Ⅰ「She's So Bouncing」
十三才という年齢はまだまだ成長途上だが、それでも、百二十八センチの身長は同年代の平均を遙かに下回る。おかげで小学生の頃から今に至るまで、身長順に整列した時には、先頭以外の位置にいた事が一度もない。中学生になった今も、当たり前のように小学生と間違えられ、中学の制服姿を奇異の目で見られる。あまりにも背が伸びないので、必死に牛乳やら小魚やらを補給しまくっているのだが、効果が出る気配は一向にない。
ヨーロッパ北方人種の母親の血を引いて、大きな目はヘイゼルグリーン、短めのポニーテールにまとめた髪は薄い亜麻色、きめの細かい白い肌に彫りの深い顔立ちの愛らしい少女なのだが、背が高くなる遺伝子は受け継げなかったのか、それとも、まだ発現していないのか。汐音本人としては、まだ希望を残していると思いたい。
そのため、手にした得物も汐音の体と比較すると大振りに見えてしまう。
右肩に担ぐようにして構えるのは、一尺九寸五分の長脇差。日本刀で長さが二尺を越える物が「刀」とされ、寛政期の法令によれば一尺五寸までの物が「脇差」、それ以上の長さの物は「長脇差」と呼ばれ、しばしば禁令の対象となった。
江戸時代には主に渡世人が用いて「長ドス」と呼ばれた長脇差だが、汐音の手にあるギリギリで刀にならない長脇差は銘を『
他に誰もいない道場で、胴着姿の汐音は真剣を構えて意識を集中する。
眼前に架空の相手をイメージし、慎重に機を窺い、そして、一閃。
大きく踏み込みながら振り下ろす一刀。
──取った。
確かな感触。イメージの相手を斬り伏せた会心の一撃。思わず安堵の息が零れた。
「──お見事」
拍手の音に汐音が振り返ると、道場の入り口に佇む青年の姿があった。
「すー兄ちゃん!」
ぱあっと汐音の顔に笑みが大きく花開いた。
抜き身を鞘に収めるのももどかしく、汐音はぺたぺたと道場の床に軽い足音を立てて駆け寄っていった。
「見てたの? どうだった?」
「うん。思い切りが良くて、汐音らしくていい感じだった」
青年の名は
二十才。背丈は平均的で体型はやや細身。顔立ちに派手さはないが、穏やかで安心感を与える雰囲気がある。瞳の色もどこか優しい。
「ホント? えへへー」
汐音は照れ臭そうに顔を赤くした。
「じゃあねー、ご褒美っ」
「何で!?」
「ええー。いいでしょー、ねー」
汐音がすねたように唇を尖らせる。自分の胸くらいまでしかない汐音が上目遣いで見上げてくる愛らしい姿に、水破は少したじろいだ。
「……いや」
「ね?」
「……まあ、いいけど」
甘いなぁ、と思いながら言った瞬間、汐音の目がきらりと光ったような気がした。
「やった!」
小躍りして汐音は水破に抱きついた。
「うわっ!」
「えへへー」
慌てて退いた水破を無理に引き留めず、腕を放した汐音は無邪気に笑ったが、水破にはどちらかというとその笑顔が小悪魔めいて見えた。
「じゃあね、はいっ!」
握った両手を胸の前に構えて、目を閉じた汐音が顎を突き出して見せる。
「それは……、何のつもりかな?」
「ご褒美のちゅー」
「……却下」
「ええーっ! 何でよぉ! いいでしょーっ!」
「子供がそんな事を言うもんじゃありません」
「もう子供じゃないもん。すー兄ちゃんの赤ちゃんだって産めるよ」
「また、そういう生々しい発言を……」
水破はくらくらする頭を押さえて溜め息を吐いた。
「自分で『子供じゃない』なんて言ってるうちは子供だよ」
「ふぅん? そういう事言うんだ。じゃあ、確かめてみる?」
鼻に掛かるような甘い声を出して、汐音は水破にぴったりとくっついて体を押しつけた。水破の腹の辺りに申し訳程度のふくらみの感触。
「そういうのも、もうちょっと育たないとね」
軽くいなし、ぽんと頭に手を乗せると、汗ばんだ亜麻色の髪がふわりと薫った。汗の臭いというよりは、もっとずっと甘くて清々しい汐音の香りに、少しだけどきりとした。
「むーっ」
「ほら、汗かいてるから早く着替えたら? 体を冷やすと風邪引くよ」
水破はくっつく汐音の肩に手を添えて体を離し、くるりと背中を向かせた。
「はーい」
水破が背を押して促すと、むくれた汐音も渋々と肩をすくめた。
「あっ! ねえねえ、すー兄ちゃん!」
「うん?」
行きかけた汐音が振り返って笑った。
「ご褒美の約束は有効だからね!」
満面の笑みに、水破は苦笑を洩らすしかなかった。
「あ、それとね」
また汐音が足を止めた。
「何?」
「あたしの着替え見たい?」
「……早く行きなさい」
水破は深々と溜め息を吐いた。
汐音に遅れて道場を出た水破は足を止めて庭を見渡す。
九月の夕方の涼しい風は、昼の間に籠もった熱気を洗い流すようで心地好い。
