Ⅸ「Dive to the Night」
夜。
「水破くん」
声を掛けたのは汐音の母、エプロン姿で穏やかな表情を見せる鳴神エマ。
「エマさん……」
口籠もる水破を急かす事もなく、エマは水破が自分から後を続けるのを待つ。
「……すみません」
「水破くんが謝る事ないでしょ」
頭を垂れる水破にエマは優しく言った。
「汐音は鳴神家の娘ですもの。果たすべき務めがあるわ。確かに危険だし、辛い思いをする事もあるでしょうね。でも、あの子はそれを拒んでいない。もし、汐音が望まない事なら、私は鳴神の嫁としてではなく、汐音の母親として、本家や水破くんの実家を敵に回してでもあの子を守るわよ」
エマの言葉は力強い。表情は穏やかなままなのに、芯から響くような力強さがそこにはあった。
「だけど、汐音は戦う事を選んだわ。あの子がこの先もずっと戦い続けるかはまだわからないけれど、少なくとも今はそうしようとしている。戦えるかどうかもわからないまま逃げ出す事だけはしなかった。自分にできる事、できるかも知れない事の選択肢を自分から減らすような事をしない、そういうの、あの子のいい所よ。あの子のする事、何でもほめてあげたくなるのは親馬鹿かしらね」
そう言って、エマは笑った。
汐音は正義感の強い少女だ。
小さな頃からテレビの戦隊ヒーローやアメコミのスーパーヒーローに夢中になって、学校でも悪ガキどもを叩きのめしたり、返り討ちにされたり、それでもめげずにリベンジマッチを挑んだり、自分よりも遙かに大きく力も強い男の子を向こうに回しても一歩も引かない腕白ぶりを発揮しては、無茶をしすぎて傷だらけになっていた。
さすがに中学生ともなると、以前よりは生傷の数も減ってきたが、真っ直ぐな気性は変わらない。
自分の異能と役割を知った時も、汐音はあっさりと受け入れたが、「コードネームとかコスチュームとかってないの?」と大真面目に訊いて周りを呆れさせた。
「心配じゃないんですか?」
「心配に決まってるじゃない。でも、信じてるわ。汐音と、それから、水破くんを」
エマはきっぱりと言い放つ。
「汐音をお願いね。水破くんなら何があっても汐音を守ってくれるって信じてるのよ」
「──はい」
水破はゆっくりと頷いた。
「何があっても、汐音だけは無事に帰します。それが僕の役目ですから」
「こらっ」
覚悟を張り詰めたつもりで言った途端、水破の額をエマが小突いた。
「そういう言い方はしないの。ちゃんと水破くんも無事に帰ってらっしゃい。その手の覚悟はね、一方的に押しつけられる側からしてみたら余計なお世話なの。一人で取り残された方は辛いばかりなんだから。水破くん、比翼の鳥って知っている?」
「中国の伝説の生き物ですよね?」
「そうよ。雌雄一対で翼を片方ずつしか持っていない鳥。だから、二羽一緒にぴったりくっついていないと、空を飛ぶ事もできないの。一人で背負い込もうとしないで。支え合ってこそのパートナーよ」
「──はい」
諭すように言うエマに、水破は素直に頭を下げた。確かに、自分ばかりが気負いすぎていたかも知れない。
「天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝。ああ、いいわね、そういうのって」
「……いや、ちょっと待って下さい。何か話がずれてきていませんか?」
初めの話だけならまだしも、ここまで来ると確実に本来の意味である男女の仲睦まじさの例えになっている。
「いいじゃないの。あと三年経って十六になったら籍も入れられるし」
「どうして、ずれた方向にそのまま進むんですか!?」
取り乱す水破の反応を見て、エマは実に楽しそうだった。
「うふふ。それじゃあ、水破くん。『だけ』はなしでもう一回」
