2. 運命の歯車

 ベッドの上で動機に襲われたアンリ・スタンフォードは、ガバッと起き上がった。額に染み出た汗をぬぐい、胸をなでおろす。ここ五日同じ夢を見る。夢の中の少女と自分の身体がリンクする気味の悪い感覚に襲われる。目を閉じている間は頭に鮮明な映像が流れているのが、開けるとすぐ朧げなものに変わるのだから、毎回狐につままれた気分であった。いい加減目覚めのよい朝を迎えたい。ランプの灯りを点けると、八時三二分を指す時計の文字盤が目に飛び込んだ。

「やだっ」

 アンリは雨の音に気づき、横のカーテンをめくった。窓に当たっては落ちていく雨粒の光景が、身震いを引き起こさせた。アンリは前のめりに倒れ、毛布に顔を埋めた。二度寝の欲求を抑え、椅子の背もたれにかかった洋服へ手を伸ばした。布団の中で、モゾモゾ寝間着から着替えると、鏡台におかれたブラシとリボンを持って、洗面所へ駆けていった。鏡の前に立ち、髪を仮留めし、顔を洗った。次に仮留めを解き、跳ねきった黒髪にブラシを入れた。最後に真っ赤なリボンで一つ縛りにして、完了。

 アンリは同年代の少女たちと違い、ファッションやメイクに力を入れたりしない。服は決まって安物。メイクに於いては面倒くさいのも一理だが、薄い仮面をつけたような独特の感触が嫌だからだ。こんなことを並べたら、彼女が地味で可愛くない女だと思うかもしれないが、そんなことはない。瞳は大きくクリッとしているし、まつ毛は長いから人工物を付ける必要もない。服はブランド物ではないが、自分にあったチョイスができている。いじらなくたって魅力のある娘なのだ。

 部屋に戻って、飼っている赤リスのリグル二世を連れ、階下に降りた。キッチンでは、寝間着姿の父親がコーヒーを淹れていた。父デレク・スタンフォードはこの村で唯一の開業医。オックスフォードで働いていた頃、日本人留学生の女性と出会い結婚。開業を機にここバイブリー村へ移り住んだのである。

「おはよう、お寝坊さん」

「自分もでしょ」

 戯言を交わし、リグル二世に餌を与えた後、朝食用に仕込んでおいたキッシュをオーブンにかけた。焼き上がる間に野菜スープをこしらえた。六年前に母親が事故で他界して以来、家事全般は彼女がこなしている。テーブルに料理が並ぶと、居間で朝刊を読んでいる父親を呼び、食卓に着いた。

「美味い」

 ベーコンとマッシュルームのキッシュに手をつけたデレクが舌を舐めて言った。

「いい嫁さんになる素質は十分なのにもったいな」

一向に男っ気がない娘を残念がる。

「大学行かずに、見合いする気はないか?」

「するわけないでしょ」

 見合いなんて冗談じゃない。私は考古学に身を捧げる人間よ。

「なんと不憫(ふびん)な子だ。強情を張っていると、一生貰い手がつかないいぞ」

「大きなお世話」

 娘から「これ以上言ったら、親子の縁を切る」との警告を受け取ったデレクは、からかうのをやめた。

 休日の朝は親子そろって居間で新聞、雑誌を漁ったり、クロスゲームや読書に没頭して過ごす。通常なら今日は月に一度の古本市の日だが、この天気(ようす)では中止は免れない。

「紅茶でも淹れよっ」

アンリは暖炉前のソファで父親と、フレーバーティーを優雅に味わった。雨に打たれる庭に目をやったアンリは、突然、ガラス扉に駆け寄った。

「パパ!」

「なんだ、幽霊でもいたか?」

「野兎が倉庫の軒下にいるの」

「ん?」

 デレクもベランダ扉から、同じ方向を見た。

「可愛いお客だな」

「震えてる。……雨宿りさせていい?」

「ああ」

 許可が下ると、アンリは身一つで外へ飛び出していった。天水を避け、大回りして軒下にいった彼女は雨宿り客を腕に抱え、室内に駆け込んだ。濡れ兎はアンリの腕からダイブして床に着地した。至近距離にいたリグル二世は驚いて、デレクの肩に飛び乗った。