鳴神家の敷地は、木造平屋の母屋と渡り廊下でつながった離れ、今まで汐音が剣を振るっていた道場の他、土蔵や広い庭を備えた広い空間で、明治時代に建てられた家屋は風雪に耐えてきた歴史を感じさせるが、過ぎ去った時間の長さに比べれば傷みは少ない。
丁寧に掃き清められた庭をゆっくりと歩き、汐音を追って母屋へ向かう。小走りに駆けていった汐音がとっくに姿を消した先の母屋へ上がると、水破を出迎えたのは落ち着いた柔らかい声だった。
「水破くん、お茶を淹れるから、座って待ってて」
居間に続く台所から顔を覗かせたのは、汐音の母、鳴神エマ。長身で、娘と背丈は四十センチ近く差があるが、同じヘイゼルグリーンの瞳と亜麻色の長い髪、三十七才になる今でも溌剌とした若々しさを感じさせる美しい女性だ。一目で汐音の愛らしさが母譲りである事がよくわかる。
「ありがとうございます。汐音は?」
「着替えるついでにお風呂ですって」
エマが水破の目の前のちゃぶ台に湯呑みをそっと置いた。そんな些細な所作も優雅で品がある。
「夕飯の前に宿題を見てやろうと思ってたんですけどね」
「水破くんと一緒なのに汗臭いのが嫌なのよ。お年頃だもの」
からかうようなエマの言葉に、水破は照れ隠しに湯気を立てる焙じ茶を一口啜った。
「それで、水破くんはどう?」
「どう、って、何がですか?」
「もちろん、ウチの娘の事よ。ちゅーくらいはしたの?」
思い切り吹いた。
「何を言ってるんですか!」
「だって、汐音ったら、水破くん大好きっぷりをあんなにあからさまにアピールしまくってるじゃない。つい、ふらふらっと一線を越えちゃったりしないのかしら、って思って」
「汐音はまだ十三ですよ」
「あら、いいじゃない。年の差なんて。私と旦那だって七才違いだから、ちょうど水破くんと汐音と一緒よ」
「この場合、相対的な差じゃなくて、絶対的な数値が問題だと思うんですが」
「十三にもなれば一人前の女! シェイクスピアは読んだ? 『ロミオとジュリエット』。ジュリエットだって十三才で命懸けの恋をしたわ。一人前に、一生懸命に恋をするのよ。まあ、正確にはジュリエットは十三才って言っても、十四才直前くらいだったんだけど、大して違いはないわよね。日本だって、戦国時代の頃だったら、十二とか十三とかでお嫁に行ってたんでしょ? 大丈夫、問題ないわよ」
何やら含蓄ありげにエマは微笑んで言った。
「そんな、四百年以上昔の話を引き合いに出されても困るんですが。現代だとそれはかなりアウトっぽいんじゃないでしょうか?」
鳴神家は両親と娘一人の三人家族だが、父親の玄冬は仕事で世界中を飛び回っていて、家を空ける事が多い。そのため、男手は居候の水破一人という状況はいつもの事なのだが、女性陣二人が母娘揃って茶目っ気たっぷりでエネルギッシュなものだから、生真面目でお人好しで押しの弱い水破はいいように振り回されてばかりだ。
「いいじゃないの。汐音をお嫁にもらってよ。あ、でも、汐音は一人娘で、水破くんは次男だから、水破くんにお婿に来てもらった方がいいかしらね? もしかして、それが嫌?」
「いえ、そういう問題では……」
「それとも、何? まさか、ウチの汐音が気に入らないとでも言うの? 親のひいき目でなくっても、あんな可愛い子はそんなにいるものじゃないわよ」
「それは、まあ、僕だって汐音は可愛いと思いますけど……」
確かに汐音は愛らしい。十人並みどころではなく綺麗な顔立ちをしているし、明るくて元気が良くて、真っ直ぐな女の子だ。
しかし、二十才の男が十三才の女の子をどうこうというのは、さすがに道徳的に問題があるような気がする。
「だったらいいじゃない。私は水破くんにだったら、汐音を任せても安心かなって思ってるんだけど。汐音じゃ嫌?」
「嫌、って、そんなんじゃないですけど……」
「嫌いじゃないでしょ?」
「まあ……、それは」
自分を慕ってくれるかわいらしい女の子を嫌うのは難しい。水破とて悪い気がする訳でもない。
「汐音っ! 水破くんが汐音の事が好きだって!」
エマの不意打ちに水破は再び吹いた。だからと言って、勝手にそういう両極端な結論を声高に叫ばれても困る。
「ホントっ!?」
エマの声を聞きつけた汐音が大急ぎで駆け込んできた。
洗い髪にタオルをかぶったままで水破の背中にぎゅっとしがみつく。
「もう! やっぱり、すー兄ちゃんもあたしの事が好きなんじゃない!」
「言ってない、言ってないから!」
もがく水破に頬を上気させた汐音が絡みつく。シャンプーの香りがする濡れた髪に思わずどぎまぎした瞬間、目が合ったエマがにんまりと生温かい笑みを見せた。
「あらあら、お邪魔かしらね~」
「うん。気を利かせてね、ママ♪」
ほほほ、とわざとらしく笑いながら立ち上がってその場を離れようとするエマに、汐音は満面の笑みを浮かべてVサインを見せた。
「ああ、もう! 親子揃って人をオモチャにしないっ! 汐音はちゃんと髪を乾かしてきなさい!」
女二人を相手に一人負け戦の水破が虚しく吼えた。
