第4章

第四章「42階」


 ある日の午後、ピカソじいさんは僕を車に乗せた。何やら見せたいモノがある、というので、言われるがままに車に乗った。


 到着した所は高層ビルの谷間、都会のど真ん中。猫になった人間には、まったくと言っていいほど似つかわしくない場所である。こんな所に僕の興味を引くモノがあるのだろうか、疑わしいものだ。

 じいさんは、上着の懐に入れ、と合図した。一瞬ためらったが、じいさんの企みが何なのかが気になり、従うことにした。じいさんは僕を埃臭いコートの下に隠した。コートの隙間から外の様子を伺った。どうやら、どこぞやのビルに侵入し、エレベーターに乗るようだ。それにしても息苦しい。思わず「ニャー」と声が出てしまった。

「ちょっと、そこのおじいさん!」

警備員がじいさんを呼び止めた。じいさんは警備員に背を向け「42階だ」と僕に告げ、懐から僕を出し、指差した。

 指の先には階段があった。僕は階段を駆け上がった。42階まで階段で行け、と言うのか。かと言って、戻って捕まればどうなることか。不法侵入が猫に適用されるはずはないが、それより42階に何があるのかが気になる。じいさんは猫を不法侵入させた罪で御用となるのだろうか。猫の姿の僕に何ができるわけでもない。とにかく、42階へ行ってみよう。


 27階と28階の中間地点の踊り場でひと休み。下からは誰も上がって来る様子もない。あと何階上がればいいのだろう。42から28だか27だかを引けば答えは出てくるのだろうけど、息が切れて暗算を実行する気力もない。フロアまで出ればエレベーターがあるのだろうけれど、ここまで来て捕まるのも何だし、上を目指すしかない。

 階段の空間には窓もなく、どこまで上がっても同じ景色。壁に打ち付けられたパネルの数字が一つずつ増えていくだけだ。もう何日も階段を踏んでいる気がする。上へ登っているのか、ただ平面をグルグルと回っているだけのようにも感じた。

 そのとき、上の方から足音が聞こえた。警備員だろうか。捕まってたまるものか。誰かが呼んでいる。聞き覚えのある声だ。

「おーい、猫。何処じゃ」

 ピカソじいさんだ。「ニャー!」

 急いで階段を上がった。どうやら不法猫侵入罪は免れたようだ。じいさんと再会したのは、38階と上へ6段目の階段であった。僕はじいさんの埃臭いコートに再び飛び込んだ。そして、そのまま41階と42階の中間の踊り場まで進み、じいさんは腰を下ろした。

「暗くなるまで待つとしよう」と、じいさんは懐に僕を抱えて目を閉じた。


 42階のフロアーのドアが開き、誰かがやって来た。警備員だ。僕はじいさんを揺り起こし、人が来たことを伝えると、同時にじいさんの懐から飛び出して階下に急いだ。しかし、じいさんは慌てもせず。警備員に向かって右手を挙げた。

「世話になるなぁ」と言って、左手をズボンのポケットに突っ込み、紙の束を取り出し、右手の親指と人指し指をペロッと舐めて、束から二枚程を警備員に差し出した。どうやら知り合いらしい。僕は安心してじいさんの足元に戻った。

 それを見て警備員は、「もうひとりいるなんて、聞いてないぞ」と、先ほどの二枚を胸のポケットに押し込んだ後、もう一度手を差し出して、じいさんの胸元で親指と人指し指を擦って見せた。

「仕方がないなぁ」、じいさんはもう一枚を彼に差し出した。

 警備員は追加の一枚を持った右手ごとズボンのポケットに突っ込み、背中を向けて、口笛を吹きながら42階フロアのドアを開けて出て行った。

「さぁ、行くとするか」

 僕は42階のフロアのドアへ向こうじいさんの後に続いた。


 42階のドアを開けるとフロアは真っ暗で、非常口への誘導灯だけが緑色に光っていた。じいさんは迷う様子もなく、慣れた足取りで目的地へ向かう。僕ははぐれないように、じいさんの足元に寄り添って進んだ。


