第6話 感情

 密談を終えて病院に戻った後の夕食の時に、佳奈子は姿を見せなかった。優斗は外出でもしたのかと思って気にも止めていなかったが、消灯間際にひどく青ざめてナースステーションから出て来る姿を見かけた。その憔悴しきった表情は、夕食後の時間にはっきりとした口調で話をしている彼女と同一人物とは思えないほどで、声をかけるのも躊躇われるものだった。

 (あれは摂食障害の症状ではないんじゃないか?)

 優斗は直感的にそう思ったが、佳奈子のそういう姿はまた、自分の知らない世界にいる佳奈子を知ってしまうことにつながる気がして、嫌悪感に近いものを感じるのも事実だった。

 その夜は、佳奈子とコミュニケーションを取れなかったことが、優斗の中の何かを消化不良にしていた。

 (そうだ、毎週ばあちゃんの家の前を通る石焼き芋の車が、時々来なかった時と同じ感じだ)

 幼かった頃の思い出の中に似たような感覚があったことを探し当てた後、その回想は無意味であることに気づいた優斗は、昼間にメモした人事データのメモを見つめながら、佐藤の言う「戦略」を練ろうとした。

 (まずは課内に理解者を作る必要がある。そうなると、保守的な課長ではなく、多少革新的な考えの課長補佐を味方につけるか・・・)

 (係長職は全員保守的か?いや、これを機会に教育庁で影響力を持ちたいと言う野心を持っている人間は必ずいるはずだ・・・)

 佐藤の言う「戦略」とは、つまり「敵と味方を見極める道筋をつける」ということと同じ意味だ。行政は企業のように業績で評価が決まるという仕組みにはなっていないから、一緒に仕事を進めるメンバーが好きか嫌いか、あるいは相性が合うか合わないかで成果が大きく変わってくるというのが現実だ。そして、その課を取り仕切る課長の考え方も大きな影響を与える。優斗は万人受けするタイプではなく、優斗自身も「敵千人味方千人」で仕事を進めるべきだと思っていた。しかし同時に、自分の「味方千人」を選ぶのは慎重であるべきだと考えている。誰が味方になるのか、あるいは誰の味方になるのか、教育庁に移ってからの身の振り方を考えるという重要な思案に集中することで、先ほどの佳奈子の姿を頭の中から取り除こうとしたが、それでもなお、その残像は消えることはなかった。

 翌日、いつも通り午前中だけ出勤して病院に戻った優斗は、病棟内にある診察室で15時に医師の診察があることを告げられた。入院して初めての診察である。

 その診察は、時間きっかりに始まった。

 「入院生活はどうですか?何か不便なことや困ったことはありませんか?」

 医師はそう切り出した。

 「特にありません。個室ですし、意外と入院も快適ですね」

 優斗は作り笑いを浮かべてそう言った。自由が拘束されている以上、不便なことは言い出せばきりがない。食事も今のところ何とか許容してはいるが、ぬるい汁物と冷めた副菜は、美味い不味い以前の問題である。しかし、たった3週間の我慢だと言い聞かせている。まして、そんなことを医師に言っても何の解決にもならないことは目に見えている。医師も、明らかに作り笑いとわかる表情を返している。

 「そうですか。何か不便なことがあれば、看護師に伝えて下さいね。ところで、入院して数日経ちましたが、欲求のほうはどうですか?」

 医師は世間話しは早々に切り上げるという感じで本題に入ってくる。

 「欲求と言っても、今までもそれを常に感じているというか、そのことばかり考えている訳ではありませんでしたから。食欲の場合は腹が減ったら美味いものを食べたいと、そのことばかり考えますよね?睡眠だって、寝てなければ眠たくなって仕方ないじゃないですか?他の人はどうかわかりませんが、僕の場合はしたくなったらする、したくても時間が取ればければ我慢する、という生活をしてきました。だから、いまだに僕が依存症だなんて思っていません」

 この医師は信頼できる。だから、本音で話しても大丈夫だという直感が優斗にはあった。この安心感はどこからくるのか、不思議でもあった。

 「入院してからは、そういうことはしていない、ということですか?」

 医師は優斗の目を見て質問をしてきた。先ほどの作り笑いとは全くの別の雰囲気を出していた。

 「いえ、一昨日、いつも通り出勤するための外出届けを出して外出しましたが、土曜日で出勤の必要はなかったので、その足で性的な関係をもっているパートナーの自宅に行き、セックスをしています」

 「それはなぜでしょうか?入院という言わば非日常的な生活を送っているからなのか、それとも抑えられないほどの性欲が沸き起こってきたからなのか、それとも、何も考えずにその行動に走ったのか、はたまたそれらではない何かの理由なのか、どうでしょうか?」

 「何も考えずにそういう行動に走った、というのが一番近いと思います。その日の朝までは、普通に出勤して仕事をしようと思っていました。しかし、セックスをしたい、女性を抱きたいという感情が急に出て来て、何も考えずにパートナーに連絡を取り、都合があったので自宅まで行ってことに及んだ、というところです」

 「性嗜好障害の疑いで入院している、という現実は頭をよぎりませんでしたか?」

 「よぎりません。その時は全く頭の中から消えていましたね」

 医師はA5程の大きさのノートに会話の中身を書き込みながら、時々頷いて見せた。

 「それは、いつもそうなんでしょうか?深く考えずにことに及ぶ、ということが多いのですか?例えば、何時間もそのことばかり考えてしまうというようなことはないのですか?」

