番外編

甘いあまいチョコレート【バレンタイン短編】

 ぼくが見ているのが夢なんだということは、すぐに気づいた。だって現実にありえないだろう。

 多華子さんがチョコまみれでポーズをとって、


「バレンタインプレゼントだよ。よかったら、食べてね」


 と、ウインクするだなんて。




 ぼくは、全身を駆け巡る高揚感とともに目を覚ました。

 いったいぼくはなんの夢を見ていたんだ? 

 あんな夢を見るだなんてどうかしている。今日が二月十四日だからといって、見る夢ぐらい選ばせてほしい。別に寝る前に明日は多華子さんからチョコをもらえるのかなとかワクワクというよりも祈りに近いことを考えてはいたけど、だからといって全身チョコまみれの多華子さんが欲しいかどうかというと真剣に悩む話だ。いや、できれば普通にチョコレートをもらえると嬉しい。できれば手作りで、義理じゃないチョコがいいけど、高望みはしない。た、大切な人っていうか秘密を共有している間柄として、親しいのだからチョコぐらい貰えると……。


 寝起きでしっちゃかめっちゃかになっている自分の思考に、ぼくは負けそうになりベッドに顔をくっつけてジタバタとする。


 二月十四日。世間でいうところのバレンタインデー。愛する人に感謝や贈り物を贈る日。実際のところがどうなのか知らないけど、日本では一般的に女性が男性にチョコレートを渡す日とされている。昨今では親しい友達に上げる友チョコとか、義理チョコなんてものもある。

 そう、チョコレート。ぼくもチョコは好きで、多華子さんも甘いものが好きだと前に口にしていた。

 けどどちらかというと、ぼくは同級生の女子から「こたろーくん、チョコあげる」とまるで友だちというより愛玩動物に向ける笑みでチョコを貰うことが多く、多華子さんは下級生から「チョコですっ。受け取ってください!」と友チョコというより本命っぽいチョコレートを貰うイメージだ。去年のバレンタインは休日ではなかったし、ぼくはまだ中学三年生だったので多華子さんがいくつのチョコレートを貰ったのかは知らないけど。かっこいい多華子さんならたくさん貰っていてもおかしくない。

 そう考えると羨ましくはある。同級生からも下手すると下級生からも男に見られていないぼくとしては、もう少しまともなチョコレートが欲しいものだ。


 さんざんベッドの上でジタバタしたぼくは、時計の針が十時を過ぎたことに気づき、とりあえず多華子さんの家に向かうことにした。



    ◇◆◇



「こーた、おはよ。いいところに来てくれたね。ちょうど出来上がったところなんだよー」

「……」


 ピンクの多いメルヘンチックな部屋。何も知らない人か来たらさぞかし驚くだろう。ぼくも最初この部屋に連れてこられて着せ替え人形をさせられたとき、こんなかっこいい人も拗らせているんだと思った。

 ヒラヒラと招く多華子さんにつれらて、ぼくは彼女が指したところに目をやった。

 パチパチと瞬きをする。

 もう一度、念入りに瞬きをする。

 それから訊ねた。


「なんですか、それ」

「熊のきぐるみだよ。ずっときぐるみを作ってみたかったんだけど、インスピレーションが湧かなくってね。リアルさはないけど、こーたに似合うようにかわいく仕立てたつもりなんだ。試しに着てほしいなぁ~」


 多華子さんがにやけ顔で、ぼくに迫ってくる。

 近づいてくる顔から眼を逸らすとあとずさり、ぼくは声変わりし忘れた声を隠すために低く囁くように言う。


「……わかりました」


 こんなに楽しそうな顔をしている多華子さんの頼みを、ぼくが断れるわけがない。いままでも、彼女が着てといったメイド服とか、ワンピースとかの多華子さんお手製女子服をたくさん着てきたのだ。それがきぐるみになっただけ幾分かましというものだろう。たぶん。

 多華子さんに部屋から出るように頼んで、ぼくはきぐるみを一度広げてみた。背中から入れそうだ。しかもよく見ると顔の部分はくりぬけており、そのままぼくの顔が出る仕組みになっていた。

 茶色い熊のきぐるみの背中に足を入れて、腕を通してから気づいた。

 背中のチャックが上げられない。

 服の上から着ても体にピッタリなきぐるみだけど、きぐるみ特有の弾力感もあるので、腕が後ろに回らないのだ。ていうか人間の体の構造的に、背中に掌を付けることは難しい。

 クマの顔の部分から自分の顔を出しながら、ぼくは困り果てた。

 これでは多華子さんの服もといきぐるみが着られない。

 これは死活問題だ。

 せっかく多華子さんお手製の服を着られるという絶妙な位置にいるのがぼくなのに、その多華子さんお手製の服をぼくは着ることができない。せっかくぼくのために繕ってくれたのに。いままでも彼女の作ったかわいい服をたくさん着てきたのに、まさかのきぐるみが着られない。