「こら、後でいくらでも動いていいから、今は大人しくしてね」

 アンリは自分の水滴を払うと、バスタオルで茶色の毛並みを拭いてやる。野兎は少女の膝で、見知らぬ環境にキョロキョロしていた。

「お腹空いてる?」

 アンリの問いに、兎は鼻を動かして答えた。

「ちょっと待てって」

 スティック状に切ったニンジンを与えたら、兎はむしゃぶりつき、あっという間に一本平らげた。

「パパにもやらせてくれ」

 興味を惹かれたデレクが、餌を口元に近づける。が、兎は「ブーッ」と鳴いて、警戒音を発した。

「なんだ、私じゃあ不満なのか?こいつオスだな。怪しからん」

「パパ、代わって」

 持ち手がアンリになると、兎は警戒心を解いた。

「名前など付けても、飼わんぞ」

「分かってる」

 アンリは嫉妬する父親を鼻であしらった。

「好きなだけ雨宿りしておいき」

 満腹になった兎は目を瞑った。アンリは父親が病院の待合室から回収してきた古雑誌を、新聞箱から掘り出してきて、ソファに着いた。『クライム・マガジン』六月号をチェックした。目次には、「児童誘拐事件」「ピカソ奪還」「イーストエンドの通り魔」「伯爵家の消えた遺産」「スプーン売りのダイヤ盗難事件」「世界の探偵特集」「注目のミステリー新刊本」の項目が並ぶ。


 児童誘拐事件早期解決

 五月三日午後十五時四二分、リンド家で発生したキャシルちゃん(九歳)誘拐事件。犯人の情報が掴めないまま一週間半ばを迎え、奪還は絶望視されていた。そんな中、リンド家はある私立探偵に望みをかけた。探偵は現場を検証すると、ものの数秒で犯人の人相、逃げた方角を割り出した。探偵が言うに、これは組織の犯行であり、目的は人身売買とのこと。

「犯人は中国の商人」「犯行グループに女がいる」「近所の空き家を借りていた」「黒のワゴン車が使用された」「根城はテムズ川の船着き場、旧造船倉庫」と推論が立てられた。

 干上がった地から情報を抽出していく光景は、まさに小説の主人公さながらであった。刑事たちは、異論することなく探偵の指示に従った。顔見知りか?一行は廃墟倉庫へ向かった。警察は奴隷商人の根城に突入、組織を壊滅させた。一味は新たな誘拐を目論んでいた矢先であった。キャシルちゃんは無事保護され、親元に帰された。

 ヤードが一目置くこの影武者は×××……。この事件に一役買った×××氏は犯罪者に恐れられる人物に成りえるだろう。風の如く現れたニューヒーローに当社は今後も注目していく。英国国民を代表して我々は×××氏に賛美を送る。

 

 へえー、凄腕探偵って実在するのね。

「こうやって二人で過ごすのも、僅(わず)かだな」

「えっ?」

 予期せぬ言葉に、思わず手から雑誌がすり落ちた。アンリは九月からロンドン大学に通うため、慣れ親しんだこの地を離れ都会で一人暮らしをする予定となっている。

「しばらくは、慣れないだろうな」

 物悲しい父親の声が、妙にこそばゆかった。

「大げさね。休みには帰ってくるわ」

 溜息と共に「お前は分かっていない」という顔をされた。

「こことは環境が変わる。何かあっても、パパはすぐに駆けつけてやれないんだ」

「私の心配?」

「お前が友達をつくってくれれば、少しは安心するが」

「生活力のないパパこそ、いい相手を見つけるべきじゃないの」

 この人は家事の才能がからっきしなのだ。今後を考え、料理を教えた時、数秒目を放しただけで、フライパンから炎を噴かせ、コンロを止めることもせず「火事だ、逃げろー」と大騒ぎする始末。自分がいなかったら、家はまる焦げになっていたと本気で思った。こんな事もあったが、最後は彼の「大丈夫」という言葉を信じ、ロンドンへ行く決意固めたが。判断を見誤ったか?見合いするべきなのは、アンタだろと切に思う。しかし、当人の先妻への想いが大きいだけに、当分それは望めないと見た。

「今はお前の話をしている」

 デレクは父親の威厳を示した。彼の長年の悩みは、娘に友達ができないことだ。その理由に、混血児、童顔、他人より癖毛が目立つといった事柄が関連しているわけではない。原因はそんな世間並みな事ではないのだ。アンリが同級生たちと相容れないのは、彼女の奇怪な能力に要因があった。

