大英博物館のミイラ

謝凛(シェリン)

1.パンドラの棺(はこ)

 ジュッツパチッ。

 侍女が出て行って、どれほど経過したか。娘はそっと寝台を降り、履物に足を滑らせた。床に置かれた収納箱から、亜麻布の包みを取り出した。灯したランプを片手に、それを抱え、部屋の入口に立つ。見えない敵に怯えながら頑丈な扉に手をかけた。扉が軋むたび心臓が一拍飛び上がった。だが、心配とは裏腹に、廊下は暗闇に覆われ、静寂しきっていた。娘はからだ一つ分の隙間から表へ飛び出した。ランプで行く手を照らし、倉庫のある建物群へ向かって歩き出した。

 南のハーレムから大廊下に移ろうとした時、東の王の家の方角より向かってくる二人の兵士を捉えた。彼らは次の巡回エリアであるハーレム群へ迫ってくる。笑い声から、最低ランクに属す酒浸りのワトゥスと、手癖の悪いアフメスだと分かった。絡まれると厄介極まりない輩である。

 今いる所には、隠れ蓑になる巨像も柱もない。どこかの部屋へ逃げ込むにも、扉の音で気づかれてしまう。娘は限られた時間の中で、知恵を絞った。彼女はランプを床に置くと、亜麻布から包まれていた物を抜きとった。そして、布を広げ頭から被り、鼻と口を覆った。首にかかる護符に接吻してから、兵士の前に出ていった。

 人気を捉えた彼らは、やっといびる獲物を見つけたと喜びあう。

「そこの者、止まれ」

「名を申せ」

「侍女のメフィアと申します」

 相手が女と知ると、ワトゥスの声に弾みが生まれた。

「聞かない名だ。王宮に来て何年だ?」

「四年になります」

「ここで何を?」

「王妃さまに安眠薬を届けて、これから自室へ帰るところです」

 女に見境のないアフメスが舐めまわすように見て、訊く。

「なぜ、そのように布で顔を覆っているのだ?」

「晩方、ベニバナの花粉を吸いこんでしまい、鼻のムズムズがまだ引かないのです」

「それは災難であったな」

 アフメスに下品な手つきで肩を引き寄せられる。娘にアレルギー反応が出そうなほどの悪寒が走った。

「メフィアといったか。侍女といえ、夜更けの出歩きは危険だ。我々が部屋まで送り届けよう」

「お二人は、巡回途中なのでは?」

「遠慮するでない」

 彼らが、親切心からこのような行動をするはずがない。企んでいることなど、否が応でも分かる。

「送っていただく前に……」

 娘は灯火具を預け、首から護符を取った。

「何をするのだ?」

「儀式のようなものです」

 そう言ってから、ジャンプした猫が視界をかすめる程の早さで、アフメスに預けた灯火へ、護符に仕込んであった薬草を投入した。その煙を吸ったワトゥスとアフメスは、屈強な身体をふらつかせ、焦点が合わなくなるまで娘を罵倒し、睨み、地面に崩れていった。彼らが起き上がる前に、任務を遂行すればこっちのもの。この王宮にメフィアという名の侍女は存在しないのだから。

 娘は出入り口隅に隠しておいたものを布に包み直し、炬火(たいまつ)を奪うと、大廊下を横切って倉庫群へ移った。一群を通過し、二群にやってきた。娘は東側五番目の倉庫の扉を開けた。入って数歩の距離で、火光が空の人型棺を捉えた。この棺に入る人物は、二ヵ月前から墓の側にある工房でミイラになる工程を受けている。棺はこれから船で墓地へ運ばれる予定となっている。

 娘は壁に炬火を掛け、棺の前で膝をついた。しばらく、空棺(からばこ)を見詰めていたと思うと突然肩を落として泣き崩れた。これまで積もっていた負の感情が洪水のごとく溢れ出た。

「私はどうしたらいいの」

 彼女は絶望感に打ちひしがれた。涙の嵐が過ぎると、先程まで小刻みに震えていた肩から徐々に力が抜けていった。呼吸の乱れも治まり、再び棺へ視線をやった。

「あんまりよ」

 鮮やかな装飾が施されているが、全体に欠損部が目立ち、新しく職人に誂えさせたとは言い難い外観をしていた。壁に立て掛けられた蓋も、ひどい損傷があった。もはや、死者に対する敬意などみじんも感じられない。身分相応の埋葬準備とは程遠かった。

