦めたように片目を閉じた。
「……お聞きのことと思いますが、ボス。行き先を」
それを耳にしながら、フューリアスの顔には獰猛な笑みが浮かんでいた。唇の端が釣り上がり、視線は強く雨の向こうを射る如く。
「やる気だなんだってのは知ったことじゃないが」
フューリアス、とプロメテウスが行き先を囁く。頷き、アクセルを力強く踏みしめる。それに応じるように車体各部に紋様が浮かび上がり、サイレンが轟いた。周囲の車は気付くと同時に距離を置く。生まれた道を、矢の如く走り抜ける。
「仕事の時間だ」
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