第五章:嘘つき王女と隻腕の傭兵
01
イフェリカの嗚咽がやみ、ハルダーからそっと離れた頃には、お互いの顔がはっきり見えるくらい明るくなっていた。泣きはらしたイフェリカの目は赤かったが、涙は止まったようだ。
「ごめんなさい」
目元を拭いながら、イフェリカがハルダーから視線を外す。何故そこで謝罪を口にするのかわからず、ハルダーは小首を傾げた。
「みっともないところを見せてしまいました」
「みっともないなんて思ってないよ。泣きたいときは、泣けばいい」
それで多少気が晴れることもあるだろう。ハルダーには、イフェリカが泣きたいときにそばにいてやるくらいしかできないのだ。
「……私がここにいるから、ユヴィジークの使者が来たのでしょうね」
「用件は聞いていないから、それはまだわからんだろう。ジノルックは元々、ヴェンレイディールがなくなったのを憂いていたようだし、イフェリカがいなくてもいずれ再興のための行動を起こしていたんじゃないのか。弱小貴族ではなさそうだし」
そうは言っても、この時期のこんな刻限だ。イフェリカと関係していないと考える方が無理がある。
「私と仮に無関係の用件だとしても、私が使者に見つかれば無関係ではなくなります。今のうちに、今度こそ本当に逃げた方がいいかもしれません」
イフェリカ自身、無関係とは思っていないだろう。泣いていたときはひどく頼りなくて支えていなければ倒れそうだと思ったが、今は打って変わって強さを取り戻している。
「そうかもしれないが、使者一人じゃないというからな」
使者と共に来たのが十数人だけなのかもわからない。もしかしたら、夜陰に乗じて既に大勢が屋敷を取り囲んでいる可能性もあった。
この部屋は角部屋に当たるから、窓は二カ所ある。だが、屋敷全体が森の中にあり、身を潜める場所はいくらでもあるから様子を伺っても何もわからなかった。森の中に伏兵がいなかったとしても、正面には十人以上がいるという。馬もいるだろう。イフェリカが逃げたと気づかれて追われたら、徒歩で逃げきれるかは怪しい。先日の警備隊は、ジノルックの部下たちが来てくれたおかげで助かったが、それがなければ多勢に無勢であり、魔術具を駆使しても切り抜けられたかどうか。
考えあぐねていたそのとき、慌ただしく扉を叩く音がした。返事も待たずに男が入ってくる。
「すぐにお逃げください!」
応接間で見張りをしていた男の一人だった。
「ジノルック様が反乱の疑いをかけられました。ジノルック様はその意志はないと釈明しましたが、これから屋敷内の捜索が行われます」
イフェリカが息を飲む。やはり、イフェリカ絡みの用件だったようだ。
「この部屋に隠し通路があるそうです。地下を通り、森の外に繋がっているからそこから逃げるようにと、ジノルック様が」
「ジノルックは、今どこにいるのですか」
「応接間です。捜索が終わるまで、ジノルック様はそこから動けません」
「で、その隠し通路は部屋のどこにあるんだ?」
ハルダーは荷物を持って立ち上がり、焦った表情を浮かべている男を見た。男の顔に困惑が浮かび、焦燥の色が濃くなる。
「暖炉の中にある、としか聞いておりません。護衛のわたしでは、正確な場所は……」
仕方ないか。ハルダーは小さく肩をすくめた。隠し通路という性質上、みだりに使用人に場所を明かすわけにはいかない。ジノルックの置かれている状況から察するに、暖炉にあるとこの男に伝えるのが精一杯だったのだろう。
今の季節、暖炉には火も薪も入っていない。
「イフェリカ。すぐに行こう」
「はい」
知らせにきた男には入り口での見張りを頼んだ。
暖炉は、大人二人が入れるくらい大きかった。きれいに掃除されているから、膝や手をついても汚れる心配はない。イフェリカが率先して暖炉の中へ入り、あちこちを探った。王城にもきっと隠し通路があるのだろう。これに関してはハルダーよりも詳しそうだ。
ほどなく、イフェリカの動きが止まった。左上の隅を集中的に探り、やがて歯車がはまるような、固く小さな音がした。
左上に小さな四角い穴が現れる。両手をなんとか差し込めるくらいの大きさだ。
「引き戸のようになっているんだと思います」
イフェリカが穴に手を入れて動かそうとしたが、ぴくりとも動かない。
「俺がやる」
隠し通路として、女の腕力で開かないのはいいのだろうか。しかし、そう簡単に動いてもよくないのかもしれない。
四角の穴に手を突っ込み、ぐっと力を込める。思っていたよりも重い。だが、手応えはあった。石臼を曳くような音と共に、暖炉の中に大きな隙間が生まれる。人一人がぎりぎり通れるくらいのところで、壁は動かなくなった。
下りの階段になっているようだが、真っ暗でほとんど先の様子はわからない。ハルダーは寝台のそばにあったランプを取りに行き、イフェリカに渡した。