 「いつもそうです。したい、したい、したいと何時間も考えたことなんてありません。“ふっと ”とセックスしたい感情が出てくる、だからする、という感じです」

 その会話をノートにメモし終えた医師は、また最初の作り笑いを浮かべた。

 「ありがとうございました。今日はこれくらいにしましょう」

 そういうと、医師の方から立ち上がり、診察室のドアへ優斗を促した。

 その日の夕食には、佳奈子がいつも通りの表情で食事に出て来ていた。夕食後、いつものように2人の会話が始まった。

 「松野さん、昨日びっくりしたでしょ?」

 佳奈子はそう切り出した。

 「俺があの場を見ていたこと、気付いてたの?」

 優斗はあれだけ憔悴しきっていた佳奈子が、自分に気付いていたということ自体が驚きだった。

 「私、あんな状況でも意外と周りは見えているんだよ」

 「何があったか、聞いてもいい?」

 優斗は、もう遠回しで話をしても佳奈子のことを深く知ることができないと思って、はっきりと疑問をぶつけてみた。

 「昨日の昼間、父と母が面会にきたの。私、父とは昔から合わないんだ。昨日も、面会に来たから心配のひとつでもしてくれるのかと思ったけど、“いつまで入院しているんだ、入院費の無駄だ、意思が弱いからだ ”と罵倒されたの」

 佳奈子は俯いている。その表情からは、話したいのか、話したくないのか、読み取ることはできなかった。

 「お母さんは?どういう感じなの?」

 「お父さんに追従しかしないよ。お父さんが怒り出したら、私をかばう訳でもお父さんをなだめる訳でもなく、かといって一緒に怒る訳でもない。ただ黙ってそこにいるだけ。家でもそうなんだ」

 「お父さんって、何してる人なの?」

 「佐谷建設グループの、専務とかいう役員をやってる。次に社長になるのは決まっているらしくて、昨日はこんな大事な時期に何やってるんだとも言われた。あの人は、精神科の病気を一切認めていないからね」

 優斗はハッとした。今まで気づかなかったが、佐谷建設グループと言えば、関連会社まで入れると社員数千人を抱える大企業だ。今の社長は道内の建設業界のドンとも言われ、北海道どころか国の政界とも太いパイプがあると聞いている。

 「佳奈子ちゃんって、あの佐谷建設の役員の娘なの!?専務は確か・・・、佐谷幹夫?お父さん、佐谷幹夫さんかい?」

 「そうだよ。まあ私は、父とは思っていないけどね」

 苦笑いを見せて佳奈子はそう言い切った。建設畑の経験がない優斗でさえ、その会社の役員の名前は押さえていた。それほど道政にも影響力のある企業なのだ。

 「父が帰ったあと、パニックになっちゃって、暴れちゃったんだ。私摂食障害で入院してるけど、うつ病とパニック障害も持ってるんだ。昨日はその症状が全部出ちゃった感じで、ナースステーションで発作を抑える頓服薬飲まされて、奥のベッドで無理やり寝かせられてた」

 驚きだった。精神的な病気をいくつも抱えながら、そのか細い体で毎日戦っているのだと思うと、優斗は心配を通り越して同情に似た感覚を覚えた。

 「私の話はもうやめよ。ところで松野さんはどうなの?依存症のこと、何か進展あった?」

 話題は佳奈子のペースで変化していく。

 「今日、初めて診察を受けたよ。あの先生、何でかわからないけど信頼できるから、全部正直に話してみることにして包み隠さず告白したよ」

 「そうなんだ。今日はどんなこと聞かれた?」

 「入院中に、その・・・、そういう欲求は出てこないのか、そういう行為はどうしてるのか、みたいなこと」

 「へぇ。なんか赤裸々なこと聞いてくるんだね」

 佳奈子は子どもが好きな絵本を覗き込むように目を輝かせて、優斗の顔を覗き込んでいる。

 「正直言うとさ、この間も事行くつもりで外出したけど、したくなってパートナーのところ行ってしたんだよね。でもそれは特別なことじゃなくて、いつも通りだし・・・」

 「ふうん。私はよくわからないけど、そういうもんなんだね。でも、依存症の基本的な治療はその依存を断つことだと思うんだけど、やめろとか我慢しろとか言われてないの?」

 「いや、言われてないよ」

 優斗自身も、依存症治療の基本は依存している物質や行為を断つことだということくらいは何となくわかってきていた。それでもそれを強制してこないということは、つまり自分は依存症ではないのではないか、という期待を持っていた。

 「私、自分の病気のこととか相手の病気のこととか、こんなに人と話したの初めてだよ。中学生の時ね、好きなグループで給食を食べていいっていうルールだったの。でも私は友達がいなかったからずっと一人だった。それで、さすがに寂しくて、後ろの席の女子に “一緒にご飯食べてください ”って勇気をもって言ったら、“嫌です ”ってはっきり言われたことがあるんだ。あれは決定的だったね。それから、人と関わるとか面倒になっちゃったから、友達はいない。精神科の病気って繊細でしょ?だから患者さんともあまり話さなかった。でも松野さんは楽しい。松野さんって、公務員でしょ?そんな堅い仕事してるって、全然見えないし」

 佳奈子は、相変わらず自分のペースで話題を変えていくが、優斗は自分の鼓動が激しく波打つのを感じていた。多くの女性と肉体関係を持ってきたが、そんな風に言われたことはなかった。

 「俺も・・・」

 その時、看護師が来て食後一時間が過ぎたことを告げる。優斗は、佳奈子はいつものように立ち上がり、どんなに会話の途中でも「じゃあ、戻るね」と言って病室に戻るのだと思っていた。

 「俺も、なに?」

 立ち上がった後だったが、佳奈子はそう問いかけたのだ。

 「俺も、楽しいよ。佳奈子ちゃんと話す時間」

 たった一言でも、佳奈子が会話を続けたことに驚いた優斗は、やっとの思いでそう言った。

 優斗と佳奈子が、初めてお互いに感情らしい感情を言葉にした瞬間だった。

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