第9章

第九章「ゾンビ」


 巨人に会うのはこれで二度目だ。奴は以前も夜中にやって来て、心地良い眠りを妨げたのだ。不気味な顔は二度目もやはり不気味でしかない。しかも、夜中に目が覚めると突然目の前にあの大きな顔があるのだから、心臓が止まった後に血が逆流してしまうほどの驚きなのである。

「何なんだあんたは!」

 踏み付けられればひと溜まりない程の体長の差があるのも忘れ、思わず怒りを込めて言ってしまった。

 巨人はニヤリとして、歯に巻かれた有刺鉄線のような矯正器具を見せつけた。よく見ると彼はまた白いモコモコを抱えている。

「また過去に連れて行く気か!あんなのもう見たくない!」

 そういうと、白いモコモコが動きだし、素早い動きで僕の目の前に飛んできた。今度のはウサギではなく、小さな白いサルだった。

「もう行きたくないんだ!眠らせてくれ!」

 サルは言うことも聞かずに僕のシッポを引っ張った。僕は激しく怒りサルを威嚇した。サルはそれにも屈せず、僕をからかうようにケタケタ笑って宙返りを見せた。僕は前足の爪と全身の毛を立てて攻撃態勢に入った。サルはまたケタケタ笑って僕に飛びかかって来た。サルの攻撃を避けようと僕は思わず爪を立てた前脚で空を切った。

「ぎゃー!」


 次の瞬間、また昼間の公園に来ていた。

 この日の公園は人々で賑わっていた。いつもの公園だが、ひとつ見慣れない光景があった。人間たちが首輪を付けた人間を引き連れている。その首輪の人間は体の調子が悪いのか、顔が緑色なのだ。

「何だ?あれは?」

 巨人が連れて来た世界だ。細心の注意払い、目立たないように、公園の奥の日の当たらぬベンチに向かった。以前連れて来られた時、過去の僕がいたあのベンチだ。

 ベンチにはやはり男が座っていた。ヨレヨレのスーツに汚れた靴、ボサボサの髪の男は、下を向いて眠っているようだった。間違い無くこいつは人間だった時の僕だ。

「おい!起きろ!」

 僕はもうひとりの僕を怒鳴りつけて起こした。そして、奴が顔を上げた瞬間、背筋が凍りついた。「ぎゃー!」

 その顔の色は首輪を付けた奴らと同じ緑色で、げっそりと頬が痩け酷い匂いがした。そして、僕を睨みつけ、歯を剥き出しにし、両手の爪を立てて襲いかかってきた。僕は緑色の敵の襲撃をかわし木の影に隠れた。

 そのとき、どこからかブルーの帽子に制服を着た三、四人に男たちが現れ、もうひとりの僕であろう緑の敵を素早く網やら刺股を使って取り押さえた。僕は木の影からその様子を見ていた。あの緑の男は確かに僕だ。助けに行くべきなのか。しかし、それは襲われに行くようなものである。緑色の僕は制服に捕まり、公園の外に連れていかれた。こんな捕物騒ぎなど日常茶飯事なのだろうか、周りの者たちは冷ややかな目で冷静に眺めていた。 

 そんな非日常な公園でこれからどうしたものかと考えていたとき、近くにいた一体の緑の奴と目が合った。今まで首輪に繋がれて大人しくしていたのだが、僕を見るなり急に形相が変わり、ゆっくりと僕に近づいてきた。しかし、首輪に繋いだ鎖が進行を妨げ、その端を掴んでいる人間が異変に気付いた。

「キャー!ネコがいるわー!」

 その叫び声に反応し、公園のあちらこちらで次々に悲鳴が聞こえた。

 一難去ってまた一難、今日は人生最悪の日である。何が起こっているのか、僕はパニックになった。

 そのとき、僕の後ろで声が聞こえた。

「バッグの中に入って」

 振り返ってみると、そこには女の子が大きなカバンの口を開けて立っていた。

「ぎゃー!」、僕は驚いて声をあげた。

「急いで!」、女は言った。

 彼女の顔は緑色をしていたが、周りの緑の奴らとは何かが違った。公園の他の緑は男ばかりだが、彼女だけが女なのだ。緑色のバケモノには「雌」というのが正しいかもしれないが、言葉を発したところからすると、人間に近いのかもしれない。敵意は無さそうではあるのだが、食われるのであれば、奴らより彼女の方がまだマシだという究極の選択で、言われるがまま僕は彼女のバッグに入った。彼女は上からスカーフを被せ、僕の頭を押さえ付けた。

