男は犬であり、女は猫である

日望 夏市

第1章

第一章「猫」


 ある朝目覚めると僕は猫になっていた。


 どうして猫になっていたのかはわからない。本来、男性は人間関係の形成において従属的な縦社会を作り、群生動物であり階級意識の強い犬の性質に似ている。また、女性はというと、自由で勝手気ままで、きれい好きの猫の性質である。

 これは僕が勝手に思い描いている持論であり、生物学的、または心理学的、はたまた精神医学的な根拠などはまったくない。というのも、そもそも犬や猫にも雌雄の区別があるのだから、雄猫が犬の性格だったり、雌犬が猫の性格だったりすると、ペット社会に混乱を招き、人間社会においても、犬好きの男性はあーだとか、猫好きの女性はこーだとか、面倒なことになってしまうので、これは僕の漠然たるイメージでお話ししたにすぎない。

 世間の会話でも、「あなたは犬派? 猫派?」なんてことをよく耳にするが、僕自身、犬が好きだとか、猫が嫌いだとか言っているわけではなく、犬も猫も僕にとってはどうでもいい選択肢であり、これも、動物虐待だ、とか、動物種差別だ、とかのことを言いたいわけでもない。とにかく、ある朝目覚めると猫になっていたのである。

 有名な小説の結末を借りるなら、毒虫になった男は父親に林檎を投げつけられ、名前の無い猫は水瓶に落ちてしまい、どちらにしても死を迎える。しかし、大きな鼻の和尚さんは目覚めると元通りなんてこともありうるのだから、これからどうなるのか未来はわからない。

 まあ、猫になったのだから、あの面倒くさい人間関係の形成された「会社」というところには行かなくて済むのだろうけれど。そういうことで、もうひと眠りしてから、またいろいろと考えようではないか。


 うとうとと二度寝をし、ついつい三度寝、はたまた四度、いつの間にやら夕暮れ近くで目が覚めた。はっ、と気がつくと仕事に行っていないことを思い出し、次にそれを猫になってしまったという現実が掻き消した。猫にはなったが、このままじっと寝たままではいられない。食うものを食わなくては、猫でさえもいられなくなる。かといって、鍋だのフライパンだのを振り回して、昼食だか夕食だかの準備もろくにできなくなったわけだから、これはもはや、人間の世界でいう施しを乞うか、盗みを犯すしかない。もっとも、猫が盗みを犯したとしても、人間社会の罪(あるいは罰)が適用されるわけではない。しかし、泥棒猫、という悪評が広まると、この地域の人間社会に溶け込んだ生活も困難になるだろう。

 とにかく、外に出てみよう。しかしながら、立ち上がったところで、うまく歩けやしない。立ち上がった、といっても、人間さまのように二本の足で立ったのではなく、当然、猫であるのだから四つの足で立ったのだ。人間の言い方で表現するならば、四つん這いになった、という方が正しいだろう。昨日まで二足歩行だった者に、四本足で歩け、といってもそう簡単にできるものではない。それでも四つの足で体を支えているのだから、初めて立ち上がった人間の赤ん坊のように、よろよろと倒れそうになるわけではない。不恰好にも、ようやく玄関まで辿りついたのだが、ここでふと気づいた。玄関のドアノブは頭上の遥か上にあり、二本の後ろ足で立ち上がったとしても、前足がドアノブに届かない。まったく、人間の住居は猫にとっては扱いにくいものである。季節はまだ夏の暑さがいささか残る秋口、ベランダの大窓を開け放って寝ていたことが幸いし、網戸を破って外へ出た。


 真っ赤な秋の夕暮の空、古い木造アパートのベランダにて、ひとつ「にゃん」と鳴いてみようではないか。なにしろ人間に育てられて、昨日まで人間だった猫なものだから、猫の言葉なんてものを知らない。ペットとして飼ったこともないのだから、猫がどんな言葉を使うのか、なんて知るはずもない。人間社会の一般的猫言語の「にゃん」としか言いようがない。それでも猫になったのだから猫らしく鳴いてみようと思ったのである。

「にゃーん」

うまく鳴けたような気がする。


 さてさて、このベランダから地面へ降りる方法を考えよう。本物の猫ならば、ぴょんぴょんと屋根を伝って、ひょひょいとジャンプすれば、あっという間に地面に着地なのだが、もと人間の僕にそんな技ができるのだろうか。

 人間のころの僕の運動神経は、良かったほうではないが、それほど悪くもない、といった中途半端な程度である。小学生のころは、少年野球チームに所属していたが、一番球が飛んで来ないライトを守らされ、試合ではヒットを打ったことはない。おまけに、ここ十数年、歩く以外の運動は一切やっていない。最後はいつ走ったのかすら思い出せない。そんな僕にどれだけ猫の身体能力が備わったのだろうか。