 ぼくが葛藤していると、がらりと部屋の扉が開いた。

 いつまでもぼくが合図をしなかったからだろう。待ちかねた多華子さんが扉を開いたのだ。

 ぼくは自分の無様な姿を見られるのが嫌で、多華子さんに背中を見せてしまう。


「こーた」

「あ、多華子さん。これは、ちがっ」


 慌てて前を向く。背中のチャックを閉めていないのに、ぼくはどうして背中なんて向けてしまったのだろう。

 隠しそびれたそれを見たのだろう。振り向いた視線の先で、多華子さんのまなじりが下がっていく。悲しそうな顔に――


「やっぱり、こーた、ちゃんと着られてないね。それひとりで着られるようにできていないから心配だったんだ―。もう試着し始めてから十分たつのにこーたの合図なかったし」


 満面の笑みで、多華子さんが言った。凛々しい顔を台無しにするような、でもぼくにしか見せてくれない解放感のある満面の笑み。


「こーた、背中見せて」


 ぼくは回れ右をして、再び多華子さんに背中を向ける。

 多華子さんの指が、チャックをつかんだのだろう。ジリジリ上がっていく音を傍で聞きながら、ぼくは突如訪れた事態に、背中から熱くなっていく感覚を味わっていた。

 多華子さんが近くにいる。

 いままでもよくあったことだが、今日は一段と緊張している気がする。これも今朝見た夢の影響だろうか。


「こーた。できたよ」

「……ありがとうございます」


 お礼を言って、ぼくは改めて多華子さんと向き直る。

 すぐに視線が合った。彼女はにこっとした顔で、楽しそうにぼくの全身を眺めている。

 さっそくと、撮影会が始まった。ぼくの姿を、多華子さんがスマホの写メで撮るというものだ。

 ぼくは彼女に言われるポーズをしながらも、また今朝見た夢のことを考えていた。欲望の塊のような、しょうもない夢。現実になるはずのない、ただの夢。全身チョコまみれの多華子さんなんて、一生見られないだろう。だから夢。

 思い出すだけで赤面してしまいそうになり、ぼくは多華子さんを見ていられずに、視線を逸らした。

 その先を見て、ピタ、と一瞬息が止まった。

 壁際に、大量の箱が置いてある。ただの箱ではない、丁寧に包装されたプレゼントの箱。中身は考えるまでもないだろう。今日は二月十四日。バレンタイン。プレゼントの箱の中身はチョコレートだろうか。多華子さんが誰かにチョコを渡すことは想像できないので、きっとこれは多華子さんが貰ったバレンタインチョコ。

 それを見て、胸のあたりがもやっとした。

 何がなんだかよくわからないそれを、ぼくは湧き上がってくる思いとともに、静かに飲み込む。


「こーた?」


 ぼくがずっと一点を見つめていたからだろう。カメラマンになっていた多華子さんが、ぼくと同じところに視線を向ける。


「ああ、それか。それね、一昨日に貰ったんだ。今年のバレンタインは日曜日だから、いまのうちに貰ってください! って、後輩からね。しかもけっこう凝ったやつ。せっかくわたしのために作ってくれたものだから無下にはできないでしょ? だから少しずつ食べてるんだけど、今年も量が多くてねー。食べきれそうになくて。……こんな背の高い女の何がいいんだか」


 少し寂しそうな顔で、多華子さんが吐き捨てる。


「甘いもの好きだけど、こうも大量のチョコをひとりで食べるのはきついよね。二月だからといっても食べ物だから腐りそうだし。……ああ、そうだ」


 多華子さんがプレゼントの箱に向かっていく。

 そのうちのひとつのふたを開けて、ぼくに差し出してきた。


「こーたも食べる?」


 にこやかな顔だ。

 ぼくは静かに頷く。見ていられなかったから。

 ぼくは差し出された箱の中を覗き、きれいにトッピングされているトリュフをひとつ掴むと、口の中に放り入れた。ただのチョコの塊だ。口の中でとろけることなく、手作りなのがまるわかりな固い弾力。けど、甘い。甘すぎる。

 複雑な思いに胸焼けしそうになりながらも、ぼくは彼女と一緒に、プレゼントの箱を片っ端から開けていき、一緒にチョコを食べていた。着ぐるみ姿のままで。たまに多華子さんがカメラをぼくに向けていたのでもしかしたら食べている姿を撮られたかもしれない。ある意味滑稽に思える姿をとられて気恥ずかしい感じがしたが、ぼくは表情には出さずに昼ごはんの代わりにチョコレートを食べた。たくさん、食べた。


 果たしてこれは、多華子さんからチョコを貰ったことになるのだろうか? わからないけど、どこのだれが作ったのかもわからないチョコは、ひとつ残らず甘くて、複雑なほど胸焼けしたことだけは確かだった。

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