第5話 密談

 翌日の日曜日、優斗は外出届けを取り消し、病棟内でゆっくりしようと思っていた。しかし、佐藤から携帯電話にメールが入り、人事課長とともに午後、面会に来ることになった。面会と言っても、人に聞かせられない話もあるということで、看護師に頼み込んで午前の外出届けを午後にずらしてもらった。

 優斗は、すすきのの風俗で遊んだ後にいつも立ち寄る喫茶店で待ち合わせをしたいとメールを返した。優斗は全て自家焙煎で淹れるその店のコーヒーが好きで、オーナーマスターともお互いに携帯電話の連絡先を交換するほどの常連になっていた。オープンは15時からだったが、そのオーナーマスターに頼み込んで14時から店を使わせてもらうことにした。

 人に聞かせられない話があるというと、そこのオーナーマスターは一番奥のテーブル席を用意して待っていてくれた。きっちり14時に店に着いた優斗に5分ほど遅れて、佐藤と人事課長の木下が店に入ってきた。優斗はその店で一番気に入っているマンデリンを3つ頼んだ。

 「医者は、どういう見立てをしているんだい?」

 人事課長の木下は、いつもそうであるように前置き無しで単刀直入に話を切り出した。

 「検査入院と言っても、何か医療的な検査をする訳ではないですし、何の意味があって入院しているのかわからないです。毎日診察がある訳でもないですし、毎日の3時間の外出も許されていますし」

 優斗は正直に今の心境を話した。やはり検査入院としての今回の入院の意義に疑問を持っているのだ。

 「俺の時はアルコールという物質依存だったから、入院してその物質への依存を強制的に断たせる目的があったけど、松野の場合は行為依存だからね。しかも食欲、睡眠欲と同様に人間の本能と言われている部分だから、完全にそれを断つ訳にはいかない。医者としても難しい判断だろう。今は様子見じゃないのかな。ま、なかなかじれったいところもあるだろうけど、今は辛抱して・・・」

 そこまで話したところでオーナーマスターがコーヒーを3つ持ってきた。木下は話を中断させて、運ばれてきたカップに目をやり、「お、ウェジウッド?」と呟くと、オーナーマスターは、「はい」とだけ短く答えた。

 「今日の本題は、そのことですか?」

 その話題はもう勘弁してほしいと思った優斗は、オーナーマスターがカップを配り終える前に切り出した。

 「いや、そんなことじゃないよ。部外秘の資料だから、目を通すだけにしてくれ」

 そういうと、木下がバッグから茶色い大型封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

 「教育庁の総務政策局教育政策課員の人事データだ。事前に把握しておいてもらいたいと思って、木下課長に無理を頼んだんだ」

 地域政策課長の佐藤が初めて口を開いた。優斗は、数年前の秘書課時代、この3人でよくこんな形で仕事をしたことを思い出し、心地よい感覚を覚えた。行政ではできないと思われる法令違反ぎりぎりの課題を、3人で打ち合わせて何度も解決したことを思い出した。

 今回の人事データの持ち出しも、発覚すれば大問題である。しかも独立した行政機関である教育庁のデータである。人事のデータは、人事を司る総務部局が管理している。教育庁は独立した行政機関なので、教育庁の人事データは教育庁の総務部局が管理しているはずだった。それをおそらく、木下が裏で強引に入手したのだろう。

 「教育政策課は、お前が行く教育政策推進担当係長職を含めて係長職が4人、その下の係員が7人だ。それぞれの係長職の下に1人から2人の係員がいるが、お前は当面一人係長だ」

 佐藤のその言葉はつまり、部下のいない係長であることを意味している。

 「ここは教育庁の官房部局だが、今のメンツは根っからの事務屋が多い」

 日本の教育行政は、戦後少し複雑になった。世間一般に言う「教育委員会」とは、教育行政の組織のことをイメージされがちだが実は少し違う。正確には、民間人を含めた5人程度の教育委員からなる会議体のことを「教育委員会」と言い、教育庁とは、その事務組織のことを指す。市町村ではよく、教育庁とは言わずに「教育委員会事務局」と言うことの方が多い。