「さぁ、行くわよ!」

 スカーフの上から囁く声が聞こえた。


 公園の騒ぎがどんどんと遠くなって行く。どうやら公園を出たようだ。僕は外の様子を見ようと、スカーフの隙間から外を覗いた。すると彼女はまた、スカーフの上から僕の頭を押さえつけて、「もう少し我慢して」と囁いた。

 

 どれくらい歩いたのだろうか、ときどき、車や自転車、人の足音が聞こえる。静かな住宅街に入ったのだろうか。しばらくすると、動きが止まり、ドアの軋みに続いてバタンと閉まる音が聞こえた。どこか部屋に入ったようだ。

「出てきていいわよ」

僕は何処へ連れて来られたのだろうか、おそるおそるバッグから這い出た。意外にも、そこは普通の民家のダイニングルームだった。テーブルの向こうの白を基調としたキッチンは、きちんと整えられている。よく見れば、彼女は緑色の顔にはそぐわずチャーミングで愛想のよさそうな顔立ちをしている。そのとき、キッチンの窓を背にして立っている彼女の背中で何かが動いた。

「キキーッ!」

 小さな生き物が彼女の肩越しに頭を出し、僕の顔を覗いてまたすぐに頭を引っ込めた。

「あ!お前は!」

 巨人が連れてきたサルがそこにいた。

「あなた、この子を虐めたわね!」

 緑の彼女は強い口調で罵るように僕に言った。

「違うんだ!あれは事故だよ!虐めてなんかいない。だけど、爪で引っ掻いたかもしれない」と僕が言うと、サルは腕の傷口を見せ、何かアピールするかのように彼女に訴えた。

「ごめんよ。傷つける気は無かったんだよ」と、僕は素直にサルに謝った。

「謝ったって、もう遅いの。あなたがここへ来たのは、それが原因なのよ」

「ここはどこなんだい?」

「どこというよりも、いつって聞いた方がいいわね。場所はわかっているはずよ。でもここは、あなたが行くはずのない、もうひとつの未来なの」

「サルを虐めたから、本来の未来ではないところへ追いやられたってわけか」

「そういうことよ」

「ところで、君は誰なんだい?」

「名前はヒカジ。私はゾンビよ」

「なんだって、君はゾンビなのか? あの緑色の顔の者たちは、みんなゾンビなのかい?」

「そうよ。この世界にはヴァンパイアもいるわ。今は昼間だから眠っているけど」

 ヒカジと名乗る女ゾンビはさらに続けた。

「あなたの世界とは逆に、ここには犬や猫はいないの。犬も猫もここでは怪物なの」

「それで公園の人たちは僕を見て騒ぎ出したのか」

「そうよ。ここの人間たちは命が無くなると、男性はゾンビに、女性はヴァンパイアになるの。ゾンビやヴァンパイアはペットとして人間に飼われるのよ。それに、飼い主のいないゾンビは、さっきみたいに役所へ連れていかれ駆除されるの」

「なるほど、あちらの世界の犬がこちらではゾンビってわけだ。『男はゾンビであり、女はヴァンパイアである』ってことだね。でも、おかしいな。君は女の子だよね」

「そう。私は以前、あなたと同じところにいて、ここに来たときにはまだ人間だったの。でも、何だか分からないけれど、ある日目覚めるとゾンビになっていたの」

「僕も向こうの世界で目覚めると猫になっていたんだ。何か関係があるのかもしれない」

「ここは、このサルが想像で作りあげた世界なのよ。この子がここを作った原因は私にあるんだけれどね」、彼女は悲しそうに言った。

「何があったんだい?」

少しの沈黙の後、彼女は語り出した。

「あっちの世界で、この子は私のペットだったの。散歩中、ふと目を離した隙に、この子は事故で死んだの。そのとき、死んだこの子と一緒にここに飛ばされたんだけど、ここには死というものは存在しないの。この世界のおかげで、この子は死なずに済んだのよ。元の世界には戻れなかったけれどね」

