弐 仏理学者、碧川秀積

 東京府が首都としての役割を放棄されたのが十年前になる。

 後に『開放の日』という国民の祝日に制定された――今もって何らかのブラックジョークとしか思えないのだが――五月十四日。

 この日、世界中で人ならざる者が溢れ出た。

 まさしく溢れ出したとしか表現のしようがない。いわゆる霊感のような超常の力を持たない者もそれらを見て、触れて、意思の疎通ができるようになったのだから。

 人ならざる者、妖魔。古来、妖怪や物の怪、悪魔と呼ばれたようなものの総称である。規模が大きかったのは大都市で、日本では東京府は首都としての機能すら放棄せざるを得なかった。

 小規模都市ほど人畜無害な妖魔が多く、大都市ほど人食いや凶暴・狡猾な妖魔が多かったのは、今も興味と調査の対象にされている。

 さて。開放の日以来、復権を果たしたのがオカルトである。常識を超えた存在を前に、人々は目に見えない力を再び求めた。

 神秘学問は十年余の間にいくつかの大系が作り上げられ、今では大学での専攻がもっとも多い学問として市民権を得ていた。


***


 くぬぎ泰樹たいじゅは学生である。だが同時に仙人として、世間の治安維持には責任を持たざるを得ない立場でもあった。

 優先順位を考えれば、夕方の講義については諦めるほかない。

 最後の講義は少々ややこしいので、できれば休みたくはなかったのだが――


「おや、椚くんではありませんか。君、このあとも講義でしたよね?」

「げっ」


 どうしようかと考えていたところで、残念なことにややこしさの原因が声をかけてきた。

 スーツ姿の男である。短く刈った頭髪は、だがそれが手入れの行き届いていない証拠だということを椚は知っていた。


碧川へきせん助教。今日は私用にて早退させていただきます」

「何ですって⁉」


 碧川と呼ばれた男は無駄にオーバーに驚いてみせると、粘着質な声で聞いてくる。


「今日の講義には、私の担当している実践仏理学も含まれていますよね? いくら君の専門が倭仙術だからと言って、サボタージュは感心しませんよ」

「ええ、すみません。次回は必ず」

「まったく。君と議論を交わすのは私にとって、この職場でほぼ唯一の楽しみなのですから。今回は第七種調伏ちょうぶく現象について君の意見を聞く予定だったのですがね」

「ああ、その件ですか。妖魔に人間社会の善悪の基準を理解させて、それに沿った社会生活を送らせるだけですよ。社会基盤が違えば常識も違う、その辺りの問題です」

「まったく、君にかかると御仏の奇跡も途端に世俗の空気になってしまいます。ですがその意見はなかなか興味深い」


 碧川は苦笑いを浮かべながらも、熱心にメモを取る。

 後ろでぼんやりとミタチが碧川を見ていた。どうやら二人の会話には興味がないらしい。


「解放の日以後、仏門も衆生救済の名の許に天魔滅却を掲げていますが、私はその辺りが納得できないのですよ。本来は一切を救済するのが仏道の本道。妖魔たりとて、心を持つ存在。仏法を学ぶ機会はあるべきです」

「まあ、仰りたいことは分かりますがね。人を食うのが習性という妖魔に出会った時に、人々が望むのは仏の教えよりも自分の命を救ってくれる誰かなわけですし」

「世には鬼子母神の故事もあります。妖魔とて変われるのですよ」

「ええ、ですから変わる前に食われる不運を呪うのか、出会った時に鬼子母神を叩き伏せてくれる相手を願うのかって話なわけでしょう」

「むう。君は彼らが正しいと言うのですか?」

「俺は仙籍ですよ? 仏門じゃない俺が、彼らが正しいか間違っているかなんて、語る立場じゃありませんや」

「むむ。それはそうですが」


 仏理学界における異端児、碧川秀積しゅうせき。優秀な頭脳と篤実な信仰を併せ持つが、だからこそ現在の仏理学界の中枢からは爪弾きにされている人物でもある。

 『念仏』というによって、先祖の御霊というを喚起させ、霊力に欠ける存在でも神秘的な現象を起こさせる理論。

 また、『信仰』によってに預けられた精神エネルギーは、その信仰の受け皿でもある彼らに大小様々な霊力をもたらすという理論。

 仏理学、神理学と呼ばれたそれは、宗教のある種の復権をもたらす学問だった。

 だからこそ、仏門にある者はより強い信仰を集めるために、分かりやすい理由と成果を前面に押し出したわけだ。これは世間一般の宗教家たちも行っている流れで、決して特別なものではない。

 信仰に純粋な――ある意味で潔癖な――碧川は、その流れを理解しつつも迎合はできず、結果として左遷されて今に至っている。


「まあ、そんなわけです。助教、すみませんが今日は休みます。これからちょっと出かけないといけないので」

「出かける、ですか。その口ぶりですと仕事のようですが、そちらの見目麗しい妖魔の方に関係することですか?」

「いえ、別件です。ちょっと鬼多区まで」


 どうやら碧川は、ミタチが妖魔の類であることを見抜いていたらしい。二流私大の助教という不名誉な立場ではあるが、仏理学者としては碧川は一流だ。

 人食いの妖魔の言葉を借りるならば、『もう少し徳が高くなれば生き胆に価値が出てくる』程度には。


「北区!? 危険ではないのですか。いや、君の場合はそうでもないのか」

「ええまあ。どちらかというと本職ですから」


 椚が所属する瀛州えいしゅう癸亥山きがいせんは、政府の神秘対策室が認可する、数少ない正式な外部委託機関だ。

 かつては知る人ぞ知る存在だった仙人も、今では対妖魔の実戦的な能力を持つ人間として扱われている。開放の日以来、入山志願者は目に見えて増えた。

 椚は現役の大学生だが、同時に癸亥山から正式に『闘仙とうせん』の号を授けられた仙人でもある。仙人としての素性を学内では特に明かしていないが、碧川のように神秘学問に触れている人々からすると、椚はどうやら有名であるらしい。


