8-2


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 真夜中だった。暗い中にアンナの吐く白い息が漂い消えた。寒さで肩をすくめる。カテリーナから離れると、体中の痛さを思い出した。

「仕事が早いな」とエリオット。

「高利貸しの情報網を甘く見るな」

「高いんだろ」

「必要経費だ。折半だぞ」

「ふざけんなよ」と落胆。だが断れそうもない。「行くのか?」

「お前はどうしたいんだよ」

「行くしかないだろ」

「愚問だったな」

「俺が悪かった」

「行くぞ」

「場所は?」

「ここから近い」

「歩こう。体が痛い」

「軟弱者め」

 脇を小突かれた。

 歩き出す。


   ■


 タオローク通り。カジート地区の境界線あたりにヘレンの住んでいる部屋はあった。

「ここの二階だ」

 アンナは脇の階段をあがっていく。

「一階は何屋だ?」とエリオットが続く。

「刷毛職人の家らしい」

「どうでもいいな」

「お前のそういうとこ、本当に腹が立つ」

「すまん。自分じゃわからない」

 二人で扉の前にたった。顔を見合わせる。アンナが扉に手をかける。開いていた。戸が開いていく。

「運がいい」

 アンナが表情を変えずにいう。

「だったらもっと喜べよ」

「私に命令するな」

 中へ入る。

 匂いは特になし。ベッドにテーブル。棚。燭台、皿、ナイフとフォーク。カップにパン。ごくごく普通の部屋のようだ。

「どう思う?」

 エリオットが部屋を歩きながらいった。

「普通過ぎる」

 アンナはテーブルの横、部屋の中心あたりに立ってじっと周りを見渡している。

「阿片の匂いもないし――」といいながらエリオットが棚を開く。「阿片の塊もない」

「しかし燭台があるが、蠟燭がない。パンはあるが水がない」

 アンナがいった。

「鋭いな」

 エリオットが棚から火口箱を探し当てた。「火種はあるぞ」

「不自然だ。ちぐはくだな、この部屋は」

 アンナはゆっくりと窓へ近づいた。「仮の部屋なのかもしれないな、ここは」

「何してる」

「眺めだよ」

 窓の戸を開いた。黒い夜空。並ぶ屋根の向こうにロマノフ大聖堂が見えた。長老派の聖堂だ。

「なるほどな」とアンナが呟く。

「勝手に納得しないで俺にも教えてくれよ」

 アンナの後ろに立つエリオット。ロマノフ大聖堂を眺めた。真夜中に関わらず、塔の一部に明かりが灯っていた。

「そういうことか」と思わずエリオットも呟いた。

「あそこだ」

 アンナがいった。「あそこに行くぞ」

 二人は部屋を出た。

 ロマノフ大聖堂へ向かう。


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