「そういうことか。でも待って。僕がこのサルに会ったのは、向こうの世界だよ。つまり、ここからあっちの世界に行けるってことだ。帰れる方法があるんだよ」

「そういえば、しばらくこの子、行方不明だったわ。今朝、公園でこの子に会って驚いたわ。もう何処かで死んじゃったのかと思っていたもの。この子の腕に傷があったから、まさかと思ったんだけど、やっぱり同じことが起こったのね。どうやって行き来してるんでしょう?」

「サルは巨人が連れて来たんだ。君は巨人を知ってるかい?」、ヒカジに尋ねた。

「いいえ」、彼女は答えた。

「巨人が帰る方法を知ってるのかも」

「その巨人は何処にいるの?」

 僕は巨人に初めて会ったときのことを思い返した。

「そういえば以前、巨人に過去に連れて行かれたことがあるんだ。そのとき、そこにいた人間の姿の僕が巨人に変化したんだ。あれは、巨人が変身していたのかもしれない。さっき公園で捕まったのはゾンビ姿の僕だ」とヒカジに告げた。

「それなら、あのゾンビは巨人ってことじゃない!」ヒカジは言った。

 サルはヒカジの肩の上で頷いた。

「助けださないと!」、僕は思わず大きな声を出してしまった。

「今は危険よ。あなたが外に出ると厄介なことになるわ。駆除されるのは二日後よ。夜になるまで待って、偵察に行きましょう」

 ヒカジの提案に僕も同意した。僕たちは、ヒカジの家で夜が来るのを待った。


 やがて、窓の外の景色を夕暮れが包み、青い空をオレンジ色に染めた。だがそのオレンジもじわじわと夜の闇が覆い尽くし、不気味な暖かい空気が立ち込めた。

「夜の町も安全ではないわ。野良ヴァンパイアがうろうろしているの。飼い主のいるヴァンパイアは牙を抜かれているけど、野良は牙があるわ。見つかれば襲ってくるわよ」、ヒカジが言った。

「分かった」、僕は軽く返事をした。

「さぁ、行くわよ!」

 猫とサルとゾンビの変な組み合わせの三匹が巨人を助けに行くなんて、何処かの国の奇妙な昔話のようだ。


静かな夜の町にはヴァンパイアが徘徊していた。飼い主のいるヴァンパイアは黒いマントを付けていた。昔の映画で観たあの吸血鬼伯爵の装いだが、奴らは元々人間の女性であり、身のこなしなどは飼い主が男性っぽく躾けるらしい。何でも今はレトロファッションが流行でこういう格好をさせているそうだ。彼らは飼い主によく調教されており、人間や動物を見ても襲っては来ない。一方、野良ヴァンパイアはみすぼらしく、攻撃的だそうだが、古典的なヴァンパイア撃退法の十字架やニンニクが効果的ということだ。


「これなら襲われないわ」、ヒカジが言った。

 僕は無理やり十字架のついたニンニクの首輪を付けられ、巨人のいるであろう役所へ向かっている。しかし、ヒカジもサルも十字架のニンニクを付けていない。僕だけがこんな格好をさせられたことに不満を訴えた。

