第二章
第二章
製鉄所
懍「だから、ここは人身売買をするところではないんです。こんな大金、使い道がありません。持って帰ってください。」
母親「そうですけど、伸子の就職活動にも影響が出ますし、母の介護もありますし。」
水穂「お母様は認知症などを患っているわけではないのですよね。」
母親「認知症で何もかも忘れてしまったほうが、かえって楽かもしれませんわ。うつ病の人間を介護するほどつらいものはありません!」
懍「それならなおさらお断りですね。認知症の方にそんな言い方は失礼になりますからね。
それに、子育てで失敗したのを、娘さんだけの責任にしてしまってはだめです。すべてとは言いませんが、親であるあなたにも責任はあるんですよ。」
母親「ですけど、私の気持ちはどうなんですか!この子には、カウンセルとか、セラピーとかいろいろあるのになんで私だけは何も言わせてもらえないんです?本人の気持ちに沿ってやれと、偉い方々は言いますけど、私のことは一言も言わせてもくれないで、私のことは放置ですか?」
懍「まあ、ここに来る方はおおむね同じ文句を言いますよね。まあ、それは仕方ないことかもしれません。しかし、この大金は必要ないので、持って帰ってください。そうでなければお預かりできませんね!」
母親「青柳さん、あなたは何を企んでいるのですか?矛盾発言になってますよ。先ほどは、仕方ないと言ってくれたのに、それならなぜ、預かってはくれないのです?こんな大金もらって喜ばない方がいますか?だって、日本総理だって、どこかの大統領だって、職業に応じてお金をもらったりしてるでしょ?それと同じなのではないですか?」
懍「いえ、人身売買は禁止されています。お嬢様をだましてここに連れてきて、この金を上げるからここで預かってくれというのは、立派な人身売買です。ここは、奴隷商人でなければ、見世物小屋でもありません。それよりも、お嬢様に、遊園地に行くから一緒に来いといったことのほうが悪質なのではないでしょうか。」
母親「どうして、皆さん、私たちの気持ちをわかってくれないのでしょうか!日本で犯罪が減らないのはこういうことなんじゃないですか?被害者は、本人ではなく、本人からの暴力で苦しんで、それを防ぐためのわけのわからない手段のために汗水たらして働いている家族なんですよ!それに気が付かないから、日本の法律は甘いんです!ここに置いていきますから、もう、私を解放してください!」
と、懍に向かって札束を投げつけ、つかつかとハイヒールを高らかにならして出て行ってしまった。金は懍の顔に命中したが懍はよけようとしなかった。
水穂「ああ、またか。教授、このお金どうします?」
懍「また、福祉団体にでも寄付すればいいじゃないですか。」
懍は取り残されたその女性をじっと見る。
懍「顔を上げてください。僕たちは、何も怖い人間ではありません。これまで何百人の人が、あなたのような形でここに来ましたが、みんな方向性を見つけ、立ち直っています。僕らはそのお手伝いをさせていただきますので、一緒に解決していきましょう。」
と、右手を出すが、女性は応じなかった。
懍「浅村舞さんね。主宰の青柳です、どうぞよろしく。」
舞は、両手で顔を覆って泣いている。
舞「私、、、。」
懍「どうしたの?」
舞「私、本当に、お母さんに捨てられたのでしょうか?」
懍「そんなことありません。ただちょっと疲れてるだけです。親が、子を愛さないということはあり得ない話ですから、必ず迎えに来てくれますよ。」
舞「私、おばあちゃんをうつ病にしてしまったし。」
懍「確かに高齢者がうつ病になりやすいということは、聞いたことがあります。残念なことに治りにくいのも事実です。だから、その対処法として、ご家族が元気であるということを見せるのが、一番でしょう。ご家族が、ああだこうだと言っていては、高齢者の場合鬱を悪くするだけですよ。この間違いに気が付かないで、介護施設に入れてしまう人のなんと多いこと。」
舞「でも、家族に怒りもある。」
懍「いいですよ、何でも吐き出してください。幸いここには水穂も、ほかの寮生もいますからね。この人は話を聞くのは得意中の得意ですから。吐き出して吐き出して、頭を空っぽにして、新しい自分になりましょう。」
舞「わかりました、、、。」
懍「じゃあ、水穂さん、お部屋へ。今、空き部屋は、」
水穂「ああ、萩の間なら空いてますけど。」
懍「じゃあそこへ。」
水穂「わかりました、行きましょう。」
