3.

 朝。

 キッチンで淳弘あつひろはフライパンを振るっていた。

 昨夜、捨てずに残しておいたブロッコリーの茎の固い皮をむいて薄切りにし、よく火を通す。刻んだベーコンと、更に卵と合わせて炒る。

 ブロッコリーの茎など普通は捨てる部位だと思っていたのだが、意外に美味しく食べられる。材料を無駄なく活用できるので台所事情にも優しい。ブロッコリーの茎はもっと世間から見直されていいはずだ、と淳弘はブロッコリーの茎への厚い信頼に大きく頷いた。

 これだけでも十分な一品だが、もう一つ色を加えたくなって、小振りなトマトを半分に切ったものを油を引いたフライパンで焼いて一緒の皿に添えた。日本ではあまり馴染みがないが、ベイクドトマトはイギリスやアイルランド辺りなら朝食の皿に乗る定番だ。

 今朝はご飯を炊いていないので、トーストとサラダにこの一皿を加えて朝食のメニューは完成。食卓に並べて、コップに牛乳を注ぐ。

 普段はここまではしないで簡単に済ませるのがほとんどだが、景都けいとがいるので、つい張り切ってしまった。

「お待たせ」

 朝食の支度を調えた淳弘が笑いかけると、食卓に着いた景都が恐縮したように肩を縮こまらせた。

「……あ、すみません……」

 実は景都も朝食の用意をしようとしていた。昨晩、淳弘が腕を振るってくれた事への礼の意味も込めて、自分が食事を作ろうと思い、早めに起きてキッチンへ向かった。

 しかし、システムキッチンの使い方がわからず、途方に暮れて立ちすくんでいる間に、後からやってきた淳弘に見つかってしまい、何の手伝いもできないまま、こうして今に至る。

「いや、いいって。食べよう」

「はい、いただきます。美味しそうですね」

 景都は丁寧に手を合わせて箸を取った。洋食風だが、完全に洋食とも言い切れないような具合で、淳弘も気取るよりとは普通に箸を用意した。

 調味料は控えめだが、ベーコンの塩味があるので加減はちょうどよく、卵と合わさって柔らかい味わいになっている。ブロッコリーの茎は歯ごたえがよく、食感にもアクセントが加わっていた。

「……美味しいです」

「いや、ありあわせで作っただけなんだけど、口に合って良かった」

「まあ。それでこんなに美味しいものが作れるのですから、やはり、本当に料理が上手なのですね」

「慣れてるだけだよ。そんな風に褒められると照れるよ」

 景都の賛辞に淳弘は肩をすくめた。

「でも、本当にそう思います」

 謙遜する淳弘に微笑みかけて、景都は今度はベイクドトマトに囓りつく。焼かれたトマトの食感の新鮮な驚きとともに、心地好い酸味と甘味が舌を刺激する。

「トマトって、焼いても美味しいものなのですね……」

 感心して無意識にふんふんと頷いた。

 昨夜と今朝、二度の食事だけでも景都には驚きの連続だった。それは純粋な喜びであると同時に、いかに自分と淳弘の生活の違いが大きいかを思い知るようで、少し寂しいような気もした。

 そんな気持ちを気取られるぬように微笑む景都の視線の先で、トーストにピーナッツバターを塗る淳弘が照れ臭そうに笑った。

 

「後片付け、手伝います」

 遠慮する淳弘を説き伏せて、景都はシンクの前で隣に並んだ。せめて、それくらいは手伝いたかった。

 キッチンに二人並んで洗い物をするのも、何だか照れ臭く、くすぐったい思いがして、つい、頬がゆるんだ。

 皿を洗って、水気を切って、布巾で拭って片付ける。たったそれだけの他愛のない作業が、二人で並んでいると妙に楽しく心が躍る。

「不思議ですね」

「え?」

 思わず声に出てしまい、淳弘が怪訝そうに顔を向けた。

「いえ、何でもありません」

 そう答えて、くすりと笑った。

 浮かれてばかりはいられないとわかっている。

 それでも、少しだけ今の雰囲気に甘えたくなった。

 だから、ほんの少しだけ、皿を全部洗い終えるまでくらいなら、他の事を忘れて浮かれていてもいいだろうか。

 そう自問しながら、景都は既に今の気持ちに身を浸してしまっていた。


§

 