 アンリが九歳の頃、学校帰りに母親の仕事場である博物館へ寄った時に遡(さかのぼ)る。

「ごめんね、アン。まだ三十分はかかりそうなの。先に帰ってる?それとも待ってる?」

「待ってる」

「なら、学芸員室で待ってて。ちゃんとみんなに挨拶してね」

 アンリは職員に挨拶をして、母親のデスクに座って読書を始めた。

「ジュースとお菓子、どうぞ。アンリちゃん、読書好きねぇ。…『ダレン・シャン』。吸血鬼好きなの?」

 女性職員が、表紙を覗いて訊いてきた。アンリは彼女の問いに頷いて答えた。

「企画展で『吸血鬼』をやっているから、見てくれば?」

 そう言って、女性は展覧会のチラシを持ってきてくれた。興味を惹かれたアンリは読書を切り上げ、もらったチラシを手に会場へ向かった。

最初のコーナーには、ゲーテの『コリントの花嫁』、ブラム・ストーカーの『吸血鬼』、シェリダン・レ・ファニュの『カミーラ』といった吸血鬼題材の小説が十一冊並んでいた。その中には、アンリのバイブルも加わっていた。次のコーナーには、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(一九二二)、『魔人ドラキュラ』(一九三一)、『女ドラキュラ』(一九三六)、『吸血鬼ドラキュラ』(一九五八)、『吸血鬼コーガ伯爵』(一九七〇)の、吸血鬼映画のポスターが十五枚飾られていた。この展覧会で、アンリが一番心を奪われた品は、十九世紀に実用されたというドラキュラ退治キットだった。怪物がいた時代か、ロマンがあってゾクゾクする。

 特別展を見終え、常設展示室へ移った。この部屋の展示物は、すべて初代館長サムエル・ボットベリー氏が集めたコレクションで構成されている。古代エジプトのコーナーには、化粧道具や宝飾品、医術用具、神々の小像、セネトゲーム(二人対戦の盤上遊戯)の盤と駒、ヒヒのミイラ――。定期的に展示の入れ替えが行われているため、学校の野外授業で訪れた際にはなかった品もあった。

『素敵なリボン』

「!」

 それは、インカ帝国のコーナーで工芸品を見ていた時に聞こえた声であった。調子から子どものものと思われた。しかし、閉館後の室内には、自分しかいないはずだ。人らしいものといったら、展示ケースの中にいるボロを纏った少女のミイラだけ。まさかね。廊下に出て確認したが、いたのは作業をしている三人の学芸員だけであった。それでも「リボン」という単語が鮮明に耳にこびりついていた。アンリは二つ縛りにしている両髪の先端を弄った。ここでリボンといったら、自分の髪飾りしか見当がつかない。迷いに迷った末、ミイラの正面に立った。寸前で馬鹿げているとブレーキを掛けるも、ガラス越しに囁いた。

「ありがとう」

 ミイラから反応は返ってこない。

「やっぱり、馬鹿げてた」

『あなた、私の声がわかるの?』

 アンリは逸らしかけた視線を元に戻した。彼女は、よろめきながらケースから離れた。少女の目が捉えたのは、生命を宿したミイラの姿であった。勘違いではなかった。

「お待たせ、アン。――何か気に入ったものでもあったの?」

 仕事を終えた母親が迎えに来た。

 「ママ、ミイラが――ミイラが――ううご」

 アンリは動揺で、呂律が回らなくなっていた。

「どうしちゃったの、アン。……うそでしょ」

 母親は娘の蒼ざめた顔から展示ケースに視線を移した。

「……ティティ、あなた、娘と話したの?」

『ええ』

ガクッ、タッタ――ドバン。母親にとどめを刺されたアンリは、派手に尻餅をついた。

「アン!大丈夫?」『だいじょうぶ?』

 ママがミイラと――どうなってるの?

 展示室を出てから母親と娘は一言も交わさず帰路についた。帰宅すると、アンリは早々自室に上がっていった。それでも、夕食時になると居間へ降りていく。今夜はお子様ランチ風に盛り付けされたケチャップライスに野菜たっぷりチーズグラタン、温かいコーンスープが食卓を飾っていた。

「今日はアンリの大好物ばかりだな。急がないとお代わりはパパの胃袋にいっちゃうぞ」

 父親が煽りかけたが、それに対する娘の返しは薄いものだった。通常なら挑発にのって負けん気を見せるところ。彼は悄然たる我が子に憂心を抱いた。

「アン、お前もしや――ついに――相手はどんな奴だ?」

 我が子が恋の病にかかったのではと、胸を騒がせる。

「あなた、アンリのクラスで風邪が流行っているらしいの。この子、菌をもらったのかも」

 妻は勘違いな方向にいかないうちに夫の口を封じた。

「そうか、それなら早く寝た方がいいな」

 デレク・スタンフォードは内心、自身の恋愛話を披露する機会を失い落胆した。アンリは好物を前にしているにも関わらず、今日に限ってはフォークを持つ手が進まない。ホワイトソースの中から引き揚げたジャガイモを再度浸し、チーズと絡ませる。彼女はそれを口に運ばず、フォークをくるくる回していた。