「私も一緒に行きたいところですが」

「助教は授業があるでしょう」

「無念です。次に何かある時には、ぜひ私にも声をかけてくださいね。できれば一週間くらい前に!」

「一週間も悠長に準備する時間が取れるのは、余程の大仕事か余程の些細な仕事かどちらかですよ」


 溜息交じりに言うが、碧川はそれでも声をかけてほしいと念を押して、建物に入って行ったのだった。


***


 一行が駅に向かって歩いていると、ふとミタチが声を上げた。


「タイジュ、さっきの人だけれど」

「うん?」

「あの人は私の顧客しょくじにはならないだろうね。口では文句を言っていたけれど、心は少しも汚れていなかった。誰も恨んでいないようだ」

「だろうな」


 椚は当然だと頷いた。

 怪訝な表情を浮かべるミタチ。


「ああいう人を高僧って言うのだろう? なぜ、彼が代表になってないのかな」

「こんな時代だぜ。徳の高い坊さんほど、組織の上に立つよりも人々のために何かをする方が大事だって思うもんさ。本当は、ああいうお人には俺の仕事に首を突っ込んでほしくないんだが」

「ながいこと見てきているけれど、人間の社会は本当によくわからないね」


 どこまでも困惑を隠さずに首をかしげるミタチに、椚は何を言ってるんだと笑い飛ばした。


「人間がそんなモンだからこそ、お前が仕事をする余地があるんじゃないか」


***


 実践仏理学の講座室では、碧川が見るからに不機嫌な様子で教壇の前に立っていた。


「なあ。碧川センセ、なんでこんなに機嫌悪いんだ?」

「決まってるだろ、彼だよ彼。椚くんが今日は休みなんだ」

「椚くんってあの、大葉さんや壹岐いつぎさんを顎で使ってるっていうチビ?」

「おまっ! それ、二人が聞いたら激怒するぞ」

「静かに!」


 声を荒らげる碧川に、私語をしていた学生たちがびくりと体を震わせる。

 ふう、と息を吐きだして気を落ち着ける様子を見せる碧川。自分でも思っていた以上に感情を昂らせてしまったらしい。


「調伏現象に対する見解の提出は来週です。椚くんはすでに第七種までの調伏現象に対しての見解を提出済みです。君たちも早めに仕上げるように。参考書を書き写しただけの見解は評定を下げますのでそのつもりで」


 周囲から不満の声が上がる。

 ここに集まっている学生のほとんどが、仏理学を対妖魔の対応技術として認識している者たちだ。

 碧川は仏理学界では異端児として有名な人物ではあるが、彼の提唱した理論の多くは検証と研究によって有効だと証明されている。

 仏僧としての碧川は変人だが、仏理学者としての碧川は天才である。そう思っている仏理学者の卵たちは、自分たちの認識が碧川を苛立たせていることに気づかない。


「先生! 実践仏理学なのですから、調伏現象なんて不確定性の高い現象ではなく、もっと実際的な理論を教えてくださいよ!」


 学生のひとりがそんな言葉を碧川にぶつける。

 そうだそうだと追従する声がそこかしこから上がる。

 碧川は声が少し収まるのを待って、溜息交じりにぽつりと問うた。


「実際的な、と言いますが。君たちは、現在の仏僧の死亡率と死亡実数、死亡理由について明確な情報を持っていますか」


 その言葉への返答はない。

 ざわめきも静まり、碧川の次の言葉を誰もが待つ。


「君たちのように、仏理学を志して仏僧となる者は十年前と比べて格段に増えました。気持ちは分かります。誰もが妖魔から自分の身や、仲間の身を守りたい。あるいは、妖魔対策の事業プランを考えている方もいるかもしれませんね」


 碧川が送り出した中にも、無謀な形で妖魔に挑んでその命を失った者は決して少なくない。

 君たちの考えは間違っていません、と前置きした上で続ける。


「かつて妖魔が実際に確認されていた頃からの伝聞で、確かなものはほとんどありません。現状の仏理学も、少しばかり効果があることが確認されたから、藁をも掴む思いで皆さんが集まっているに過ぎない」

「では、先生は仏理学では妖魔に勝てないとおっしゃるんですか⁉」

「仏道は、本来妖魔を滅ぼすためのものではありません。その辺りを理解していないと、仏理学は君たちに力を貸してはくれないでしょう」


 学生たちの顔は納得しているとは言い難いものだったが、碧川はもはや言うべきことは言ったと判断していた。


「ではテキストの三十七ページを開いてください――」


 講義を開始する碧川に、文句をぶつける者は最早いなかった。

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