「先に行け」
「はい」
「イフェリカ様。ちょっとお待ちください!」
ランプに明かりをつけたイフェリカが通路へ入ろうとしたら、入り口にいた男が慌てて飛んできた。捜索がここへ来たのか、と思ったが、違った。
「ジノルック様から、これを預かっていました」
焦っていて忘れていたのか、男は懐から折り畳んだ紙切れを取り出した。
「これは?」
「わかりません。ですが、イフェリカ様に渡すようにと」
「見るのはあとにして、今は逃げよう。ここを閉じたら、あんたもこの部屋を出るんだ。いいな?」
押し込むようにイフェリカを隠し通路に入らせた。
階段の幅は人一人がやっと通れるほどしかなく、高さもない。イフェリカでぎりぎり、ハルダーだと屈まなければ頭がつっかえてしまう。通路側にはとっかかりとなる突起があるものの、その体勢で重い入り口を閉じるのは難儀した。
「俺が先に行くよ」
イフェリカからランプを受け取り、狭い階段でなんとか順番を入れ替わる。階段はひたすら下っていた。二階分下り、更に地下に潜るのだから、相当長いはずだ。明かりの届く範囲内では当然ながらまったく終わりが見えず、地の底まで続いているように思えた。
あの主寝室もいずれ捜索されるだろう。隠し通路の存在の有無を念頭に置いていないとは思えない。見つかる前に外へ出られるだろうか。
通路に入った頃には、すっかり夜が明けていた。さすがに日があるうちに外へ出られるだろうが、どこに出るのかはわからない。わからないが、とにかく少しでも早く前に進むしかなかった。
●
東の空が白く輝く。夜は終わり朝が始まる。夜の底に沈み鬱蒼としていた森も、いくらか明るくなっている。周囲よりひときわ高い木の上にいると、その様子がよくわかった。
だが、グラファトは夜明けの瞬間を楽しみたいわけではない。木々に囲まれた屋敷を眺めるグラファトは苦々しい表情を浮かべ、舌打ちした。
この距離では屋敷の喧噪は届かないが、この木のそばを通る道を、ユヴィジークの使者一行が通っていくのは見ていたのだ。使者たちより先回りしたはいいものの、グラファトは見物するしかなかった。
「私が望むのは、イフェリカ王女の死だ。彼女の死を確実にしてくれるのなら、それを成し遂げるのがおまえでも私の兵たちでも、誰でも構わない」
二日前、グラファトを密かに呼びつけたユヴィジークはそう言った。感情のない冷めた目で。
「それは最初に聞いてるからわかってるよ。だが、こそこそ逃げ回る王女様をしとめられるのは、小回りの利く俺だな。王女の護衛も、昔やり合って勝ったことのある男だ。難しくはねえ」
ハルダーに警告を与えたあとも、グラファトは密かに彼らを見張っていた。どうせ言うことを信用しないだろうと思っていたら、ハルダーは予想通りグラファトの言葉を信用せずに街道を進んでいた。警備隊とやり合って、ハルダーがイフェリカを守り切れなくなったら、横からかっさらおうと考えていた。
援軍の登場は予想外だった。ハルダーとイフェリカの向かった屋敷の場所はわかったものの、持ち主が誰なのかがわからず、調べるために王都シャロザートに戻ったところで、ユヴィジークに呼び出されたのだ。
「イフェリカの居場所はおおよそわかった。人を向かわせる用意もじきに整う」
「あの森の中の屋敷か」
「なんだ、知っていたか。あれは、ジノルック・バーンヴァレスという王女と幼なじみの貴族の屋敷だ。数日中にも私の部下が王女を捕縛する。おまえがすることはもうないと伝えてやろうと思って呼んだのだが」
「ふん、わざわざご親切にどうも。だが、まだ王女は生きてるんだろ。生きてるんなら、俺があんたの依頼を遂行する可能性はまだ残ってるぜ」
「おまえの言う通りだが、私の部下を出し抜いて王女を暗殺できるとでも? むざむざ取り逃がして、ヴェンレイディールに戻るのを許したおまえが」
「殺る機会はいくらでもあったんだ。見逃してやったんだよ。大勢でたった一人の娘も捕まえられない、あんたの間抜けな部下と俺が同じだと思うなよ」
こんなつまらない話をするために、わざわざユヴィジークは呼び出したのか。とんだ時間の無駄である。
「おまえにはわからないかもしれないが、あまり大々的な捕り物もできないのだ。王女が生きているとヴェンレイディール人に知れたら、再興などよからぬことを考える連中がぞろ活気づく。ゆえに、バーンヴァレスの屋敷にも大勢を割けぬ。名目上は、反乱の意志があるバーンヴァレスの捕縛だ」
「……何が言いてえんだ」
「この城もだが、大抵の貴族の屋敷には非常時用に隠し通路がある。もちろん、バーンヴァレスの屋敷にも、な。王女がそこから逃げる可能性は十二分にある……が、隠し通路の出口に配備する人員が足りない」
「俺に出口を張ってろってことか」