「何で僕だけなんだ!」

「だって、危険なのはあなただけなんだもの。私はゾンビだし、ヴァンパイアは襲ってこないわ」

「サルは襲わないの?」

「ここは、この子が作った世界よ。創造主を襲うはずがないじゃない」

そんなやりとりの最中に、何かが僕に向かって来た。

「ぎゃー!」、間一髪で攻撃をかわした。

「あれはヴァンパイアじゃないか!襲って来ないって言ったじゃないか」

「人間と動物は襲わないのよ。あなたはこの世界では存在しないバケモノだからね。心配しないで野良じゃないから牙は抜かれているわ」

 ヴァンパイアの攻撃に慌てふためいている僕を見て、サルがケラケラと笑った。


やっとの思いで役所に到達したときには、僕だけがぐったり疲れていた。

「捕獲されたゾンビは役所の地下の檻に留置されてるわ。地下駐車場の小窓から確認できるはずよ」、ヒカジが言った。


「さぁ、行くわよ!」

 どうやら、これはヒカジの口癖らしい。

幸い役所の周りには警備員はおらず、すんなりと地下駐車場にある留置所の窓にたどり着いた。窓には鉄格子があったが、僕とサルは通り抜けられそうだ。

「おいサル!巨人を探しにいくぞ!」とサルに言ってみたが、プイとあちらを向き、ヒカジの肩の上で高見の見物を決め込んだ。

「まったくもう!役立たずめ!僕がひとりで行ってくる」

「気を付けてね」と、ヒカジは僕を気遣った。

留置所の中は真っ暗だったが、これは猫の特権、暗い中でもはっきりと見える。檻は三つに仕切られており、それぞれ数体のゾンビが入れられていた。一番目の檻の中に、昼間会ったゾンビの僕を見つけた。ゾンビの僕は足を三角に曲げ、その間に顔を埋めじっと動かなかった。

「おい!あんた!巨人だろ!」と声をかけると、周りのゾンビが一斉にムクッと起き上がり、僕に向かって来た。

 ゾンビの僕はそのままピクリとも動かなかった。ゾンビたちの騒ぎを聞きつけ、誰かがやって来たようだ。ドアの外で足音がして、鍵を開ける音が響いた。どうすることもできず、僕は一旦ヒカジの所まで引き返した。

「ゾンビの僕はいたんだけど、動かないんだ。あれが巨人なのかも分からない」と、僕はヒカジに報告した。

「とにかく、ゾンビのあなたを助け出すしかなさそうね。鍵は?」、ヒカジは言った。

「檻には鍵は無かったけど、監獄のドアには外から鍵が掛かってるみたい。警備員は外にひとり。どうやって助け出すんだい?」

「私が入るしかないわね」

「何処から忍び込むんだい?」

「そんなの簡単よ!私はゾンビなのよ!計画実行は明日よ!」


ヒカジの計画は、ゾンビである彼女が公園でひとりになり、わざと役人に捕まって監獄に入る。そして、監獄の中でゾンビの僕を起こし脱出するという単純なものであった。

「どうやって脱出するんだい?」

「どうにかなるわよ。今日助けなければ明日には駆除されてしまうのよ」

「まったく、無茶なんだから」

「さぁ、行くわよ!」

 ヒカジのいつもの掛け声で、作戦がはじまった。


ヒカジは公園の目立つ場所にひとりで捕らえられるのを待った。

しばらくして誰かの通報で役員がやって来た。ヒカジは無抵抗であっさりと捕まった。

僕は先回りして、監獄の窓でヒカジの到着を待った。

「サルは何処に行ったんだ?肝心な時に役に立たない奴だ」、僕はひとりごとを呟いた。

地下駐車場の窓から監獄の中を観察すると、数体のゾンビが捕らえられており、ゾンビの僕は二番目の檻にいた。ちょうど三番目の檻からゾンビの一体が奥のドアへ連れて行かれるところだった。

「三番目は駆除される檻ということか」

手前のドアが開いた。ヒカジが役員に連れられて監獄に入って来た。彼女はそのまま一番目の檻に入れられた。そして、役員は檻に鍵を掛けた。

「まずい、鍵を掛けられた。昨日は掛けていなかったのに」

檻の前に警備員が二人で見張っていた。どうやら昨日の騒ぎで警戒を強めたようだ。どうすることも出来ず、夜まで待つしかなかった。


日が暮れて、警備員たちはゾンビたちをそれぞれ隣の檻に移した。ヒカジも同様に二番目の檻に、ゾンビの僕は三番目に移された。警備員は檻の鍵を閉め、監獄室から出て行った。僕は地下駐車場の窓から鉄格子を抜けて、ゾンビたちに見つからないように監獄室に入り、忍び足でヒカジのところへ向かった。