 母親が娘の名前を呼んで嗜(たしな)めた。注意を受けたアンリは、荷立っていた訳ではないので素直に従った。デレクは妻と娘のギクシャク感に気づくも、黙っていた。やさしい湯気の立つ食卓にそぐわない空気が漂っていた。アンリはお代わり分をペロッと平らげていても可笑しくない頃合いに、漸く皿の上を片付けた。

 彼女が二階へ上がっていくと、ソファで寛いでいたデレクが、キッチンにいる妻に向かって言った。

「なあ、本当は何があったんだ」

「あら、ばれてた」

「当然だ、見え透いた嘘をついて。私はこの村の医者だぞ」

「それがね……」

 アンリがベッドに寝そべって読書に耽っていると、母親が入って来た。

「アン、パンプディングでお茶にしましょう。……話しもあるの」

 アンリはリグル一世を肩に乗せ、居間に降りていく。暖炉前のソファに両親と向き合って座った。母親が切り出した。

「アン、昼間は二重に驚いたでしょうね」

「……」 

 お湯が沸くのを待ちながら、彼女は娘にこれまで隠してきた秘密を打ち明けていった。

「ママは学生時代に、アシュモーリアン博物館で学芸員実習をして、そこで奇妙な体験をしたの。

 あれは、午後の見学ツアーの時だった。学生がシストラム(古代の楽器)の解説をしていたら、どこからか『嘘を言うな。これは儀式用の楽器だ』『男性のじゃなく女性の楽器よ』という男女の篭った罵声が響いてきたの。でも、私以外にその難癖を聞いた人はいなかった。あの声は天の声なんてレベルじゃなかったから、確かめずにはいられなくて、帰り時に怪奇現象の起きた場所へ一人で乗り込んで行ったわ。閉館していたから、展示室には誰もいないのに、また声がしたのよ。

『この前、映画の撮影で来た男優、あなたと骨格がそっくりだったわね』

『そうか?それより、一緒にいた女優の方が鮮明に覚えてる。久々にミイラ職人の血が疼いたよ』

『フンッ、あんな女がなに?生人時の私に比べたら、比較の対象にすらならないわ』

 篭り声をたどったら、二体のミイラに行きついた。そしたら彼らが、ジェスチャーを交えて話していてね。自分の聴視が捉えたものに仰天して、ママはその場から逃げだしたわ。誰かに相談できることではないから、得体のしれない恐怖に駆られた。でも、そのままにしておけなくて、実習の最終日に現場に行ったの。そしたら、案の定ミイラが楽しそうに会話していたわ。今度は割り切って話しかけてみたら、反応が返ってきた。

『こりゃ、魂消た。俺らの声が分かる生人がいるとは……』

 彼らも偶然絶後の出来事に驚いていたわ。その後、博物館に通い詰めているうちに、彼らと親しくなっていったの。二体は別々にエジプトから船で英国(ロンドン)に渡って来て、十九世紀の改装時に対面して恋に落ち、結婚の契りを交わしたんですって。百年以上いるから、館内事情に詳しかった。裏も含めてね」

「たとえば?」

「それは、家族にも公表できない秘密よ」

 ちぇっ、そういうのが一番気になるのに。

「お湯が沸いたようね。続きは紅茶を淹れてからね」

 母親が中座する。彼女がキッチンへ行っている間、話は中断となる。

 これまで、当たり前のようにミイラを死骸と同じ括りにしていたが、彼らに意思があるならこの考えは覆される。人間の欲望によって特効薬の餌食になった者は数知れず。その者たちは不運だったとしか言いようがない。

 テーブルに自家製プディングとお茶が用意された。甘美な空間で話は再開した。

「夫婦の惚気話を聞いていたら、ミイラも恋愛するんだって、変に納得しちゃって。生人と大差ないと思ったら、もう怖くなくなっていたわ。それどころか、ミイラと関わることが日常化していたの。卒業後はアッシュモーリアンで働くつもりが、パパと出逢って、未来図が狂ったのよ」

