02

 隠し通路の壁と天井は石をはめ込み補強してあるが、階段が終わると剥き出しの地面になった。踏み固めてあるものの、どこからかしみこんだ水がところどころにたまっていた。狭いからランプの明かりは足下までちゃんと届くが、前を行くハルダーが持っているせいで、後ろをついてくるイフェリカはハルダーの体で影になっていて少々おぼつかないところもあるのだろう。一度、気づかずに水たまりに入ってしまった。それからは、水たまりや足場の悪そうなところを見つけるたび、ハルダーは注意を促した。

 地下に来ても通路は狭く天井も低いままで、頭を屈めているハルダーは首の後ろが痛くなってきた。もうずいぶん歩いた気がするが、地下ではおおよその時刻もわからない。階段を下り地下に潜ってからはなんとか方角を把握していたが、通路はずっとまっすぐではなく、右に左に緩やかに曲がっているので、今はもう館からどの方角へ向かっているかわからなかった。どの辺りに出るのかもわからない。地上に出たところから、人里や街道までどのくらいの距離なのかもわからない。わからないことだらけだ。

 ただ、それで焦りはしていなかった。今のところ追っ手の気配はない。通路は一本道で、長年使った形跡はないが崩落しているところもない。ひとまず順調な逃走劇だ。首は少々痛いが、大した問題ではない。

「少し休むか?」

 隠し通路に入ってからずっと歩き通しである。

「ハルダーが疲れているのなら」

「俺は大丈夫だ。イフェリカ、疲れていないか?」

「……疲れていないわけではありませんが、このまま進みましょう。休むといっても、座れるような場所もありませんし」

 水たまりがなくとも、剥き出しの地面はじっとりと湿っている。石壁も同じだ。壁にもたれて休むのにも少々不都合である。

「それに、いつ人が来るかわかりませんし」

 イフェリカの声が少し小さくなる。

「ジノルックや、館の人たちは大丈夫でしょうか」

「わからない。だが、下手に暴れたりはしないだろう。そんなことをすれば騒ぎが大きくなるが、ジノルックはそういうのは望んでいなさそうだしな」

 彼が望むのは、イフェリカが無事逃げおおせて、できれば再興のために立ち上がってくれることだろう。

 ずっと平坦だった通路が、いつの間にか緩やかな上りになっていた。地上へ向かっている。出口が近づいているのか。

「坂道になってきましたね」

「ああ。出口が近いのかもしれない。急ごう」

 明かりの届く範囲では、通路の端らしきところは見えない。それでも、果てがないのではないかと思うほど長い道の終わりが近いと思うと、足取りは速くなった。

 通路の終わりは、数段の階段になっていた。上がった先は、館側と同じ造りになっていた。突起を掴み、渾身の力を腕に込める。入り口を閉めたときよりも重かった。外にあって、泥などがこびりついているのだろうか。ここまで来て出口が開かないのでは、笑うに笑えない。奥歯を噛みしめ更に力を込めると、ようやく重く低い音を立てて壁が動いた。

 隙間から差し込む明かりに思わず目を細くする。新鮮な空気が流れ込んでくる。緑の匂いがした。風のそよぐ音、遠くから届く鳥の鳴き声。頭上に繁る葉の間からは青空がのぞいていた。

 ずっと狭く暗いところを歩いてきたせいで、外の景色を見ただけでも気持ちが晴れ晴れとしてくる。すぐに飛び出して外の空気を胸一杯に吸い込みたい。だが、ぐっと押しとどまった。