 駅前の繁華街を二人で歩く──。

 まるでデートだ。そう思うと、淳弘も胸中に照れ臭い気持ちが湧き上がるのを抑えられなかった。

 服装はシンプルなアースカラーのシャツとジーンズにコンバースのオールスター、上にはダウンジャケット。特に目立って洒落ている訳ではないが、好ましい清潔感は出ている。

 景都の方は、昨日と同じ薄紅の袷の上に、紅梅色の道行。足下は真っ白な足袋とちりめん花柄の鼻緒が愛らしい下駄がカラコロと小気味良い音を鳴らす。

 薄曇りの天気で少し肌寒いが、寒気に頬を赤く染めて白い息を吐く景都の姿も様になり、思わず見とれてしまう。

「ちょっと寒いね」

「ええ。でも、大丈夫です。山育ちですから、寒いのには強いのですよ」

 そう言って、ふふと微笑む景都がまた眩いほどに愛くるしい。

 和装の美少女はやはり街中では異彩を放つので、道行く人々もちらちらと、あるいは、無遠慮に景都に羨望やら嫉妬やらの視線を向けていく。

「何か、ちょっと目立っちゃってるね」

「ええ、そうですね」

 景都は少し困ったように眉根を寄せると、ぴたりと静かに足を止めた。そして、すうっと大きく息を吸い込んでから、一気に吐き出す息に静かだがはっきりした声を乗せた。

「──あれども見えぬは何なりや。宵の鴉に昼の月」

 しん、と一瞬、空気が静まった気がした。

「え?」

 淳弘は思わず声を洩らした。

 今まで景都に投げかけられていた視線がすっかりなくなってしまい、すぐ間近を通り過ぎる人々も、何も目に入らないかのように通り過ぎていく。さっきまでの注目がまるで嘘のようで、そこに人目を引くものなど何もないかのように。

「簡単な陰形の術です」

 景都が控えめに呟いた。

「私を見えづらくしました。姿が消える訳ではありませぬが、私を見ても気にならぬように、つまり、見えない訳ではないのですが、見ても気にも留めない路傍の石のようにでも感じられるよう、術をかけました」

 へぇ、と淳弘は感嘆の声を上げた。言われただけではピンと来ない感もあるが、実際にさっと波が引くように景都への注目が消えてしまった現実を目の当たりにしては頷かざるを得ない。

「もっとも、単に私が注意を引かないようになっているだけですので、存在をまったく気付かれないというものでもありません。例えば、そう──」

 と、景都が不意に淳弘の傍へすっと歩みを進めて、ぴたりと隣に寄り添うように立った。

「淳弘の事を知っている方がこの場で淳弘を見つければ、淳弘の隣にいる私にも気付くでしょう。ふふ、私、淳弘の添え物のようですね」

「……いや、そんな」

 はにかんだ顔で少しおどけた景都が上目でちらりと見上げてくる。淳弘は思わず目眩を感じてよろめきそうになるのをぐっとこらえた。

「ふふ。でも、こういうはやめにした方がいいですね。私、人間になるのですから」

 そう言って、景都は少し恥ずかしそうに目を伏せた。

「それに、恥ずかしいのですけれど、私、こういう術が本当に不得手で、勘の鋭い人ならば意識せずとも見破るでしょう。昨日も陰形をかけていたのに、小雨さんに普通に見つかってしまいました」

「それは、小雨さんなら仕方ない気がするよ。何て言うか、不思議な人だから」

 向かいの小雨おばあちゃんは淳弘にとっても馴染みの深い人物だ。祖母の親しい茶飲み友達で、小さな頃にはよくお菓子をくれたり、昔話を聞かせてくれた。今でも時々手作りの団子やらおはぎやらをお裾分けしてくれたりする。淳弘にとっては、何かと優しく世話を焼いてくれる小雨は三人目の祖母のようにも思える存在だった。

