05
ハルダーとイフェリカは、再び森の中を歩いていた。ジノルックの館近くにあった森よりも木はまばらで、差し込む光が多く明るかった。人里から森に通じる道をたどっているおかげで、いつかのように道なき道を歩く苦労はない。ただ、森の奥に入るにつれ細く獣道のようになりつつある。いずれは、道が見えなくなるのかもしれない。
「〈碧の湧く泉〉は、シャロザートを流れる川の一つに繋がっているのです」
道のそばには小さなせせらぎがあった。それをさかのぼる形で、二人は道を進んでいた。
「水の心配はいらないな」
「そうですね」
柔らかく笑うイフェリカの顔の傷は、もうすぐ治りそうだった。
ジノルックの館を出てグラファトを倒し、丘の上で一晩を過ごしてから、十日が経っていた。村で水や食料を補給して馬を借り、王都シャロザートを目指した。ジノルックの館を訪れた使者一行が引き返してきて鉢合わせをする可能性があったし、途中の街にはリューアティンと同じように門番がいたので、大きな街を避けて小さな道を通り、遠回りをすることになったので時間がかかったのだ。
イフェリカを取り逃がし、グラファトは戻らないから、ユヴィジークは未だに探すのをやめていないだろう。だが、ヴェンレイディール人にイフェリカ生存を知られないために大々的な捕り物はできない。おかげで、なんとか怪しまれることなくシャロザートの近くまで来ることができたのだった。
小さな町や村を通ってきたから、ジノルックがどうなったのか、噂さえ聞くことはなかった。あるいは、大きな街へ行ったとしても噂にはなっていないのかもしれない。あんな明け方に来たのだから、ジノルックの館へ向かった事実さえ伏せられている可能性もあった。
イフェリカはもちろん、ハルダーもジノルックのその後は気がかりだった。しかし二人には彼らの無事を祈るしかない。教えてくれた手がかりを元にヴェンレイディール王家の墓を必ず見つけ出すことが、二人にできるせめてのことだった。
十日の間に、一度、治療用の魔術具を貼り替えた。イフェリカによると、傷口はすっかりふさがっていて、かさぶたができつつあるそうだ。傷みはもうほとんどなく、貼り直した魔術具で完治するだろう。
「イフェリカは、〈碧の湧く泉〉に行ったことはあるのか」
「子供の頃に一度だけ。ジノルックや友人たちと、堀をずっとたどって行ったことがあります。子供の足では行って帰ってきたら夜になっていて、とても怒られました」
懐かしむように笑う。王女でもそういうことがあるのか、とハルダーも笑った。
シャロザートの王城は城壁と堀に囲まれ、その周囲を貴族たちの屋敷街が囲み、そこにも防壁と堀がある。その更に外側に、商人や職人たちの住む城下町があって、そこは石積みではなく土塁で囲まれている。土塁の外側も堀があって、その堀の周囲に、畑や農民の集落が広がっていた。土塁の外は城下ではなく城外町と呼ばれているが、広い意味では城外町も王都の一部だ。いくつもの川から水を引いて三つある堀を満たしている。
子供の頃、二番目の堀からたどって行ったそうだ。イフェリカのそのときの記憶を頼りに、城外町から森へ入ったのである。
せせらぎを横に見ながら、明るい森を歩くのは気持ちがよかった。鳥の鳴く声がどこかから聞こえ、小動物がいるのか、がさがさと草を踏む音もする。うっかりすると王家の墓を探しに行くという目的を忘れそうだった。
「……本来のヴェンレイディール王家の墓所は、シャロザートからもっと離れた場所にあるのです」
まるでハルダーの心の内を透かし見たような時機だったが、イフェリカも同じように感じたのかもしれない。
「祖父以前の歴代の王や王妃、王家に名を連ねた祖先たちは皆、そこに眠っています。このようなことになったので、今はそこがどうなっているのかはわかりませんけれど、私の家族は誰一人、祖先たちと同じ場所で眠ることは叶わなかったことになりますね」
周囲の明るさにそぐわない、寂しげな声だった。見ると、そうなったのも仕方ない、とあきらめに似た笑みをうっすら浮かべていた。
「でも、家族だけでも同じ場所で眠っているのは、せめてもの慰めです」
家族がそろっている場所に、自分の髪の一部を納める。イフェリカはそう言っていた。命を狙われ犠牲を払い、それでもなおあきらめないイフェリカを、ハルダーは責めるつもりはなかった。
