第4話 婚約者

 アルディンをふりきって一人で井戸端で水を汲んでいると、よそう、と思ってもつい汲んだ水桶の水面にうつる自分の顔に目がいってしまう。被衣を深くかぶっていれば目立たないが、少しずらすと、やはり青黒いものが水面にぼやけて映る。

 ぼやけて見えたのはメリジュスの碧の瞳が濡れているせいだ。

「メリジュス? おまえ、メリジュスか?」

 かがんでいたメリジュスは背後からそう呼ばれて、あやうく桶をたおしてしまいそうになった。

「久しぶりだな? 元気にしていたか?」

 屈託なく笑いかけてきたのは、つい一昨日都から帰ってきたジェルディンだった。

 アルディンより頭ふたつ分背がたかく、すらりとした容姿は、都の洒落た空気に染まって深緑しんりょく色のマントを伊達男のようになびかせてはいても、この土地ではぐくんだ強靭さは失ってはおらず、その証拠に長い手足からは、幼い頃から狩猟で鍛えてきた逞しさがうかがいしれる。以前より明るくなったようだ。

とうに声変わりをすませた声は、かつて遠目に見るしかなかったメリジュスには、別世界からきた見知らぬ人のもののように思えた。

「あ、あの、お久しぶりです」

 メリジュスはあわてて被衣をしっかりとかぶった。

「あの、都でのお暮らしはどうでした?」

 次期領主として研鑽をつむため、ジェルディンは都の学院で二年間学習してきたのだ。学問、礼儀、社交を学んですっかり立派な若者になってもどってきた彼は、そばの金木犀きんもくせいが落とす木漏れ日の金波きんぱに、全身輝いて見える。

 形の良い鼻筋は弟とよく似ているが、瞳の色と髪の色は母親から受けついだ碧玉へきぎょくと黄金だ。

 歳月を経てなお美貌で知られる夫人は、父領主が、やはり若かりし日に勉学のための都滞在中に知り得た貴族の娘だ。

「ああ。面白いものをいろいろ見た」

 神の祝福を一身に受けたようなジェルディンを見上げていると、ふいにメリジュスは切なくなった。

 厚い雲も、無数の枝葉えだはもつきぬけて降ってくる、太陽の光。黄金のしずく。神の愛撫。

 受けるのはいつも決まった人だけ。生まれも育ちもよく、優れた資質に恵まれたジェルディンやアルディン、その親のような人たち。

(いったいどうしてわたしは、よりにもよって、こんな二人と幼馴染みになるように生まれてしまったのかしら)

 身近に貴族の若様を見、たしょう思春期の甘い想いに心を騒がせられても、年季奉公の娘なら期間があければ屋敷を出て忘れてしまえるかもしれないが、母親の代からの住み込みの自分にはその権利もないし、そもそも行く当てもない。

「久しぶりに帰ってくると、前にいた侍女が辞めてしまっていて、いろいろ不便だ」

 ジェルディン付きだった侍女は一年ほどまえに辞めて故郷の村にもどった。村に許婚者がいるのだ。今ごろはすでにその許婚者と結婚して幸せに暮らしているだろう。身分の卑しい貧しい者にも、ときにつつましくとも雲の隙間すきまから残光のような光は降るのに。

(だから、それがわたしの運命なのよ)

 自分のような娘は、一生光の届かない海底の洞窟にでもひそんでいるしかない。メリジュスはひがんだ気持ちになって、そんなことを思ってしまったが、ジェルディンの次の言葉はメリジュスを驚かせた。

「メリジュス、奥付きの侍女にならないか? 今の侍女は気がきかないので困っている」

 とんでもない! と首をふろうとすると、ジェルディンは常に愛されてきた者だけが持ち得る、あの輝くような笑顔を見せた。自分の希望や望みは、すべて受け入れられると信じている者特有の笑みである。

「おまえならレイミィも気に入るだろう」

 わけがわからず、ぽかんとしているメリジュスにジェルディンが口早に説明した。

「都で知り合った娘で、実は明日の宴でお披露目しようと思っているのだ」

 つまり、婚約者なのだろう。かつて彼の父親がそうだったように、ジェルディンもまた都での遊学中に将来の伴侶を見つけてきたのだ。 

「レイミィは優しくてとてもいい娘なのだが、内気ですこし引っ込み思案なのだ。おまえが側についていてくれると助かる」

 都育ちの深窓の令嬢がこんな田舎へ来て、慣れないことだらけで心細いのだろう。

 言葉と表情からは婚約者への愛情がうかがいしれ、逆にメリジュスはほっとした。

(そういうことなら、おかしな期待や愚かな夢を見ずにすむから、いっそ楽かも)

 メリジュスは慎重に返事をした。

「あの、もしそのレイミィ様がわたしをご覧になって嫌がらないのなら……」

 ジェルディンは一笑した。笑うと、肩あたりで切りそろえられた金の髪がゆれて木漏れ日に輝く。

「嫌がるわけがないじゃないか! 今からでもレイミィに会うといい」

 迷ったが、主家の若君の言うことである。強く断ることはできない。それに、メリジュス自身も、本当は、このままずっと厨房の下働きで終わるのを思うとつらいのだ。

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