06

 リューアティンの王都ミファナスの様子は、出発したときとほとんど変わりがなかった。相変わらず傭兵の姿が目につき、正規兵たちも巡回に余念がない。大通りには商人たちが天幕を連ね、客を呼び込む声がかまびすしい。足を止めて店をのぞき込む者、それを避けて歩く者、たくさんの荷物が載った荷車を押す者、かごに入った野菜を売り歩く者――人であふれ、歩きづらい。

 ハルダーはそんな人並みをかき分けて歩いていた。その強引さに怒鳴り声を上げる者もいたが、ハルダーの耳には入らなかった。人の流れはほとんど目に入らず、前しか見ていなかった。

 建物と建物の間の、隙間のように細い路地を通って裏通りへ。そこから更に細い路地を抜けると、大通りの喧噪は届かない。人気のない道にハルダーの荒々しい足音が反響していた。

 見慣れた看板の下がる扉を勢いよく開ける。

「キシル、いるか!」

 挨拶もなし、それどころか怒声に近い大声を上げ、店に入る。

 狭い店内の奥に、キシルはいた。机の上には乾燥した数種類の薬草と、それをすり潰すための道具があった。薬の調合の最中だったらしい。

 キシルは、乱暴な所作の訪問者に一瞬目を丸くし、それがハルダーと認識すると、悲しげな笑みを浮かべた。

「おかえり、ハルダー。あの子の願いを、叶えてあげたんだね」

「イフェリカが消えた――」

 床を踏み鳴らし、キシルの前へ行く。

「消えたんだ、一瞬で。煙のように。いくら探しても見つからなかった!」

 あのあと、ハルダーは暗くなるまでイフェリカを探した。何度も名前を呼び、泉を離れて森の奥まで分け入って。だが、手がかりさえ見つけられなかった。魔術でどこかへ移動してしまったのだろうか。そんなことはできるのか。イフェリカは魔術師だが今は魔術が使えないという話だった。もしやキシルなら何か知っているかもしれないと、放たれた矢のような勢いでリューアティンへ戻ってきたのだ。

 イフェリカが消えたときの様子を話すのを、キシルは黙って聞いていた。驚くこともなく、悲しげな表情も変えない。

「義手、なくなったんだね」

 ハルダーが話を終えると、キシルは、その右手を見た。肘から先がなくなったため、袖は頼りなく垂れ下がっている。重要ではなかったから、義手を切り落とした経緯は話していなかった。

「……何か知っているんだろう、おまえは。教えてくれ。イフェリカはどこに行ってしまったんだ」

 キシルは右腕から視線をハルダーの顔に向け、それからうつむいた。

「長くなるから、座るといいよ」

 近くにあった椅子を引き寄せ、ハルダーは腰を下ろす。

 キシルはすぐには口を開かなかった。ハルダーが知る普段の彼女は、ちゃっかりとした威勢のいい女だが、今はまるで別人のようだった。表情は曇り、言葉を探すように視線がちらちらと揺れていた。

 急かしはしなかった。キシルは何かを知っている。それを教えてくれるつもりもあるようだ。イフェリカが何故消えたのか、どこへ行ったのか今すぐにでも知りたかったが、これ以上キシルをせき立てても、すんなり進みそうにない。

 やがて、意を決したようにキシルが顔を上げる。ハルダーの顔をまっすぐに見つめた。

「何をどこからどう話せばいいか、ずっと考えていたよ。ハルダーがイフェリカと一緒に出発してから、ずっと。イフェリカの目的が無事果たされたら、あんたはきっとここに来ると思っていたから」