「私の所為か?」

 渋い顔をした夫に妻は笑う。

「バイブリーへ移って半年後にアンリが生まれた。その時、パパについて来て正解だったと確信できたわ。働き口にも恵まれたしね」

 母親の秘密を知るのは、その夫と博物館の職員のみ。了知した後でも、自分が除け者にされていた事実には不服が残る。

「おかげで、ティティと親しくなれた」

 ティティというのは、今日アンリが言葉を交わしたミイラだ。もう一度あの子と話したい。これまで抱いたことのなかった感情が芽生えた。そのことを両親に告げると、二人は顔を見合わせて言った。

「「好きにしなさい」」

「お前が友達をつくろうとは珍しい」

「でも、人がいる時は注意してね」

 母親がやんわり釘を刺す。

「わかってる」アンリは調子よく返事した。

 翌日からアンリとミイラとの奇妙な交流が始まった。ティティはインカの出身で、十六歳で生け贄にされた過去をもつ。その時代、神への捧げものとして、子どもが生け贄にされた例は少なくなかったという。仲が深まるにつれ、アンリも母親同様古代文化に興味をもつようになった。

 クリスマスには、初めて出逢った日にしていた赤いリボンをプレゼントした。事情を知っている館長が特別にティティの髪につける許可をくれたのだ。これでティティの髪は女の子らしくなった。二人の友人の証だ。それでアンリも毎日赤いリボンをつけるようにしている。

 母親の死後、会う回数はさらに増していった。最初の忠告などすっかり頭から消えていた。そんなある日、クラスメートが博物館でアンリがミイラに話しかけている光景を目撃する。その結果、学校で噂が広がってしまった。元々学校に友達がいなかった当人にとっては、大した痛手ではなかったが、同級生からはさらに奇人扱いの目で見られるようになった。仮にクラスの子と友好関係を築いたところで、彼らの間で飛び交う話題を理解することはなかっただろう。つまり、アンリ・スタンフォードは人間付き合いより、ミイラ付き合いに秀でているということだ。

「私は一人でも、やっていける」

 彼女は剥(ふく)れながらぼそっと呟いだ。デレクは不服そうな顔を見せたが、もう咎めることはしなかった。

                     ******


ロンドンの空が茜色にそまってきた頃、ウィリアム・マーカス・ジェーソンはある男に呼ばれ、ブロードウェイ街に建つビルの最上階に来ていた。

 指定の部屋に入っていくと、その男は窓辺のデスクにいながら来客用のソファを勧めてきた。男の髪には白髪が混じり始めていた。口ひげを生やしているがむさ苦しさはない。ケビン・コスナー似のこの貴紳は、既婚者でありながら婦警たちが放っておかない。誕生日が迫っているので、デスク脇に置かれた箱は、愛人希望者からのプレゼントで溢れていた。地位、容姿を兼ねそろえた彼は、この組織に属する多くの男の憧れと嫉妬の的であった。

 ウィリアムが座ると、男は一冊のファイルを取り出した。革張りの椅子から来客ソファに身を移し、青年にそれを渡した。ウィリアムはファイルをぱらぱら捲る。それは、ある少女に関する報告書であった。一所の不可解な記述を抜かせば、一般人に過ぎなかった。

「ジェイスさん、この子は?」

「儂(わし)の旧友の娘さんでな。近々、進学のためロンドンに越してくる」

「なぜ、私にこの子のプロフィールを見せるのです?」

 それなりの理由がなければ、友人の娘の身元を洗うことはしないはず。

「それは、彼女を君らのフラットに招こうと考えたからだ」

 ウィリアムは彼の提案に耳を疑った。身を乗り出して聞き返した。

「本気ですか?知ったらあいつが黙っていませんよ」

「あいつが前に進むには、呪縛を解く者が必要だ。儂は報告書を見て、この子が適任だと思った。君が黙っていてくれれば、一週間はもたせられるだろう。」

「あいつ」というのはジェイス氏の息子のことである。三年前、エジプトである事件に遭い、心に深傷を負ってしまった。

「今の彼は探偵業でも十分に才能を生かせています。なのに、また過去の記憶で苦しめるだなんて。何のために……」

「あいつが探偵として成功しているのは確かだ。しかし、それが天職とは思えん。…君も内心では儂と同意見のはずだ」

「俺だって、願っていることは同じです。――ですが、あの情緒不安時を思い返すと……あなたに賛成できない。――下手したら、生気を抜くことにだってなりかねない。そしたら、あなたは息子さんを一生失うことになりますよ、ジェイスさん」