話題がずれたせいで動揺していた水破だが、エマの言葉の意味を少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「何があっても、汐音は守ります。ちゃんと二人で帰ってきますから」
「うん。いいわね、それ。汐音に言ってあげたら惚れ直しちゃうわよ」
「……だから、からかわないで下さい」
水破の困り顔を見て、エマはくすくす笑い声を零した。
「お待たせーっ。何、何?」
ぱたぱたと軽い足音で小走りで駆け寄ってきた汐音が興味津々といった様子で身を乗り出す。
デニム生地とレースのフリルを重ねたミニのティアードスカート。明るい色のTシャツは裾の両サイドに小さなリボンのアクセント。お転婆なようでも、ちょっとした所に女の子らしいかわいらしさを覗かせる。そして、胸に抱えるようにして持つ錦の刀袋の中には『
「汐音をお願いね、って言ってたのよ」
「ふぅん。ママからもお願いされちゃったね。すー兄ちゃん、あたしの事をお願いね」
「……はいはい」
汐音はピンクのコンバースに足を突っ込みながら、おねだりするするような視線を向け、水破は苦笑して肩をすくめた。
「じゃ、行こっか、すー兄ちゃん。ママ、行ってきます」
「気をつけてね。水破くん、汐音をお願いね」
「はい。行ってきます」
エマに見送られて汐音と水破は表へ出た。
夜空には薄雲をまとう月。ぼやけた光が静かに降り注ぐ。
「行こう、汐音」
「うん」
二人は夜へ踏み出した。
§
人気のない夜道を進む。
汐音は歩幅を大きめに、水破は速度をゆるめて。二人が並んで歩けるように、少しずつ互いのペースに近づけて。
ぴったりと水破に寄り添った汐音が歩くのに合わせて、結んだ亜麻色の髪が大きく跳ねるように揺れる。
そんな汐音の姿を見下ろして、水破の胸が重く痛む。汐音は陽気に振る舞っているが、それは強がりの空元気だ。これから向かう先で直面するものを思えば、汐音の心が軽かろうはずもない。
「──すー兄ちゃん」
汐音が上を向いて水破の顔を見上げた。
「あたしは大丈夫だよ」
にっこり笑って見せる。
「すー兄ちゃんがあたしを心配してくれるの、すっごい嬉しい。でも、そんなに心配しすぎないで。あたしの方がすー兄ちゃんを心配になっちゃうよ」
軽く体当たりするように水破に寄り掛かる。力が入っていないにしても、あまりにも小さくて軽い感触。水破は汐音を抱きしめたやりたい衝動に駆られかけたが、そう思う間に汐音が自分から体を離した。
汐音は分別を持って自制している。
今、水破に甘えてしまえば、張り詰めた糸が切れてしまう。優しい心地好さに溺れてしまって、強がっている心が挫けてしまう。だから、今は水破に抱きつけない。今は踏ん張って我慢して前へ。
「汐音──」
水破は恥じた。
汐音を支えてやりたいと思っていたが、傷つき辛い思いをしている汐音の方こそが水破を気遣ってくれている。何と不甲斐ない事か。ひどい思い上がりだ。
「終わったら、どこかへ遊びに行こうか」
「ホント!? やったあ! すー兄ちゃんとデートだね♪」
汐音は満面の笑みを浮かべた。
「うん。どこか行きたい所を考えておきなよ」
水破も汐音に笑顔を返し、二人並んで夜道を歩き続ける。
夜はまだ長い。
§
汐音と水破がたどり着いた先。
真黍中学校は二年前に廃校になっており、今は建物が残るだけとなっている。汐音が通う棗玉中学とは方角こそ正反対だが、鳴神家から徒歩で三十分ほどの距離にある。廃校になっていなければ、徒歩で通える範囲内という条件で、汐音の進学先候補になっていたかも知れない。
建物は人の出入りがなくなると急激にさびれる。この校舎も例外に洩れず、わずか二年の間に生気を根こそぎ削り落とされ、今や死に絶えた薄気味の悪い廃墟といった風体で重苦しい沈黙を保ち続けている。
