Ⅱ「Gehenna」
その日も兄に殴られた。
理由は私が鈍くさいとかそんな事だったと思う。よく覚えていない。多分、口実は何でもいいのだと思う。
殴られて泣くと、泣き声がうるさいと、また殴られた。泣かずに我慢すると、かわいげがないと、また殴られた。
目に見える顔などは殴らない。服で隠れる肩や背中を殴る事が多い。だから、裸にむかれた私の体にはあちこちに消えない痣が染みついている。
上にのしかかって私を犯していた兄は行為を終えるとすぐに私の上からどいて、後はもう私に何の関心も向けない。私は手早く後始末をして服を身に着ける。何度も繰り返されてきた事なので慣れたものだし、あまりぐずぐずしているとまた兄が怒る。
しかし、欲望を満たした後の兄は比較的機嫌がいいので、あまり乱暴な事はしない。何か話すならこのタイミングがいい。普段だと私が話しかけただけで兄は怒る。
話さなくてならない。黙っていてもいずれわかってしまう事だ。先に延ばせば延ばすほど難しくなりそうな気がする。
どうせ言わなくてはならないのだ。なら、思い切って今言ってしまおう。
「お兄ちゃん」
先に先生に相談しようかとも思ったが、結局は話せなかった。こんな事を他の人にどう言っていいのかわからなかった。
私に呼ばれて振り向いた兄はそれほど機嫌も悪くなさそうだった。話そう。今、言ってしまおう。
「私、 してる」
うつむいて目を伏せながら言った。それを聞いた兄がどんな顔をするか見るのが怖かった。
「 がなくて、怖くなって、 で調べてみたら、 だった。私、お兄ちゃんの を してる」
言い終えるか終えないかの瞬間に殴られた。普段は殴らない頬を思い切り拳で殴られて、私は床に打ち倒された。
「ふざけんな!」
兄は怒号が飛ばし、倒れた私を蹴りつけた。所構わず目茶目茶に蹴りつけられて、私は必死に丸くなって体を庇いながら、悲鳴を洩らさぬようきつく歯を食いしばった。
「ちくしょう! ちくしょう! ふざけんな!」
口汚くわめき散らしながら兄は私を蹴りつけまくり、蹴り疲れてようやく足を止めると、乱暴に椅子に腰を下ろし、机に肘を突いて頭を抱えた。
「ちくしょう! どうすんだよ! ふざけんなってんだ!」
兄の声が震えて動揺しているのがわかった。無理もない。私が話した内容はとてもショックの大きな事だったのだから。
蹴られた腕や背中がひどく痛んだ。あまりにひどく蹴られたので、肋骨が折れたのではないかと心配になった。鼻血が詰まって息が苦しい。唇と口の中も切れて血の味が口いっぱいに広がるのが気持ち悪い。
私は、ほんの少しだけ期待していた。
もしかしたら、兄が私を心配してくれるのではないか、と。この事を話せば、兄も私にした事を後悔して、行いを改めてくれはしないだろうか、と。
でも、そんな事はなかった。馬鹿みたいだ。
「くそっ! どうすりゃいいんだ? 病院なんか行ったらバレちまう!」
嫌だ。もう、こんなの嫌だ。
「 させるったって、いくらかかんだよ? いや、金なんかより、バレる方がヤバい。バレずに済ませるなんて、どうやったって無理だろ? ちっくしょう!」
ああ、嫌だ。もう、嫌だ。
「どうすんだ? 腹でも蹴っ飛ばしゃいいのか?」
嫌だ。嫌だ。嫌だ。何もかも嫌だ。何でこんなになっちゃったの? 何がいけないの? 何で? どうして? どうして? どうしてなの? 私が悪いの? 私がいけないの? 私のせい? 違う。私のせいじゃない。私は何も悪い事なんてしてない。私は何も悪くない。私のせいじゃない。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!」
じゃあ、誰のせい? 誰がいけないの?
