第7章
第七章「巨人」
猫になってからは、ピカソじいさんの家の居間のソファーが僕の寝床となっている。人間のころは、築二十年を優に超える木造アパートの一室の、ペラペラの煎餅蒲団で眠っていたのだが、今では三人掛けのふかふかのソファーの真ん中に陣取って、おばあさんが用意してくれた毛足の長い毛布に包まり、早起きの時間を気にすることもなく、いつまでも眠っていられる。
時折、バンダナが遊ぼうよと、快眠を邪魔しに来るくらいで、ちょっぴり贅沢気分な生活にすっかり馴染んでしまった。
その日もいつものように平和な猫生活を終え、スヤスヤと眠りに就いた。
真夜中過ぎ、何かの気配を感じ、ふと目が覚めた。目を開けると、ソファーの前に巨人が立っていた。天井につっかえてしまうためか、頭を横に傾けているところを見ると、身の丈は二メートルを超えているであろう。黄色い蝶ネクタイを締め、白いシャツに丈の短いベストを着て、無表情でこちらをじっと見ていた。よく見ると、手には何か白いモコモコした物を抱えている。
こんな真夜中に突然現れた巨人に恐怖を感じないはずもなく、逃げ出したいのだが体が硬直して動かなかった。
彼はピカソじいさんの知り合いなのだろうか。
巨人が首を傾げながら一歩こちらへ近づいた。更に二歩目を踏み出した。そして、首を傾けたまま腰を曲げ、僕が寝ているソファーの方に顔を近づけた。大きな顔が僕の真上まで迫るとピタリと止まり、これまで無表情だった彼が突然ニカッと笑った。彼の歯には歯並びを治すための矯正器具がつけてあったのだが、顔も大きいなら歯も大きく、目の前のそれが白いブロック塀に巻かれた有刺鉄線のように見えた。彼は怯えた僕に抱えていた白いモコモコを差し出し、それを僕の傍らに置いて「ついて行け」と告げた。
その後、彼は腰を曲げたままくるりと百八十度回転し、首を曲げたまま立ち直り、壁の方に歩き出し、そのままゆっくりと壁の向こうに消えて行った。
彼は幽霊なのか。いったい誰について行けば良いのか。金縛りで動けない僕に更に追い討ちをかけるように、突然、白いモコモコが動き出した。
「わっ!」とようやく声が出て、金縛りが解けた。
よく見るとその白いモコモコは白ウサギだった。耳の長い、目の赤い、普通の白ウサギのように見えるが、何せ不気味な巨人が置いていったウサギなので、警戒して少し離れて様子を伺った。
「こいつについて行けということか」
だが、ウサギはただ口をもごもごさせているだけで、ついて行こうにも一向に動かない。
こいつは夢なのだろうか。夢の中で夢を見ている夢を見ることもあるだろう。そもそも人間が猫になるなんて、こんなことが起こるはずもない。全ては夢である可能性だってあるわけで、もしかしたら、僕は何処かの暇な中年のおじさんが書いた、くだらない小説の主人公なのかもしれない。そうで無かったとしても、自分が現実に存在していることを証明できるのは、自分の意識の中だけなのである。誰かが僕の存在証明をしてくれたところで、やはりそれは自分の意識の中の認識でしかないのだ。
そんなことを考えている間に、ウサギが動き出した。ピョンと大きく真上に飛んだ後、向きを変え庭に通じる大きなガラス窓に向かってジャンプすると、スッと消えて居なくなった。僕もウサギの真似をしてジャンプをしたが、ガラス窓に頭をぶつけてひっくり返ってしまった。
「あいたたたー」
目を開けると、そこはいつもの公園の入り口だった。ウサギが公園の中へ入って行くのが見え、僕もついて行った。
いつものベンチを通り過ぎ、公園の隅っこまで来たところで気がついた。太陽は真上にある。もう昼なのか。いやいや、やはりこれは夢の中なのであろう。