正門の前には一人佇む女の姿。
精悍な顔立ちの鋭利な雰囲気をまとう女だ。太く編んだ黒髪を長く垂らし、背は高く百七十センチ近い。質の良いチャイナブラウスとフレア裾のサテンパンツというパーティーにでも出席できそうな出で立ちの上に、色落ちして擦り切れたデニムのジャンパーを羽織ってラフに着崩している。
「
水破が女の名を口にした。
「獲物は狩場に追い込んだ。後はそっちの仕事」
無愛想にそれだけ言うと、瑞玉は校舎の方を指すように顎をしゃくって見せた。その横柄な口と態度に汐音がむっとした表情に浮かべた。
「他人の見せ場の下ごしらえなんて仕事、性に合わない。
瑞玉は汐音を無視して不機嫌そうに言い捨てると、ポケットから一枚の護符を取り出して左手に持ち、右手で二本指を伸ばした形に印を組んだ。
「──吾奉太上老君勅急急如律令」
小声で素早く唱えると、瑞玉は護符を水破の手に押しつけた。
「持って門を通れ。結界に入れる。ただし、片道切符で中に入ったら出られないから、用が済んだら校庭の百葉箱の中に結界の鍵になってる符があるから破れ。結界が解ける。それと、結界内では電波も遮断されるから携帯は使えない。校舎内に電話機はあるが電話線は死んでいる。結界を解除しないと外部との連絡も取れない。気をつけろ」
それだけ一方的にまくし立てると、瑞玉はさっさとその場を離れて行ってしまった。
「誰?」
「
水破も親しくもなければ詳しく知っている相手ではない。ただ、あまり表沙汰にできない厄介な仕事を頼むには頼りになる腕利きだとは聞いている。
「あの人、強いでしょ」
あたしよりもずっと、と続けかけた言葉は呑み込んだ。恐らく、汐音などでは比べ物にならないくらい鍛錬を積み死線を潜り抜けてきた強者だ。対峙しただけでその気配からわかる。そして、同時に自分の未熟さを突きつけられるようで悔しかった。
「ん、らしいね」
汐音の声に籠もる響きを感じて、明言を避けて曖昧に答える水破。
「あたしも強くなりたい」
汐音は噛み締めるように言った。
「自分が何かしたいと思った時に、そうできるくらいに強くなってたいな」
そう呟く汐音は、小さな背丈では届かない所へ向かって、一生懸命背伸びして手を伸ばそうとしているようで、健気でもあり、どこか痛々しくも見えた。
「焦る事はないよ。僕も汐音もまだまだ色々なものが足りないけど、少しずつ強くなろう」
「一緒に?」
「うん。一緒にね」
「──うん」
汐音は満足そうに笑って頷いた。
「じゃあ、行こう、すー兄ちゃん。──トモ先生が待ってる」
そして、汐音は大きく息を吐いて気合いを入れ直し、水破と二人、夜の学校へと足を踏み入れていった。
§
薄雲に霞む朧々たる月光の下。
屋上に座り込んだ土萌は鉄格子に背を預け、ブラウスを大きくはだけた裸の胸に理子を抱き締める。
チャイナブラウスの猟犬に追い立てられて、追い込まれた先がこの廃校。
──ここは狩猟場だ。そして、狩られようとしている獲物は
きっと猟犬が追いつめた獲物を仕留める狩人がすぐにやって来る。それを返り討たなくては、閉じ込められたこの場所を逃れる事はできない。そう覚悟はしていた。
「あの子が、そうだったのね……」
正門から堂々と乗り込んでくる二人連れの姿を屋上から覗き見た。
意外なようでいて、実際に目の前に突きつけられてみれば、何となく納得してしまった。ただ、そういう役目を負っているのなら、色々と辛い事や悩み事も抱えているのだろうな、と驚きよりも心配の方が先に立った。
土萌もまた迷いためらう。
これからやって来る相手と、どのように向かい合えばいいのか。
しかし、いつまでも思い悩んでいる事もなどできはせず、引き延ばしようもなくその時は訪れる。
