第19話、月と涙と、白いハンカチと
村井が帰った後、2人でテーブルに残った正岡となつき。
「 ・・温くなっちゃうよ? 」
汗をかいたグラスを指差し、正岡は言った。
なつきは、無言でストローの包み紙を開封し、グラスに入れた。 すっかり解けた小さな氷が、グラスの中で、かすかな音を立てる。
なつきは、俯いたまま、か細く言った。
「 今まで、騙していてごめんなさい・・・ 」
謝って済む事とは思えない。 加賀に対して、なつきが味わった事と同じような仕打ちを、正岡に対して、したようなものである。
小さなため息の後、正岡は言った。
「 ・・正直、驚いたケドね・・・ まあ、東京は、色んな人がいる・・・ それぞれ、過去に何かを背負って出て来た人だっているだろうし 」
グラスを持ちかけ、コーヒーを飲み干していた事に気付く正岡。 代わりに、水の入ったコップを持ち、ひと口飲む。
なつきは、視線を落としたまま、尋ねた。
「 もう・・ 会っては・・・ くれないのでしょうか・・・? 」
「 どうして? 」
「 だって・・ 家出少女なんだもん 」
正岡は、笑いながら言った。
「 家出少女と会ったらいけない、なんて法律、無いよ? 」
「 だって、あたし・・・ 」
そこまで言って、なつきは、口をつぐんだ。
「 だって・・ 何だい? 」
・・・それは、言えない。 いや、例え正岡が知っていたとしても、なつき自身の口からは言えない。
「 夜のオンナ・・ を、していた事かい? 」
他の客に聞こえないよう、幾分、小さな声で言った正岡。 なつきは、弾かれたように顔を上げ、頬を紅潮させながら、正岡を見た。
「 修一郎さん・・・! 」
正岡は、優しく微笑みながら言った。
「 強い人なんだな、なつきちゃんは 」
「 そんな・・・ 」
再び、コップの水を飲みながら、正岡は言った。
「 生きる糧の大切さを知っている人だよ、なつきちゃんは。 ・・ま、奨励出来る生活方法じゃないけどね・・・ 」
「 ・・・・・ 」
生きていく為には、手段が無かった事を、正岡は理解してくれているようだ。 もっとも、なつきが選択したその手段は、最善なものであったとは、決して言えない事も示唆しているが・・・
また目が潤んで来た、なつき。
( こんなあたしの存在を、認めてくれている・・・ )
同情などではなく、一個人として、その存在を認めてくれている正岡の優しさに、なつきは嬉しくなった。
正岡の顔が、涙でくしゃくしゃになる。 なつきの頬を、再び、大粒の涙が伝った。
だが、不思議な事に、泣けては来ない。 ただ、堰を切ったように、涙が溢れて止まらないのだ。
正岡が、幾分、体をよじり、ジーンズの後ポケットから、ハンカチを出した。 テーブルの上に手を伸ばし、なつきの頬を拭う。
洗剤の香り・・・
正岡の、ラフな風体からは想像が付かないような、真っ白なハンカチ。 頬に触れる感触が、限り無く優しい・・・
( 修一郎さん・・・ )
なつきは、涙を拭いてもらいながら、じっと、正岡の顔を見つめた。
ボサボサの髪、少し細い目、口の右脇にある小さなホクロ・・・
後から後から、涙が溢れて来る・・・
正岡が言った。
「 そんなに涙を出すと、のどが渇くよ? 」
「 ・・・・・ 」
少し間を置いて、小さく吹き出す、なつき。 上ずった声で言った。
「 そんなコト・・・ 聞いた事がないですよ? 」
「 やっぱり? 」
正岡も笑った。 だが、すぐに真面目な顔に戻り、尋ねた。
「 いつまで、こんな生活を続けるつもりだい? 」
「 ・・・・・ 」
若い男女4・5人が、陽気に喋りながら、なつきたちの横のテーブルに座った。
正岡は、チラリと彼らを見やり、続ける。
「 僕の店を手伝ってくれないか? 」
「 修一郎さん・・・ 」
「 まず、家に帰るんだ。 ご両親には、とりあえず謝らなきゃいけないよ? どんな生活をしていたかを話す必要はない。 身の周りが落ち着いたら、店においで 」
「 修一郎・・ さん・・・! 」
更に、涙が頬を伝う。
なつきの肩が、激しく震える。
隣のテーブルに座った男女たちも、なつきの様子に気付いたようだ。 チラチラと、なつきの方を見ている。
「 場所を変えようよ 」
伝票を取り、なつきの手を引いて、正岡は席を立った。
初夏の木漏れ日が、木々の間からこぼれている。 新緑の隙間を行き交う小鳥たちのさえずりが、心地良い。
少し、ペンキが剥げかかった木製のベンチ。 その脇に設置してある水飲み用蛇口の窪みに溜まった水に、小鳥たちが、くちばしをつけている。
雑居ビルに囲まれた、小さな公園・・・ こんな都会の中でも、小鳥たちは生活しているのだ。 数羽の鳩が、地面をついばんでいる。
「 まあ、気が向かないのなら、無理にとは言わないけど・・・ 」
正岡は、ベンチに腰掛けるとタバコを出し、火を付けながら言った。
ふうっと煙を出し、続ける。
「 今の姿は、なつきちゃんらしくないな、って思ってね。 僕の店でよかったら、手伝って欲しいな 」
正岡は、ベンチに腰掛けるよう、なつきに手招きした。
「 ・・・・・ 」
無言のまま、正岡の横に座る、なつき。
正岡から渡されたハンカチを両手で持って膝の上に置き、それを見つめながら、小さな声で尋ねた。
「 今のままでも・・・ 会ってくれますか・・・? 」
「 勿論だよ 」
なつきの方を向き、笑顔で答える正岡。
再び、タバコを口に持って行きながら続けた。
「 東京に出て来て、思ったよ。 ホント、色んな人がいる。 みんな、必死で生きてるんだ。 様々な方法でね。 ・・だけど、自分を見失ったらダメだからね? 」
・・・自分は、どうなのだろう。
生きる為に、自分を見失っているのだろうか?