 その小雨だが、いわゆる、霊感が鋭いような部分があり、まだ、今の家に越してきて間もない頃、あまり質の良くない浮遊霊に見入って路上に立ちつくしていた淳弘を、小雨がその場から引き離し、ああいったものにはあまり近付いてはいけない、と真剣に諭された事があった。はっきりと口に出しては言わないが、淳弘の目の事にも勘づいているような節もある。淳弘とは事情も異なるだろうが、小雨もまた色々なものが『視える』人なのだろう。

 ただ、景都の言うように術の精度があまり良くないというのも事実かも知れない。最初は道行く人々の誰もが景都に気付かず通り過ぎていくように感じたのだが、よく観察してみれば、その中のいくらかは景都の方へちらりと視線を向けていく。その誰もが淳弘や小雨のような者だという事もないだろう。

「これからはこういう術も使わないようにします。でも、今日くらいは──」

 と、景都は顔を伏せたままで目だけをちらりと上げた。

「あまりじろじろ見られるのは、やはり恥ずかしいですから。……折角、淳弘に案内してもらえるのに、邪魔されるのは嫌です」

 紅葉を散らした頬に甘えたそうな笑みが浮かぶ。

 ──ずっとこんな調子で緊張でおかしくなってしまうかも知れない。

 淳弘は本気で頭がくらくらするのを感じた。


§

 

 目抜き通りを並んで歩くと、ショーウィンドウを珍しそうに覗き込む景都は足を止めかけては我に返って背筋を伸ばす。何を見ても珍しいらしい景都に「ゆっくり見ててもいいよ」と言えば、「いえ、今日はそのようなつもりではありませんので」と意地になって答えた。

 すねたように目を逸らしては、それをごまかすように、あれは何これは何と目に付く物を指しては訊ねる。建物や路地の様子に目を配り、目立つ建物などがあれば目印にするようにそこまでの道筋を確かめて、頭の中で整理するように考え込む仕種を見せる。時々、気を散らしてはいても、街の様子を覚えようと懸命な様子だった。

 ほぼ歩きづめなのだが、淳弘が「疲れてない?」と問うても、景都は「大丈夫です」と答え、足取りにも衰える様子はまるで見せない。山中で育った健脚と言うよりは、鬼喰いの身体能力がそもそも違うのだろう。昼食のためにいったん腰を落ち着けた頃には、淳弘の足の方が強張っていた。

 昨夜も今朝も洋食だったので、昼食の場所には流れを変えて蕎麦屋を選んだ。

 表通りから少し外れるせいであまり目立たない店だが、手頃な値段と上々の味に加えて、店内も静かで清潔だ。数ヶ月前に何かの雑誌の小さな記事で紹介されたのを見つけた美佳子が「近くにあるんだから行ってみたい!」と騒いで、何人かの友人と一緒に淳弘も誘われて来た事があった。淳弘は基本的に外食をほとんどせず、気の利いた店などろくに知らないので、ここに思い至る事ができてほっと胸を撫で下ろした。

 少し早めに店に入ったおかげで昼の混み合うタイミングをずらして、余裕を持って座敷に上がる事ができた。

 つるつると蕎麦を啜る音まで楚々として愛らしい景都が「美味しいです」と嬉しそうに浮かべる笑顔がまた淳弘の胸を撃ち抜いた。

「どれも美味しいです。柚子切りの香りがとても良くて……。大葉切りもさっぱりした風味が素敵です。もちろん、更級も、芥子切りも。この茶切り、今度は熱盛りでも頂いてみたいですね。どれか一つ選べと言われたら困ってしまいます」

 景都は五色盛りの蕎麦にいたくご満悦の様子だった。白い更級蕎麦だけでなく、茶切り、芥子切り、柚子切り、大葉切りと、五種類の蕎麦が少量ずつ盛られた蒸籠は見た目にも美しく、様々な変わり蕎麦が一度に楽しめるとあって、店の人気メニューだという事だ。