しばらくの後、ぎぃ、と屋上の扉が立てる軋んだ音を聞いて、土萌は傍らに置いてあったアルミ製の杖を引き寄せながら、ゆっくりと体を起こした。
「トモ先生……」
「こんばんは、鳴神さん。そちらの彼がいつも惚気ている噂の水破くんね?」
穏やかに微笑む土萌。対して、水破と共に扉から姿を見せた汐音は、土萌とそのはだけた胸に抱かれた理子の姿を見て顔を恐怖に引きつらせた。
「……何? トモ先生、
土萌の胸に抱かれる理子の体はわずかしか残っていなかった。
頭部から肩の下辺りまでと左腕のみの姿となった理子は、土萌の胸に癒着し、まるで土萌の胸から理子の体が生えているかのように──否、逆だ。土萌の体に理子が呑み込まれているのだ。
土萌の腕に支えられた理子の体が徐々に土萌の胸に潜り込んでいく。胸が、肩が、力なく投げ出された腕が、ずぶずぶと土萌の体に沈んでいく。
身の毛もよだつ異様な光景だが、その中心にいる理子の虚ろな表情は、安堵と至福に満ちたものだった。
「やだ……。何……、これ……?」
ガチガチと歯の根が震えた。
「母胎に還るのよ。生まれ直すために」
土萌は温かな慈母のまなざしを理子に注ぐ。既に理子は首まで呑み込まれ、外に出ているのは頭部のみになっていた。
「世界はこの子に優しくなかった。愛されるべき人から愛してもらえず、守られるべき人から守ってもらえなかった。
──だから、やり直すの」
「トモ先生……、何……、言ってるの?」
「私がこの子のママになってあげるのよ。そして、産み直してあげるの。今度こそ、この子は愛されて生きるのよ」
「やめてっ!」
土萌の体に呑み込まれて消えていく理子の姿を前にして、汐音は思わず叫びを上げた。
「どうして?」
土萌が首を傾げた。
「この子の世界には苦痛しかなかったのよ。誰も守ってくれなかった。誰も愛してくれなかった。誰も気遣ってくれなかった。──逃げ出したっていいの。本当に辛い事しかないのなら、そんな所からは逃げ出してしまって構わないのよ。迎え入れてくれる先があるのなら、逃げ込んでしまっていいの。私がこの子を受け止めてあげるから。この子には、私しか受け入れてくれる相手がいないのだから」
もうほとんど消えかけた理子の頭を愛おしげに撫でる土萌。
「違う! そんな事ない!」
汐音は力一杯首を横に振った。
「めりあは泣いてた! 理子ちゃんを心配して、理子ちゃんのために泣いてた! トモ先生だって見てたでしょ! めりあみたいに理子ちゃんを心配してる人、他にもきっといるよ!」
ぴくりと理子の頭が揺れたのは、ただの呑み込まれていくうちの弾みだったのか。一瞬、虚ろな瞳が動いたように見えたのは、単なる光の加減か。汐音の叫びは理子に届いたのか。どうであったにせよ、もはや確かめようもない。理子の体がすべて土萌の中に消えてしまった今となっては。
「そうかも知れないわね」
土萌はブラウスのボタンを留め直しながら寂しそうに笑った。
「鳴神さんや久我さんみたいな子がこの子のもっと近くにいてくれたら違ったかも知れない。きっと、違っていたわ。クラスが別々でなかったら。同じクラスの友達になっていたら。前に友達になる機会に恵まれていたら。その時に友達になれていたら。そうだったら、きっと、違ったでしょうね」
理子を気遣い、今と過去を悔やむ。保健室で交わした話の繰り返し。それは本心からの偽りのない言葉。
「でも、もう遅いの!」
土萌が叫ぶ。その鋭さが冷えた夜の空気を切り裂く。
「あなたも! 私も! この子に気付いてあげられなかった! この子が傷ついて絶望して取り返しがつかなくなるまで、何もしてあげられなかったのよ!」
「違うよ! そんな事ないよ!」
「この子の痛みも知らずに言わないで!」
汐音の根拠のない安易な否定の言葉を、土萌は怒声ではね除けた。