§
夜更け。
コツコツと軽いノックの音を汐音の小さな拳が響かせた。
「すー兄ちゃん、入っていい?」
「汐音? ああ、いいよ」
「お邪魔しまあっす」
ノックに答える声を聞いて、汐音はいそいそと水破の部屋に入り込むと後ろ手にドアを閉めた。
水破の部屋は離れの洋室だ。比較的最近になってから改装された部屋なので、状態はかなり良い方に入る。水破が鳴神家に居候をするようになったのが今年の春からだが、その間に部屋が住人の色に染まったというのなら、水破の色は随分と大人しいものなのだろう。
家具は最低限の衣装ケースに机と椅子、中身のぎっしり詰まった本棚だけが異彩を放つが、壁にポスターの一枚もなく、いつ見てもきちんと整頓されており、飾り気のない物静かで几帳面な性格が伺えるようだ。
「宿題?」
机に向かってノートパソコンを開いていた水破は、汐音が胸に抱えた教科書やノートの束に目を向けた。
「うん。全然わかんなくて」
しょんぼりして汐音はうなだれた。
「見てあげるよ。それじゃあ、そっちに座って」
水破はノートパソコンを閉じると、椅子から腰を上げ、床に置かれたリビングテーブルへ場所を移した。汐音が座るクッションを隣に置いて、テーブルの上から積んであったハードカバーの本をどかす。ちなみに、本の表紙には文化人類学云々といったタイトルが書かれており、本棚にも似たような類の本がずらりと並んでいた。
「ありがと。でも、いいの? 何かしてたんじゃないの?」
汐音は水破の横にちょこんと腰を下ろしながら、今し方まで水破がいじっていた机の上のノートパソコンにちらりと目を向けた。
「いいよ。ちょっと調べ物をしてただけだから」
「大学の課題?」
「いや。
と、自分の弟の名前を口にした途端、汐音の顔つきに見る見る不機嫌さがあふれ、水破はばつの悪いものを感じた。
「……あたし、アイツ嫌い。あんなのがすー兄ちゃんと双子なんて信じらんない」
双子とはいえ、水破と兵破の兄弟では性格や趣向がかなり異なる。どうやら、汐音と兵破は非常に相性が悪いらしく、兄の水破にはべったりの汐音だが、弟の兵破は蛇蝎のごとく嫌っている。
「まあ、兵破も別に根は悪い奴じゃないんだけど、ただ、人とのコミュニケーションの取り方が少し、ね」
「少しなんてもんじゃないってば。アイツは悪意の塊よ!」
むくれる汐音の隣で苦笑を洩らしながら、水破は一応フォローらしきものを口にするが、まったく効果はなさそうだった。
「──でも、」
そっぽを向いたままの汐音の声が不安そうに曇った。
「兵破が何か言ってきた、って事は、何か危ない事なの?」
「まだ、わからない。もしかしたら、そういう可能性があるかも知れない、っていう程度。兵破の勘レベルの話だよ」
「……アイツ、人としてはどうしようもなくアレだけど、そういう勘だけは働くじゃない」
そっぽを向いているせいでよく見えないが、汐音がきゅっと唇を噛むような気配を感じた。
「そんなに心配しなくていいよ」
水破はそっと汐音の肩に手を乗せた。その感触に汐音が振り返る。
「汐音に危ない真似をさせなきゃならないような事になるかはわからないんだから。全然、そんなのとは関係ないかも知れないし、それに、もし、何かあったとしても、汐音を一人で危ない目に遭わせたりしないから」
振り返った汐音の視線を受けて、水破はにこりと微笑む。
「汐音には僕がついてる。そのために、僕がここにいるんだから」
「──うんっ!」
汐音は少し逡巡してから、ぎゅっと水破に抱きついて力一杯頷いた。
「すー兄ちゃん、それって殺し文句だよ」
照れ臭そうに頬を染めた汐音が上目遣いで水破を見つめた。
「嬉しいっ♪ ずっと一緒にいて離さないでね」
「いや、そういう意味じゃ……」
水破の言葉も聞かずに汐音はしがみつく腕に力を込めてぴったりとくっつく体を押しつけた。
「……宿題やるんだろ?」
ぎくりとした汐音の体が強張った。
「すー兄ちゃんとラブラブする方が大事……って、ダメ?」
「宿題をやらなかった汐音が明日学校で叱られても僕のせいじゃないよね」
「……意地悪」
汐音はしぶしぶ身を離し、持参した教科書とノートに目を落とした。
「それと、やり方のヒントは教えてあげるけど、答えは教えてあげないからね。それじゃあ汐音の勉強にならないからね」
「……やっぱり、意地悪ぅ」
浮かれ気分に水を浴びせられたような汐音は、がっくりと肩を落とした。
§
小一時間もかけて唸りながら苦戦していた汐音がどうにか宿題に目処をつけて、ふらふらしながら部屋を出ていった後、水破は再びノートパソコンを開いた。
そこには兵破から送られてきた、つい最近起きた二件の児童失踪事件に関する様々な資料が集められていた。いずれも行方不明になった子供は発見されておらず、未解決のままだ。