 ゆっくりと顔だけを出し、辺りを伺う。森の中のようだ。見える範囲には、人工物が何もない。耳を澄ましても、風と鳥の鳴き声のほかは聞こえなかった。

 人の気配も感じない。だが、何かがあったときのため、ハルダーはすぐに剣を抜く心構えをして、外へ出た。周囲を見回すが、やはり人のいる気配はない。

「イフェリカ。出てきても大丈夫だ」

 声をかける。明るい光の中に出てきたフェリカは、ほっとした表情を浮かべていた。

 隠し通路の出口は、小さな崖の下にあった。木のほらのようにへこんでいるのは、元からなのかわざとそうしたのかわからない。出口からはそれほど視界が悪いと思わなかったが、それを隠すように低木や蔓性の植物や下草が生い茂っている。少し離れたところからだと、ぱっと見ただけではそこに隠し通路の出口があるのはわからなかった。

「ここは、どの辺りになるのでしょう」

 無事に外へ出たとなると、次なる問題はそれだ。

「……とりあえず、ジノルックの館の東側になるようだな」

 昇っている太陽の高さと方角から推測する。

「そうだ、イフェリカ。紙切れをもらっただろう。それに、何か書いてあるんじゃないのか」

 見張りの男はジノルックから預かったものだと言っていた。この隠し通路がどの辺りに位置するのか、書いてあるかもしれない。

「そういえば、まだ見ていませんでした」

 イフェリカは折り畳んである紙を開く。掌くらいの覚え書きを見つめ、彼女は瞠目した。

「どうした?」

「……私の家族の、お墓の場所……それが、書いてあります」

 半ば呆然とした声だった。ハルダーも目を見張った。

 ジノルックは、再興に協力するようイフェリカに強く求めていた。ここでイフェリカを逃がしたのは、彼女の身を守るというのはもちろん、再興の要であり唯一の生き残りである王族を死なせないためでもあると思っていた。そんなジノルックにとって重要なのは、隠し通路がどこに出るかということであり、あの切迫した状況で、再興とは関係のない、だがイフェリカが知りたがっていた家族の墓の場所を託すとは、思いもしなかった。

「シャロザートの西の森に……〈碧の湧く泉〉の近くにある、と」

 イフェリカの目には、うっすら涙が浮かんでいるように見えた。

「――すぐに向かおう。ジノルックがせっかく教えてくれたんだ」

「はい」

 紙を折り畳み、イフェリカは大事そうにしまった。

 ここは、館から見えていた森ではあるのだろう。先日通った道は、館とはまた別の方角にあった。王都シャロザートは、方角的に言えば館の東だから、このまま東へ進めばいずれたどり着く。たどり着くが、食料や水をほとんど持っていない。街道に出るか人里に行くかしなければならなかった。

「館の近くには人里があるか、知っているか」

「バーンヴァレス家の所領である村が、確かあります」

 隠し通路は、その村に近い方に出口をもうけているだろうか。反対の方角だと国境に近くなるから、村に近いところに作っていてほしい。

「ちょっと上から見てみるよ」

 ハルダーは手近な木に登った。下では木々に遮られて遠くまで見通せないが、木に登ると多少遠くまで見えた。

「館はあっちか……」

 隠れるように塔の先端が見える。ここからでは、どんな騒ぎになっているのかはさっぱりだ。

 館と反対の方角に視線を転じる。人の住む村であれば、なにかしら火を使う。その煙が見えないものかと目を凝らした。

「――あった」

 うっすらと、細く白い筋が空に向かって延びている。風があまり吹いていないおかげで、ほぼまっすぐ立ち上っていた。すると、村があるのはあの辺り――ここからおおよそ東にまっすぐだ。建物は木々に隠れて見えなかったが、間違いないだろう。

 行くべき方角は決まった。素早く木を下り、適当な高さで飛び降りた。そこでもう一度太陽の位置を確かめる。

「東だ、イフェリカ」

 太陽の高さからするとまだ昼前だ。森の中の道なき道を進むから、村にたどり着くのは昼を過ぎそうだ。いくら遅くても、夕方前には着くだろう。

「早いところどこかに道に出られるといいんだがな」

「いずれはどこかに通じていると思いますけど……」

 獣道さえない森を歩くのは、道を進むのに比べて速さが格段に遅くなる。木の根を越えた幹を避けたりしながら歩くから、気をつけていなければとんでもない方向へ進んでいることもある。こまめに立ち止まっては、太陽の位置を確認しなければならない。