虐げられ、傷つけられ、苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて、どうしようもなく追い詰められて、ようやく土萌の元へ駆け込んできた理子。その痛み、軽々しく扱っていいものではない。
「死にたいくらい絶望した事のある人にしかわからないものなのよ……」
土萌の声が重く響く。
「この子ね、妊娠していたの」
衝撃的な言葉に、汐音は思わずたじろいだ。
「それも、実の兄にレイプされてできた子供を。毎日のように暴力を振るわれて、無理矢理犯されて、その挙げ句に妊娠してしまって。生理がなくなって、不安になって、それでも、誰にも相談できずに自分で薬局で検査薬を買って調べて、──そんな苦痛が、そんな絶望が、あなたにわかる!? 自分の手で実の兄を鋏で刺し殺したこの子の気持ちが!」
血を吐くように叫びながら、土萌は止めどなく涙を流していた。
「間に合わなかったのよ! 気付いてあげられなかったの! 助けてあげられなかったの! こんな事にならないように頑張ってきたつもりだったのに! 私の力なんてちっとも足りなかったのよ! 助けてあげたかったのに! 子供達がこんな目に遭わないようにしたかったのに!」
土萌の号泣が響き渡り、汐音は圧倒されて口をつぐむ事しかできなかった。
「──だから、やり直させてあげるの。この子の人生を、最初から。今度こそ、愛されて幸せになれるようにね」
そう言って、土萌は涙を拭い、慈しむように腹部を撫でた。
理子一人を呑み込んだ土萌の体は見た目には何も変わっていないが、その中には理子がいるのだろうか。そして、土萌の言うように、その胎内に宿って新たに産まれ直そうとしているのだろうか。
「……でも、そんなの、おかしいよ……」
汐音の声が震えた。土萌に気圧されて心が萎え、無意識にうつむいて足が後ろへ下がろうとする。
──その背中を水破が支えた。
下がりかけた汐音の肩に手を添える。力を込めて前へ押すでもなく、ただ、そっと添えるだけ。ただ、それだけで、汐音の緊張がすっとほぐれた。
「汐音、しっかり。気持ちで負けないで」
未熟な汐音の心は脆い。挫けそうになれば支えるのが水破の役目だ。
「──うん!」
背中を水破が見ていてくれる。そう思うだけで、汐音の心が再び奮い立ち、目を逸らさずに真っ直ぐ土萌に顔を向けた。
「土萌先生」
じっと趨勢を見守っていた水破が口を開いた。
「訊きたい事がいくつかあります。あまり手間取りたくありません。単刀直入に訊きますので、手短に答えてもらえると助かります」
「ええ、いいわよ。今更隠し事をしても仕方ないでしょうしね」
落ち着いた静かなトーンの水破の態度に感化されてか、土萌も冷静さを取り戻した声で答えた。
「いつから人間をやめてしまったんですか?」
「──すー兄ちゃん!」
問われた土萌よりも、汐音の方が驚いて声を上げた。
「……本当に単刀直入ね」
宣言通りの水破の物言いに、土萌は小さく苦笑を洩らした。
「自覚したのは二年前、娘が死んだ時。でも、もしかしたら、もっとずっと前からそうだったのかも知れないわ」
大事なものを何もかも失ってしまった時。絶望と悲嘆にすべてが塗り潰されてしまった時。悲しんで、悲しんで、気が狂うかと思うほど悲しんで。深い深い悲しみの底にどこまでも沈んでいき、落ちる所まで落ちきって、それでも、そこから這い上がろうともがいていた時、自分の中で何かが変わった。世界が違って見えた。心の形が変わってしまった。体までもが違うものになってしまっているのに気が付いた。
「どうしてこんな風に変わってしまったのかしらね。自分でもわからないわ」
「あなたの家系も調べました。何代か前に少しだけ人外のものの血が混じっています。あなたの代でその血が濃くなったようですが、それでも、何事もなければ、異能に目覚める事もなく普通の人と変わらずに生きていける程度のものだったはずでした」
