第4話
待ちに待った、七月十七日、土曜日。夏休み初日。
学校がある日よりも早い時間に、ぼくは目を覚ました。自分が思っているよりも、楽しみにしていたのだろう。
いつもより早い朝ご飯を食べ終えると、ぼくはいつもよりも早く家を出る。
ぼくの家から十分も距離の離れていないマンションの一室。そこが、多華子さんの家だ。
インターホンを押そうとして、指が止まった。
今日はいつもより早く起きて、いつもよりも早く朝ご飯を食べて、いつもよりも早く家を出てきてしまった。いまチャイムを押したら、多華子さんはいつもよりも早く目を覚ますことになるだろう。休日の彼女は、ぼくのチャイムを目覚まし代わりに使っている。
躊躇い、少し時間を潰すことにした。
汗が頬を伝って行く。頬を撫でるぐらい涼しい風が吹いている。
五分経ち、十分経ち、二十分経った。
よし、とぼくは決意すると、インターホンを押す。
バタバタ、と扉越しに慌ただしい音がした。
目の前の扉が開く。
「こーた。早いよー。五分待って!」
扉が閉まる。
ぼくは思わず目を見張った。
いつものんびりと扉を開ける多華子さんが、先週に引き続き慌ただしく扉を開いたからではない。扉を開けた多華子さんの目元に、大きな黒墨があるようにあるように見えたからだ。
気のせいだろうか。一瞬だったから、その可能性もある。
悶々と考えていると、いつの間にか五分経っていた。扉が開き、普段着に着替えて髪の毛を軽くブラッシングした多華子さんが姿を現す。その目元には、やっぱり黒い隈がくっきりとできていた。
「……徹夜、ですか?」
「うん。一昨日の夜から寝てないんだよねー。どうしても今日に間に合わせたかったからさ」
「それは、ぼくのために?」
「ん? ま、立ち話もなんだから、入りたまえー」
笑顔で腕を引っ張られる。ぼくは玄関で靴を脱ぐと、腕が引かれるまま多華子さんの部屋の中に入った。
「あ」
部屋の隅に視線が向く。
隠すことなく、ぼくへのプレゼントは置いてあった。
けどそれは――。
「あ、あの。多華子さん」
「ん?」
「あれ」
「ああ、あれ? あれはねー」
「も、もしかして、ぼくへのプレゼントですか!」
高い声を隠すために普段ぼそぼそと喋っているぼくだけど、予想外のプレゼントに、ぼくは興奮して捲し立てるように口にする。
多華子さんが驚いたように目を見開いた。
――多華子さん。ぼくは、ずっとあなたからかわいい服を着せるための着せ替え人形だとしか思われていないと思っていた。だから今日ぼくのために作ってくれていると言っていた服も、女物なのだとばかり考えていたのだけど。少し気持ちを改めた方がいいのかもしれない。
ピンク色の部屋の壁側。ハンガーに揺れる服は、紛れもなく紳士服だった。
タキシード、といえばいいのだろうか。黒いコートはおへその前でボタンが止められて、そこから後ろ裾に長くなっている。それに合わせた白いシャツ。それから先週にぼくが選んだ臙脂色の生地のネクタイ。
ぼくは思わず近づくと、惚れ惚れとした顔でそれを眺める。かっこいい。
「こーた、それは」
「ありがとうございます!」
満面の笑みで振り向けば、多華子さんは困ったように頬を掻いていた。
「こーた、よく見てみ。そのタキシードのサイズ」
多華子さんの言葉に、ぼくは再びタキシードに目を向ける。
そしてその袖の長さと、ぼくの腕の長さを見比べて――いや、その前にその服の大きさを今一度確かめて――ぼくはあ然と呟いた。
「でかい」
ぼくより一回りか、二回りぐらい大きい。これをぼくが着たら、ダボダボで、かっこよく決まらない。
なんで、だろうか。どうして多華子さんは、これをぼくに作ってくれたのだろうか。もしかして、これを着られるだけの身長を伸ばせということなのだろうか。……それは、ほとんど不可能に近い。なぜなら、ぼくはこの一年間、一ミリも身長が伸びていない。ぼくの身長は、多華子さんよりも十五センチ低い。
ぼくは、多華子さんが作ってくれたこの服を、着ることができない。
「あのね。それ、こーたのじゃないんだ」
「え?」
ぼくのじゃない? なら、これは一体誰が着るんだ?
ぼく以外の誰が多華子さんの服を着るんだ?
「あたしの服」
「え?」
すっとんきょんな声が出る。
多華子さんが着る? タキシードを?