 ウィリアムは親友を想い、感情を表に出して訴えた。

「その恐れがあろうとも、儂はかけたいのだよ。今の状態まで立ち直らせてくれた君には済まないと思っているがね。妻は了解してくれた。頼むウィル、君の協力が不可欠なのだ」

 ウィリアムは上司という名の魔物に選択を強いられたのだった。


                     ******


引っ越しまで十一日を切った八月四日の午後、荷造りをしているアンリの元にデレクがやってきた。

「アン、お茶にしよう」

「やだ、もう時間」

 時計の文字盤を見たアンリは、畳み掛けの洋服をほっぽり、父親を抜かして居間に駆け込んだ。

「なんだ、テレビか」

 デレクは画面に釘付けの娘に代わり、キッチンで湯を沸かす。冷蔵庫から焼き菓子を出して皿に並べた。

「お茶が入りましたよ、お嬢さん」

 盆にのったティーセットがソファテーブルに置かれた。アンリはテレビから流れてくるナレーションに聴き入っていた。砂時計が落ち切ると、デレクはポットの紅茶をカップに注いだ。スタンフォード家では休日の三時半にアフタヌーンティーをするのが日課となっている。今日は引っ越し準備で忙しかったため、十六時を回っていた。いつもは、作り立てのお菓子とサンドイッチを用意するが、今回は市販のもので補った。

「あれ?」

 突然テレビ画面が消えた。

「何?…停電?」

 アンリが父親を見ると、彼の手にリモコンが握られていた。娘に断りなく電源を切ったのだ。アンリがリモコンを奪おうとすると、デレクは尻の下に隠した。

「大事な話がある」

「今じゃなきゃダメなの」

「先週同じのを見ただろ」

「同じじゃない。先週はマヤ文明で、今日はインカ文明よ」

「アメリカ大陸には変わりない」

 大雑把に括らないで。北(メキシコ)と南(ペルー)じゃ、えらい違いよ。

「もういい、さっさと済ませて」

 アンリは眉を寄せ、腕組みをした。

「何を怒っている。途端に顔に出るのがお前の悪い癖だ」

 自分の世界を踏みにじられたら誰だってそういう顔になる。

「まあいい、聞きなさい。三日前、ロンドンにいる旧友のアルフレッド・ジェイスから電話をもらった。最初は昔の思い出話に花が咲いたが、途中互いの子どもの話に移ってな。――お前がロンドンへ行くと話したら、都会での女の子の一人暮らしは危険がと忠告された」

 アンリは「それが?」という顔をしてみせる。ロンドンが犯罪多発地帯だという事実は今に知った事ではない。

「まさか、パパもついてくるっていうの?」

「そうではない。相談したら、空き家のある彼の息子宅で一緒に暮らしたらと、提案をくれたのだ。頼れる男性が傍にいればお前も安心だろうと。そこでパパは、彼に息子のディック君へお前のことを伝えてもらうよう頼んだ」

 アンリにとっては晴天の霹靂(へきれき)であった。

「なんて勝手なの。そもそも私は頼んでない」

 堪忍袋が切れ、父親を詰った。デレクは最後まで聞くよう娘を制した。

「それで、昨夜連絡をもらった。ディック君も快く了承してくれたそうだ。これで、パパは気兼ねなくお前を送り出せる」

 彼は言い終わると、満足な顔をした。

「今頃遅いわ。フラットの契約も引っ越し業者との手続きも済んでいるのよ」

「問題ない。すべてアルフレッドが処理してくれた。新居から大学は徒歩で十分の距離だ。こんな条件のいい所はないぞ」

『信じらせない』アンリは心の中で叫んだ。父親ともあろう人が、嫁入り前の純情な娘を野獣の檻へ放るつもりでいるなんて。まったくその友人とやらも、とんだお節介を焼いてくれたものだ。

「ママがいたら、絶対男の家に放るなんてしなかった」

「何言ってる。ディック君は大人だ。子どもに手は出さんよ」

 アンリは呆れてものが言えませんでした。これだから男親は困るのです。確かに、誰からも恋愛対象に見られた例はないけど、私だって一応レディなんだからね。

                       

                       ****** 


ジェイス氏の通告から、五日経った晩、仕事を終えたウィリアムが帰宅すると、二階の居間の共用ソファに寝そべって、グラスを傾けているルームメートの姿があった。彼はディック・アルフレッド・ジェイス。現在、注目の私立探偵として知名度を上げている。加えて、ルックスの良さで女性ファンを獲得しつつある。