ウサギは公園の一番隅っこの日の当たらないベンチの横でじっと止まっていた。何かを待っている様子だ。僕もウサギの隣に並び、ぐったりと寝そべった。なんせ夜中に起こされたものだから、突然の睡魔に襲われ、うとうとし始め、遂には眠ってしまった。
どの位眠ってしまったのだろう。物音がしてはっと目覚めた。ウサギはさっきと変わらず、口をもごもごとさせているだけでじっとしている。
ふと気がついた。ベンチに男が座っている。ヨレヨレのスーツに汚れた靴、ボサボサの髪。何ともパッとしない感じの怪しい風体の男。どうやら眠っているようだ。こんな奴に構うとロクなことがない。ここから離れようと立ち上がったとき、ウサギがピョンと飛び跳ねて、ベンチで眠る男の隣に鎮座した。「バカよせ」と忠告したが、遅かった。男が起きて顔を上げ、こちらを睨んだ。
「あっ!」
その男は紛れもなく、人間だったころの僕だった。やはり、これは夢なんだ。
「どうせ僕はバカだ」、彼が呟いた。
僕の言葉が聞こえたのだろうか。まぁ、姿は違うけれども、どちらも僕なのであるから、聞こえたとしても不思議ではない。
また会社をサボって公園でボケッとしていやがる。全く呆れたヤツだ。自分ながら情けない。
「だって会社のヤツらは、面倒な縦社会のルールを無理やり押し付けてくるんだもの」
どうやら僕の考えていることが通じているようだ。確かにあの体育会系のノリにはついていけない。気合いが入ってないだとか、声が小さいだとか、頑張りが足りないだとか、団結していこうとか、精神論での評価なんて無意味だ。そういう面倒を避けて一人で黙々と作業に打ち込めるコンピュータプログラマーになったのだから、余計な人間関係は極力排除したいものだ。
「先輩に逆らうなとか、上司を尊敬しろだとか、ノリが悪いとか、何の意味があるんだ」、もう一人の僕は愚痴をこぼし始めた。
「サラリーマンという人種はなんて視野が狭いんだろう。株価で世界が動くと思っていやがる。流行りに飛びつき、要らなくなったら捨てる。こんなんじゃ世界が崩壊してしまう」
「ならば、君は何が出来るんだい?」、僕はもう一人の僕に尋ねた。
「何かをする必要はあるのか?」
質問に質問で返してきた。結局、彼は答えなど持ってはいないことは、僕が一番よく知っている。彼だけじゃなく誰も答えを持ってはいない。そもそも、答えなど無いのだから。そういう意味では彼は正しい。
「人間なんかに生まれてくるんじゃなかった。生まれたくて生まれてきたわけじゃない!」
僕は黙って彼の言い分を聞いた。そして、人間だったころの苦悩を思い出した。猫となった今では、くだらないことでなんであんなに悩んでいたんだろうか、と不思議な気がする。猫の僕と人間の僕とでは、何が違うのだろう。勿論、姿や生活は変わったが、中身は変わらないはずだ。結局は、気の持ちようなのだろう。他人の生き方にただ左右されていただけなのだ。猫の生き方なんて誰も教えてくれない。だから、今は自分で考えるしかない。
「だけど、生きて行くしかないんだ」、僕はそれ以上何も言えなかった。
「僕も生まれ変わったら、猫になりたい。人間なんて…」、彼は呟いた。
もしかしたら、僕が猫になってしまったのは猫の僕自身が原因かもしれない。これは夢なのか、過去の出来事なのか。巨人はなぜ僕にこれを見せたのだろう。それとも、僕自身の中にある潜在意識が幻覚を見せたのだろうか。
ふと隣を見ると人間の僕の姿は無く、ウサギを抱いた巨人が座っていた。彼は手首を二度トントンと叩いた。「帰る時間だ」と言いたいようだか、彼は腕時計を付けていなかった。
巨人は〈時間〉であり、ウサギは〈過去〉である。
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