と、萩の間のカギをとって、舞に立ち上がるように促す。舞は、彼の後をついて、萩の間と書かれた居室へ向かう。
舞「ここですか。」
水穂「はい。好きなように使って結構ですよ。」
舞「畳にしてあるのは自殺しないようにするためですか?」
水穂「どうでしょうね。ただ、ここは終の住処にはしてはいけないことになっています。」
舞「ついのすみか。」
水穂「いずれは、出て行ってということですよ。」
舞「そうですか。私、どうしたらいいのですか?こんな広い部屋で、ぼさっとしてるも、つらいものがありますね。」
水穂「できたらでいいですから、作業に加わってもいいし、ほかのこと一緒に家事をしてもいいんじゃないですか。」
舞「わかりました。なんか、本当にダメな気がする。」
水穂「ダメって何が?」
舞「だって、親にも誰にも捨てられて、」
水穂「まあ、誰でもそういいますよ。」
舞「私は、逝ったほうがいいような気がするんです。」
水穂「そんな人はいませんよ。」
舞「なんか、怒りが湧き上がってくるんです。これって、医学的に言うと症状なんでしょうか。なんか、無性に殴りたくなってくるんですよ。人とかものとか、、、。」
水穂「そういう人いますよね。悪さをして、こっちを向いてほしい人、見たいな。」
舞「いるんですか?」
水穂「はい。舞さんだけじゃないです。きっと、家族に騙されてここにきて、怒りの気持ちもあるんですよ。」
舞「私、どうしたら?」
水穂「当たってくださって結構ですよ。誰でもため込んでいくのはよくありませんからね。
もし、壊したら直せばいいだけのことですから。」
舞「そう!ならやってやるわ!あんたみたいな奇麗な顔して、そうやって善人ぶっている人は一番嫌いなの。あんたこそ、世界で一番いらない存在になればいいのよ!」
と、いって、床の上に正座していた水穂に素手で殴りかかる。水穂はひるむこともなく、止めようともせず、ただ殴られる。これを数十回繰り返す。
舞「この野郎!この野郎!この野郎!この野郎!」
水穂はそれでもびくともしない。舞はさらにエスカレートし、
舞「死ねばいいのよ!この世界の人なんか、無責任に私を生まないでよ!生まれて幸せをくれたというのなら、ちゃんとした人生を送れるように責任とってよ!この、この、この、このおおおおおおおおお!」
最後の一文は声になっておらず、人間というよりライオンであった。
舞「この、この、この、この野郎!あんたなんか、あんたなんか、あんたなんか!」
何も抵抗しない水穂に、舞は快楽を感じてしまった。
舞「ああ、面白いわ!大の大人がこうして殺らせてくれるとは思わなかった!これでやっと、私の気持ちも晴れるから!」
とどめを刺そうと思ったその時、
声「やめて!」
と、同時に舞のふとももに鋭い痛みが走る。
舞「誰よあんた!」
しかし、噛みついたまま離れない。
舞「邪魔しないでよ!」
それでも噛みついて離れない。
舞「今が一番いい時なのに!こうして誰かを殺らないと、私はいつまでも気が晴れないわ!」
別の声「さかきばらせいと事件みたいな言葉ですね。」
振り向くと、噛みついているのは杉三であった。
舞「邪魔しないでよ!今度は歩けない人のお出まし?じゃあ、もっとやってやるわ!」
と言って、振りほどこうとする。しかし杉三は離さない。
舞「あんたも征伐してもらいたいの?」
さらに食い込んでくる。
舞「ちょっと、離して!」
無理やり振りほどこうとすると、履いていたスカートがびりりと破れる。杉三は、破れたスカートを加えながら、ひっくり返る。
蘭「取り押さえて!」
と、寮生たちが彼女を取り囲む。
舞「いつの間に?」
杉三「この野郎この野郎と聞こえてきたからすぐにわかったよ!確かにつらいと思うけど、殺人に発展してはいけないんだ!」
舞「何よ、歩けないくせにきれいごというもんじゃないわよ!どうしてそういう倫理観を障害のある人ってのは押し付けるの?」
杉三「命ってのは、不思議なもんで、亡くなったら二度と帰ってこないから、そうならないように、守るのが当たり前のことなの!」
舞「でも、あんたたちは、他の人の手を借りてのうのうと生きてるわよね!そういう人って一番むかつくのよ!私は、何にも言われなくても、あんたたちがやり遂げたら、すごいことになることだって山ほどある。そんなの、不公平よ!私だけが不幸せで、あんたたちが、そうやって幸せ者をやっているのが、嫌で嫌でたまらないわ!」
杉三「でも、不幸せをあんたが作ってるとしたら?どう責任を取る?」
舞「責任?知らないわよそんなこと。」