「ジノルックがいれば、もっとすんなりいったのでしょうが――」

 イフェリカの表情が曇った。

「彼や、館の人たちは無事でいるでしょうか」

「祈るしかない」

 イフェリカという有力な証拠さえなければ、証拠不十分としてお咎めなしで済むのかもしれないし、でっち上げに近い証拠を挙げてジノルックを逮捕するかもしれない。彼と同じように再興を考える者たちを押さえ込むための見せしめとして、厳重な処罰を受けるのかもしれない。いずれにせよ、ハルダーにもわからなかった。

「俺たちはとにかく急ごう。イフェリカがあの館にいたと誰かがしゃべれば、追っ手がかけるだろうし、シャロザートへ行くのも大変になる」

 言いながら、大人でも抱え切れないほど太い木の横を通り過ぎる。

「――なんだ?」

 妙な感触があり、ハルダーは立ち止まった。イフェリカも木の横を通り、同じように感じたのだろう。眉をひそめた。

「ハルダー、今」

「ああ。何か、あったな」

 目に見えておかしなことはなかった。ただ、その木の脇をすり抜けたとき、目に見えない薄い膜を突き抜けたような、かすかな感触があったのだ。蜘蛛の巣に引っかかってしまったときの感覚と似ているが、顔や体に絡みつく糸などない。見回しても、蜘蛛の巣の残骸はないし、それ以外のなにがしかもなかった。

「なんだったんだ?」

 自分一人だけ感じたなら、気のせいだと思っただろう。だが、同じところでイフェリカも違和感を抱いたのだ。気のせいではない。

「魔力の網が、ここに張ってあったのかもしれません」

「なんだ、それは」

「結界の一種です。侵入を防ぐのが目的の結界と違って、主に侵入を感知するために張られるものです」

「それが、ここにあったのか? ほかには? いったい誰がこんな森の中に」

「……結界や網は、その目的ゆえに、不可視のものです。よほど魔力に勘がよく注意深くしていればどこにあるのか見つけることは可能ですけど、今の私ではとても……」

 イフェリカが申し訳なさそうに顔をゆがめる。彼女が、今は魔力が使えないということをハルダーは思い出した。

「気にするな。それより、すぐここから離れよう。俺たちはまんまと網にかけってしまったんだ。誰かが来るかもしれない」

 嫌な予感がした。

 街道以外の場所から村へ近づく者を知るために仕掛けてあった、という可能性が一番高くはある。だが、隠し通路を出たところから村へ向かう途中に仕掛けてあったのだ。村への侵入者を知るためではなく、隠し通路を使った者を知るためにあったのかもしれない。

 それにしては、隠し通路の出口から離れた場所だった。やはり、村人の誰かが仕掛けたものかもしれない。しかし、隠し通路の出口を特定できなくて、あたりをつけた場所に広範囲に渡って網を仕掛けたのだとしたら――。

 杞憂であってほしかった。嫌な予感は予感のまま、無事に村にたどり着きたかった。

「村が見えてきたぞ、イフェリカ」

 方角を確認するために登った木から、ようやく人家が見えたのだ。地上からはまだ木立に隠れて見えないが、あと少しだった。

「ハルダー」

 木に登るときにイフェリカに預けた荷物を受け取る。イフェリカの表情には少し明るさが戻っていた。

 あれから、網にかかった感触はなかった。誰かが追いかけてくる気配もない。このまま無事に村に行けそうだ。

 安堵しかけたハルダーの耳が、空気を切り裂く音を拾う。

「イフェリカ!」

 飛びつくようにイフェリカを抱きかかえ、地面に転がった。ついさっきまでイフェリカが立っていた辺りを、矢が通り抜け、近くの幹に重い音を立てて突き刺さる。

「伏せてろ」

 ハルダーは剣を抜きながら立ち上がった。矢の飛んできた方向を睨んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る