「ヒカジ、どうやって脱出しよう?」、僕は小声でヒカジに言った。

「万事休すね」

 彼女もお手上げのようだ。いつもの「さぁ、行くわよ」も出ないようだ。

「どうにかしなきゃ。とにかく、ゾンビの僕を起こしてみる」

 僕は他のゾンビに気付かれないように三番目の檻に向かった。ゾンビの僕は、檻の隅っこでうずくまっていた。僕は檻の外から前足を伸ばし、彼を揺すってみた。

「おい、起きろ!」と彼の耳元で小さく叫んだ。そのとき、近くにいた別のゾンビに気付かれた。ゾンビが立ち上がって僕の方に向かって来ると、他のゾンビたちも僕に気付き騒ぎ始めた。ドアの磨りガラスに人影が動くのが見えた。

「逃げて!」、ヒカジが叫んだ。

 僕は慌てて地下駐車場の窓へ向かおうと振り返ったとき、小さな白い物がこちらの方に動くのが見えた。

サルだ。

サルは落ち着き払ってゆっくりと三番目の檻に向かった。

「おいサル!捕まってしまうぞ!」

 僕の忠告に従うやつではない。

 サルは三番目の檻の鉄格子をスルリと抜けて、ゾンビの僕の頭に飛び乗った。サルはその頭の上で一回、二回と空中回転を見せ、三回目は高くジャンプし、天井ぎりぎりのところでくるりと一回転して落ちてきた。そして、サルが再び頭に着地するその瞬間、ゾンビの僕の体が、ムクッとひと回り大きくなった。サルの下にいるあの巨体には見覚えがあった。

「あ!巨人だ!」

頭にサルを乗せた巨人はうずくまったまま顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回し、僕を見つけると、有刺鉄線のような歯の矯正器具を剥き出しにし、ニタッと笑った。そして、左腕を伸ばし腕を捲り上げ、さらに右手の人差し指で左の手首をトンと一回叩いた。

「待って!ヒカジを助け出して!」、僕は叫んだ。

 周りのゾンビたちは更に騒ぎ出し、うずくまった巨人を取り囲んだ。ドアの向こうでは鍵をカチャカチャと鳴らし警備員がドアを開けようとしている。ゾンビたちが一斉に巨人飛びかかり、巨人は奴らに埋もれてしまった。ゾンビの山のテッペンでサルがキャッキャとはしゃいでいる。

次の瞬間、ゾンビたちは周りに飛び散り檻の鉄柵に叩きつけられ、山の中心から巨人が現れた。サルを頭に乗せた巨人は檻の鉄柵を右手と左手で一本ずつ掴み、グイッとやると鉄の棒は飴細工のようにグニャリと曲がった。ゾンビが一匹ずつ巨人に飛びかかるが、二メートルの大男が棍棒のような指を一本差し出して、おでこをツンとやっただけで奴らはぶっ飛んだ。巨人は三番目の檻から出ると今度は二番目の檻の前まで行き、またも鉄柵をグニャリとやってヒカジを片手で担ぎ上げた。

「あなたが巨人さんね。ありがとう」

 ヒカジがそう言うと、巨人は照れてこめかみ辺りをポリポリと掻いた。サルは巨人の頭の上で何度もクルクルと回転していた。

「さぁ、行くわよ!」、僕はヒカジの代わりにいつもの彼女のセリフを叫んだ。

 巨人はヒカジを肩に乗せ、再び時計の無い左腕を出し「時間だ!」とでも言うように右手の人差し指で左腕をトンと一回、さらに二回目を打とうとした時だった。


パン


 警備員が撃った威嚇射撃の乾いた銃声がコンクリートで固められた監獄室に響いた。

「動くな!」

 一人の警備員が叫び、巨人に銃口を向けた。ヒカジは巨人の首に捕まり、大きな頭の裏に身を隠した。巨人はゆっくり両手を挙げ始めた。巨人の両手が天井に着く瞬間、僕は警備員までの距離を目測し、一瞬の隙をついて警備員に飛びかかった。

