第2章
第二章「老人と猫」
目が覚めるともう朝が来ていた。猫になって二日目。猫の寿命は平均十七年と言われているが、これを八十歳として換算すると、猫の一年は人間の四・七年に、一日は四・七日に、一時間は四・七時間に相当する。つまり、猫の一日は五時間程なので、すでに五日分近くを猫として過したのだ。週休二日だとすると、もはや一週間の猫業務を完了した、と言ってもよいだろう。
さらに考えを深めよう。十四時間も寝ている猫は三日近く寝続けるわけだ。三日間眠り続ける女などいない、と思われるが、「美しい女はよく眠る」という法則と「猫はよく眠る」という法則から「女は猫である」という三段論法による結論が生じ、僕の理論が正しいということが証明できるであろう。
続けて、元人間の猫の僕は二十一時間の睡眠が必要なのだから、僕には猫時間の四日分の睡眠が必要である。つまり、これこそが僕が男性的な犬ではなく、女性的な猫になった理由なのだろうか。こんなくだらないことばかり考えているのも、猫になってすることもなく、暇をもてあましているからである。
もっとも、人間のころからこうだったのだが、これがこの歳になって猫に格下げになった理由なのかもしれない。「格下げ」と言ったのは、猫が人間よりも劣っている、という考え方によるものであり、人によっては猫に「進化」した、と捉える方もいるかもしれない。いずれにしても、人間が勝手に決めた優劣であり、自然の法則に当てはまるかどうかは不明であるのだが、僕としては自然界が決めた法則により猫になったのだろう、と解釈している。
さてさて、腹も減ったことだし、食える物を貰えるところへと出かけよう。葉っぱおばさんのミルクだけでは物足りない。公園まで行けば、猫好きの人間の一人や二人はやって来て、弁当の残りやパンの切れ端くらいは分けて貰えるだろう。人間のころから食には興味がなく、尾頭付きの鯛を食っても、餌としか思えなかったのだが、葉っぱおばさんのミルクがあんなにうまかったのは、猫になって味覚が冴えたからだろうか。今、尾頭の鯛なんて食ったなら、衝撃のあまり卒倒するやもしれない。残飯で結構。
はてさて、公園までの道のり、猫はどこを歩けばよいのか。人間と同じく歩道でよいのか、はたまた、もっと路肩の溝の縁あたりか、やはり猫らしく壁を伝って移動すべきか。車の通りの少ない裏道、ここは堂々と道のど真ん中を進もうではないか。人間のころは悪いことをしているわけではないのに、すれ違う人の目を気にしながら、目を合わせないように歩いていた。猫になったらそんなことも気にならなくなり、堂々と胸を張って歩けるのは何故なのだろう。うまい理論が見つからない。
公園に入ると、いつもと違う風に見えた。というよりも「見られた」という方が正しい。人間だったころは、子供や老人たちが憩うこの公園で、僕は異質な存在であり、まるで犯罪者を見るような眼差しで見られていた。猫になったことによって「男は犯罪者であり、女は被害者である」という世間の犯罪理論からようやく抜け出せたのだ。言い換えれば「猫は犯罪者でなく、犬は被害者でない」という命題が真であることを示し、同時に「男は犬であり、女は猫である」という我が独自の理論を、対偶的に証明された、と言ってよいだろう。しかし、そうなれば「男の僕は猫である」ことに矛盾するのだが、これはまた徐々に解明していこう。
公園の片隅で絵を書いている老人がいた。緑色のベレー帽を被った白髪の「いかにも画家である」という印象の老人だ。僕は隣のベンチに陣取り、画伯の描く絵を覗き込んだ。こう見えても絵画にはいささかうんちくがあり、油絵を描いた時期もあった。当然、人間だったころの話である。まぁ、今は猫の姿なので、絵画を嗜む風には見えないだろうけれど。どれどれ、じいさまの描いた絵を評価してやろうではないか。
「にゃ? にゃ?」
何処をどう見て描いたものやら、いわゆる抽象絵画であり、赤やら緑の球体やら錐体が、青い空間に折り重なって浮遊している。つまり「ザ・ピカソ」なのである。抽象画家は、独自の美的感覚を絵画理論に変換し、線で描いた形質や色面積のバランスの細かな配置や比率を、カンバスの平面空間に絵の具で表現した、いわば証明論文なのである。万人には受け入れられ難いが、僕はじいさんの描いた絵を高く評価したいと思った。