現時点では自分達が関わるべき事柄かどうかを決定づける情報はないが、兵破からは目を通しておくようにと伝えられていた。
汐音の言う通り、兵破の勘は鋭い。
否、実際には勘などではなく、兵破にとっては情報のわずかな断片から導き出した根拠のあるものなのだろう。ただ、兵破が情報の大海の中から砂粒のような欠片をたやすく掬い上げるその根拠は他人には計り知れず、勘とでもしか言い様がないのだ。
そして、兵破がつかみ取る情報は、非常に高確率で正しい。
間違っていてくれたら、と願う事も多い。なぜならば、兵破がもたらす情報が正しいという事は、すなわち、それが自分達が関わるべき特殊な事柄であり、汐音の身を危険にさらす事だからだ。
甘えだとは思う。
未熟な汐音を一人前に鍛え上げるには、実戦の場数を踏ませなくてはならない。水破が汐音の傍にいるのも、そのサポートのためだ。それでいて、まだ幼い汐音を荒事からは遠ざけたいと思う矛盾。
「僕は、汐音を守ってあげられるんだろうか……?」
水破も自身の未熟さは承知している。とても一人前だなどとは言えない。そのくせに、他の誰かを支えてやる事などできるのだろうか。
一人、水破は小さく不安を呟いた。
§
翌日。
「汐音ちゃん、おはよう。……えっと、大丈夫?」
「おはよう、めりあ。何とか」
ぐったりと机に突っ伏していた汐音はのろのろと顔を上げた。
隣の席に着いて心配そうに汐音の顔を覗き込むのは、クラスメイトの
少し色の薄いふわふわした髪は汐音と違って血が混ざっている訳ではなく、生まれつき色素が薄いせいで、肌の色も抜けるように白い。ややふっくらした体つきとおどおどした控えめな態度に何だか心穏やかにさせられる、ふわふわふにふにの可愛い小動物的な癒し系。
「あれ? めりあ、長袖?」
「うん。今日、ちょっと涼しいから」
半袖の夏服の生徒達の中では目立つめりあの長袖に目を向けながら、汐音は、ふわぁ、と大きな欠伸を洩らした。
「何か、眠そうだね」
「眠いよぉ。英語の宿題が終わんなくて、あんまり寝てないんだもん」
汐音はお世辞にも勉強ができる方ではない。はっきり言うと、順位は下から数えた方が圧倒的に早い。中でも最も苦手なのが英語だ。
「英語の授業なんて、この世からなくなっちゃえばいいのに……」
宿題は水破におおよその面倒は見てもらったが、仕上げは自分でやりなさい、と言い渡されて、自分の部屋で仕上げに取りかかったのだが、一人で考え直すと頭がこんがらがってしまい、結局、どうにか形になったのは深夜になってからだった。
「まあ、英語ができないハーフっていうのもキャラが立ってるのかも知れないし」
「……そんなキャラ要らない」
めりあのフォローになっていないフォローに言い返す声も力ない。
英語圏出身の母親を持ちながらも、「どちらの言葉も中途半端にならないように」との両親の方針で、日本語だけで育てられてきた。おかげで汐音は英語はさっぱりわからない。
「ママもすー兄ちゃんもヒントだけで答えは教えてくれないし」
「それは、ほら、自分でやらないと身にならない、って言うか、そういうのを考えてくれてるからじゃないかな」
「だって、わかんないんだもーん」
むくれる汐音の隣でめりあは困り顔で曖昧な苦笑を零した。
「めりあ、宿題見せてー。答え合わせさせてー。そして、正解を写させてー」
「し、汐音ちゃん……。もう、しょうがないなぁ……」
すがりついてくる汐音の勢いに呑まれながらも、めりあは仕方なく鞄から宿題のプリントを取り出した。
「ありがと、めりあっ♪」
丁寧な字で漏れなく答えが書き込まれたプリントを見ながら、汐音は嬉々として自分のプリントに消しゴムをかけて答えを書き写し始めた。
「汐音ちゃん……、最初から全部丸写しする気満々なんだね……。見比べもしないで自分の答え全部消してるし……」
「まあまあ。めりあが体育のテストで困ったら、あたしが代わってあげるから」
「……それ、絶対に無理」
めりあは呆れてがっくり肩を落とした。
「しょうがないなぁ。よし! じゃあ、おっぱいもんであげるから」
「ひゃあ!? 汐音ちゃん!」
汐音は言うが早いか、いきなりめりあの胸をつかんだ。
「あー、いいなぁ、めりあのおっぱいは。半分でいいから分けて欲しいよ」
「や、ちょっと、汐音ちゃん、そういうのセクハラだよぉ。やぁ、だめ……」
めりあは真っ赤になって抵抗するが、神妙な顔をしてうらやましがる汐音は胸をまさぐるのをやめようとしなかった。
「いいなー。おっきいなー。やーらかいなー。たゆんたゆんだなー。どたぷーんだなー。ずるいぞー。ふこーへーだぞー。わけろー。よこせー」
「だめ、だってばぁ……」
羞恥に打ち震えるめりあが目を潤ませて湿った息を吐いた。
「んだよ、朝っぱらからチビとデブがレズってんじゃねーよ。うぜーな」
ちっ、と舌打ちとともに浴びせられた言葉に、汐音はきっと鋭く睨みつける視線を向けた。