「ニャー!」

 一瞬、目の前に緑の影が横切った。


パン


 二度目の銃声は、僕に向けられたものだった。監獄室に響く銃声の激しい音が耳に突き刺さり、僕は反射的に目を閉じた。コンクリートの部屋に鳴り響く銃声が鼓膜を強く刺激し、耳鳴りのうねりが頭骨全体に響いているのだが、どうしたことか銃弾でやられた痛みをはっきりと感じない。僕はゆっくりと目を開けた。いつの間にか、僕の目の前にヒカジが倒れていた。


 監獄室が静まり返り、火薬の匂いが微かに匂った。撃たれたのは僕ではなかった。

「キキーッ!」

 突然、巨人の頭にいた猿が素早い動きで警備員の顔に飛びついた。僕もサルに続いて銃を持つ手に噛み付いた。さらに巨人の一撃で警備員は吹っ飛んで、コンクリートの壁に叩きつけられた。

「ヒカジ!」

 僕がヒカジに近づくと、彼女は血塗れでぐったりとして動かなかった。

「ヒカジ!死なないでー!」、僕はもう一度大声で叫んだ。

「もう随分前に死んでるわ」

 ヒカジはムクッと起き上がった。

「ヒカジ、大丈夫なのか!」、僕は泣きながら彼女の目を見た。

「私はゾンビ。もうすでに死んでるのよ」と言って立ち上がって、傷口に指を突っ込み胸から金色の銃弾を取り出し、僕たちに見せると、ニッコリと微笑んだ。

「よかった!」

 僕は安心して更に涙が込み上げてきた。

「急ぎましょう。また警備員が来るわ」

 ヒカジが冷静になって次の行動を示唆した。

「巨人、頼んだ!」、僕は巨人に言った。

「さぁ、行くわよ!」、ヒカジのいつものセリフに皆は頷いた。

 巨人は時計の無い左腕を出し、右手の人差し指で左腕をトントンと二回打った。

 

そこはいつもの公園だった。人は誰もいない。

「戻ったのかな」、僕は独り言のように呟いた。

「昼間の公園にゾンビがいないわ。きっと戻ったのよ」、ヒカジが言った。

「でも、何だか雰囲気が違う」

いつもの公園だが、木は枯れ果て、ゴミが散乱している。

「晴れた日に公園に誰もいないのはおかしい。こんな日はあそこのベンチでバンダナが昼寝をしているはずだ。巨人、戻ったのか?」

 巨人は一回首を縦に振ったが、すぐに首を斜めに傾けた。サルも真似をして首を傾けた。

「とにかく、じいさんの家に行ってみよう」

 僕はみんなを案内した。


じいさんの家へ向かう道の途中で、不思議な光景を目にした。家は壊れ、町は焼かれ、震災の後か戦場のように焼け野原になっている。じいさんの家も見つからない。

「巨人、どうなっているんだ」

 巨人は首を傾げ、肩に乗ったサルもまた真似をした。

「なにがあったのかしら」、ヒカジが言った。

 巨人は「ついて来い」と右手の人差し指を曲げ伸ばしをして、僕らをどこかへ案内した。


 しばらく歩くと半分崩れた小さなビルがあった。ビルの入り口には「ヘブン」というライブハウスの看板が掛けられ、その下に狭い階段があった。巨人は頭をぶつけないようにかがんで地下への階段を降りて行き、その後を僕とヒカジもついていった。階段は狭く薄暗いオレンジ色のランプが所々に灯ってる。階段が終わり狭い地下道が続いた。百メートル程進んだ所で前方に明かりが見えた。ずいぶん明るい光だ。僕たちは光に向かって進んだ。光源の近くまで来ると、それは太陽の光だと分かった。そこはてっきり地下だと思っていたが、隣のビルへ空中で繋がったガラス張りの連絡通路だった。地上五階ほどの高さがある。

