第6章
第六章「地蔵」
ここは猫の聖地として知られてる町。バンダナは「あそこは猫にとってのオアシスだ」と言う。近隣の住人が毎日の朝昼晩の餌を野良猫たちに与えているらしく、僕もこちらへ引っ越そうかと下見に来た。
しかし実際に来てみると、ここでは僕はよそ者で、縄張りやなんかを侵しているのだろうか、僕を見るなり野良猫たちは凄い形相で威嚇してくる。ついこの前まで人間だったニワカ猫には、やはり本物の猫には敵わない。先程も五匹の猫に追いかけ回され、メザシの尻尾どころか、一滴の水さえももらえなかった。
「何が猫のオアシスだ!」
野良たちに見つからないように、裏路地を巡って方々を徘徊していたら、不覚にも道に迷ってしまった。
大きな木の横のパン屋を曲がった所に、お地蔵さんが立っていた。雨を凌ぐお堂こそ無かったが、傍らに大きなお饅頭が供えてあった。朝から何も食わず、空腹だった僕は、堪らずお饅頭に前脚を伸ばした。お花も今朝供えたばっかりで真新しく生き生きとしていたので、お饅頭も腐ってやしないだろう。一度手に取ったものの、ふと我に返り考え直した。仏様のお供え物に手を出すなんて、バチが当たりそうで怖くなって、お饅頭を元に戻した。元に戻したはいいが、仏の物を盗もうとしたわけだから、やはりバチが当たるのかも。そう思って慌ててお地蔵さんの寒そうな足を摩った。
「これで勘弁してください。二度としません」、そう呟きながら、前脚で温かくなるまで摩った。
「これくらいで大丈夫だろうか」
そして、その場を逃げるように早歩きを始めた。角を曲がったとき、誰かが背後で僕を呼び止めた。
「どうして食べないのですか?」
振り返るとそこに坊主が立っていた。僕は「見られた」と思い、お説教を逃れるため、目を伏せてごめんなさいのアクションを数回試した。
「食べてもいいのですよ」と、坊主が想定外の言葉を発した。
ここで図に乗って、あそこのお饅頭に前脚を出そうものなら、たちまち背中に隠した警策でピシャリとやられるのではないか、と、ここは再びごめんなさいを二、三度試みた。すると坊主は僕の頭の上で何やらモサモサと始めた。いよいよ坊主はあの棒を懐から取り出して、欲の塊の獣の背中辺りをピシャリとやるのだ、と思い観念した。
「お食べなさい」、坊主は僕の鼻先に何やらを差し出した。坊主は両手でその何やらの結びを解き、包んである竹の皮の中身を僕に見せた。
「おむすびだ」
顔を上げてお坊さんの表情を伺うと、お釈迦さまのような優しい表情をしていた。もっとも僕はまだお釈迦さまに会ったことがないので、本物のお釈迦さまが優しい表情をされているのかどうかは知らないのだけれど、もはやお坊さんへの疑いは消え、それよりおむすびへの欲望のほうが圧倒的に優位に立った。朝から走りっぱなしでお腹はペコペコだったので、このおむすびに毒が入っていようとも、現状の空腹感が満たされるのならば、命も惜しくない、といった心持ちであった。
僕はお坊さんのおむすびをムシャムシャと食べた。野球のボールの大きさくらいのおむすびだが、猫の頭蓋骨の大きさなので、人間にしてみればドッヂボールくらいのサイズを食べたことになるのだろう。具こそ入ってなかったが、空腹は十分に満たされた。
「あのお饅頭もそのおにぎりも、元々あなたの物なのです。そこの石も向こうの花も木も、この世界にある全ての物は一つの物なのです。私とあなたもそう。全て一つにつながっているのですよ」と言って、お坊さんは懐からもう一つを取り出した。
僕は「ニャー」と言って、もうお腹がいっぱいであることを伝えたが、「持ってお行きなさい」と、紐に吊るした竹の皮の物を僕の首に掛けた。
僕は頭を下げてありがとうと合図し、尻尾を向けて歩き出した。そのとき、お坊さんはつけ加えて言った。
「足はとても温まりました。ありがとう」
はっとして振り返ると、そこにはもうお坊さんはいなかった。お地蔵さんのところまで戻ってお顔を拝見すると、先ほどより笑っているように見えた。
僕はお坊さんに貰ったおにぎりを首にぶら下げ、この町を出た。猫になったばかりの僕がこの町で暮らすのは無理のようだ。猫の友達ができることも期待していたのだが、やはり猫になっても友達を作るのは苦手なままである。そう思うと、何だかバンダナに会いたくなった。
「そうだ、このおにぎりをバンダナに持って行ってあげよう」
僕はいつもの公園に向かって走り出した。
息を切らせたまま公園に到着し、バンダナを探した。彼女はいつものベンチにいた。
「ねぇ、バンダナ、いいものあげるよ」と言って、首にぶら下げた笹の葉の包みを彼女に渡した。
「これ、どうしたの?」と彼女が聞いた。
「あのね、お地蔵さんがいてね」と言ったところで、バンダナは早口で僕に、
「お供え物を盗んだの?バチ当たりめ!この世界は一つに繋がっているんだよ。あの木も花も生き物も、空も太陽も宇宙全部が一つなんだよ。自分一人が勝手をすると、そこから世界は壊れてしまうのよ。まったく!」と、さっきのお坊さんと同じことを目の前の犬が言ったので、クスッと笑ってしまった。
「盗んだんじゃないから」と言い終わる前に、バンダナはもう笹の皮を開いていた。
「美味しそうなお饅頭だこと!」
「あ!それは僕が取ろうとしたお饅頭!」とすかさず彼女は、
「やっぱり盗んだのね」と疑いの目付きで僕を睨んだ。
「全てが一つに繋がっているから、そのお饅頭は僕の物だってお地蔵さんが言ったんだ」
「あなたは食べちゃダメよ。世界が壊れて、ひとりぼっちになってもいいの?」
同じ理由なのに、お坊さんは「食べてもいい」と言い、バンダナは「ダメだ」と言う。どちらが正しいのか僕には分からない。仏を信じるか、友達を信じるか、究極の選択を迫られた。困った顔の僕に、バンダナはお饅頭の半分をよこした。
「私がバチを被るのはごめんだわ。半分あなたにあげるから、あなたが全部罰を受けなさい」と言い捨てて、半分のお饅頭を頬張った。
結局、仏や友達の忠告より、己の欲望が上回ったということだ。しかし、それを一番よく知っていたのは、仏様と親友のバンダナ犬だったのだろう。
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