杉三「後ろ見ろ!」
舞が後ろを振り向くと、水穂がせき込んでいて、彼の手は、真っ赤に染まっていた。
舞「な、な、なにこの人!気持ち悪い、」
杉三「気持ち悪いじゃなくて、何とかしろ!」
何人かの寮生が、水穂の周りに集まり、あるものは薬をもって来たり、あるものは彼が吐いた血を丁寧に拭きとったり、またある者は背をたたいたりする。
寮生「水穂さん大丈夫ですか。無理して生贄にはならないでください。僕らは、まだ、水穂さんみたいな人がいてくれないと困りますから。」
中には涙ぐんでいる寮生もいる。
杉三「どう?これでもまだ、人間が憎いか!」
舞はがっくりと崩れ落ちる。
杉三「水穂さんにいうことあるじゃないの。」
舞「、、、。」
杉三「黙ってちゃだめだ。言わなきゃ!」
舞「、、、。」
杉三「過去のことは、免罪符にはならないんだよ!」
舞「、、、。」
杉三「泣いたってだめさ!」
と、舞の手に平手打ちが飛ぶ。叩いたのは蘭だった。
舞「あなたは、」
蘭「僕は、水穂さんとは同級生で親友だ。その親友をここまで陥れたのなら、同じことをして返してやった。どうだ、これでお相子だろ!」
舞「ご、ご、ご、」
杉三「しっかり!」
舞「ごめんなさい!」
杉三「向きが違うよ!」
舞は、水穂のほうを見て手をつき、
舞「ごめんなさい!」
しかし答えを出す余裕はないらしい。
寮生「大丈夫かな、先生は、30分くらいしたら血が止まると言っていたんだけど、まだ止まらないよ。」
寮生「僕が背負うか。眠らせてあげたほうが。」
寮生「先に手を洗ったほうがよくないか?」
寮生「血が出ているうちは動かさないほうがいいのかも。」
寮生「よっぽど、すごかったんだねえ。確かに、人間の声というより、鬼とか、ゴジラとかそういう悪の生物の声だったぞ。人間の声じゃないよ。」
寮生「ゴジラが暴走するところにそっくりだ。怒りに任せてやったんだ。」
寮生「おい、脱線したらだめだよ。水穂さん、ここにいてもつらいだろうから、戻ろうか。」
水穂は無言で頷いた。
寮生「よし、言葉が通じれば大丈夫。じゃあ、連れて行こう、僕が背負うよ。」
と、体の大きな寮生が水穂を背負う。まだ、少しばかり咳をしていたが、喀血は止まったらしく、静かになった。
寮生「杉ちゃん、知らせてくれてありがとう。やっぱり、耳がいいんだね、杉ちゃんは。」
杉三「いや、ただの馬鹿と呼んで。」
寮生「じゃあ、僕たちは、水穂さん連れていくよ。」
杉三「ありがとう、あとは僕と蘭でやるから、気にしないでいいよ。」
寮生たちは、ぞろぞろと部屋を出ていく。
一方、応接室には、懍と雪子がいる。
雪子「すごいですね。」
懍「でしょ。彼のように、命の大切さのわかるものは、ほんの一握りになった時代ですよ。見ればわかるなんて、そんな悠長なことを言っている時代は終わりました。だって、学校へいったら、試験の点数という社会的身分が付いてきますからね。そして、それが一生くっついたまま、離れない若者も少なくないのです。それのせいで、不幸な人生しか送れない時代なんだから、誰かを大事にしようなんて気持ちがわくはずもないですよ。」
雪子「私は、ここで何ができるというのでしょうか。杉ちゃん、いや、杉三さんがどうしても来てくれというので、来ましたけど、正直に言ってこういう少年更生施設で働いた経験はありません。私は、ずっとマラソンしかしてこなかったし、それが途絶えてからは、誰かに助けてもらいながら、愚痴ばかり漏らしてきた、という人生しか送ってこなかったのです。そんな私が、お手本になるとは思えません。」
懍「では、どうしたらお手本になれるのでしょう?オリンピックで金メダルでも取ればいいのでしょうか。」
雪子「そのほうが、若い人にはいいのではないでしょうか。私のような、失敗者では、何もなりませんよ。」
懍「それは違います。」
雪子「へ?」
懍「ええ。オリンピックで金メダルを取れたのは、取れない人がいるからではないですか。先ほども言いましたけど、試験の点数や、学校同士の階級のせいで、生きようとする気持ちがなくなっている者に、オリンピックで金メダルを取って、栄光をつかんだ人の話なんかしても何も通じるはずはないでしょう。それよりも、彼らがほしがるものは、自身の失敗を、心から聞いてくれる人に出会うことです。もし、金を稼いでいないというのなら、聞くだけでも金をとれる時代になりましたよ。それにね、古いものを捨てなければ新しいものは入らない。あの女性が、ああして怒りを表したのは、自分の傷ついたことを口に出していうことが許されなかったことに起因するのでしょう。でも、人間というものは、不思議なもので、聞いてくれれば誰でもいいのかっていうと、そうではありません。それは、同じ失敗をした人でなければできないのです。」
