第8章
第八章「博士」
今日もまたあいつが来ている。最近の僕とバンダナのお気に入りは、いつも公園に来ているあいつをからかうことだ。あいつというのは、分厚い黒縁眼鏡にスーツの男で、公園の一番端のベンチに座りカタカタやっているのである。
「ねぇ、あいつがいつもカタカタやっているあの黒い板は何なの?」と、バンダナは僕に尋ねた。
「あれはタブレット型端末だよ」、バンダナはキョトンとして首を傾げた。
「小型のコンピュータさ」
「あー、電卓付き百科事典ね」、バンダナはそう言って彼の方に向かった。
何かまた悪巧みを思いついたようだ。そして彼の隣に鎮座した。仕方なく僕もその隣に座った。
カタカタカタ、タン
「申し訳ございませんが、南南東の方角に3・26センチメートル移動を要求します」
彼の予想外の反応に驚いて、僕たちは一人分程距離を空けた。
「ありがとう御座います。その距離なら、感染率は0%に低下します」
僕たちがキョトンとしていると、彼は続けて補足した。
「犬や猫の保有菌種は32兆4657億飛んで13種。その内の12・56%は人体に影響を及します。感染率が1%未満になる距離が25・46センチメートルなので、先程の位置から3・26センチメートルの移動を依頼したわけです」
それを聞いたバンダナはここぞとばかり彼に詰め寄った。すると、彼は慌ててバッグから何やらスプレー缶を取り出し自分の体に散布した。更にもうひとつ、マスクを取り出して頭からすっぽりと被った。マスクといっても花粉症や風邪対策のアレではなく、防毒用のガスマスクだった。
「あはは!面白いやつだ!」
バンダナは彼を気に入ったようだ。
「私は面白くはありません」
驚いたことに彼はバンダナの言葉に答えた。
「君は僕たちの言葉が分かるのかい?」、僕はガスマスクの男に聞いてみた。
カタカタカタ、タン
「この密度0・653グラム毎立方センチメートルの木製ベンチから伝わる声の振動波と、トーン解析及び特異行動により、あなたたちが発するおおよその言葉は解釈可能です。あなたたちの音声データは既に入手済みであり0・23秒で解析完了します」
「わぉ! 何だか解らないけど、すごいわね! 私たちは人間の言葉は分かるけど、人間は私たちの言葉は分からないはずだもの」、バンダナは言った。
「でも、僕たちが喋っている言葉が人間のものだとしたら、これはインチキじゃないか。そもそも犬と猫が会話をしているなんておかしい。僕たちは普通の犬や猫じゃないんだから」、疑っていたわけではないが僕は反論してみた。
カタカタカタ、タン
「私の耳に届くあなたたちの音声は人間の言葉ではありません。あなたたち同士に伝わる音声は脳の中で人間の音声に変換されているのですね。道理で解析結果が鮮明なわけです」
バンダナはチンプンカンプンでわからない、という表情で僕を見た。
「ところで、君はいつもここで何をしているの?」、彼に尋ねた。
カタカタ、タン
「本日は、天気を解析しているのです」
「天気を予想できるの?」
「いえ、予想でも予報でもありません。私の天気解析は99・9%の精巧なものです」
「天気は解析不可能だって何処かで聞いたことがあるけど、それ本当なの?」、僕はもう一度反論した。
「本来、データ入力型の天気解析は、データを測定する機器自体に誤差を生じ、その微細な誤差が後に莫大な格差を生み出すという事実が証明されています。それがカオス理論です。しかし、私の解析は測定データではなく、自然界に於ける動的な出現を意味する黄金比率[(1+√5)/2]を定数とした超自然方程式を用いて、パイ[π]の数字配列の中から適正に抽出した真の値の入力解析なので誤差は存在しないのです」
きっと難しい言葉を並べて僕たちを混乱させる気なのだろう。
「本当なのか、見せておくれよ」
「いいでしょう。今から、6分24秒後の5時2分13秒に雨が降ります。これは確率論ではなく99・9%の解析結果です」