それは、さも似合うに違いない。多華子さんがこのタキシードを着たら映えるだろう。多華子さんは身長が高いし、凛々しい眼差しは男子に負けることのない輝きを誇っている。
でも、どうしていきなり自分のためにタキシードを作ったのだろうか。
多華子さんが押し入れの扉を開く。
すると、中から一着の服を取り出した。
「こーたへのプレゼントは、これだよ」
「へ?」
目を見張る。
多華子さんが押し入れから取り出した服は、一言で言うのなら「メイド服」だった。
水色のギンガムチェックの生地に、白いフリルをあしらえた、派手すぎるわけではないけれど可憐なメイド服。この生地も、先週ぼくが選んだものだった。
「多華子さん……」
「どう? こーたの誕生日だから、あたし頑張っちゃった。これを作るのに、結構苦労したんだよー。ここ二日間徹夜して、なんとか完成したの」
つまり、多華子さんの目の下の隈は、このメイド服を作っていたからということか。
そう思うと複雑な気持ちになる。多華子さんは、きっとぼくが喜んでくれると思って、作ったのだ。その上徹夜までして、仕上げてくれた。
それを無下にできるほど、ぼくは冷酷ではない。
一生懸命に多華子さんが作ってくれた服を、着ないのは勿体ない。
きっと多華子さんは、これを結構前から作っていたに違いない。先週も多華子さんはこれを作っていたのだろう。ぼくを驚かすために、隠していたのだ。
ぼくが先週に選んだ生地がふんだんに使われた、手作りとは思えない水色のギンガムチェックのメイド服。
下唇を軽く噛むと、ぼくは手を伸ばした。
「着替えるから外に出ていてください」
「本当に着てくれるの!」
嬉しそうな多華子さんの顔。
ぼくは頷くと、メイド服を受け取った。多華子さんが部屋の外に出て、襖を締め切るのを確認すると、メイド服に腕を通す。
「こーた。かわいい! かわいいよ、こーた!」
スマホのレンズをこちらに向けて、シャッターを切りまくる多華子さん。
ぼくは引き攣った笑みで、それを受ける。
多華子さんはタキシードを着ていた。どうやら、ぼくの誕生日のためにメイド服を作る片手間に、自分用に作ったものらしい。多華子さん曰く、メイド服に合わせて自分も何か着たかったんだとか。いつもかわいいものばかり作ってきたらか、タキシードを作るのは苦労したんだとか。
予想通り、多華子さんのタキシード姿は、彼女によく似合っていた。肩の下まで伸ばしている髪の毛を一つに結び、後ろに垂らしているのだけど、彼女の凛々しい眼差しが彼女の「
ふと、姿見に映る自分の姿に視線が向く。
今日のぼくは、水色のギンガムチェックのメイド服に合わせて、茶髪のカツラを被っていた。肩の上で切り揃えられたそれが、時々ぼくの首筋を触りこそばゆい。
三十分で写真撮影を終えると、うっとりとした顔で自分が撮った写真を眺めていた多華子さんが、「ふぅ」と声に出してため息を吐く。
「いやぁ、こーたはいつもかわいいねぇ」
「……そうですか」
別に、かわいいと言われても嬉しくないのだけど。多華子さんからの言葉は、素直に受け取ることにしている。
それに、いまの多華子さんは――ぼくにだけしか見せない笑顔をしている。へにゃりと目を細めて笑う姿は、あどけない子供のようで、無邪気でかわいい。
横目でそれを見ていると、なんだか胸の奥にわだかまっていたものが、すぅっと退いていく感覚がする。
「多華子さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
心の底からの感謝を口にする。
誕生日に多華子さんと二人きりで過ごせるなんて、最高のプレゼントだ。いくらでもかわいい服を着てあげてもいいと思えるほどに。
ぼくは今日で十六歳になる。成長期も声変わりもどこかに置いてきてしまったけど、これから身長が伸びるかどうか疑わしいけど、でも多華子さんに会えた。
身長差が十五センチもある多華子さん。
彼女を見上げることしかできないのは悔しいけど、でも彼女と一緒にいられる休日を大切にしたいとぼくは思っている。
「こーた」
多華子さんの目が大きくなる。
「抱きしめてもいい!」
「……遠慮しておきます」
なんだか感極まっている多華子さんが腕を広げたので、ぼくは後退った。いまのこの状態で抱きしめられるのは、男として何とも言えない。いくらぼくが多華子さんのことを好きなんだとしても。
それになんというか、やっぱり多華子さんはぼくのことを、ちゃんと男だと思ってくれてないんだろうなぁって改めて思ってしまった。
多華子さんの中で、ぼくは「かわいい着せ替え人形」でしかないのだろう。そうとしか思われていないのは、やっぱり悔しい。でも、ぼくにはその状態を覆せるほどの度胸がない。ないのだけど。だけどいつか、多華子さんにぼくの男らしさを見せてやりたいと思った。
いつか。必ず。どこかで。
「そういえば、こーた。あたしはね、ほとんど自分のためにかわいい服を作ってるんだよ」
「……そうですか」
そうだと、思っていたけど。
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