声の主は
「ったく、勘弁しろよな」
苛立たしげな一瞥をくれて通り過ぎようとした紀一を、汐音はそのまま行かせはしなかった。
「やっかましいっ!」
汐音が跳んだ。
小さな体が宙を舞い、高さも角度も勢いも申し分ない見事なフライングレッグラリアートが紀一の首筋に叩き込まれた。
クリーンヒットして派手に吹き飛んでいく紀一と、そのまま落下する汐音。
「う……、また、威力を上げやがって……」
がっくりと項垂れてダウンする紀一。
「ふん。楽勝っ!」
「し、汐音ちゃん!」
起き上がって制服の埃を払う汐音に、めりあが慌てて駆け寄った。
「大丈夫。手加減してやったから、怪我させるようなヘマはしないわよ。まあ、もう少し痛い目を見せてやってもいいんだけど」
「そうじゃなくて! ううん、それもだけど、汐音ちゃん、血、出てる!」
おろおろするめりあに指差されて、汐音は自分の膝から血がにじんでいるのに気が付いた。
「あ、落ちた時に擦っちゃった。平気、平気」
「平気じゃないよ! 保健室行かなきゃ! バイ菌とか入ったら大変だもん!」
涙目でぐいぐい腕を引っ張るめりあの剣幕に負けて、汐音は仕方なく引きずられていった。どちらかと言うと、グロッキーになっている紀一の方を連れて行った方がいいのでは、とも思ったが、いつも何かと汐音やめりあに突っ掛かってはKOされている紀一は頑丈だし喰らいなれているから平気だろうと、薄情に打ち捨てておく事にした。
「あ、そういう訳だから、あたしとめりあ、保健室。お願い、先生に言っといて」
近くのクラスメイトにそう一声掛けると、汐音はめりあにされるがまま教室の外へ連れ出されていった。
§
保健室の主である養護教諭の
真っ直ぐで艶やかな長い黒髪は純和風だが、青い目と彫りの深い顔立ちという東洋人らしからぬ特徴が示すようにゲルマン系の血を引く美人だ。その上、生徒の事を親身になって心配してくれて、体や心の悩みにも真剣に相談に乗ってくれる。綺麗で優しい保健室の先生は、男女を問わず、生徒達の憧れの的になっていた。
「元気なのはいいんだけど、ほどほどにね」
土萌は汐音の膝に絆創膏を貼り付けて言った。
「こんなのなめときゃ治るようなかすり傷だよ。めりあが大袈裟なんだもん」
「まあ、確かにこんなのはなめときゃ治るようなかすり傷よね」
「先生まで、もう!」
めりあが頬を膨らませる。
「冗談よ。でも、本当に大した事ないから心配要らないわ」
土萌はくすくすと笑った。その優しい笑顔が場を和ませる。
「鳴神さんはすっかり保健室の常連ね」
元気の良すぎるお転婆ぶりのせいで細かい擦り傷が絶えない汐音は、土萌の言う通りめりあに保健室へ連れて行かれる事がしばしばだ。
「西田のバカが突っ掛かってくるのが悪いのよ。アイツはいっぺんとことんまでギタギタにしてやった方がいいのかな」
「も、もう、汐音ちゃん、またそんな物騒な事を……」
「ふふ。喧嘩するくらい元気なのはいいけど、怪我はしたりさせたりしないでね」
「うーん。はぁい」
汐音は、仕方ない、といった風情で返事をした。
「西田くんとは仲がいいの?」
「冗談でしょ!?」
汐音は声を高くして、心底嫌そうな顔をした。
「あいつは、もう、ホンっトに、昔っから! 何かっていうとあたしに突っ掛かってきて! ああ、思い出しても腹が立つっ!」
汐音と紀一は小学校から一緒だったが、その当時から何かと汐音を槍玉に挙げる紀一と、それに実力で反撃する汐音の構図は続いていた。
「西田くん、実は汐音ちゃんの事が好きなんだったりして」
「ヤだ! 冗談でも、ヤだっ!」
冗談めかしためりあの言葉を、汐音は力一杯に拒絶した。
「そんなガキ臭い愛情表現なんて願い下げ。それに、そんな理由だったとしても、小学校の頃から『チビ』だの『ガイジン』だのって散々あたしを傷つけてきた悪行を許す気はさらさらないっ!」
ぐっと拳を握り締める汐音を前にして、めりあはやや引き気味に苦笑を洩らし、土萌は穏やかな笑みで見守るように見つめていたが、その瞳には微かに悲しげな暗い色が沈んでいた。
「はいはい。ほら、もう授業は始まってるわよ。教室に戻りなさい」
「あ、はい。トモ先生、ありがとうございました」
「はぁい。じゃあね、トモ先生」
ぺこりと頭を下げて汐音とめりあが椅子から立った。
「あ、ちょっと待って」
と、土萌が引き留めるように腕を伸ばした。ただし、上げた左腕は真っ直ぐに伸びきらない。昔、大きな事故で負った怪我の後遺症で左の肘に不自由が残ってしまったという話だ。そして、同じ時に肘だけでなく、足も元のようには動かなくなってしまい、土萌の机には手放す事のできないアルミ製の杖が立て掛けてある。
「久我さんはもうちょっと残ってて。少し話があるから。鳴神さんは先に授業に戻っていていいわ」