「春は桜切りもあるらしいよ」

「まあ、それも美味しそうですね」

 と、また景都は嬉しそうに微笑んだ。

「景都は、和食の方が好き?」

 問われた景都は少し考え込んでから口を開いた。

「私、あまり色々な国のお料理というのを知りませんので、比べてどうという事はよくわかりませんけれど、お蕎麦は好きです。何だかほっとします」

 そう言って頬をゆるめた景都は更に付け加えた。

「それと、淳弘のハイカラなお料理は好きです」

 一言一句、一挙手一投足が淳弘の胸をかき乱すためにあるのではないか。そんな錯覚すら浮かんでしまいそうだった。

「……また、ここに食べに来ようか」

 照れ臭くて自分の料理から話を逸らした。

「今度は茶切りの熱盛りを。それから、春になったら桜切りも」

「まあ、楽しみですね。ふふ、約束ですよ」

 そう言って、景都はほんのり頬を染めた。

 

 午後からもまた街を歩く。

 表通りだけでなく、ビジネス街や下町の商店街や住宅街まで。あちらこちらへ足を伸ばして、本当に街中の景色を頭に入れてしまおうとするかのように。

 淳弘も人並み以上に体力はある方だが、疲れ知らずの景都のペースに合わせていては、流石に足が痛くなってくる。見栄を張って平気な顔をしていようとしたのだが、このまま歩き通しでは夕方までもたないと思った所で音を上げた。

 途中、喫茶店で一息入れてからは、少しペースを落として歩いた。景都に「気が回らなくて……」と恐縮させてしまうのがみっともなかったが、体力差は事実なので仕方ないと割り切って、それよりも、景都に気を遣わせてしまうのが気が引けた。

 互いに遠慮しながら歩く距離感がもどかしく、微妙な緊張が喉につかえるようで息苦しい。

「景都」

 少しぎこちなく歩く景都が、名前を呼ばれてはっとしたように淳弘に顔を向ける。

「はい! あ、もしかして、私、また歩きすぎましたか? ごめんなさい、つい……。その、休憩しましょうか……」

 慌てて気負う景都の様子があまりに一生懸命で、淳弘はその愛らしさに思わず頬がゆるんだ。

「いや、大丈夫だから。ごめん、気を遣わせて」

「いえ! そんな……」

 もごもごと景都が口籠もる。

「えっとさ、ちょっと力を抜こうか」

 淳弘の声がうつむきかけた景都の顔を引き戻す。

「何だか、僕らはお互い遠慮しすぎかも知れないね。何て言えばいいのかな……」

 巧く言葉にできないが、互いに空回りしているような気がした。自分のペースと相手のペースを無理に噛み合わせようと躍起になって、気ばかりが焦っているような、そんな風に思えた。

「もっと、力を抜いて、自然に合わせらればいいのかな……?」

 思うように言葉にならないのがもどかしく、喉に空気の塊がつかえるような息苦しさに気持ちが焦れる。そんな淳弘の様子を見つめていた景都が、すっと淳弘の袖をつかんだ。

「……では、こうしましょう」

 照れ臭そうにちらりと淳弘の目をみて、すぐに逃げるように目を逸らす。

「これなら、加減を合わせて歩けますね」

 言葉で巧く伝えられないのなら、言葉以外で示せばいい。態度で、行動で、思う事を伝えられる。

 自分から手と手をつなぐのが恥ずかしくて、景都は袖をつかんだだけだけれど、それでも、一つにつながって、互いのリズムが通い合う。伝わるリズムが打ち解け合って、同じテンポで歩いていける。