なるべく感情を殺して冷静に話す水破が一瞬だけ唇を噛んだ。
「──ただ、強すぎる思いは時に人を人でないものに変えてしまいます。恋に狂って蛇身の化生に変じた清姫も、自分の娘を殺して鬼になった安達ヶ原の鬼婆も、元は人間でした。こういう言い伝えは単なる絵空事ではないんです。
土萌先生、あなたには、素養ときっかけがあったんです」
「そう……、そういうものなの。私にそんなものがあったのね」
話だけ聞けばにわかには信じ難いような事だが、土萌にしてみれば、実際に自分の身に起きた事であり、今や他人の体を自分の中に取り込むような真似までできてしまうのだ。改めて水破の口から聞かされて、そういうものなのか、と自分でも驚くほどあっさり受け止めていた。
「そういうのって、よくある事なの?」
「いいえ、稀な話です。でも、事実です」
「そう……」
土萌は寂しげに呟いた。
「誰のせいでも、誰を責める事もできないんでしょうね」
他の誰かが悪い事にして、悲劇のヒロインを気取る事もできる。しかし、土萌にその選択はない。もはや我が身など顧みるよりも優先する事が他にある土萌にとって、そんな逃避は要らない。
「いいわ。自分がどういうものか話が聞けて、開き直りやすくなったかも知れないわね」
何かが吹っ切れたような土萌に、水破は次の問いを投げた。
「狭山理子ちゃんの父親を殺したのは、あなたですか?」
「ええ、そうよ」
土萌はあっさり肯定した。
「どうしてですか?」
「──許せなかったから」
土萌の瞳に冷たく暗い炎が宿る。
「親なのよ。誰よりもこの子を守らなくてはいけない人だったのに、その役目を放棄した。そんなの許せるはずないわ」
理子の父は家庭を顧みなかった。別れた妻が家を出てからもそれは変わらず、むしろ、成長するにつれ、自分達を捨てた妻の面影が強くなる娘を嫌って、更にその傾向は強くなった。
息子と娘の間に何か不和が生じている事は感じ取っていたが、そこに踏み込む事も気遣う事も何か手を講じようと考える事もなかった。理子の苦境がどれほどのものなのかも知りもしなかったし、知ろうともしなかった。土萌にとっては許し難い愛情の欠如と怠慢。バラバラに引き裂いても飽き足らないほどの憤激を沸き上がらせる程に。
「子を愛さない親なんて、生きる価値もない……ッ!」
唾棄する声音には、抑えていても怒りがにじみ出していた。
「野川由美、後藤夏生、二人の子供が失踪した事件も、その家族を殺害したのもあなたですか?」
「ええ」
先に起きた二つの事件──兵破が怪しいと睨んで追い、水破に知らせていた事件。
土萌はこれもあっさり認めた。
「あの子達には助けが必要だった。愛して守ってくれる人が必要だった。だから、私がそうしたの」
「今、二人の子供は?」
「──ここにいるわ」
土萌はそっと腹部に手を添えた。
「ここで生まれ直す日を待っているわ。何もかも忘れて、傷ついた心を癒して、愛される世界に生まれる日を待っているのよ」
外から見ても何の変哲もない腹部。しかし、その内側には理子を含めて三人の子供が取り込まれているというのだろうか。
「おかしいよ!」
汐音の叫び声がほとばしった。
「……あたし、わかんないけど……、わかんないけど! でも、やっぱり、そんなのおかしいよ!」
理屈などわからない。ただ、気持ちだけを精一杯に叫ぶ。
間違いであって欲しかった。
嘘ならどんなによかっただろう。
しかし、事実は揺るがない。土萌は──優しくて素敵なトモ先生は──人殺しの化け物だ。
「私からも訊いていい?」
唇を噛む汐音の辛そうな顔に、土萌もまた辛そうに息を飲み下す。
「あなた達は──、私を殺しに来たのね?」