「あ、だったら、あたしも」
「サボリは駄目よ。早く授業に行きなさい」
「う……、小川先生の英語、ヤなのに……。はぁい……」
内心を見透かされたようで、汐音は肩をすくめた。
「ごめんね、汐音ちゃん。トモ先生のお話が終わったらすぐ行くから、先に教室に戻ってて」
「それじゃあ、鳴神さん、小川先生に言っておいて。よろしくね」
「はぁい。めりあ、早く帰ってきてね。そんで、あたしが当てられたら答え教えてね」
「もう、汐音ちゃんてば」
普段の元気の良さはどこへやら、勉強の事となると実に心細そうな汐音の様子が微笑ましくて、めりあは何だか温かい気持ちになった。
§
土萌と二人きりで保健室に取り残されためりあは、何となく少し緊張して背筋を伸ばした。
「久我さん、そんなに緊張しないで。別にお説教する訳じゃないんだから」
「あ、は、はい!」
めりあは硬くなっていたのがみっともなく思えて縮こまり、そんな様子に土萌は優しく口元をゆるめた。
「あの、それで、お話って?」
「うん。あのね、鳴神さんの事を少し聞きたいの」
「汐音ちゃんの事、ですか?」
ええ、と頷きながら、土萌は優しく穏やかでいながらも、真剣な色を瞳にたたえた。
「鳴神さんはクラスのみんなとは仲良くやっているの?」
土萌の声が心配そうに響いた。
「女の子なのに喧嘩したりして怪我も多いし、からかわれたり、ちょっかいを出されたりして、そういうのが多いようだと心配なの」
小さく溜め息を洩らす土萌の瞳は真剣だ。悲しそうで、本気で汐音を心配しているのが傍目にもよくわかる。
「あ、大丈夫ですよ、汐音ちゃんなら。明るくて元気な子だから人気者ですし。それは、西田くんとか、男子がちょっとからかったりするのはありますけど、汐音ちゃんの方が男子をやっつけちゃうから、何て言うか、カラっとしてて、そんないじめられてるとかそんなのは全然ないです」
「そう? ならいいのだけど」
めりあの言葉に土萌はほっとしたように表情を和らげた。
「鳴神さんは見た目も他の人と違うでしょ? そういうのって、何かと的にされやすいから」
「ハーフだから、ですか?」
「ええ。私も自分で体験している事だから」
そう言って、土萌は視線を落とした。青い瞳に悲しそうな色がにじむ。
「小学校の頃から随分といじめられたわ。やっぱり、『ガイジン』って言われて。それに、わたし、暗くて気の小さい子だったから、余計にね。辛かったわ、本当に」
ささやくように言いながら、土萌はきゅっと握った左手をもう一方の手で包み込む。自分で自分を包み込んで慰めるように。それから、土萌の細い腕には違和感のある大きくてごつい男物の腕時計がはまった手首の辺りまでゆっくりとなでる。そんな何気ない仕種がやけに物悲しくて、めりあの胸をぐっと締めつけた。
「久我さん、右腕、見せてもらえる?」
「え……?」
土萌の手がめりあの腕を取って袖をまくる。
「庇っているように見えたから。どうしたの?」
めりあの手首には青黒い痣がくっきりと浮かんでいた。
「あの、昨日、お風呂で転んじゃって。それで、ここの所を湯船の縁に思い切りガーンてぶつけて」
「本当?」
「あ、はい! その、叩かれたりとか、そういうんじゃ全然ないですから! ひゃうっ!」
あたふたと空いている左手を振り回すめりあは、勢いよく振りすぎた手を自分の顎に直撃させた。
「はうう……」
「……大丈夫?」
土萌は思わず小さく吹き出した。
「はぁいぃ……」
めりあは涙目で顎をさすりながら頷いた。
「さあ、顎を上げて、見せてみて」
「はいぃ……」
土萌の細い指がめりあの顎を優しくなぞり、ぶつけた箇所の様子を確かめる。
「こっちは大丈夫ね。でも、久我さんはあわてんぼうなのね。もう、お風呂で転んだりしないように気をつけないと」
「うう……、すみません、私、ドジで……」
めりあは恥ずかしそうにしょぼんと頭を下げた。
「ううん。変な事を言って驚かせてしまったわね。ごめんなさい」
そう言って、土萌はめりあの右手首に目を向けた。
「右手の痣はどう? 痛むの?」
「いえ、もう普通にしてれば痛くないです」
「腫れもほとんどないわね。痛みがないのなら大丈夫だろうけど、湿布はしておくわね」
手際よく丁寧に手当をする土萌の所作を見ながら、めりあは、何だか格好いいなぁ、と思った。
「ごめんなさいね。少し神経質になっていたの。最近、多いでしょ、ニュースとかでも」
手当を終えた土萌がぽつりと呟いた。
「……いじめで、自殺とか……、そういうの、多いですよね……」
「……ええ」
言いづらそうに口にしためりあの言葉に土萌は頷いた。
「悲しいニュースが多すぎるわ。自分で命を絶ってしまう子とか、親に殺されてしまうとか、そんな事はあっちゃいけないの」
土萌の唇が震えた。
「子供はね、愛されないといけないの」
絞り出すような土萌の言葉。
