屍 呪物の行く末

 屋敷に入った椚たち四名は、エントランスに入った途端に感じた濃密な臭いに眉を潜めた。

 肉が腐った臭気とはまた違う、形容しづらいものだ。


「嫌なにおいだな」

「椚様、この気配はいったい」


 ざわざわと。息遣いのような気配を感じる。屋敷の外で感じたものとは違う、寝息のような多数の気配。

 どこから感じるものかも分からず、四名は油断なく周囲を見回した。


「ようこそ、御一同」


 どこからともなく声が聞こえる。


「弓削か」


 耳に心地よく響くバリトンボイス。姿は見えないが、わざわざ声をかけてくるのだ。弓削と見て間違いないだろう。


「ここは人にとっての最期の楽園。あらゆる夢と願いの叶う幸福の都」


 弓削の年齢は、事前情報では七十を超えていたはずだ。だが聞こえてくる声の張りは、三十代と言っても遜色がない。

 一瞬息子か孫かとも思ったが、それは大きな問題ではないので確認はしない。

 声は続く。


「そろそろ姿を見せたらどうだ?」

「これは失礼。弓削辰真と申します、闘仙殿」

「俺を知っていたか」

「それはもう。若い天才の噂は誰からともなく聞こえてくるものですよ」

「そうかよ」


 弓削の肉体は、やはり七十代のものではなかった。

 椚自身がそうであるように、寿命の枠から逃れる手段は確かに存在する。しかし、その手のものはおよそどのような組織でも秘伝に類するものだ。少なくともモグリの陰陽師に過ぎない弓削が知り得るものではない。

 椚は弓削の姿を一瞥した後、興味を失くして周囲を見回した。


「御太刀」

「なんだい?」

「そこの壁を」

「了解」


 ミタチが右手を刃に代えて、近くの壁に数度走らせる。

 斬り刻まれた壁から、赤黒い液体が流れ出し、そして壁面が剥がれ落ちる。


「っ⁉」


 現れたものを見て、ミタチですら言葉を失う。

 そこにあったのは肉塊である。それ自体は椚とミタチがこの件に関わって見てきたものとそう違いはない。しかし、その有様が問題だった。

 ぷしゅう、ぷしゅうと呼吸をしているのは鼻のパーツであったり、口のパーツであったり。それらが巨大な脳のような肉塊の所々から生えているのだ。

 碧川が厳しい顔でそれを見て、痛ましげに目を逸らした。

 それでいい。善良な人が見て良い類のものではない。


「これが、お前の言う楽園のかたちとやらかね」

「そうです! この苦痛多い世界で、生きるのは痛みを伴います。小生が用意しましたのは、すべての人々を苦しみや怒り、悲しみから解き放つ手段!」

「その成れの果てがこいつらか」


 陶酔を表情に浮かべる弓削に、吐き気を抑えつつ問いかける椚。

 音はこの肉塊からだけではない。周囲のいたる処から聞こえているのだ。つまりは。


「ええ。彼らはこの中に意識だけで生きています。そして、その人生の幸せな全てはその中に内包されているのです」

「……へぇ」


 脳となった肉塊は呼吸以外の行動はしていない。手足も眼球すらもないのは、つまり必要がないということなのだろう。

 こうなったのが自己責任だけならば、敢えて言うことはない。

 しかし、最初に見た肉塊を思い出せば、聞かずにはいられなかった。


「ひとつ、聞かせろ。この肉塊を構成しているのは、腕輪の持ち主だけか?」

「はい?」

「表の連中も似ているよな。あいつらにはいくつもの腕と足があった。……一人分の肉ではねえよな。いったいどういうことだ?」

「ああ、そのことですか」


 弓削は笑みを崩さない。それが当然のことであるように自信ありげに両手を広げて、言うのだ。


「彼らは喧嘩の強さであるとか、表層的な価値を求めた者たちです。誰よりも強くなりたい、あいつに勝ちたい、嫌いなやつを殺したい……。軽く叶う願いも、すぐに叶わない願いもありますが、行きつく先は願いの飽和」