思わずびくりと震える汐音。そんな汐音を支えながら、水破は土萌の視線から逃げずに真っ向から受け止めた。
「はい」
「すー兄ちゃん……」
きっぱりと答える水破。ぎゅっと胸に抱えた長脇差を握り締める汐音。
「人に仇なす妖を狩るのが僕らの役目です」
「……そういう人達がいるんだ」
「はい。昔からずっと。そのための力と技術を受け継いでいる家系があります。僕も汐音も、その血筋です」
「そうなの」
土萌は一度目を伏せて、それから顔を上げ直して言った。
「辛くはない?」
もっと他に言う事はなかったのか。
自分を化け物だと言われ、自分のしてきた事を問い質され、目の前の青年と教え子の少女は自分を殺しに来たと言う。そういう生業の家系だから、と。突拍子もない話を積み上げて、その挙げ句に出た言葉がそれだ。
疑問を発するでもなく、責めるでもなく、拒むでもなく、重荷を背負う二人を気遣う言葉を口にした。
年端もいかぬ汐音が長物を担いで妖を斬るという。小さな体で化け物と渡り合うという。荷が重いに決まっている。
「辛いよ、トモ先生」
辛くないはずがあろうか。
うつむいた汐音がぐっと唇を噛む。
「でも、そんな辛さは大した事じゃないよ。そんなのは、どうって事ないよ──」
しかし、それだけなら──危険だとか過酷だとかいう事ならば、辛くとも苦しくとも乗り越えられるだろう。自分が戦う事で救える人がいる。人に仇なす妖を討つ事で、救える人がいる、守れる命がある。そう信じて戦える。
「あたしが頑張れば、たくさんの人達を守れるんだし──」
震える汐音をそっと水破が支える。
「どんなに大変だって、いつもすー兄ちゃんが一緒にいてくれる、あたしを助けてくれる」
半人前の汐音を水破が支えてくれる。汐音一人では押し潰されそうな重荷も、水破が一緒に背負ってくれる。だから、辛くても、苦しくても、踏ん張って戦える。戦える──はず。それでも──。
「でも……、トモ先生とこんな形で向かい合うのは、──すごく辛い」
辛い。
大好きな憧れのトモ先生を前に汐音の心は揺れる。ここまでやって来る間もずっと、そして今もまだ、汐音の心は迷ったまま。
土萌を倒さなくてはならない。
それは、何のために?
土萌が人殺しの化け物だから。そのはず。それが理由。それでいいはずなのに──。
「土萌先生、やめて下さい」
水破の硬い声が割り込んだ。
「今更、優しい言葉なんかかけないで下さい。あなたの言葉は汐音を惑わすだけだ」
「すー兄ちゃん!」
「土萌先生、あなたは人殺しの化け物で、僕らは妖狩り。こうして向かい合ったら、戦うしかないんです」
「すー兄ちゃん……、でも……」
「汐音、土萌先生は人殺しの化け物として妖狩り達にその正体を知られている」
水破の言葉に汐音ははっと息を呑む。
「この場で僕らから逃れても、決して追撃の手がなくなる事はない。ここで土萌先生を見逃す事は、自分達が逃げて、始末を他の誰かに押しつける事にしかならない」
「……わかってる、わかってるけど……」
それでも、踏ん切りをつけられずに汐音は言葉を濁す。
「そうね」
土萌は寂しそうに呟いた。
「でも、私は倒れる訳にはいかない。この子達のためにも──」
土萌は腹部に手を添える。
「私の助けを待っている子供達のためにも」
しゅる、と微かな音。
屋上の柵を背にして立つ土萌の腰まで届く長い黒髪が更に長く、足下に届くほど伸びた。
「汐音!」
警告を叫びながら水破は懐中に手を伸ばす。汐音も身構えて得物を握り締める。
緊張が張り詰める一瞬。
土萌の髪がひとりでに柵に絡みついた次の瞬間、柵が弾け飛んだ。
「ひゃっ!」
汐音の短い悲鳴をかき消して轟音が響く。
土萌の髪が絡みついた鉄柵はねじ曲げられ、引きちぎられ、バラバラになって地面へ落ちていった。そして、屋上を囲む柵が破れて開いた隙間に向かって、不自由な足の代わりに蠢く黒髪の束が土萌を押し出し、その身を夜空に舞わせる。