「……おまえの思っていた通りになったわけだな」

「そうだね。あんたの考えや行動って、わかりやすいから」

 キシルが小さく笑った。ハルダーは悪かったなとふてくされた声を返す。

「――でも、ずっと考えていたけど、どうやっても、たぶんハルダーが納得するようには伝えられない。戻ってきたあんたを見て、そう思った」

 キシルがちらりと右腕を見る。

「義手は壊れたとかじゃなくて、イフェリカを守るためになくなったんでしょう」

「……ああ」

 特別製の義手だった。その分値段も高く、維持にも金がかかる。だが、ハルダーはあのとき、義手を切り落とすのになんのためらいもなかった。イフェリカを守るために、ほかに方法はなかったのだ。

「四年前もそうだったから、今回も同じようになるんじゃないかと思ってたけど。あんたって本当にわかりやすい男だね」

「四年前のことは関係ないだろ。それより、イフェリカはどこへ行ったんだよ」

 そんなに自分はわかりやすいのだろうか。イフェリカへの気持ちを見透かされ、ハルダーは落ち着きなく膝を揺り動かした。

「……あの子は、もう、この世にいない」

 キシルの眼差しが暗くかすむ。言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

「この世にいないって……どういうことだよ。まさか、死んだっていうのか?」

「死んだんじゃないよ。ここで、あんたと初めて会ったときにはもう、あの子は死んでいた。生きている者ではなかったんだよ」

「嘘をつくなよ、キシル。イフェリカは生きて動いていた。泣きもしたし、笑いもした!」

 抱きしめた体は確かにそこにあり、温もりもあった。抱いた肩の細さや重ねた唇の感触は、今も鮮明に覚えている。

「死者が動くはずがないだろう」

「そうだね、普通、死んだ人間が生きている者のように振る舞うことなんてない。――でも、わたしたち魔術師は、それを可能にできる」

「……イフェリカは、一度死んで、生き返ったのか?」

 キシルは小さく首を横に振った。

「いくら優れた魔術師でも、死者を生き返らせることはできない。でも、一時的に、生きているように見せることはできる。――ヴェンレイディールの王太子が独立を求めて戦を始めたとき、イフェリカはミファナスに留学中だった。リューアティンはすぐにイフェリカ捕縛の命を出し、あの子は逃げた。捕まれば人質にされ、戦に負ければ家族諸共処刑されるのはわかり切っていたからね。でも逃亡の最中にイフェリカは重傷を負って、這々の体でわたしのところに逃げ込んできたんだ」

 キシルが入り口の扉を見やる。ハルダーもつられて視線を向けた。キシルの目には、そのときの情景が映っているのだろうか。長い金色の髪をぼさぼさにして、血だらけで扉に寄りかかるイフェリカの姿を、ハルダーは想像した。それだけで胸が痛くなった。

「できる限りの治療はしたよ。うちにあるありとあらゆる薬草、魔術具、わたしの魔術も使って手を尽くした。でも――」

 顔を伏せ、言葉を詰まらせる。膝に置いた手を握りしめ、キシルはしばらくそのまま動かなかった。

「――この戦はきっとヴェンレイディールが負ける。兄も父も弟も母も処刑されるだろう。一目会いたかったけどそれはもう叶わない。ならばせめて、家族のそばで眠りたい。……息を引き取る直前、イフェリカはそう言った。家族の墓に参り、この手で自分の一部を埋葬したい、と」

 キシルの目にはうっすらと涙がにじんでいた。

「イフェリカの残った魔力とわたしの魔力を合わせて、あの子の指輪を依り代にして幻の体を作り出した。実体があって、生きている人間のように見える、強力な幻の体をね。ハルダー、あんたが見ていたイフェリカは、本物のあの子じゃなくて、魔術で生み出された幻だったんだよ」