「そうだね。でも──」

 答えて淳弘も距離を詰める。そして、景都の手を袖から離させると、そのまま、自分の手できゅっと握った。

「こっちの方がいいよね」

 言いながら、淳弘は顔がひどく熱くなるのがわかった。女の子に対して、こんな大胆な行動に出るのは生まれて初めての事だった。

「あ……」

 景都の頬も赤く染まる。

「……はい」

 こくりと頷く仕種に胸が高鳴った。

 寒気にさらされて冷たくなった手と手でも、握り合うと温かい。握る力を少し強めると、景都も同じように握り返してくる。ふれあう手と手で鼓動がつながる。

 そして、前よりも少しゆっくり歩き出す。街は夕暮れの影を伸ばし、寄り添う影もまたアスファルトに映る。

「景都」

「はい」

「そろそろ、夕飯の買い物に行きたいんだけど、何か食べたいものってある?」

「淳弘にお任せします。──ただ、今日は私もお手伝いしますね。私だって、お料理くらいできるのですから。あまりハイカラなお料理はわかりませんけれど……」

 軽くすねた振りをして見せる景都と笑みを交わす。穏やかで平和なひとときだった。


§


 夕食のメニューは鍋に決定した。

 元から鍋にしようかと考えていて、何の鍋にするかは買い物の段になってから決めようと思っていた所を、鱈が安く売っていたのでメインは鱈に決めた。大根、白菜、人参、長葱、春菊、薬味用の浅葱、椎茸とエノキ、豆腐に白滝。もう少し動物性タンパク質が欲しかったので鶏肉を追加。この辺りで鱈ちりではなく単なる寄せ鍋に方向転換。出汁を取る昆布は買い置きがあるので不要。ポン酢醤油は小瓶を買い足し。

 ふくれ上がった買い物袋を景都と二人で分け合って持つ。ただの買い物帰りの道のりが、二人だとやけに楽しく感じた。

「あの……」

 と、景都がおずおずと口を開いた。

「荷物、袖に入れていきましょうか。入りますけれど」

「でも、生ものとかたくさんあるから、中で散らかったりしたら大変にならないかな?」

 景都の袖の収納能力は昨晩見た通りだが、その中に詰め込まれた膨大な荷物量も見せつけられているので、一緒に詰め込んでおくのは一抹の不安がある。

「あ、そ、そうですね……」

 昨夜の失態を思い出してか、景都は恥ずかしそうに肩をすくめた。

 手をつないだ二人がそれぞれ買い物袋を下げて仲睦まじく歩く姿が周りからどう見えるかと思うと、淳弘も気恥ずかしさを覚えたが、よく考えれば景都の陰形があるのだから注目を浴びる事はないのだと思い当たり、内心ほっとした。景都と一緒にいるのは正直嬉しいのだが、知り合いにでも見つかれば何を言われるか、という事に今更ながら考えが及んだ。もっとも、既に一日中二人で歩き回っているので、本当に今更ながらではある、景都で頭が一杯で他の事に気を回す余裕がまったくなかったのだと改めて思い知らされた。

「どうかしましたか?」

 考え込んでいた所へ、当の景都の顔が視界に広がって、どくんと大きく心臓が鳴った。

「いや! 何でもないよ、ちょっと考え事」

 動揺もあらわな淳弘の様子に、景都が微笑んだ。

 不意に風が吹いた。

「きゃっ!」

 小さく悲鳴を上げた景都が顔を押さえた。

「景都? どうしたの?」

「……はい、目に何か……」

 風で舞い上がった塵か何かが目に飛び込んだらしい。目を押さえた景都が眉を下げて顔をしかめる。

「大丈夫?」

 淳弘は景都の顔を覗き込む。景都の手を離して目を見るが、陽がほとんど落ちて辺りも暗くよく見えない。

「目薬、買ってくるよ」

 幸い、すぐ近くにドラッグストアが見えており、淳弘はそちらへ顔を向けた。

「いえ、大丈夫です……。すぐに……、もう、平気です。涙と一緒に出たみたいですから」

 そう言って、景都はきゅっと淳弘の袖をつかんで引き止めた。目は涙に濡れているが、しっかりと開いており、もう痛そうな様子もない。

「本当? よかった」

 淳弘はほっと息を吐きながら、ハンカチを取り出して景都の目元を拭い、景都はされるがままになりながら頬をゆるめた。

「ええ、ありがとう、淳弘」

「あ、うん」

 潤んだ瞳で見つめられるのが照れ臭く、淳弘は目を逸らしてハンカチをポケットにしまい、景都の手を取った。

「……行こうか」

「ええ」

 微笑む景都は淳弘の手を離し、淳弘が途惑う暇も与えず、ぎゅっと身を寄せて腕をしっかりと絡めた。

「行きましょう」

 真っ赤な顔を伏せながらも、しっかりとしがみつく景都と腕を組み、同じく赤くなった淳弘と、二人ぴったりとくっついて帰路への歩みを再開した。

 