「早いな。ロンドンは見違えるほど平和になったもんだ」

 こういう言葉が出た時は、機嫌の悪い証拠である。

「結構なことだろ。何のために、日々犯罪者と取っ組み合っていると思ってる」

 ウィリアムは慣れた口で友人の皮肉をかわした。

「一人で飲み干すな。ヤケ酒は毒だぞ」

 彼はグラスを奪い、一口頂戴した。

「いつまでも仏頂面するな。ファンが逃げてくぜ」

「するに決まっているだろう。あのタヌキ親爺、十八のガキ相手に何が花嫁だ」

「美人なら気も変わるさ」

 写真で知っているが、あえて期待を持たせるように言ってみた。美人とはいかないが、可愛らしい子ではあった。

「だったらお前に譲ってやるよ」

「俺が横取りしたら、親爺さんに殺されちまうだろ」

 ディックはムッとした表情をして、ソファに突っ伏した。機嫌を損ねた友人を横目にウィリアムは思った。

 ジェイス氏はアンリ・スタンフォードという少女に、息子を救う素質を感じたようだが、同時に彼女はディックにとって爆弾と化する要素も持ち合わせているのだ。そんな危い人物をここに放るなんて、正気の沙汰ではない。しかし、ジェイス氏に逆らうことは息子ですらできないのだから、受け入れる他なかった。



                    ******


 そんなこんなでアンリがバイブリー村から旅立つ朝が来たのです。

 少女は、六時にベッドを降りると、机の上にあるシェリン著『シェリン・エベレットの魔女学』を手に、キッチンへ降りて行った。湯を沸かし、夜に焼いたクッキーを二枚小皿に盛る。残りは缶に詰めた。早朝のお茶と読書を楽しみ、朝食を拵えた。七時半に熟睡している父親とリグル二世、それから三週間前から飼っている兎を起こしに行った。兎は雨宿りの日以降、居心地が良いのか住み着いてしまった。

「なんだ、これだけか」

食卓に着いた父親の第一声である。

「パパのリクエストには答えたつもりですけど?」

「そうなんだが、最後の朝食にしては物足りなさが」

 デレクはフレンチトーストとサラダというシンプルな朝食に文句をつけた。そんな親子のやり取りをよそに、兎がアンリの足に体を擦り付ける。

「ごめんね、テオン」

 餌をせがむ彼に、ニンジンを出してやった。

「朝から媚びるとは怪しからん奴」

 デレクは易々食事に有りつく兎を非難した。

「パパ」

「お前がかわいげのないコイツを招いたのが悪い」

「同意したでしょ」

 互いに眉根を寄せ、火花を散らせた。二人は黙りこくって、小麦色に輝くトーストにハチミツを垂らし、添えてある生クリームを付け口に運んだ。すると、サクふわの触感が幸福感を呼び起こした。

「喧嘩別れは嫌よ」

 巣立ちの日につまらない蟠(わだかま)りは残したくない。

「そうだな、すまん」

 デレクは悄気たアンリを元気づける。

「やはり、アンの料理は絶品だな。文句のつけようがない」

「だったら、さっきのケチはなによ」

「ケチではない。愛娘への愛情表現の一種だ」

 恥ずかしさと悪寒でアンリは狼狽えた。

「もう、狂わすこと言わないで」

 洗い物が終えたアンリは、自室のベランダで布団を干し、殺風景となった室内に戻った。寝具が外されたベッド、空の本棚、クローゼット、机。ぬいぐるみや置物が撤収された箪笥の上も、賑やかさを失い、味気なくなっていた。ここにはいつも自分だけの世界が納まっていた。子供を手放す親の気持ちに近い心境に思えた。

「アン、行くか」

 階段から声がかかった。アンリは一階に降りると、テオンと遊んでいたリグル二世に呼びかけた。

「リグル、出発よ。…じゃあね、テオン」

「此奴との生活はしっくり来ない。アン、リグルと交換していかないか。…君は留まる気はないか、リグル?」

 リグル二世は「グルルル」と鳴いて、デレクの申し出を断わった。

「お前まで私を見放すのか」

「話し相手がいるだけボケないわ。テオン君、パパをよろしくね」

 アンリは兎の顎を擦って言った。

「世話をするのは私だぞ。おい、テオン、留守中のマナーは守れよ」

 兎は無視するかのように目を瞑った。

「私はここの主だぞ。お前を追い出す権限も持っている。分かったら、敬意を示さないか」

「二人共仲良くしてよね」

 とうとう博物館にいるミイラ以外に友達はできなかったが、この村には愛着がある。古風な石造りの街並みは、ミス・マープルが暮らすセント・メアリミード村を想わせ、何か事件が起きそうな期待感を抱かせてくれる。村の中心を流れるコルン川には水鳥が遊びにくるし、ボットベリー博物館の四件隣にはフルーツケーキが絶品のティーハウスもある。また、月一の古本市は胸焦がれるイベントだ。それに、ここには家族の思い出が詰まった家がある。確かに一番心細くなるのは自分かもしれない。