墓参りをするだけなら、ユヴィジークがイフェリカの捜索をあきらめてからでも、ジノルックたちとともに再興を果たしてからでもいいようにも思える。だが、ハルダーが口を出すべきことではない。兄が突然反乱を起こし、家族の誰とも会えないまま、死に別れてしまったのだ。言葉では言い尽くせない思いがあるのだろう。
助走をつけなければ飛び越えられないくらいの幅だった流れが、だんだんとせばまっていく。獣道も、それに合わせて道と草むらの境目が曖昧になっていく。〈碧の湧く泉〉に着いたときには、子供でも簡単にまたげるほどになっていた。
「名前通りの泉だな」
「きれいですよね」
泉は青空を水に溶かしたような色だった。しかし、せせらぎの水は澄んでいる。不思議に思って泉の水をすくうと、それも澄んでいる。泉の碧はすくえないらしい。
すくった水で喉を潤し、辺りを見回した。イフェリカもぐるりと頭を巡らせる。その眼差しには翳りがあった。懐かしい場所だが、楽しい気分ではあるまい。
ジノルックから託された紙には、〈碧の湧く泉〉の近く、としか書かれていなかった。ジノルックもそれ以上詳しい場所を知らないのか、詳細を記す時間がなかったからなのか。
後者ではないか、とハルダーは思った。イフェリカに知らせるためでもあり、自分の仕えた王家の眠る場所を知りたかったためでもあるのではないだろうか。再興を果たした暁には、本来の墓所へ移すつもりもあっただろう。
「近くにある、とは書いてありましたけれど……」
泉のほとりに立って見える範囲には、それらしきものはない。処刑した王族を埋葬したのだから、仰々しい墓石があるわけではないだろう。だが、埋めた跡はどこかにあるはずだ。
「手分けして探そう」
「はい」
「あまり遠くへは行くなよ」
「はい」
森に入ってから人には会っていない。たどってきた道の様子からすると、ここを訪れる者はほとんどいないようだ。だが、油断はできない。先日のように、誰かが罠を仕掛けているかもしれないのだ。
お互いの姿が見えなくならない程度の距離を保って探すことになった。下草を踏む音に、せせらぎと泉から水の湧く音が重なる。地面を注意深く見ながら、ハルダーはたびたび顔を上げ、イフェリカがどこにいるかを確認した。
真剣な眼差しに、どこか悲しく寂しげな表情。日陰にあると、いっそうもの悲しく見えた。墓を見つけて、果たして彼女の気持ちは晴れるだろうか。完全に晴れることはないにせよ、憂いが少しでも消えたら。
泉より更に森の奥に入っていたハルダーは、下草の繁る地面を掘り返し、また埋め戻した跡を見つけた。土はこんもりと盛られていて、その頂上には平たく大きな石が置いてあった。申し訳程度の墓標のように。それが四つ並んでいる。
顔を上げ、イフェリカを見た。視線に気づいたのか、イフェリカも顔を上げてこちらを見る。黙って手招きすると、イフェリカは顔色を変えて走ってきた。
「たぶん、これだろう」
旅をしていると、森や林で行き倒れとおぼしき遺体と遭遇することがある。そういうとき、道から離れたところに埋めるのが習わしで、墓だとわかるように墓標代わりの石や木の枝を立てる。名前も知らない故人の持ち物をそこに添えて。
この墓には墓標以外に何もなかった。ここに誰が眠るのか、知られないようにするためだったのだろうか。
一国を治めた一族が眠るにしては、あまりに簡素すぎる墓だ。イフェリカは崩れるように、その前に膝を突いた。呆然とした顔でしばらく墓を眺め、両手で顔を覆った。指の間からすすり泣く声がこぼれる。
ハルダーは彼女から数歩下がった場所に立ち、黙って見守っていた。
どのくらい時間が経っただろうか。イフェリカが涙を拭った。意を決したように、一番大きな石が乗っている墓の脇を手で掘り始めた。
「手伝うよ」
「いえ。これは、私一人で」
イフェリカは振り返らずに断った。細い指を土だらけにして、ひたすら穴を掘っていく。掌が入るくらいの広さで、手首まであるだろうかという深さまで掘った。手についた土を払うと、荷物の中から小さな布の包みを取り出す。旅の本当の目的を打ち明けたとき、イフェリカが見せてくれたものだ。一房の長い金色の髪。