「辛い事や苦しい事から守ってあげないといけないの。周りの大人が、親や教師が手を差し伸べて、救い出して、抱きしめてあげないといけないの。誰にも頼れなくて、たった一人で苦しんで、苦しんで、どうしようもないくらい傷ついてしまうなんて、そんなのはいけないの。それがどんなに辛い事か、どんなに悲しい事か……」
「トモ先生……」
涙声にかすれた言葉の続きを、めりあは聞くまでもなく悟った。
「……だから、先生は先生になったんですか?」
「ええ、そうよ」
土萌は零れた涙を指で拭った。
「私は子供の頃、誰にも助けてもらえなかった。いつも一人で泣いていたわ。本当に辛くて、苦しくて、何度も、逃げ出してしまえたら、いっそ、死んでしまったら、なんて思った事もあったわ。でもね、そんな私を助けてくれた人がいたの。その人は、中学校の時の保健室の先生で、本当によくしてくれて、私がどんなに弱音を吐いていじけても、見捨てないで守ってくれた。その先生がいなければ、今の私はこうしてはいなかったでしょうね。だから、私もその先生みたいになりたいと思ったの」
「素敵な、先生だったんですね……」
「ええ。本当に感謝してもしきれないくらいの大恩人なの。もう、何年も前に亡くなってしまったけれど、私が先生と同じ仕事に就くって決めた時は、すごく喜んでくれたわ。先生が私にしてくれたみたいに、私も辛い思いをしている子供達を助けたい、って──」
少しうつむいた土萌がきゅっと握った手に雫が落ちた。
「本当に、辛い思いをしたから。苦しい思いをしたから。だから、そんな思いは誰にもさせたくないの。愛されずに傷ついてる子供達がいたら、私が抱きしめて愛してあげるわ。私がそうしてもらえなかった分まで。
たくさんの子供達が、どうしようもないくらい傷ついて、苦しんで、取り返しのつかない事になってしまう。そんな時に、私が傍にいてあげられたら、助けてあげられたかも、守ってあげられたかも知れない。そんな風に思うのは傲慢かな。私だって、そんな大した事ができる訳でもないのにね」
土萌は泣いていた。
知らないどこかで、会った事もない子供達が傷つき苦しんでいる事を思い、胸を痛めて泣いていた。それはテレビや新聞で報じられるどこか遠くのニュースばかりではない。隣の市の中学校で生徒が屋上から飛び降りたという事件があったのは、ほんの二ヶ月前の事だ。
「トモ先生……」
見ているめりあの目にまでじわりと涙がにじんできた。
「トモ先生は、すごいです。そんな風に思えるなんて、すごいです。私、何か、感動しちゃいます」
「そんな立派なものじゃないわ。自己満足なのよ、きっと。かわいそうだった子供の頃の自分を哀れんで、同じような境遇の子を助けてあげる事で、自分を慰めたいだけなんだわ」
「先生っ!」
自虐的に呟く土萌に、めりあは食いつくように高く声を上げた。
「そんな事っ、言わないで下さい。トモ先生はやっぱりすごい人です。だって、ニュースとかだと、学校の先生なのに、生徒がいじめられてても知らんぷりで、それで、自殺とかしちゃっても、ごまかしたり、いじめを隠そうとか、そんなのばっかり。お父さんや、お母さんが、自分の子供を殺しちゃったり、そんなひどい話ばっかり。でも、トモ先生は本気で心配してくれて、一生懸命考えてくれて、そんな風に泣いてくれて。そんな人、他にいません。先生、先生、先生っ!」
まくし立てるめりあは最後の方ではわあわあ泣いていた。
「もう。久我さんの方が泣いてどうするの」
めりあは自分でハンカチを出そうとしたが、震える指がうまく動かず落としてしまい、土萌がティッシュを取って涙と洟を拭いてやった。
興味をかき立てるためにショッキングな部分ばかりを取り上げる報道が伝えるものがすべてではない。実際には周囲の心ある手に救われる者もいるだろう。また、更に悲惨な状況に身を置き苦しんでいる者もいるだろう。それらのすべてを知る事はできないが、ただ、はっきりと確かな事は、土萌が胸を痛めて本物の涙を流している事。
「駄目ね、私。生徒の前で泣いたりして。励まされちゃったわね。ありがとう、久我さん」
「……いえ」
目と鼻を赤くしためりあに土萌はにっこり笑いかけた。
「久我さん、教室に戻る前に顔を洗った方がいいわよ。そんな泣き顔のままじゃ、私がどんなひどい事をして泣かせたのか、って思われちゃうわ」
「トモ先生はそんな事しませんよぉ」
大袈裟に肩をすくめる土萌につられて、めりあは鼻声のまま笑みを洩らした。
「そう、笑って。久我さん、せっかく可愛いんだから、笑っていなさい」
「先生、もう、おだてないで下さい」
「うん? おだててなんかいないわよ。久我さん、モテるでしょ?」
「全然そんな事ないですよぉ。私、太ってるし」