 アンリは父親が運転する車で駅へ向かう。しかし、その前に彼女には寄るべき場所が二カ所あります。母親の眠る墓地と、大親友のいるボットベリー博物館です。

 墓地のあるセント・メアリー教会に着くと、アンリは仏花を手にリグル二世と車を降りた。スタンフォードの名が刻まれた平石の前に花を手向けた。そして、眠る母親にここ一週間の出来事と父親への不満を巻き散らした。

「パパったら、私に内緒でとんでもない事するんだから。いくら友人の息子だからって、私は面識すらないのよ。それなのに一緒に住むなんて、あり得ない。――それと、今年も再婚の気は無いみたい。そろそろ行かなきゃ、これからティティと会うの。またねママ、ロンドンに行ってきます」

 墓への挨拶を済ませ、博物館に向かった。開館二十分前に、職員専用の入り口から建物に入らせてもらった。

『アン!』

 ティティが展示室に入ってきた彼女の姿を捉え、声を上げた。

『まあ、リグちゃんも来てくれたのね』

 アンリとティティは許された時間まで、女子トークを交わした。

『ディックさん、どんな男性かしらね』

「さあ、三十の探偵としか聞いてないから」

『名前の響きはハンサムね』

「そうかな。まあ、どうでもいいけど」

『アンたら、そろそろ恋(トキメキ)を覚えなきゃ』

「年の差十三よ。対象外だわ」

『あら、大人の男性は魅力的よ』

「なんなの、ティティまで」

『親友の幸せを願ってるの』

「私は一人たくましく生きていくんだからいいの。それにトキメキならしょっちゅうしてる」

『あなたの言う、キャラクターや趣味に対するそれは、恋ではありません』

「脳内状態は一緒よ」

『意地っ張り』

ティティもアンリの女ずれした性格に呆れている者の一人だった。

「お互い様でしょ」

「アンリちゃん、弾んでいる処で悪いけど……」

 ベルエ館長が腕時計を突いて合図を送ってきた。

『行ってしまうのね』

 今日まで、そんな素振りを見せなかったティティが涙を滲ませた。つられてアンリの目からも、塩っぱい味の雫が滴った。

「ティティ、私……」

「頑張るのよ、アン」

 懇親の別れを終えて、館長に礼を言い、立ち去ろうとした。

「私もミイラと会話できたらね。話相手にはなれたのに」

 館長が申し訳なさそうに言った。

「シッ――話かるだけでも――シック、手紙書きます。そしたら、ティティに読んであげて下さい」

 アンリは鼻をぐずらせ言った。

「分かったよ。二人は本当に仲がいいんだね」

 アンリは建物を出て車に乗り込んだ。ポシェットからハンカチを出して目頭を押さえた。

「なんだ、泣いているのか。アンにしては珍しい」

 博物館を出て二一分後、ケンブル駅に到着した。駅のカフェで早めの昼食を済ませ、父親とプラットホームのベンチに座って列車を待った。

「大丈夫か?」

「何が?…わっ私は、家を出る覚悟なんて一年前から出来ているのよ。当日になって怖気づくものですか」

「そうか。それにしは声が上擦ってないか」

「熱いから、喉がカラカラになっただけ」

 誤魔化すように、購入したばかりのジュースを開けた。

「忘れ物はないな。あっちに着いたら連絡しろよ。それと、ディック君の邪魔はしないように」

 これから生活する宅(いえ)は探偵事務所兼用となっているらしい。

「心配しないで」

「そうだな。お前はしっかりしてるもんな」

 一番ホームに十三時二九分発パディントン行きが入線した。

「行ってきます」

「しっかりな」

 ここからロンドンまで一時間十七分の旅路である。アンリは乗車口に足をかける寸前に振り返り、父親に告げた。

「家を爆発させることだけはしないでね」

 忠告した後で、わざとウインクしてみせた。その時の父親の顔といったら……アンリは生涯忘れられないだろう。





             


 



 




 










 

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