「あれが、幻……?」

 にわかには信じられなかった。幻がしゃべって動き、泣き、笑い、眠り、ものを食べていたというのか。

「幻と言っても、心はイフェリカそのものだよ。あの子の魂が形を持ったと言い換えてもいい。ただ、たくさんの魔力を必要とするし、死んだ者を生きているように見せる、無理のある魔術だから制約は多かった。あの子が魔術を使えなかったのも、体を維持するために魔力を使い果たしていたからなんだ。イフェリカは死者だから新たな魔力が自らの中に生まれることはなく、わたしとイフェリカの魔力が尽きれば、幻の体は消える。死者の国へ旅立とうとしていた魂を、墓参りをするという目的を理由に無理矢理引き留めていたから、理由がなくなれば消えてしまう。世の理に対して死んだはずの人間が生きているという嘘をついているから、それ以外の嘘は絶対につけない。……そういういくつもの制約があった。追われている身なのに嘘をつけないというのは、一番困っただろうね」

 偽名は名乗れない。偽りの名で呼ばれても返事はできない。王女かと訊かれて素直にはいと答えたのは、そういうことだったのか。ばかがつくほど正直な王女だと思っていたが、嘘をつけなかっただけだったのか。

「墓参りを終えた途端にイフェリカが消えたのは、そういうわけなんだよ。目的が果たされたから、あの子の幻の体はこの世に存在することができなくなった。最期の願いを叶えられて、イフェリカはきっと満足して旅立ったと思う」

 全身から力が抜けていく。顔はキシルに向けていたが、ハルダーの視線は彼女を通り越し、どこか遠くを見ていた。

 出会ったときに、イフェリカはもう生きてはいなかった。すべてをキシルに明かされても、まだ信じられなかった。ハルダーの目の前で泣き、笑っていたのだ。そんな娘がこの世の者ではなかったなどと、どうしてすぐに信じられるだろうか。

「嘘だ……」

「嘘じゃない、本当のことなんだ」

 キシルが悲しげな表情で、呆然とするハルダーを見る。

「ハルダー。あんたが会ったイフェリカは本物じゃなくて、幻の存在だった。でもね、イフェリカが口にした言葉は全部、嘘なんかじゃない、本物のあの子の気持ちだよ。それは忘れないで」

 憑き物が落ちたような、穏やかで晴れ晴れとした笑みが目に焼き付いている。


 ――あなたに会えて、本当によかった。


 あの言葉もまた、嘘偽りのなかったものということか。

 ハルダーは左手で顔を拭った。そのまま掌で顔を覆い、大きく息を吐く。いろいろな感情がぐるぐると渦を巻いている。何をどう言葉にしていいのかもわからない。イフェリカの、いろいろな表情が浮かんでは消える。そのすべては幻で、仮初めの存在でありながら、感情は本物だった。

 鼻の奥につんとした痛みが走り、目頭が熱くなる。

 もっとずっと早く、ヴェンレイディールの王太子が戦を起こすよりも前に彼女と出会えていたら、今回と同じように守れただろうか。

 そんな仮定をしてみたところで意味はない。過去は時の向こうに過ぎ去り、起きた事実に変わりはない。わかってはいるが、それでも、もしも、と考えずにはいられなかった。

 イフェリカの依頼通り、家族の墓を見つけた。グラファトやリューアティン兵から守りもした。だが、イフェリカがここにいないのでは、守り通せたと思えない。自分は果たして、イフェリカの役に立てたのだろうか。

「ハルダー」

 キシルが静かな声で言った。

「……ありがとう、ハルダー。イフェリカの望みを叶えてくれて。あんたならきっと、やってくれると信じてた。イフェリカもそう信じたから、あんたに依頼したんだよ」

 とうとう我慢できず、指の間から滴がこぼれ落ちる。

 声を押し殺して泣くハルダーを、キシルは黙って見守っていた。


   ●


 大通りは、日没を迎えても人でごった返していた。これからますますにぎやかになる店も少なくない。もう既に顔を赤らめ、大声で笑いながら、おぼつかない足取りで仲間と肩を組んでいる男たちもいる。