「隠し通路がある、というのも確実な情報ではなくてな。屋敷のどこにいくつあるのか、出口はどこへ通じているのか、密告した者も知らないそうだ」
「バーンヴァレスとかいう奴の部下か? 密告した割に使えない奴だな」
「そんな者が多い国だから自ら滅びたのだ。戦など起こらずとも、遠からず同じ道をたどったであろう」
すげなく言って、ユヴィジークは机に地図を広げた。ヴェンレイディールの地図だった。
「ここがバーンヴァレスの屋敷だ。隠し通路の出口は目立たない、しかし街道や人里からそう遠くない場所にあるはずだ。めぼしい場所はいくつかある」
屋敷の周辺に赤い丸がいくつかある。そこが候補の場所ということか。
「そこにも部下を向かわせているが、なにせ人手が足りず、怪しい場所すべてを調べられるわけではない」
「残りの場所を俺一人で探せってか。分が悪すぎるじゃねえか」
「ここと、ここの二カ所だ。互いにそう離れていないから、おまえ一人でもなんとかなるだろう」
ユヴィジークが地図上の二つの丸を指さす。確かに地図の上ではすぐそばだが、実際の距離はそこそこ離れているだろう。
「どちらでも好きな方から調べろ。バーンヴァレスの屋敷の捜索が始まるのは、おそらく明日の朝方。隠し通路を使って外へ出てくるのは昼前といったところか。時間はあろう」
ユヴィジークが唇の端をかすかにつり上げた。グラファトは舌打ちをして、机の上の地図をひったくる。
「絶対に報酬をもらってやる。誰がただ働きなんかするかよ」
「お膳立てしてやったのだ。せいぜい頑張るがいい」
うまい具合に利用されているとしか思えない。だが、この機会を逃したらグラファトが報酬を得ることはできないだろう。乱暴に畳んだ地図を懐に突っ込み、グラファトは急いで出発した。
急いでこの地へ戻ってきたが、思った通り、ユヴィジークの示した二点は離れていた。ユヴィジークの部下がバーンヴァレスの屋敷を訪れるまでに、結局どちらも満足には調べられなかった。地図上では点でも、実際その場に行けば点では済まされない。二地点とも森の中だったが、岩影や大きな木、窪地など、怪しいところはいくらでもあった。シャロザートからここへ来るまでに一日近くかけっている。ユヴィジークの話しぶりからすると、今日か明日にも、バーンヴァレスの屋敷を彼の部下が訪れるのだろう。それを確かめるためには、この目で見るしかない。
「くそ、本当に分が悪い」
足下の草を八つ当たりで蹴飛ばす。二地点ともざっと調べたら、怪しいところはいくつもあった。だが、出口があるかどうかの確証は掴めなかった。詳しく調べるには、結局時間が足りないのだ。ユヴィジークもそれは承知の上で、あくまで保険としてグラファトを使うつもりなのだ。グラファトに割り当てられた二地点が出口である可能性は、おそらく低い。
「俺ぁただ働きなんてしねえぞ」
グラファトは馬を駆ってバーンヴァレスの屋敷へ向かった。
ここまで働かされて、報酬なしなど我慢ならない。なんとしてもこの手で王女をしとめてやる。
ヴェンレイディールに来るまでに、イフェリカを殺す機会は何度もあった。その機会をわざと見過ごし、国境近くでハルダーに忠告まで与えたのは、殺したあとの手間を考えてのことだった。
ユヴィジークには暗殺したという確かな証拠を差し出さなければならない。最も簡単で確かなそれは、王女の首だ。ただ、首を落としても、人の頭まるごと一つは荷物になるし、長期間運んでいる間に傷んで人相がわからなくなっては元も子もない。だから、ヴェンレイディールに二人がたどり着くまで待っていたのだ。できれば、王都近くでしとめるつもりでいた。予定より早くなるが、これ以上は猶予がない。
ハルダーの姿が脳裏をかすめた。
グラファトが王女を手にかけたとき、あの男はどんな顔をするだろうか。四年前、ハルダーが守っていた女を斬ったときに見せた、あの、絶望と怒りと嘆きが入り交じった表情。ハルダーの腕を斬り落としたときよりも、激しい感情にまみれていた。
何人も暗殺し、標的以外の邪魔者も斬ってきた。恐怖におののき泣きわめく者は多くいるが、怒りに吼え噛みつこうとしてくる者はほとんどいなかった。標的を殺されてあれほど怒り狂ったのは、ハルダーくらいしかいなかった。
イフェリカ王女は、どう見てもか弱い娘だ。標的としてはいかにもたやすく殺れる相手で面白味はない。だが、護衛についているハルダーは違う。かつてのように、ずいぶんとかいがいしく王女を守っているようだった。
あのときと同じか、それ以上の表情を見せてくれるだろうか。
グラファトの唇が自然とゆがむ。そうなれば実に愉快で、面白味が増すというものだ。
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