「キュビズムという手法は、見える物体全てを平面と簡単な立体に変換した絵画手法なのじゃよ。つまり簡略化だな。しかしそれだけで、こいつは完成しないんじゃ。多視点で捉えないとな。物事を一点から見ていたのでは、その物の本当の良さがわからん。見る方向と角度を変えるのじゃよ。お前さんは、ようやく二つの視点で物事を捉えることができたのじゃ。どうだ?世界が少し変わっただろう?」、じいさんは独り言のように言った。
僕に言っているのだろうか。
「シュルリアリスムも悪くない。超現実主義じゃのお。現実を超越したお前さんは、これから素晴らしい体験をするじゃろう。どうじゃ、わしの絵のモデルにならんか?」
猫になって二日目でモデルデビュー。悪くない。「にゃー!」
じいさんはカバンから弁当箱を出し、蓋を開け、僕の前に差し出した。モデル料というわけか。それから、早速カンバスを取り替え、僕を描き始めた。このじいさんは、僕が人間だったことを知っているのだろうか。尾頭付きのメザシ弁当がヤケにうまかった。
公園の木々は、そろそろ落ち葉の絨毯の準備を始めるころ、フェルメールが描いた少女のターバンの青がどこまでも広がる空の下、夕暮れの虫たちのコンサートの開演時間にはまだ早く、ベレー画伯のモデル業務をこなしながら、僕はベンチでうとうといい気持ちで昼寝をした。猫であるのも悪くない。
目覚めた時、すでに絵は描き上がっていた。ピカソじいさんはその絵を僕に見せてくれた。カンバスに描かれたモノは、犬の顔をした裸の女の絵だった。「男は犬であり、女は猫である」、この理論に真っ向から対立した絵である。つまり、男である僕が猫の姿をしていることの裏の理論なのだ。このじいさんは、もしかしたら僕が猫になった原因を解明できるかもしれない。
夕暮れ近く、じいさんは帰る支度を始めた。そして、僕に「ついて来い」の合図をした。どうやら、猫の僕を自宅に招待してくれるらしい。
公園を出て、駄菓子屋の角を曲がり、二件目に古い家があった。ここがじいさんの家らしい。家に着くと「おーい」と、ピカソじいさんのひとことで、玄関に白髪のおばあさんが現れた。優しいお顔立ちの品のいいおばあさんに、絵の具まみれのみすぼらしいじじいが顎で合図する。
「あら、いらっしゃい。今日は素敵なお連れさまね。おあがんなさいな」と、おばあさんは笑顔で僕を歓迎し居間に通してくれた。
いささかかモダンな雰囲気のある昭和の日本の家という感じの住まいは、古いがよく手入れされており、何だか懐かしい感じがした。居間の背の低い本棚の上には、男の子が写っている色褪せた古い写真が飾られていた。写真の男の子は首に赤いバンダナを巻いた仔犬を抱えていた。
「そうか、この仔犬の代わりをすればいいのだな」、僕は猫になってはじめて自分の役割を見つけた。
居間のソファーでくつろいでいる僕に、ピカソじいさんが「こっちへ来い」と合図した。廊下を抜け、裏の勝手口を出ていくじいさんについていくと、裏庭に小屋があった。じいさんはドアを手で押さえ「早く入れ」と促した。
油絵の具の匂い。筒に刺さった筆。描きかけのカンバス。ここはピカソじいさんのアトリエ。大きな窓から差し込む光が、僕を赤茶けたボロのソファーへと導いた。じいさんはタバコをくわえたまま黙って準備を始めた。そして、丸椅子に腰をかけて煙を吐き、緑のベレー帽を深く被り直した。
時間が止まった。
再び時間が動き出したとき、僕は暗闇の中だった。闇の中からじいさんの声が聞こえた。
「写実的な絵は、リアルを表現する過程でジレンマを生じるのだよ。それは、光を色に変換する過程で起こる摩擦のようなものだ。どこから見ても写真にしか見えない絵を描いたところで、所詮、写真には敵わない。しかも、描くには時間がかかる。カメラなら一秒にも満たない。ならば、絵の具でしか表現出来ない画を作ればよいのだ。時間をかけて現実を忠実に生きることが無駄だと感じるなら、お前さんのように自分が描いた生き方で暮らすのが、最善の方法かもしれないな。ジタバタして、もがいて、迷ったその先に、本当に描きたいものがある。何かを生み出すには苦しみが伴うのだよ」
じいさんのカンバスの中では、人間の姿の裸の僕が怯えていた。
タバコの煙と秋の夜の時間がゆっくりと流れるアトリエで、猫になった現実の僕は、窓から注ぎ込む月の青に照らされていた。月の光はいつもより優しく感じた。
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