鉄柵の飛び散りぶつかり合う騒音の波を貫いて響く破裂音。
閃く発射炎と硝煙の臭い。
水破が上着の下に隠したホルスターから引き抜いた自動拳銃──SIGザウエルP229から放たれた銃弾が土萌の消えた空間を虚しく撃ち抜いた。
「すー兄ちゃん!」
「汐音! 下だ、追おう!」
とは言え、後を追って飛び降りる訳にはいかない。汐音と水破は背後の扉を開けるのももどかしく、飛び込むような勢いもそのままに階段を駆け下りた。
§
暗い夜空に自らの身を投げ出した土萌が落ちていく。冷たい夜風に巨大な翼のように黒髪をなびかせて。
十四才の時にそうしたのと同じように、屋上から再び身を投げて落ちていく。地面に着くまでのほんの数秒、土萌の脳裏を過去の幻影がよぎった。
倦み疲れ果て、何もかも投げ出して飛び降りたあの日、地面に叩きつけられて砕けた手足は今も歪んだまま。あの時と同じように落ちていく──。
土萌が地面に叩きつけられる直前、なびく黒髪が瀑布のように激しく流れ、先に地に着いて土萌の体を受け止めた。
自在に動く黒髪は着地の衝撃を吸収し、土萌をそっと地面に降ろした。しかし、手にしたアルミ製の杖と不自由な足では機敏な動きなど望むべくもない。地に届いた黒髪の束が足の代わりとなって土萌の体を運ぶ。
髪で疾駆する土萌は校門へ向かいかけ──やめた。近付く間でもなく感じる威圧感。瑞玉の結界が生きている今、門の外へは出られない。無理に押し通る事ができるかどうか。もし、できたとしても、汐音達が追いついてくるまでには間に合うまい。
「私の方こそ、覚悟を決めなくてはいけないのね」
じっと佇む土萌はうつむいて、気持ちを集中させるように目を閉じた。
汐音達が追いつくまでの数分。そのわずかな間に覚悟を決めよう。
自分の思いを貫くためには、立ちはだかるものを退けなくてはならない。
助けたい子供達がいる、愛してあげたい子供達がいる、──そのために、他のすべてを犠牲にしても。それは土萌にしかできない事なのだから。
§
リノリウムの床材を蹴って汐音が走る。
ためらいもなく数段ずつ飛ばして階段を駆けていくその様子は、飛び降りると言った方がふさわしい。
「汐音、気をつけて」
「大丈夫!」
力強く答える声の通りに、暗い中でも汐音の足下は確かで危なげない。段を踏み外す事もなく、思い切りのよい軽やかな跳躍はリズムよく汐音の体を運んでいく。
「そんなに慌てなくていい。瑞玉さんの結界が生きているから、土萌先生は学校の外へ逃げられない。体力を温存して」
しかし、水破は汐音を制する。汐音は機敏だが体力は乏しい。気がはやるのもわかるが、この先を考えれば、無駄な消耗は少しでも抑えておきたい。
「あ、うん」
言われて足をゆるめながら、汐音はぎゅっと長脇差の鞘を握り締める。
これから、この刀で土萌を斬るのか。それとも、水破の手にある拳銃が土萌を撃つのか。
「すー兄ちゃん──」
少し乱れた息の合間から洩れる言葉に気弱な響きが混ざる。
「どうにか、できないのかな? トモ先生を……助けて……。それに、理子ちゃんも、どうなっちゃったのか、わかんないけど……。どうにか、できないのかな……」
ためらいは消えない。迷いはなくならない。覚悟は決まらないまま。
「わからない」
重く呟く水破。
「でも、もしも、可能性があるとしたら、汐音、それは汐音にしかできない」
それは一縷の望みか。それとも、気休めの言葉か。
「妖を灼く汐音の雷なら、もしかしたら──」
「──うん」
迷いながら、それでも、今は前へ走る。
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