 キーッーー


 ドアの開く音がフロアに響いた。僕はじいさんの足に体をくっつけて、自分の存在を知らせた。じいさんは足で僕の体に二度チョンチョンと合図を送り、僕を部屋の中へと誘導した。床の踏み心地が柔らかな感触の絨毯から冷たい石のように硬く変わった。


 キーッ、バタン。


 ドアが閉まると同時に、部屋は暗闇に閉ざされた。

「座って待つとしよう」

 じいさんの声と同時に、革貼りのイスだろうか、耳元でギシと軋む音が聞こえた。僕は床に座った。暖房が効いているのだろうか床はそれほど冷たくはない。


 小さなころを思い出した。叔父に連れられて行った円形のホール。映画館のようだが周りを見渡してもスクリーンがない。シートは全て中央を向いている。円の中央に黒い鉄の塊のオブジェがあり、それが巨大な蟻に見えた。これから何が始まるのか、興奮で胸が高鳴った。開演のブザーが鳴り、電気が消えた。ざわざわしていた会場も静かになり、沈黙が続いた。

 巨大な蟻が光を放った。光の筋は天井を指し、僕は目でそれを追った。シートの背もたれが倒れ、体ごと天井を向いた。そこに見つけた、ドーム型のスクリーンを。


 今、僕は真っ暗な部屋の天井を見上げている。あのときと同じ、この天井にまたあの星空が蘇ることを期待した。

 次の瞬間、天井が光った。

「眩しいっ!」

 顔を天井から背けたその壁に黄色く輝く何かが見えた。遠い記憶のプラネタリウムの星空の奥から、それが現れた。


「あっ!」


 そこには、「ひまわり」が輝いていた。


 幼い日に初めて見たプラネタリウムの感動は一瞬にしてリセットされ、壁の「ひまわり」が僕の魂を鷲掴みにした。じいさんが見せたかったモノの正体がすぐに分かった。

「ゴッホじゃよ」

 そのじいさんの解説は不要だった。本来、自然の中にあるべき太陽の化身が、暗い部屋の片隅の、束縛の花瓶の中に活かされて、孤独と憂鬱の彼を癒した、あの「ひまわり」である。


「この世界には三種類の人間がいる。天才とプロフェッショナルとアマチュアじゃ。誰もが憧れるのが天才じゃが、そいつはいうなれば欠陥人間じゃ。どこか能力の欠落を補うために、別の優れた能力が開花する。突出した能力の分野では賞賛されるが、それ以外では苦悩ばかりじゃ」

 じいさんは緑のベレー帽を脱ぎ、更に続けた。

「プロフェッショナルとは常に完成度100%で仕事ができる者。それ以下なら賞賛はなく、それ以上の仕事は雇い主から叩かれる。ゴッホは天才でもプロでもない。アマチュアなんじゃよ」

 じいさんはいつもの独自理論を続けた。

「アマチュアに分類される人間は一円も得にならないことを、己の美学だけで突き進む。100%を遥かに超える完成度となることも多く、未完成であっても賞賛の奇跡が起こることがある。この世界はアマチュアが作り上げたものじゃ。未知の世界には天才もプロもいない。アマチュアが未知の扉を開け、天才やプロたちが世界を広げていくんじゃ」


 じいさんの理論はハチャメチャであるが、それなりの理屈は通っている。きっと僕に何かを伝えようとしているのだろう。


「この絵は、研究と探求と実験に満ち溢れておる。誰も考えつかなかった表現で、それまで見たことのない新しい絵画に到達したんじゃ。有彩色で一番明るい黄色を主体とし、補色の青紫色を背景に、その上、混色で色を濁すことなく配置し、立体感を際立たせておる。さらに、大きめの点描画表現で躍動感を生み出し、ひまわりの生命力を表現しておる。ゴッホは賞賛など望んではおらんかった。何かを生み出すとき、それに相反する苦しみが伴う。苦しみの向こうにある己の美学が存在するのじゃよ」


 僕が猫になったのには理由があるということなのだろうか。この姿が苦しみを越えた先の美の姿なのだろうか、それともこの姿自体が苦しみであるのだろうか。それより、「ひまわり」をもっと深く心に焼き付けておきたい。僕とじいさんは朝になるまでゴッホの美学に酔いしれていた。

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