「100%じゃないの?」
「自然界には私たち人間が踏み込めない世界があります。それが0・1%の領域なのです」
「なるほど」、バンダナは知ったか振りの相槌を打った。
僕たちは公園の時計に目をやった。タブレット男はバッグから傘を出し雨に備えた。
「こんなに晴れているのに本当に雨なんて降るのかな」
僕とバンダナは晴れ渡る空を見上げた。
沈黙が続き、ちょうど一分前になって彼は傘を開いた。
「君たち、濡れてしまいますよ」
彼はバッグからビニールの袋を出し僕たちに差し出した。そして、公園の時計を見ながらカウントダウンを開始した。
「あと5秒」
「4」
「3」
「2」
「1」
「……」
雨は降らなかった。
「何だ!やっぱりインチキじゃないか!」
彼はガスマスクの下で笑っていた。
「通算999回目で1回の自然界の領域が出現した。降水解析99・9%という僕の計算が正しいことが証明されたんだよ。解析は成功だ!」
彼は傘を差したまま立ち上がり、笑いながら公園を出て行った。
「全く、何て言い訳だ!」バンダナと僕は怒っていた。その時……
<ウー ただいま 五時を おしらせ いたします そとで あそんでいる こどもたちは おうちに かえりましょう>
僕は公園の時計を見て、ハッと気がついた。
「あ、五時のサイレンだ! そうか、バンダナ、これを被って!」
バンダナの頭にビニール袋を被せた。
「さぁ、早く!」
バンダナはビニール袋の底を破り、そこからひょっこり顔を出した。
「何処へ行くの?」
「家に帰るんだ!」
僕はバンダナを連れて、大急ぎでピカソじいさんの家へ向かった。公園を出た時にはもう空がどんよりし始めた。タバコ屋の角を曲がったところで雨が降ってきた。家に到着して時計を見た。
「5時2分過ぎ!」
「え?」
「5時2分13秒、彼の計算は合ってたんだ!」
「だって、公園の時計は…あっ!そういうことだったのね」
「そう、公園の時計が狂っていたんだ!」
「お陰でずぶ濡れにならずに済んだんだ」
その後大雨はさらに強まり、屋根に当たる雨音の子守唄を聞きながら、僕たちはいつの間にか眠っていた。
昨日の雨は朝まで続いた。ようやく雨が上がり、タブレットの男に会いに公園に行った。しばらくして、タブレットを持った彼がやって来た。僕たちを見るなり、またバッグからガスマスクを取り出して被った。
「博士!」、僕は彼に敬意を表してそう呼んだ。
「私は博士号は取得しておりません。博士という称号は不適切です。大学はおろか小学校も卒業していないのですから」
僕たちは驚いた。
「えっ!あんなに沢山の知識や凄い計算が出来るのに?」
あまりに驚いて、昨日のお礼を言う機会を逃してしまった。
「私はこのコンピュータを操作しているだけです。データは全てこの中にあります」、彼は黒い板をたたきながら、そう言った。
「ところで、今日は1000回目の天気解析をするの?」
「昨日の解析結果はやはり失敗でした。これで自然界の領域か出現しなければ、私の計算は間違いということです。現時点で午後4時32分43秒頃雨が降ります。これは96・2%の解析率であって32秒前後の誤差が出ます。99・9%の解析はあと数時間かかります」と彼は言って、またタブレットを打ち始めた。
まだまだ解析結果が出るのは先。長い一日になりそうだ。
数時間後、僕たちはいつの間にか眠ってしまっていたようだ。横を見るとタブレット博士も眠っていた。するとバンダナは何かイタズラを思いついたようで、博士のタブレットを彼の手からそっと取り上げた。
「何をするんだい?」
「しーっ!」
バンダナはそのタブレットを見ると、目を丸くして首を傾げた。
「ねえ、見て!」
彼女が見せた物は、予想もしない代物だった。
「これ、プラスチックの板?!」
それはタブレットでもコンピュータでもない、分厚い下敷きのようなただの黒いプラスチック製の板だった。