 娘は棺と同日に運び出される副葬品類に持ってきた布をまぎらせ、倉庫を後にした。心持ちとは裏腹の燦爛(さんらん)たる星空の下で、未だ兵士は横たわっていた。娘は床に転がっている灯火具を回収し、炬火と持ち替えると、南のハーレムにある自室に向かって長廊下を駆けていった。もう大丈夫と安堵して、右折した瞬間だった。

「下女も付けず出歩くとは感心しない」

「!」

 声に驚いて、石床にランプを落とした。

「危ないな」

声の主が、転がった灯火具を起こす。

「夜更けに不用心じゃないか」

 暗闇から現れた男は、一歩一歩距離を縮めてきた。

「あなたこそ、護衛を付けず出歩いているじゃない」

 娘は内心の動揺を隠すよう虚勢を張る。倉庫へ行ったことがばれていないことを祈った。

「どうして、部屋の前にいるの」

「親睦を深めるために決まっているだろう。奴の葬儀が終われば、我々は正式な夫婦になるのだから」

 娘は危険を感じて後退るが、すぐ壁に背を塞がれてしまった。わずかな隙間から脱出を試みたが、手首をつかまれ引き戻されてしまう。逃げるタイミングを失った彼女は、鋭い目で反言した。

「親睦を深める相手を間違えているわよ」

「ハーレムの女どもか?残念ながら俺の興味の対象は、悪知恵の働く、巻き毛のかわいい女だけさ。兵士を制止不能にしたのは君だろ。奴らに襲われかけたか?それなら賢明な対処だな。……しかし、あの二人に死なれるのは惜しい」

「麻痺程度にケシを燃やしただけ。ほっといたって、精々風邪をひくぐらいよ」

「なら、部下が君の首に手をかけないうちに寝室へ入ろう」

「私はあなたと親睦を深めるつもりはない。だから、帰って」

「その望みだけは叶えられない」

 そう言って男は娘を担ぎ、肩の上で暴れる小さな体を寝台へ投げやった。

「私の可愛いプリンセス」

 身体を覆う薄い生地の上から男の生暖かい胸板があたった。肌の密着した箇所が火照り出す。

「イヤッ」

 両手で胸を押し返そうともがくが、華奢な腕では限界があった。男が耳元で囁いた。

「あいつは忘れろ」

 その声に嫉妬と憎悪が混じる。

「あの人のことなんて考えてない」

 顔を赤らめ、震え出す身体と声を必死で抑えた。表情を見られないよう俯くも、次から次へ玉のような雫が頬をつたっていく。何度も涙を拭った結果、頬は仄かなバラ色に染まった。その姿が、娘を色っぽく見せた。この状況に男の欲望がとぐろを巻いた。両手で彼女の顔を情熱的に包み、指で唇を縁取るよう二、三度なぞった。男が何をしようとしているかは明白だった。娘は拒絶した。

「触らないで、人殺し」

 怒った男は、強引に女の口を塞いだ。舌に熱がこもり、欲情が露わになった。一方的な抱擁を重ね、喘ぐ女に何度も接吻を仕掛けた。やがて自身にも呼吸の乱れがきて、身体を離した。

 解放された娘は放心状態にあった。湿った唇頭を指先で掠めると、触れられた箇所が疼き始める。恥辱められたショックで涙が滲み出た。

「なぜ、俺を受け入れない」

 視界が潤んで男の表情は読み取れないが、声は心外だと訴えていた。 

「それは……あなたが一番……分かっているでしょ。……大っ嫌い」

 娘は玉の雫をボロボロさせ、言い放った。

「強情な女だ」

 激怒した男は、彼女のか弱い腕を押さえつけた。女は身体をバタつかせ抵抗したが、結果は目に見えた。やがて、熱に侵され、意識は遠のいていった。視界はぼやけ塞がっていく。

「君は俺からは逃げられない……永遠に」

 言葉が終わると同時に、娘は闇に囚われた。







 




 


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