「奴らはまだ飽和に届いていないってことか」

「その通りです。飽和した願いは、今のままでは叶いません。肉体の大部分を捨て、この巨大な脳の一部になることで、ようやく満足する願いに至ります」

「へえ。で、質問に答えてねえよな。あの多数の腕や足は何だ?」

「ああ、あれは飲み込んだ肉の残りですね。願いを叶えるために、彼らは肉体を変質させ続けなくてはなりませんから」


 自分の作り出したものに対して、一切の疑念や不信を抱いていない顔。

 ここに来て椚は、小さく溜息をついた。


「腕輪を買ったやつはまあいい。安易な方法に走って痛い目を見るのは自己責任ってやつだ。だがな、そいつらに巻き込まれた人たちは、そんなことを望んでいなかった」

「それが何か問題ですか?」

「なに?」

「材料になった方々も、あの中で幸せになっていることでしょう。ならば結果的には良いことをしたではないですか」


 話にならない。弓削の顔と奈永池の狂れ河童の顔が重なったような錯覚に陥る。

 と、碧川がその場に座り込んだ。その目からはとめどなく涙が溢れ、懐から数珠を取り出して両手を合わせる。


「助教?」

「椚君。彼らはもう生きてはいません」

「はい」

「胡蝶之夢。そのような言葉がありますが、あのようになって己の妄想に耽溺し、戻ることもできない。そのような生涯は、あまりにも悲しい」

「大葉ぁ」

「は、はい!」

「助教はこの場を戦場と定めた。お前は助教を護れ。その身を盾にしてでも、必ず護れ」

「承りました!」

「ありがとう、椚君」


 碧川が礼を述べて目を閉じる。全身から清浄な法力が溢れ出し、小声で念ずる碧川の声は、椚には届かなかった。


「貴方がたにもこの幸福を共有していただければと思ったのですが、残念ながら無理のようですね」

「御太刀。あれは任せる」


 最早椚も弓削と言葉を交わすつもりはなかった。ミタチは静かに頷く。


「行くのだね?」

「ああ。アレは毒されているのか本心か。どちらにしろ、もはや生きていちゃいけない奴だ。仁島さんの代わりに、きっちり斬り捨ててやってくれ」

「分かったよ。でも、あいつの魂にはあまりそそられないかな」

「確かにクドそうだ」


 ふ、と鼻から息を漏らして軽く笑うと、椚は最後にもうひとつ言い含める。


「ああ、大葉と助教の守りは気にしなくていいぜ」

「いいのかい?」

「ああ、助教の身は大葉が護るし、大葉は寿命以外じゃ死なない体だからな」

「では、気にしないことにしよう」


 と、無視されていた形の弓削が手を叩いた。特に気分を害した様子はないが、明確にこちらを敵と認識したらしい。


「ぶあああ」

「うるばあ」


 そこかしこの扉から、表の怪物よりも大型の怪物たちがぞろぞろと入ってくる。


「では始まる前に、少しサービスしておこう」


 ミタチは全身のそこかしこから刃を産み出すと、怪物たちを瞬く間に斬り刻んでみせた。

 椚はその間に、唯一怪物が出てこなかった扉――弓削の背後の扉を開けていた。

 弓削の存在を完璧に無視して、その隣を通り過ぎたのだ。


「ま、待ちなさい!」


 慌てて弓削が振り返るが、そこにはすでにミタチが肉薄していた。


「君の相手は私だよ」

「ちっ!」


 どうやら弓削はミタチの刃を防いだようだ。それだけでも相当な腕前であることは察せられるが。

 椚はその結果を見ることもせずに、扉を開けて奥に進んだのだった。


***


 空間がねじれているようだった。

 椚は歩き続けるが、上に向かっているようでも、下に降りているようでもある。

 景色も変わらず、歩いているのか止まっているのかさえも定かではなくなっていく。

 椚は小さく溜息をついた。あまりにも稚拙な幻術だ。


「工夫はこれだけか」


 仙樹棍を地面に打ち付けると、空間が歪んで色を変えた。

 現れたのは肉色の壁。どうやら怪物たちの成れの果ては、この建物をほぼ埋め尽くしているらしい。


「やれやれ、趣味の悪いことで」


 目の前でがばあと巨大な口が開いている。どうやらこの場所は脳ばかりではなく別の器官も残っているらしい。


「さすがに食われてやる気にはなれねえなあ」


 大きくなった自分の体ごと丸のみにしてしまえそうな巨大な口の奥には、幾重にも折り重なった黄色い歯と、赤黒い穴が覗いていた。