黒く短い髪にすっかり見慣れてしまっていたが、イフェリカは元々長い金髪だった。初めて会ったときに変装のために切り落としたものではなく、それよりも前に切ったものなのだろう。
掘った穴に、イフェリカは髪の束をそっと横たえた。その上に丁寧に土をかぶせていく。掘り返した土をすべて戻し、手で押さえて固めると、イフェリカはゆっくりと立ち上がった。
「――これで、私の望みは叶いました」
すっきりとした表情だった。
「泉で手を洗った方がいいな。泥だらけだ」
「そうですね」
ハルダーの依頼はここで終わりだ。だが、このままイフェリカと別れる気にはなれなかった。
彼女を取り巻く状況は少しもよくなっていない。亡命するのなら、安全なところまで連れて行く。再興がしたいとイフェリカが言うのなら、手伝ってもいい。
「報酬を渡さなければなりませんね」
すっかり泥を落としてから、イフェリカが言った。依頼は一区切りしたから、もらうものはもらわなければならない。ただ、お釣りが来るほどのものだったから、依頼の延長という形で、今後も護衛すると申し出るつもりでいた。
イフェリカは荷物の中から新たな布の包みを取り出した。一度だけ見たことのあるものだ。
最初に約束した報酬であることを示すように、包みを開く。黄金の環の指輪が二つと、碧玉のブローチ。改めて見ても、目が飛び出るほど高価な代物だ。日差しを浴びて、どれもがきらきらと輝いている。冗談抜きに眩しかった。
「これは、十の誕生日に、兄から贈られたものです」
ブローチをつまみ上げ、ハルダーに渡す。左手でそれを受け取った。ずしりとした重さがある。
「大事なものじゃないのか?」
この調子だと指輪二つも、それぞれ誰かから贈られたものではないのだろうか。
「私が持っていても仕方がありませんから」
そんなことはないだろう。ハルダーが持っている方が、よほど仕方がない。そう言おうとしたが、イフェリカが今度は指輪をつまみ上げた。
「これは、普段着用にあつらえたものです」
宝石のついていない方の指輪を、今度は渡してくる。ハルダーはブローチをズボンのポケットに突っ込み、指輪を受け取った。ブローチと比べると、普段用というだけあって簡素だ。しかし金はきっと良質なのだろう。
「それからこれは、私が十五になったときに両親が贈ってくれました。私の十五のときの横顔が彫られているのです」
指輪の柘榴石を一度見て、それからどこか恥ずかしげに笑う。二年前の姿であれば、それほど変わりはなさそうだが。
「ハルダーにはお世話になりました」
「大したことはしてないよ。怪我をさせたしな」
「それこそ、大したことではありませんよ。ありがとうございます、ハルダー」
イフェリカが微笑む。今まで見た中で一番穏やかな表情に、思わず目が吸い寄せられる。
「ハルダーのおかげで、わがままを叶えることができました。――あなたに会えて、本当によかった」
イフェリカがすっと前に出る。ハルダーの左の掌を取り、もう一個の指輪をそこに置いた。それから、自分の手で包み込むようにハルダーの掌を閉じさせる。どうしたのかと彼女を見ると、目が合った。イフェリカはまだハルダーの手を両手で包んだままだ。
夕日を浴びる丘の上のときのように、どちらからともなく顔を近づける。瞼を閉じた次の瞬間に、二人の唇が重なった。手の中には指輪の固い感触。洗ったばかりで、イフェリカの手は少し冷えていた。左手に何も握っていなければ、彼女のうなじに手を添え、引き寄せていただろう。その代わりに、短くなってしまった右腕をイフェリカの腰に回す。
――腕は、何も捕らえなかった。手を包む体温が消え、唇はむなしく宙を押す。
「イフェリカ?」
目の前にいるはずの娘がいなかった。右にも左にも後ろにも、どこにもいない。足音はしなかった。ついさっきまで口づけを交わしていたのに、一瞬で姿が見えなくなるわけがない。
「……イフェリカ、どこだ?」
呼ばわる声は、徐々に大きくなる。掌の中には固い感触があり、ポケットの中には受け取ったブローチがある。それなのに、イフェリカは煙のように消えてしまった。
「どこへ行ったんだ。返事をしてくれ、イフェリカ!」
ハルダーの声が森の中に響く。
いつまで待っても、返ってくる声はなかった。
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