 向かいのトタン屋根まで七十センチメートルほど。人間の身長からするとたいした長さではないが、猫の体長のせいぜい七、八十センチからすると、体一つ分の距離である。つまり、人間でいうと一・五メートルを助走なしで飛ぶわけだ。もし落ちたとしたら、くるりとひっくり返ってスタンという、あのニャンコ宙返りを期待するしかない。もっともあれができるなら落ちることはないだろうけれど。

「えい!」

 かけ声と同時にジャンプした。周りの人には「ニャー!」と聞こえたのかもしれないが、そんなことを考えている間もなく、トタン屋根でツルっといってしまった。昼過ぎに降った雨のせいで足を滑らせて、そのまま屋根の下へと落下した。ニャンコ宙返りの技を披露できぬまま、屋根の下のゴミ箱へ、ズボッ、と埋まってしまったのである。幸いゴミ箱の中は、隣の家の、夏に伸びた庭の木を剪定した葉でいっぱいになっており、クッションとなって大怪我をせずに無事生還できた。

「猫も屋根から落ちる」

 くだらないことわざを思いつき、恥ずかしくなった。とにかく、無事に地球の地面に着陸できた。アポロ11号ほどの感動ではないが、これで飢え死にせず、猫でいられる可能性がでてきたのである。


 青臭い葉の匂いを付けたまま、これからどうしようか考えた。時刻は夕食どき。ここらあたりの路地には野良猫がたくさんいる。運がよければ、野良のおこぼれをもらえるかもしれない。いよいよ施しを乞うときがきたようだ。僕は猫だ、と自分に言い聞かせ、路地裏を徘徊した。裏通りの入口で、いささかかわいらしく「にゃー」と鳴いてアピールしてみた。

 すると、通り過ぎた民家の勝手口が開き、おばさんが出てきて手招きをした。「こっちへ来い」と言っているのか「あっちに行け」と言ってるのか、微妙な手つきをしながらこっちを見ている。おそるおそる近づいてみた。手にはお椀と牛乳パックを持っている。

「チャンスだ!」

 僕はできるだけかわいらしい声で「にゃーん」と鳴いてみせた。これが猫なで声というやつなのだろう。おばさんはお椀にミルクを注いで路地の脇に置き、少し離れてしゃがんだ。僕は急ぎ足で近づき、お椀のミルクをペロっとなめた。

「うまい!」

 猫になればただのミルクもこんなにうまいと感じるのか。一杯のお椀のミルクを飲み干し、「にゃー」とお礼を言った。おばさんは、「また、明日もおいで」と言ってくれた。僕はコクリとうなづくと、頭に引っかかっていた葉っぱが一枚、お椀の中に落ちた。おばさんはニコリと微笑んで葉っぱをエプロンのポケットにしまった。お礼ができてよかった。


 もう外はすっかり暗くなり、街灯が灯った。母と子が手をつないで家へと向かう姿を見かけた。何だかタイムスリップで子供のころに戻ったようだ。

「おや? そういえば」

 人間の言葉が理解できた。猫になっても人間の言っていることが分かるのか。これは僕だけの特権なのだろうか。それとも普通の猫でも理解できるのだろうか。猫になってみて久しぶりに母の声が聞きたくなった。人間のころはそんな風には思わなかったのに。


 昼の間、散々眠りほうけていたので、今夜は眠れそうにない。夜も深くなり、町はシーンと静まり返り、人の往来もなくなった。こんな時間、普通の猫は何をしているのだろう。

 本来、猫は夜行性であり、待ち伏せ型捕食者であるのだから、垣根の隅辺りで鼠でも待っていようか。それとも、男の性質である犬の習性を採用して、追跡型で鼠の捕獲を実行しようか。いや、犬が鼠を食うなんて話は聞いたことがない。やはり猫らしいやり方にしたほうがよさそうだ。しかし、ドブ鼠を生で食らうなんてことは、昨日まで人間だった僕にできるはずもなく、鼠の捕獲はただの暇潰しのまねごとにすぎない。

 昨日までならここで、帰宅して明日の仕事に備え、風呂にでも入ったあと、一杯ひっかけて、テレビでもぼんやりと見ているところだが、もとの職場は猫の手も借りたい、というほど忙しくもなく、働き者の猫など、どこかの企業が必要としているわけでもなく、明日もやることがないのだから、こんなことでもして時間を潰すしかあるまい。

 そんなことを考えているうちに、眠気が襲ってきた。そういえば、猫の睡眠時間は人間の倍だと聞いたことがある。僕は昨日まで人間だった猫なので、人間の平均睡眠時間の七時間と猫の十四時間を合わせて二十一時間の睡眠時間が必要なのかもしれない。そうしますと、起きている時間は一日三時間ということになる。つまり、七時間ごとに起きて一時間食事の時間をとればいいのだ。根拠のない理論をまとめあげたところで、家に帰って寝ることにしよう。

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