 「手帳にメモくらいはさせてもらっていいですか?」

 さすがに、短時間で人事データを全て暗記することは不可能であると判断した優斗は、そう言って手帳を取り出した。

 「名前は全てイニシャルだけにしてくれ。異動した後は速やかにそのメモをシュレッダー処理してほしい」

 木下のその言葉を聞いた優斗は軽く頷いて、すぐに手帳に要点をメモし始めた。人事データ表には、その人物の最終学歴、入庁年度、上級・中級・初級の別、入庁してから現在までの配属先、賞罰歴などが記載されていた。優斗はすばやく全員分に目を通して、要点を次々にメモしていった。通常であれば一介の係長が目にすることなど絶対にない代物であったが、これを優斗に見せるということは、異動をするまでの数週間で、異動先の課員のパーソナリティ等を把握して少しでも早く政策を進めるための準備をしておけ、という上層部の意思の表れでもあった。

 優斗は一通りのメモを終えると、多少冷め始めたコーヒーを口にして、資料を封筒に入れて木下へ手渡しした。

 「で、どう思う?」

 メモが終わるまで黙って待っていた佐藤が、少し身を乗り出して言った。

 「課長が言う通り、根っからの事務屋が多いですね。もちろんこの資料だけじゃ全て把握できませんが、官房畑の経歴を持つ人間は一人もいない。国への出向経験はあっても、地方回りをした係長職も少ない。まあ人事というのはそういうものでしょうが、総務政策局の中でも施設管理課が長い人間や、教育職員局の中だけで異動していたのに、いきなり政策に配属になった人間もいる。事務畑の人間に越権的な政策立案は難しいでしょう」

 優斗は率直に心境を話した。だからと言って、人事についてどうこうしろ、ということまでは口にしない。行政マンにとってそこは超えてはならない一線だった。

 「とにかく、政策立案については、お前が統括するくらいの覚悟が必要だ。まあ、越権的な仕事の回し方はお前の専売特許みたいなものだから、腹をくくってくれ」

 佐藤はいつもの口癖を言うと、タバコに火をつけて残り少なくなったコーヒーを一気に飲み干した。

 「次年度の人事異動については、一考の余地があることは理解している。知事は、教育長の交代も視野に入れている」

 佐藤に続いて口を開いた木下のこの発言は穏やかなものではなかった。

 「教育長は、どういう腹づもりなんですか?当然知事の政策については理解しているんですよね?」

 最近の法令改正により、「教育長」は任期が4年から3年に短くなったが、その分責任と権限が明確になり、今までは「教育委員長」という民間人が担っていた会議体である教育委員会としてのトップの権限が「教育長」に一本化され、同時に従来通り事務を司る教育庁のトップとしての権限も持つ、いわば教育行政の最高責任者となった。その交代については知事の権限が及ぶ事項であるが、議会での同意も必要な案件で一大事である。

 「いや、今の橋本教育長は教育改革には後ろ向きだ。やっかいなのは、職員組合の公的な会合や校長研修会で、その後ろ向きの考えを公言していることだ。今の政策部局のメンツを見ても、政策を機械的にしか考えていないことは明らかだろう。しかし知事は本気だ。次の選挙のことも当然視野に入っているから、目に見えた成果が必要なんだ」

 木下はこの3人にしか聞こえないような小さな声で言った。知事選挙は昨年終わったばかりだが、もうすでに次の選挙を視野に入れているのだという。政治とはそういうものか、と思うと、優斗は無意識にため息をついていた。

 「来年度の定期の人事異動は、おそらく荒れるだろう。今年度はその地ならしになる。異動してすぐに動くことになるだろうから、入院中にその戦略を立てておく方が賢明だ。そう思って、今日呼び出した」

 佐藤はそう言うと、腕時計にチラッと目をやった。もうすでに15時を回っている。開店時間を迎えた店内にはいつ一般の客が入ってくるともわからない状況になっていた。

 「じゃあ、俺たちはこれで。せっかくの外出だ。もう一杯くらいゆっくり飲んでいくといい」

 佐藤はそう言うと一瞬木下の方を向き、2人の視線が合うと同時に2人とも席を立った。カウンターで会計をしているやりとりの中で、木下の「もう一杯同じものを出してやってください」という声が聞こえた。

 優斗は自分が考えているよりも大きな渦に巻き込まれていることを感じながら、再びメモに目を落とした

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