「どうなってるの?」、僕はバンダナの問いに答えた。
「彼はこれをコンピュータだと思い込んでいるんだよ。つまり、これまで彼が話した知識や計算式は彼の頭の中にあるんだ。彼は本物の天才ってことだよ」
「えーっ!」
その時、バンダナの声で彼が目覚めた。彼はガスマスクを外し眼鏡を取って言った
「おらのコンピュータァ~、返してけろぉ~」
僕とバンダナは硬直してしまった。眼鏡の下はまるで別人だ。方言丸出しの田舎の兄ちゃんがバンダナの持っているタブレットを取り返した。するとまた慌てて眼鏡を付けガスマスクを被って言った。
「私はこれがないとダメなのです」
やはりタブレット博士だ。僕とバンダナはお互いに顔を見合わせた。その直後、バンダナの目の色が変わった。この目は彼女か悪い事を企んでいる時の目だ。すると、彼女は素早い動きでもう一度博士から黒い板を奪った。彼はガスマスクと眼鏡を外して言った。
「だからぁ~、ダメだってぇ、言ってるでね~がぁ。おら、それがね~とぉ、ダメなんだぁ。返してけろぉ~!」
バンダナは大声でゲラゲラ笑いだした。僕も可笑しくて笑ってしまった。博士は再びタブレットを奪い返し、眼鏡とガスマスクを付け、下を向いてしまった。そして語り始めた。
「私は十代のころから精神疾患があるのです。解離性同一性障害、つまり…」
「二十人格っつーやつだな。ほんでー、このせいでぇー」
「学校にも行けなかったのです」
バンダナは人格がころころ代わる博士の反応を面白がって、タブレットを奪ったり返したりを繰り返した。
「二重人格者は、それぞれ人格が代わるとき、引き金となる何かきっかけがあるのです」
タブレット博士は奪われないように必死にタブレットを握っていた。
「私の場合はそれがこのコンピュータなのです。これを放すとスイッチが入り人格が入れ代わるのです」、彼はタブレットを抱えたまま下を向いて悲しそうに語っていた。
「そろそろ最終解析をしなければ。1000回目が失敗ならば、このタブレットはもう役にたたない。これで私も終わりになるのです」
バンダナはそれを聞いて僕に耳打ちをした。
「いい作戦を思いついたわ。協力して!」
バンダナの作戦を聞いて早速準備を始めた。博士はベンチでただの黒いプラスチックをタンタンと叩いていた。
しばらくして、バンダナは準備を終え戻ってきた。博士は計算を続けている。作戦実行の時が来た。
「かかれ!」
まず、バンダナが博士のタブレットを奪った。
「返してけろー!」と、ガスマスクを外し眼鏡を取った瞬間、僕は彼の眼鏡を奪った。そしてバンダナはタブレットを彼に返すと、彼は慌ててガスマスクを被った。
「眼鏡を返して頂けませんか!」、そう言いながら天気の解析を進めた。
「99・9%の結果は?」
「意地悪をしているつもりでしょうが、眼鏡は無くてもコンピュータがありますから何とかなります。残念でしたね」
「結果はまだ~?」
タンタン、タンタンタタン、タン
「結果が出ました。午後4時32分41秒に雨が降ります。もちろん99・9%の精度です」
僕たち二匹と一人はその時を待った。
「うまくいった」バンダナは隣でそっと呟いた。
彼の解析結果の午後4時32分41秒が近づいた。
「これが成功しなければ、この作戦も失敗に終わる」、僕は呟いた。
99・9%雨が降るということは、1000回に1回だけ雨が降らないということだ。確率論ではない。例えば、コインを投げて表が出る確率は1/2つまり50%であるが表が2回や3回連続で出ることもある。確率は発生の度合いを示す指標でしかないが、彼の解析は偶然性でなく必然的な自然の法則を数値化してるようだ。
いよいよその時が来た。彼は静かにカウントダウンを始めた。
「5秒前」空には灰色の雨雲。
「4」遠くの空で稲妻が光った。
「3」ゴロゴロと空が鳴っている。
「2」降るのか?
