Ⅷ「Sciossorhands」
これは二年前の事。大事なものを失った彼女の話。
線香の匂いが染みついた部屋で、彼女は遺影を前に座り込む。もう涙も出ない。涸れてしまったのだろうか。
違う。決して涸れたりなどしない。今この瞬間は出なくとも、やがてまたあふれ出す。本当に涙が出なくなるとしたら、それはきっと、体中の水がすべてなくなってしまった時なのではないだろうか。
泣いて、泣いて、泣きすぎて干涸らびて死んでしまったら、亡くした人達の所へ行けるのだろうか。
写真の夫と娘は、今も生きていた頃と変わらない笑顔を見せるが、それは現実には決して取り戻せない。
夫は結婚した二ヶ月後に死んだ。交通事故だった。彼女の過去も今もすべて知った上で受け入れて愛してくれた優しい人だったが、蜜月はあまりにも短かった。
しかし、夫は彼女の中に新しい命を残していってくれた。それが彼女の支えとなった。
やがて生まれた夫の忘れ形見に彼女は一心に愛情を注いだ。女手一つで子供を育てていくのは決して楽な事ではなかったが、愛娘の成長が彼女の何よりの喜びだった。
ただ、その幸せも脆く危ういものだった。
彼女の娘は生まれつき体が弱かった。些細な事で体調を崩し、しばしば入退院を繰り返していた。精神的な負担も経済的な負担も苦しいものだったが、それでも、彼女は決して弱音を吐かなかった。娘を慈しみ育てる事が何よりも幸せだと思えたから、どんな苦労も乗り越えられた。
虐げられてきた彼女だからこそ、その苦しみを知り、慈しむ事を喜びとした。愛されなかった彼女だからこそ、その辛さを知り、愛する事を幸せと思った。
ささやかでも彼女にとっては大きな喜び。小さくとも彼女にとっては至上の幸せ。それが彼女の望みのすべて。たったそれだけのために、彼女はすべてを投げ打つ事もできた。──それなのに。
幸せは彼女の手をすり抜けて逃げていく。運命は彼女に唾を吐き、世界は彼女を見捨て、神は彼女を顧みず、悪魔は彼女を嘲笑う。
彼女の娘は五才で死んだ。
つまらない風邪をこじらせて肺炎になり、そのまま、呆気なく死んでしまった。
彼女はじっと自分の手を見つめた。
もしかしたら、この手は鋏でできているのかも知れない。だから、この手は何もつかめず、握り締めた幸せをバラバラに切り刻んでしまうのだ。
「……それでも」
枯れた喉から渇いてかすれた声が零れる。
「それでも、私は愛する事をやめない……! 愛されずに苦しむ子がいるのなら、私だけでも愛してあげる……」
愛されず、虐げられて苦しむ子供達。それは彼女自身の姿だ。
だから、救おう。救ってもらえなかった自分のみたいにはならないように。娘を愛するように、彼女自身が愛して欲しかったように、慈しみ、愛を注ごう。子供達を傷つけるものは決して許すまい。
今や、それだけが彼女のすべて。
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