double suicide

康平

double suicide

姐さんは、障子の隙間から覗いているアタシを捉えて、それから艶っぽく微笑んだ。


その笑みは、艶事の最中、それも絶頂間近を見てしまったときに、アタシに見せるそれととてもよく似ていた。だからその時も、そういう時なんだな、と思った。だが違った。



姐さんお気に入りの朱色に金糸の刺繍が施された着物は上も下もはだけて、その下の襦袢もゆるやかに艶やかに滑り落ちていた。露になった蝋みたいに生っ白い脚は紅に染まっていた。









姐さんは、その幾人もの男を虜にした流し目をアタシに向けて、嬉しそうに舌なめずりをすると、自身も紅に染まった。










障子にまで、アタシにまで、その紅は飛び散ってきて、そうして姐さんがドサリと倒れる。

アタシはずっとどきどきしていた。胸がぎゅうっと苦しくなって、呼吸が荒くなっていった。振袖新造だったアタシは、まだ快感なんぞ知りもしなかったから、その時の恍惚感に酔った。そしてその初めて味わう快感が忘れられなかった。

アタシに飛んできた紅をゆっくり舐めて、うっとりとした気分のまま、ふつ、と景色が途切れた。









気付いたら、女将さんの腕の中だった。ぼう、としているアタシを抱きしめて、泣いていた。みんなどうやら姐さんが死んだことに動揺してアタシが倒れちまったとでも思っていたらしかった。

だから姐さんのお葬式の時も、みんなアタシに気い遣ってくれていた。でもアタシはちっとも悲しくなんかなかった。姐さんが死んだってことにはこれっぽっちも興味がなかった。



粗末なお葬式だけど、姐さんは言いようもなく綺麗だった。真っ白な顔の上にさらに白粉を塗りたくって、つやつやした緑の黒髪は髷をほどいて傍に蒔絵の細工の櫛と金の簪を添えて、そして白いお着物をきっちりと着させられて。

とりわけアタシの目についたのは、唇に差した紅だった。こびりついていた紅は拭われていたけれど、代わりにこの紅が、姐さんを鮮やかにしていた。




















この、姐さんに纏わりついた美しさが、そのすべてが、いつまでもアタシを虜にして、いつまでも、まるで恋するをとめの様に、胸を焦がして仕方がなかった。



















オイランハ、スイタヲトコト、シンヂュウシタノサ。ホンニマア、ウラヤマシイコトヨ。












心中、その言葉に魅了されたのは、もっとずっと後の話だ。他の姐さんから聞いた話だったかもしれないし、本で読んだのかもしれない。


好き合った男と女が、共に死ぬ。


そんなことには殊更何も思わない。唯々「心中」という言葉だけが、アタシの心を捕えて離さない。






















絶頂を迎える時、あの姐さんが目に浮かぶ。妖艶を、人の形にしたような、あの光景。そして広がっていく紅。恍惚となる。呼吸を荒げる。湿った体に汗が伝っていく。








アタシが欲しいのは、こんな快感じゃあない。

もっと、もっと。











「まつはは、どの男にも、斯様にするのか。」

「はて、斯様に、とは。」

「だから、その、男を悦ばせるのか。」

「何を仰いますやら。まつははただ、伝衛門さまのためだけに、だって、まつはが愛おしいのは、伝衛門さま、ただおひとり…」

そう言って目を閉じ、深く息を吸う。男に縋りつく。

花魁は男に夢を見させる。だから惚れていようが惚れていまいが、誰にだってこのようなことを言う。

立つとき座るときは気高く美しく、床に入れば愛らしく。誰もがそうやって夢を見させる。
































アタシはただ、あの日からずっと、夢を見ているだけ。













































風呂に浸かったときに、少しだけ、頭を沈めてみる。

湯の中で目をかっ開いて揺らぐ手足を眺める。漂う髪を眺める。これはこれで綺麗だ。

だがその後には、目や鼻や口や耳に入り込んでくる湯の苦しさに耐えられなくなって、大きく噎せながら顔を出す。

そしてこれはなんだか違う、と感じる。こう、入り込んできて気圧されるようなのは、何かが違うのだ。



























下ろした髪に頬を預け、金の簪を首筋に当てる。ひやり、とした感触に体が震える。

ぐ、と持つ手に力を入れてみる。首に食い込んで、ちくり、とした痛みが走る。鼓動が速くなる。呼吸が荒くなる。

「ん…」

目の前がぼんやりとしてくる。

「く…ふ、ぅ…は、ぅん…」

声が漏れる。体中がびりびりとして、それでいてがたがたと、手も足も震えて止まらない。涙が滲んできてさらに視界が霞んでいく。











このまま、この快楽の中で、このまま、このままこのままこのまま…










































違う。




この二つ文字が頭に浮かんで、ふ、と体の震えが止まった。手から簪が滑り落ちて、かつん、と音を立てた。



違う。



















これでは、ただ、アタシが、

































「伝衛門さま、愛しい伝衛門さま…」

男の手が、アタシの髪を撫でる。

「まつは、お前はそうやって、男を虜にするのだな。」

「ええ、でも、伝衛門さまは特別。」

「まあよい、そんなところも、わしは、惚れているのだから。」

















「今の言葉、ホンニカヘ?」
















急に廓の言葉を使ったアタシに、男は驚いたようだった。

アタシは起き上がって、男に背を向け、外を眺めた。

そして言うのだ。睫毛の長い目を僅かに伏せて、頬を肩に預けて、男をちら、と見遣って。

口の端を、微かに上げて。




















「モシヘ、ワツチヤ、タツタヒトツ、ネガイガゴザンスヨ。」






































イトシイヌシサマ、






ワッチトトモニ、シンデオクンナシ。

























男は、青ざめた。

けれど、頷いた。











「おめえのためなら、心中だってなんだってしてやらあ。」












アゝ、ウレシ。

































そうやって気前のいい口を叩いても、いざとなれば男の右手は震えていた。

剃刀を首筋に近づけ、呼吸が乱れた。見て分かるほどにがたがたと。それはもう見苦しいほどに。

アタシはそれを、じっと、しずかに、つめたく、見ていた。



男はいつまで経っても首に刃を立てようとしない。

アタシは細く息を吐き、目を閉じてまた細く息を吸った。














男の頬に手を当て、口をつけた。

驚いた男の体から力が抜ける。それからアタシは口を吸う。

男がアタシを掻い抱く。アタシも手を男の背に回して縋りつく。




























空いてる左手で男の右手を掴むと、一気に首へのめりこませた。























イトシイヌシサマ、


ワッチモスグニ、


















これが、さいごの夢。
















男の体が、アタシの腕から、するり、と抜け、どさり、とアタシの膝の上に落ちた。

アタシの白い脚は、紅に染まっていた。




































これだ。


アタシはこれが、欲しかったんだ。




飛び散った紅を眺めながら、姐さんに呼びかけた。




姐さん、アンタも、これが欲しかったんだろ?




























がた、と後ろで音がした。


ちら、と横目で見遣る。

小さい禿がこちらを見ていた。









アタシはそのまま口端を僅かに上げて、唇についた紅を、ちろり、と舐めた。




































そうして金の簪を、首筋にぐ、と差し込んだ。
























舞い散る紅の中、アタシは朱色に金糸の刺繍の、艶やかなお着物の上に、どさり、と倒れた。

















































































これで、アタシ、一世一代の恋は、終わり。







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