「1」空の隙間から。
「0」日の光が射した。
「成功だ!」
さっきまで空を覆っていた雨雲が、どんどんと宇宙に吸い込まれていく。
「博士!」
やがてオレンジ色の夕焼けの空が一人と二匹を照らした。
「やはり私のこのコンピュータに狂いは無かった」と博士が言うと、バンダナが答えた。
「え? どのコンピュータですって?」
「ですから、この・・・」
博士は気がついた。そして、バンダナは隠してあったそれを博士に見せた。
「このタブレットのこと?」
バンダナの計画で博士のタブレットPCを偽物とすり替えたのだ。今、博士が持っているのはバンダナが探してきたただの黒い板切れだった。
「あっ!そんなはずは・・・」
博士はオロオロし始めた。僕は博士に言った。
「これまでの知識や計算はコンピュータの入力結果ではないのですよ。あなたの頭脳に全て入っているんです」
「そんなバカな話があるものですか。あの莫大な桁数の数値計算なんて、人間の脳に出来るはずはありません」
博士はまだ気付いていない。バンダナは博士のタブレットを地面に置いた。
「見ててね。これはただのプラスチックなんだよ」
<バキッ>
バンダナはタブレットを踏んづけて割ってしまった。そしてその残骸を博士に渡した。
「これは偽物だ。私のコンピュータを返してください」
その直後、僕は博士の膝にピョンと飛び乗った。
「ぎゃー!」
「感染しますよ!」
「こ、この距離だと…感染率は…75・8%です。直ちに離れてください!」
「博士、今の計算はどうやって?」
博士はようやく気がついた。
「おや?ちゃんと計算式が頭に浮かんで、計算できました。あれあれ?」
すると博士の目から涙が一粒こぼれた。彼は二つに割れたタブレットを手に取った。
「本当だ。これは、ただのプラスチックだ」
「博士、もうそんな物に頼らなくていいんだよ」
これまでの硬い表情が溶け出し、段々と穏やかな優しい顔に変わった。
「私は自由になれたのかい?」
「博士、試しに天気の解析を」
「やってみます」
博士は膝をタンタンと叩いて計算を始めた。
「大変だ!あと1分43秒で大雨が来るぞ!」
博士はバッグからレインコートを取り出した。彼はそれを着ると僕とバンダナをコートの内側に入れた。
「博士、感染しますよ!」
バンダナは冗談っぽく言った。
「感染率は95・2%ですが、私の脳内データでは感染したとしても、治療後の完治率は100%です」
そのとき、上から雨が落ちてきた。
「あれ、まだ解析の時間になってないよね? おかしいな?」
見上げると、僕たちを抱きしめたまま博士は大粒の涙を流していた。
退屈なある日の公園のいつものベンチにて。
「博士はどうしたのかな?」、バンダナは僕に聞いた。
「あれからもう来なくなったね」、こう言うと、バンダナは寂しそうにしていた。
「あれ程の天才だもの。どこかの大学の教授やら何かの研究者にでもなったんだろう。きっと忙しいんだよ」、慰めにもならないが、こう付け足した。
すると目の前に誰かが現れた。彼は僕たちのベンチの横に座ると、指で膝の上をタンタンと叩いた。
「あ!博士!」
「やぁ、君たち。元気にしていたかい?」
バンダナは彼が博士だと分かると早速彼の膝に飛び乗った。
「いつもと格好が違うから分からなかったよ」と、バンダナは彼に甘えて見せた。
彼はいつもスーツに眼鏡だったが、この日はジーンズにジャンパー姿だった。
「お別れを言いに来たんだ」
「どこかへ行くの?」、バンダナは心配そうに彼に聞いた。
「学校へね」
「わー! とうとう大学教授かい?」
僕が聞くと、意外な答えが返ってきた。
「小学校へ行くんだ」
「えーっ!」
「僕に足りないのはコミュニケーション能力さ。それを学びに小学校から再出発するんだ」
「そっかー」
「なかなか僕を受け入れてくれる学校が無くてね。一校だけあったんだ。事情を話すと是非来てくれということなんだ。そこには動物と話せる少年もいるらしい」
「よかったね」
僕とバンダナは素直に彼の進路を喜んだ。
「遠いところなの?」
「うん、遠くの島にあるらしい。明日出発するんだ」
その日の午後は遅くまで一人と二匹の未来の話が続いた。
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