「何言ってるの。久我さんくらいのふっくら気味だったら、全然オッケーよ。だいたい、今くらいの年頃は、女らしい体になるための女性ホルモン分泌が多くなって細胞の数が増えるから、放っておいたって太りやすいのよ。思春期の後半になれば自然に体脂肪の増加が止まるから、今の時期に食べ過ぎて激太りとかしなければ平気よ。それとね、いい事を教えてあげる」
養護教諭らしく身体の成長について一節講じてから、土萌は内緒話のようにめりあの耳元に口を寄せた。この場には二人きりなのでそんな必要はないのだが、めりあも何となく土萌に合わせて顔を寄せた。
「男っていうのはね、痩せてるよりふっくらしてる方が好きなの。一生懸命痩せたって、ほめてくれるのは同じ女同士だけなんだから」
「え、そうなんですか?」
「そうよ。生物の本能として、痩せっぽっちよりも、元気な赤ちゃんが生めそうな安産型の方を選んじゃうの。だから、男ってのはおっぱいもお尻もおっきい方が好きなのよ。まあ、もちろん、限度はあるけれど。久我さんくらいの体つきだと、結構たまんない感じだと思うわ。十三才にしては、びっくりするくらいエッチな体してるわよね」
「せ、先生!」
土萌のセクハラ的発言に、めりあは両腕で自分の体を庇うように抱いて顔を真っ赤に染めた。そんな様子を見てくすくす笑う土萌につられて、めりあの口元にも笑みが零れた。
「そうよ。笑いなさい。子供は元気に笑ってるのが一番よ」
「はい」
素直に頷くめりあと向き合う姿勢から、土萌は自然に椅子を回して机に向かい、視線を机の上の写真立てに移した。
「元気に笑っていてくれたら、元気に笑えるようにしてあげられたら、それが一番で、それだけでいいのよ」
少し寂しそうな土萌は目を向ける先には、土萌に抱かれて笑う五才くらいの女の子の写真があった。写真の中の少女、平坂萌美──土萌の愛娘は、屈託のない幸せそうな笑みを満面に浮かべていた。
§
保健室を辞しためりあは授業中の教室へ早く戻ろうと、やや足早に廊下を進んでいった。少しくらい遅れても、という考えがちらりと頭をよぎっても、それを行動には移さないのがめりあの真面目な所だ。
「あっ」
行く手から人が歩いてくる気配を感じ、めりあは早足を何だか恥ずかしく思って歩調をゆるめた。
少しうつむいてすれ違った相手をちらりと振り返って見た。
隣のクラスの生徒で、名前は
「理子ちゃん」
名前を呼ぶめりあの小さな声が耳に入らなかったのか、理子はそのまま振り返らずに行ってしまった。
めりあは理子の思い詰めたような痛々しい面持ちが気に掛かり、後ろ髪を引かれるような思いが胸をちくりと突いた。
歩みを鈍らせて、遠ざかる理子の後ろ姿が消えるのを見送って、めりあは不意にハンカチを保健室に忘れてきた事に気が付いた。
「どうしよう……」
取りに戻るかどうか迷った末、めりあは踵を返して保健室の方へ引き返した。
ちょうどいい口実ができたので乗ってしまった。理子の行き先も保健室のように思えて、何だか無性に気になっていた。下世話な好奇心と恥ずかしく思いながらも、胸の奥がむずむずするような感覚に突き動かされ、向かう先を変える事はできなかった。
後ろめたさに足音を潜め、既に姿の見えない理子の後を追って保健室の前までたどり着いためりあは、そっとドアに近付いて、洩れ聞こえる音に足を止めた。
嗚咽。
保健室の中からは泣きじゃくる声が聞こえる。めりあもさっきまで同じ場所で泣いていたのかと思うと、何とも言いようのない奇妙な感覚だった。
少しだけ開いていたドアの隙間をもう少しだけ広げて中の様子をそっとうかがっためりあは静かに息を殺し、音を立てないようにドアの隙間を閉じて身を離した。
泣き崩れる理子を優しく抱きしめて慰める土萌。
覗き見るようなものではなかった。めりあは自分の軽挙を恥じたが、胸の中には温かいものが広がっていった。
こうやって土萌はたくさんの思いを受け止めては、優しく包み込んでくれるのだ。だから、誰もが土萌を信じ、土萌に憧れ、土萌に頼り、土萌に胸の内をさらして、救いと慰めを求める。それは弱い自分の甘えかも知れない。しかし、土萌はそんな弱さを抱き止めて甘えさせてくれる。だから、土萌になら、弱さを、悩みを、傷も痛みも苦しみも打ち明けて、その胸の中に倒れ込んでいける。土萌なら、必ず受け止めて支えてくれるはずだから。
誰にも打ち明けられない悩みや秘密くらいあるだろう。めりあにも真剣な悩みがある。誰にも打ち明けられず、一番の友達の汐音にも話せずにいる。
しかし、土萌になら話せるかも知れない。今はまだ勇気がない。でも、いつか、もう少しだけ踏み出す事ができたなら、打ち明けられだろうか。
「トモ先生になら、聞いてもらえるかな……」
小さくひとりごち、めりあは今度こそ保健室を後にして、教室へ戻る道をたどっていった。
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