 一緒に飲まないか、と通り過ぎざまに声をかけてきた男に、キシルはさも迷惑そうな顔を向ける。ハルダーは男を手で追い払い、相手にするなとキシルをたしなめる。

「これだから、ここはあまり来たくないんだよ」

 キシルが店を離れるのを、ハルダーはほとんど見たことがなかった。どうやらこの喧噪を嫌って、裏通りの更に奥まったところに店を構えているらしい。

 ハルダーもここまで騒々しいのは好きではないが、人が多い方が仕事を得る機会も多いのは事実だ。あんな誰も知らないような場所で、キシルはよく商売を続けていられるなと感心する。

 ふと、鼻をかすめる匂いがして、ハルダーは立ち並ぶ露店の前で足を止めた。

「ハルダー。何してるの」

 数歩進んだところで、ハルダーがいないことに気づいたキシルが引き返してくる。

「あんた、甘いもの好きだったっけ?」

 その露店は、こねた小麦粉を棒状に延ばしてねじり、油で揚げたものに砂糖をまぶした菓子を売っていた。ハルダーはできたてを一つ、包んでもらう。

「いや。俺じゃなくて、イフェリカに」

 包んだ菓子を軽く掲げると、キシルが、ああ、と納得した表情になる。

「急ごう。暗くなる前に行きたい」

「……そうだね」

 本物のイフェリカは、ミファナスの共同墓地で眠っている。キシルと、幻の体になったイフェリカで埋葬したそうだ。自分で自分を埋葬するのは奇妙なものだ、とイフェリカは笑い、キシルは複雑な気持ちだったらしい。

 明日、明るいときでもよかったのだが、どうしてもすぐに、彼女の墓へ行きたかった。イフェリカも、こんな気持ちで家族の墓へ向かったのだろうか。

 共同墓地は街の外にある。門を通るときは、街の中へ入っていく者の方が圧倒的に多かった。閉門までに帰ってこられるだろうかと思ったが、あまり心配はしなかった。間に合わなければ、それはそれで構わない。キシルも同じだろう。そうでなければ、墓参りは明日にしろ、と言ったはずだ。

 そびえる壁が陰となり、太陽の残滓を遮っているせいで墓地の周辺は夜の訪れが一足早かった。だが、まだなんとか辺りの様子は見える。

「ここだよ」

 共同墓地の入り口から一番遠い、敷地の端に、それはあった。他の墓標と変わらない、細長い石の柱がまっすぐに立っている。リューアティンでは、故人の身長と同じ高さの墓標を立てるという。石柱は、イフェリカの背の高さと同じくらいあった。

「さすがに名前を全部は書けないから」

 墓標には、イフェリカ、という名前だけが刻まれていた。それから、生年月日と、生没年月日。亡くなった日付は、間違いなくハルダーと出会う前だった。

 しおれた花束が墓標の足下にある。キシルが供えたものだろう。しおれ具合からすると、つい最近もここ訪れたようだ。

「……出発する前、イフェリカが髪を切り落としたよね」

 ハルダーが花束を見ていたからなのか、キシルが口を開いた。

「あの髪を、取っておいたんだ。イフェリカが望みを果たしたら、髪の毛も消えるから……。ある日見たら、あの子の髪がなくなってて、それで、わかった。花は、そのときにお参りに来たときのもの」

「そうか……」

 驚くほど潔く切り落とした金色の髪。それがさらさらと流れ落ちていく光景が甦る。まるで昨日のことのようだった。

 ハルダーは、花束の隣に、包んでもらった菓子を置いた。甘いもの以外に何が好きなのか知らなかった。彼女にそれを訊くことはもうできない。

 刻まれた名前にそっと指を伸ばす。ざらざらとして固く、冷たかった。

「――俺も、イフェリカに会えてよかったよ」

 幻の存在でもいいから、もう一度、目の前に現れてくれたらどんなによかっただろう。ハルダーの気持ちのいくらかでも、イフェリカに伝わっていただろうか。

 イフェリカの背丈と同じ高さの墓標にそっと手を添える。言えばよかったと思った言葉のすべてを伝えるように、ハルダーはその頂上に口づけをした。

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