そもそも、夢は・・・?
( 分からない。 何もかも・・・ )
家を飛び出して来た時には、その開放感・自由に酔っていた記憶がある。
そして、1人で生きているという自負が、後から付いて来た。
だが、その先の夢は・・・
( 夢なんて、何も無かったわ。 ・・そう、今も )
生きるのに精一杯だったように思える。
毎日の糧を得る為に、その手段も、なりふり構わずになって来ていた。
この先、どんな自分が待っているのだろうか。 どんな自分になって行くのだろう。 そして、その結末は・・・
( ・・・・ )
波乱の生涯を閉じた、祥子の顔が思い起こされる。
人の欲望と葛藤の狭間で、命を落とした祥子・・・
全ての幕引きが、祥子のようになるとは限らないであろう。
だが、祥子は死んだ・・・
夢を求めた結果が、死であったという結論が及ぶが、祥子の場合、他人の意志・意図が絡んでいる。 全てを割り切る解釈は、出来ないだろう。
( あたしの夢って、何なの? )
自由を謳歌する事は、夢ではない。 それは、単なる希望である。
自分をどうしたいのか。 何がやりたいのか・・・ それが『 夢 』だ。
家を飛び出してでも、叶えたかった夢・・・ それは、何か?
( そもそも、そんな夢があったの? )
・・・自分を虐待した父親から逃れる事・・・
家を飛び出した理由は、その一点に尽きる。
更に、冷静になって考えてみれば、実の父親に犯されたと言う、やり切れなさ・悲しみに耐え切れず、その場を逃げ出したのだ。
『 弱かった 』と、説く者もいるかもしれないが、それは個人の意志の差でもある。 弱冠17歳のなつきには、逃げ出す事しか、考えが思い付かなかったのだ。
ならば、父親が改心し、自分の行方を探していると言う現在。 はたして自分は、この世界にいる必要があるのだろうか・・・?
なつきは、ハンカチを握った自分の手をみつめたまま、思慮した。
チチッ、という短い鳴き声と共に、水を飲んでいた小鳥たちが飛び立つ。 公園の樹木を飛び越え、その向こうにあるビルの壁をも飛び越え、都会の空へと飛んで行く。
「 さっきも聞いたけど、いつまで、この生活を続けるつもりなんだい? 」
沈黙を続けるなつきに、正岡が尋ねた。
「 20歳になったら・・ 考え直そうと思って・・・ 」
手にしていた正岡のハンカチを、指先でなぞりながら、なつきは答えた。
しかし、そう答えたなつき自身、決めている訳ではない。 キリの良い歳に、当てはめているだけである。 カオリが3年間、家出中であった事も加味されていた。 実際のところは、分からない。 それ以上に長くか、それ以下に短いかも・・・
「 20歳になったら、じゃなくて・・ 常に、考えてなくちゃ 」
正岡は、ポケットから携帯用灰皿を出し、地面で揉み消した吸殻を入れながら言った。
・・・確かに、そうかもしれない。
人間、その日が暮らせれば、後日の事に関しては、思慮が欠けるものである。 惰性で、生きてしまうのだ。
そうはならない人もいるとは思うが、万人の心の片隅に、そんな怠惰な気持ちは、必ず存在する。
なつきは無言のまま、正岡の言葉に、小さく頷いた。
なつきの前に、枯れ葉が1枚、落ちて来た。 新緑の時期には似合わない、くしゃくしゃに丸まった枯れ葉。 おそらく、どこかの枝に引っ掛かっていたのだろう。
全てが新緑、とは限らないのだ・・・ それぞれの存在を持ち、それぞれに経過・未来がある。
空を見上げる、なつき。
先程、喫茶店の窓から見えていた真昼の月が、新緑の間からのぞいていた・・・
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