雪子「でも、私は何をすればいいんですか、聞いてあげることはできたとしても、私には解決に導いてあげる力はありません。だってそのためには、カウンセリングとかいう技術が必要になる。それを学んできたわけではないのです。」
懍「だったらね、態度で示してあげればいいんです。失敗をしても日常生活はちゃんと送れるんだという姿を見せてあげてください。彼らにとって、失敗は原爆より怖いものと教育されるのです。受験に失敗するというのは、彼らにとって生活のすべてが破壊されて、生きようという気持ちさえもなくしてしまうんです。彼らと接してみればそれがわかります。進学なんて、全く大したことはないんですが、全く近頃の学校というのはおかしなもので、まるで赤紙でも出すようなつもりで、受験をさせるものですよ。」
雪子「そうですか、、、。わかりました。やってみます。私が、役に立つかわからないですけど。契約する書類とかあれば。」
懍「ああ、それはいりません。入会金も何もありませんからね。まあ、来ていただいて家事を手伝ったり、寮生の話を聞いてあげたりしてください。人懐っこい者が多いですから、すぐに話しかけてくるでしょう。」
雪子「わかりました、、、。」
懍「じゃあ、とりあえず、食事の時間になりますから、食堂へ行ってみたらいかがですか?」
雪子「はい、そうします。」
懍「じゃあ、ちょっとこちらにいらしてください。」
と、雪子を食堂へ連れていく。
廊下を歩いていると、萩の間に通りかかる。
懍「呼んできてくれませんか。」
雪子「私が?」
懍「ええ。」
雪子は、萩の間に行って戸を叩いてみる。返事の代わりに泣き声がする。
雪子「ご、ご飯ですよ、、、。」
杉三「ほら、ご飯だって。行ってきなよ。」
声「そんな資格あるでしょうか。」
杉三「当り前だ。ご飯食べないでどうするんだ!」
蘭「杉ちゃん、もう怒るのはやめなよ。もうきっと反省しているさ。杉ちゃんのその顔を見れば、きっと何かわかってくれたと思うから。」
舞「蘭さん、ごめんなさい。私をたたいてくれてありがとう。」
蘭「いえいえ、お礼なんかいりませんよ。伝わってくれれば十分です。」
杉三「馬鹿な僕も、たまには役に立つこともあるんだねえ。」
舞「馬鹿なんて言わないで。杉三さんはとても素敵な人よ。」
杉三「いや、僕は馬鹿のほうが嬉しいな。それに杉ちゃんでいいよ。」
舞「はい、、、。」
懍「ほら、ご飯にしてくださいよ。冷めちゃうでしょ。」
舞「あ、ああ、ごめんなさい。すぐ行きます。」
懍「雪子さん、食堂へ連れて行ってあげて。」
雪子「はい、じゃあ舞さん、行きましょう。」
舞「あなたは、」
雪子「ええ、ここでお手伝いをさせていただくことになりました、羽生雪子です。」
舞「ありがとうございます。浅村舞です。よろしくお願いします。」
懍「もったいぶらないで、ご飯にいってきなさいよ。」
舞「は、は、はい。すみません。」
二人、食堂に向かう。
食堂。すでにほかの寮生たちは食事を終えてしまっているようで、テーブルの上には定食が一つ置かれているだけである。
懍「この新しい手伝い人さんにも食べさせてあげてくれる?」
調理員「わかりました。少しお待ちください。」
雪子「私もいいのですか?」
懍「ええ。ここに勤めてくださる方はみな、食べていただくことになっています。」
雪子「わ、わかりました。」
調理員「はいどうぞ。」
と、舞の隣に定食を置く。
調理員「ほら、冷めたらおいしくなくなるわよ!早く食べて。」
雪子「は、はい、いただきます!」
舞「いただきます。」
二人、焼き魚を口に運んで、
舞「おいしい、、、。」
雪子「本当に、、、。」
二人は顔を見合わせる。
蘭「僕らはひとまず帰ろうか、もう帰らないとお客さんが来ちゃうから。」
杉三「もうそんな時間?」
蘭「そうだよ。」
懍「ご都合に合わせていただいて結構ですよ。」
蘭「じゃあ、帰ります。今電話しますから。」
と、スマートフォンをダイヤルする。
杉三「また来るからね!またね!」
二人、静かに食堂を後にして、簡単にあいさつして帰っていく。
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