「くそっ! お前のせいだぞ! お前のせいだ! 勝手に なんかしやがって! この馬鹿が!」
違う。私のせいじゃない。私が悪いんじゃない。
「くそっ! お前、いっそ、死ねよ!」
「……お兄ちゃんこそ死んでよ」
私の手には一本の鋏。兄が暴れた弾みで机の上のペン立てごと床に落ちて散らばった中にあったものだ。
背中を向けたまま、私の方を見向きもしないでわめき続ける兄は気付きもしなかった。私は逆手に握った鋏を思い切り振り下ろした。
とても嫌な感触だったけど、鋏は兄の盆の窪にあっさりと突き刺さった。
気が付けば、私は血まみれの鋏を握り締めたまま床に座り込んでいた。目の前には椅子から滑り落ちた兄の体が転がっている。後頭部から大量の血を流した兄の体はぴくりともしない。死んでいた。
胸の中が空っぽになったような、とても不思議な感覚だった。
私の中でだけ時間がゆっくりと流れていくようで、何もかもが緩慢な生ぬるさにくるまれているようで、私はそんな感覚の中でぼんやりと何も考えられずにいた。
正確には何も考えられずにいたのではない。「これからどうなるのかな?」などと考えてはいたのだが、実際にはその言葉が頭を巡るだけで、内容は何一つ浮かばなかったので、やっぱり、何も考えられずにいるのと同じなのかも知れない。
不意に誰かが私にふれた。
誰が、いつの間に、こんなにも近くに来ていたのか、私は何も気付かなかった。
その手は背中から私を抱きしめた。
「──さん」
耳元で私の名を呼ぶ声。震える吐息。
「ごめんなさい。もっと早く助けてあげられなくて」
そっと包み込むように抱きしめる腕。悲しそうな声。ぴったりと背中に押し当てられる柔らかい胸の温かさ。優しい感じ。
「でも、もうおしまい。悲しい事も、苦しい事も、全部おしまい。これからは私があなたを守ってあげる。この世界のあなたを傷つけるすべてのものから、私が守ってあげる」
優しい声。温かい声。私の麻痺した心に染み込んでくる声。その優しさが、その温かさが、私の心を溶かしていく。
「──ん、せ」
私の口から言葉の欠片が零れる。頬が熱い。涙があふれる。
「大丈夫。私が一緒にいてあげる。ずっと、ずっと、離れずにいてあげる。誰にもあなたを傷つけさせないように守ってあげる」
甘い言葉に心がとろける。優しい抱擁に体が温まる。こんな安らぎは今まで誰も与えてくれなかった。
「あ、ああ、ああ……」
涙が止まらない。私は抱きしめてくれる優しいぬくもりに必死でしがみついた。
§
血の海。
床一面が真っ赤な血に塗られた様は、そう呼ぶより他はない。
自分の流した血の海に溺れる男が耳障りな悲鳴を洩らさないよう口をふさいだまま、私は男の腕を引きちぎった。
口をふさがれて絶叫する事のできない男は、眼球が飛び出すかというほど目を見開いて、激しく身をよじって暴れた。その無様で滑稽な姿を見下ろしても、私の胸には一片の同情も湧き上がる事はない。ただ、怒りと憎しみが更に激しく燃え盛るばかり。
私はこの男を絶対に許せない。
この男は絶対にしてはならない事をした。
この男は絶対にしなくてはならない事をしなかった。
だから、私はこの男を絶対に許せない。
一切の弁明を許さず、一切の容赦をしない。
今度は足を引きちぎった。ショックで即死していてもおかしくないのだが、まだびくびくともがき続けている。思った以上にしぶといようだ。だが、それでいい。少しでも長く苦しめばいいのだ。
もはや、正気を保っているかも定かではない男に向かって、私は侮蔑を吐き捨てた。
「子供を愛し守らない親なんて、クズほどの値打ちもない。この世で最低の害悪だわ」
この男の罪に償う術などない。与えられる許しなどない。
私は男の腹を裂いて、腸を引きずり出してやった。自分の臓物にまみれてのたうつ姿を見ていると、サディスティックな喜びが湧き上がってくる。いい気味だ。
──いけない。
余計な感情は挟むべきではない。
この男を殺す事が目的ではないのだ。これはただの手段。経過の一つ。助けたいと思う相手を助けるために取り除く障害。
怒りと憎しみに溺れる事は、とても甘い味がする。
しかし、私の望みは違う。怒りでも、憎しみでもなく、愛する事と、愛される事。
だから、速やかに、ストイックに、排除しよう。私はあの子の痛みを見て、気持ちが昂ぶっていたのだ。我を忘れてしまった事は少し後悔した。
──ただ、やはり、あの子の味わった痛みと苦しみのいくらかで思い知らせてやらなくては気が済まない。
「苦しんで、後悔と絶望に打ちひしがれて死んでいけ」
最後に、私は四肢を失い芋虫のようにのたうつ男の首をもぎ取った。
私は裁きの女神などではない。それでも、他にそうする者がいなければ、私が断罪する。そして、虐げられ苦しむ子供達を救い出すのだ。
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