空中連絡通路を抜けさらに進むと、そこには上りの階段があった。下りと同じく薄暗いオレンジの光が所々で灯っている。

「どこへ向かってるんだい?」、僕は巨人に尋ねたが、答えたのはサルだった。

「キ、キーッ!」

階段を上って行くと先の方に出口が見えた。ようやく到着だ。階段の最上階に出た。そこには「ヘブン」の看板があった。

「何だ、最初の入り口じゃないか!」

巨人は道に迷ったのだろうか。しかし、通路は真っ直ぐの一本道で、曲がる所やドアなどひとつも無かったはずだ。すると巨人は小学校の体育の時間でやるように規則正しく回れ右をして、再び同じ階段を下って行った。仕方がなく僕たちもついて行った。

階段を下りきり、長い地下道を抜け、空中連絡通路を渡り、階段を上がった。最上段にはまた「ヘブン」の看板があった。やはり、曲がる場所もドアも無かった。巨人は何処へ行こうとしているのだろうか。

巨人は二度目の回れ右をした。そして、またまた階段を下り始めた。

「またかい?全くもう、いい加減にしてくれ!」、僕は呆れて不満を口にした。

「でも、見て。巨人に迷いはないわ。儀式みたいに規則正しく行っているみたいよ。きっと何かあるのよ」、ヒカジが言った。

「確かに、この通路はおかしなとこだらけだが」

 僕はもう一度だけ巨人について行くことにした。

階段を下りきり、長い地下道を抜け、空中連絡通路を渡り、階段を上がった。最上段には「ヘブン」の看板があった。しかし、さっきまでとは違う。今度は行き止まりで、看板の横に赤いドアがあった。

「ここは何なんだ?」と巨人に聞いたが、やはり彼は答えなかった。

巨人は赤いドアを開け、僕たちは部屋に入った。部屋の中は四方の壁一面に赤いカーテンが掛かっており、奥には大きな黒いデスクがあった。デスクのあちら側には革張りのチェアーが背を向けて置かれている。ライブハウスとは名ばかりで、ステージも客席も見当たらない。

「問題は、どこ、ではなく、いつ、だということなのですよ」、どこからか声が聞こえた。

 巨人は肩にサルを乗せたまま、デスクの隣まで歩みより、こちらを向いて背筋を伸ばして直立した。

「誰?」、僕はデスクの向こうにいる者に尋ねた。

「存在の無い者に名前など有りはしないのです。ですが、人は私をゼロと呼びます」

 すると、デスクの向こうのチェアーがゆっくりと回転し、こちらを向いた。

そこにいたのは小さな子供、いや、小さな大人だった。彼は禿げあがった頭髪に、口元には髭をたくわえ、白いタキシードを着た初老の紳士という感じで、膝に白いウサギを抱えていた。僕を過去へ連れて行ったあの白ウサギだ。彼は一般的な大人の三分の一程度の大きさなので、小さなウサギもヒツジほどの大きさに見える。

「あなたは何者?」、ヒカジが小人に尋ねた。

「無、とでも言っておきましょう。お嬢さん、お久しぶりですね」

「ヒカジ、彼を知っているの?」、僕はヒカジに尋ねたが、

「いいえ、会ったことはないわ」と、ヒカジは答えた。

「お嬢さんの記憶がないのは仕方がない。あちらの世界で死んだのですから」

 ゼロはウサギを撫でながらそう言った。

「ゾンビになったことと何か関係があるの?」、ヒカジはゼロに聞いた。

「命は繋がっているのです。あなたの命と誰かの命。自分が死ぬということは誰かが生まれるということ。自分が生まれるということは、誰かが死ぬということなのです」、ゼロは言った。

「私は誰かを殺したの?」、ヒカジはゼロに尋ねた。

「いいえ、人間のあなたが死んだということです」

「よく分からないわ」、ヒカジは呟いた。


ゼロは抱えていたウサギを巨人に渡した。サルとウサギは旧友に会った時のように巨人の腕の中でじゃれ合っていた。

「あなたたちが知りたい事実を私は知っていますが、解決策はもうすでにあなたたちは理解しているのです」、ゼロは続けた。

「簡単なことです。あなたたちがいた世界をBとするなら、過去はAであり、未来はCとなり、ABCと繋がるのです。しかし、あなたたちはZという未来に行ってしまった。Zという未来に繋がるのはYという現在なのです」、ゼロは手を大きく振りながら説明した。