 これに飲み込まれたらどこに通じているのか気にはなるが、試してみる気にもならない。

 椚は法力を込めて、大上段に振りかぶった仙樹棍を叩きつけた。


「ぐぶるぇえええ」


 口と穴は、壁に埋もれるようにして消えた。

 ぐむぐむと音を立てて傷を埋めようとする肉壁。

 椚は視線を巡らせた。この場所は右に曲がる角だったようだ。幻術に気付かなければ丸呑みにされるというカラクリか。


「これだけのものが出来るのに、どれだけの時間がかかったのやら」


 弓削の口ぶりを聞けば、賛同者も少なからずいたようだ。

 それにしても、建物ひとつを埋め尽くすほどの肉だ。十人や二十人ではないだろうに。


「ま、行方不明者なんて珍しくなくなっちまったからな」


 開放の日以後、人による犯罪も妖魔による悪行も増えた。

 隣人が突然いなくなっても不思議ではない日常を、十年の間に人々は受け入れてしまった。

 そのうちの一部が、このありさまを作っているわけだ。

 歩き続けて、いくつかの罠を打ち払って、ようやく広い場所に出る。


「お前がこの状況を考えた妖魔か」


 中心でこちらに背を向けて座禅を組む人影に、声をかける。

 振り返った人影は、首から下は人の形をしていたが、頭は人とは違っていた。


「何かと思えばガネーシャ気取りとはな」

「ふふ。獣頭人身を取っていると、放っておいても不思議と神のように扱ってくれるのでね」


 声は男性とも女性ともつかない、弓削以上に涼やかに心に入り込んでくるものだった。

 白黒の体毛に、象のような鼻。潰れかかっているような目に、身に着けている法衣からのぞく手足の先はネコ科の獣のそれに近い。


「ずいぶんと淀んだ妖気を漂わせている。悪食も極まればこうもなるかよ」

「我のこの妖気は、人の心が穢れている証さ」


 妖魔もまた悪びれない。

 肩を震わせているから笑っているのだろうが、椚の目にはその表情を読み取ることはできなかった。


「開放の日の前から人の夢も欲望も、どす汚れていったものさ。良い夢も悪夢も、胸焼けするようなものばかり」

「ようやく全部腑に落ちたよ。弓削がなぜ、人をああいうふうに作り替えたのか、願いを叶えるなんて手に余る呪物を作れたのか」

「弓削君は我の理念に賛同してくれたからね。彼の若さも、技術も、我の神通力をもってすれば与えるのはたやすい」

「夢や欲望が努力もせずに叶ってしまえば、人は次、その次へと際限なく欲望を滾らせていく。その成れの果てをああして作ってしまえば、お前の餌を無尽蔵に生み出してくれる、と」

「そうだね。だが、妄想にふけるユメヲミルだけでは人間は生きていけない。弓削君を管理人にしたことで、ずいぶんと安定して食事を得られるようになったものさ」

「なるほどな。ここはおまえの人間牧場ってことか」


 妖魔、バク。悪夢を食らうもの。

 夢を見続けさせることで、安定した餌を供給させるのがこの場所の役割。願いを叶えることを代価に、人は少しずつ獏の餌として特化したに作り替えられていく。

 弓削は鋼貨を日々の生活に宛てたり、呪物の生成に費やしたりしていたのだろう。弓削と獏の間だけで見れば、確かに良い関係性だと言えるか。

 だが。


「ならばこれほどの数は要らねえだろうよ」

「同じ味ばかりだと、飽きるだろ?」

「グルメ気取りか。つくづく救いがねえ」


 巻き込まれた人々は、獏の食欲だけを発端として、腕輪に欲望を触発された連中の餌食にされたわけだ。

 最終捕食者としての獏が、人を相棒として邪智を絞った結果が、これ。


「人の文化を参考にさせてもらっただけだよ。確かに効率が良い」

「そうかい。いいからもう黙れ」


 椚は仙樹棍を構えた。

 こちらの怒気を前に、獏は首を振るのみだった。


「残念だ。我は望みを叶えるのを代価に、夢の一部を食わせてもらっていたに過ぎない。これもまた人の文化だと思うのだがね」

「黙れと言ったぞ」


 だが獏はこちらの言葉を聞く気などないようだった。

 何かを考えているそぶりを見せて、ふと思いついたように手を叩く。


「そうだ、君も体験してみればいい。そうすればきっと、戻って来ようなどという気持ちはなくなるだろう」


 椚が仙樹棍を振り上げ、獏がそんな事を言った瞬間。

 視界が暗転した。

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