「本来の現在とは違う現在にいるのですね。本来の現在に戻るにはどうすればいいのですか」、僕はゼロに尋ねた。

「すでにあなたは経験しているのです」、ゼロは続けた。「時間というものは一本道で永遠に長く繋がっているように思えます。それがそもそもの間違いなのです。ABCの延長にあるZに行くには相当の時間が必要です。人間の寿命よりはるかに長いのですから。でも、あなたたちは一瞬で辿り着いた。なぜだと思いますか?」

 彼の質問に僕たちは答えられなかった。

「メビウスの輪をご存知ですか?」、ゼロはさらに質問をした。

「それなら知ってる。紙の帯を一回捻って輪を作るんですよね」

「時間は一本の長い帯ではないんです。無限ループの輪なのです」

「分かった。本来の現在B世界の裏側にまぼろしの未来Z世界があるんだ!」、僕は叫んだ。

「さすがは猫さん」、ゼロは僕を褒めた。

「でもおサルさんはどうやってZ世界に行けたの?」、ヒカジは尋ねた。

「サルはあのとき、死んでいたのです。つまり、未来は閉ざされた」

「未来に行けず、裏側に落っこちたってわけだ」、僕はゼロの言葉に続けて言った。

「じゃあ、本来の現在に戻るにはどうすればいいの?」、ヒカジはさらに尋ねた。

「ここはまぼろしの現在Y世界。つまり、この世界の裏側にA世界があるはず」、僕は確信して言った。

「どうやって裏側に行くの?」、ヒカジはもう一度尋ねた。

「それは猫さん、あなたは経験しています」さらに続けて言った。

「原点へ戻るのです」

「ヒカジ、サルが事故に合ったのはいつ?」

「確か、去年の九月。三週目の月曜日よ」、ヒカジの答えに僕は驚いた。

「何だって! その日は僕が猫になった日だ。原点はそこ、その日に戻ればいいんだ。ヒカジ、一緒に行こう」、僕がヒカジにそう言うと、巨人がゼロに耳打ちした。

「残念だが、お嬢さんは行けません」、ゼロは言った。

「なぜだ!」、僕はゼロに尋ねた。

「人間のお嬢さんはZ世界で死んでいるのです。死んだ人間を元の世界に戻しても、死体でしかないのです」

「そんなぁ」、僕はヒカジの顔を見られなかった。

「猫さん、あなたが間違いを修正すれば、間違った世界は消え、ゾンビのお嬢さんも生まれないで済み、現実世界で本来の人間の姿で生き続けられるでしょう」、続けてゼロは言った。

「しかし、今の記憶は消えてしまいますよ。また、失敗すればまた同じ繰り返しをします」

「どうやって間違いを正せばいいんだ!」、僕は疑問を投げつけた。

「逆らわなければ、自ずと時間は自然に流れるものです」、ゼロは答えた。

 そこで、ゼロは指をパチンと鳴らした。

次の瞬間、僕たちはライブハウス「ヘブン」の入り口に立っていた。ライブハウスの意味がようやく分かった気がした。


「ヒカジ、ここでお別れだね」、僕がそう言うと、

「いいえ、これから出会うのよ。あなたなら出来るわ」とヒカジは答えた。

「やってみるよ。そうすれば、人間の君に会える」、僕は期待を込めて言った。

「方法はあるの?」、ヒカジが聞いた。

「ウサギとサルを連れて行くのさ」

「どういうこと?」

「ウサギは過去へ、サルは未来へ。同時に行くとお互いが引き合って、裏側へ落ちるはずさ」、僕は答えた。

「幸運を祈るわ」、ヒカジは寂しそうに答えた。

「君は命の恩人だ。ありがとう」、僕はヒカジにお礼を言った。

 ヒカジは照れくさそうに微笑んだ。

「巨人、ウサギ、サル頼んだぞ!」、僕が言うと、

「キキーッ!」、サルが勢いよく答えた。

「さぁ、行くわよ!」僕とヒカジは同時に叫んだ!


巨人はウサギとサルを地面に離し、巨人は指をバチンと鳴らすと、二匹の白い小動物が高くジャンプした。


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