§

 

 少し時間をさかのぼる。

 昼過ぎに知月ちづきの家に集まっての勉強会だったが、ほとんどは茉莉花まりかと知月が二人がかりで美佳子みかこの面倒を見るといった様相だった。

 昨年から知月の両親は仕事で海外に赴任しているが、日本で受験を控えていた知月だけが一人で残って留守を預かっていた。時折、親戚が様子を見に来る事もあるが、知月がしっかりしていて万事をそつなくこなしているため、周囲も信頼して任せているとの事らしい。

 勉強会の方は、夕方までみっちりと絞られた美佳子が音を上げた所で一息入れた。

「疲れたよー。おなか減ったよー」

 テーブルに突っ伏した美佳子が駄々をこねるように呻いた。

「知月ー、何か食べたい」

「すぐに食べられる物は何もありません」

 上目遣いでねだる美佳子を、知月が冷たくあしらった。

「知月んちは何で食べ物がないのよう。朝晩、何を食べて生きてるのよう。薔薇の香りでも食って生きてるのか、このお姫様はっ!」

「あああ、ニカコちゃん、落ち着いて」

 美佳子がばっと身を起こして噛みつくように歯をガチガチ鳴らすのを、茉莉花が慌てふためいてなだめた。

「はい、どうどう。あーん」

 美佳子は茉莉花が差し出すクッキーにぱくりと噛みつくと、もふもふ咀嚼しながら再びテーブルに突っ伏した。

「お代わりー」

「ごめん、今のが最後の一枚」

 茉莉花の答えに、美佳子が力なく「ふひー」と息を吐いた。

 知月が、もてなしができない、と言ったのは謙遜でも誇張でもなく、菓子の一つの買い置きもなかった。正確には「ない」訳ではなかったが、戸棚の中で保存食に混ざって賞味期限を切らしていたアソートセットに手をつける気にはなれなかった。生鮮食品の類は一切なく、米びつも空っぽ、冷蔵庫の中身は水のペットボトルのみ。食生活に対して美佳子が疑問を抱くのももっともな話だ。

 辛うじて紅茶葉の缶が見つかったので、美佳子と茉莉花が持参したクッキーをお茶請けにして格好を付けることはできたが、そうでなければ、飲み物の買い出しにも行かなければならない所だった。

「何だろ。こういうのも浮世離れって言うのかねぇ……? これで一人暮らしに支障が出てないのが不思議だわ」

 遠慮のない美佳子の物言いにも、知月は涼しい顔だった。

「知月ちゃん、ずっと外食とかなの? よかったら、時々、ご飯作りに来るけど……」

「ふふ。茉莉花、気遣いには感謝しますが、心配は無用ですよ」

 おずおずと心配そうに申し出る茉莉花を、知月は静かに遮った。

「それよりも、どうやら美佳子の空腹が限界のようですから、外へ連れて行って何か食べさせましょう」

「そうしてっ! ぜひともっ!」

 美佳子が跳ね上がって言った。

「ファミレスでも行こうよ。ってか、ずうっと勉強してただけで、マリの作戦会議がお預けだったから、そっちもやらなきゃ!」

「え……。それは、別に、無理にやらなくても……」

「またそういう弱気な事言うし! や・る・のっ! よっし、じゃあ、早く行こっ!」

 言うが早いか、いそいそとテーブルの上のノートや参考書を片付け始める美佳子と、何も言わずに同じく片付けに取りかかる知月に取り残されて、茉莉花は弱々しく溜め息を一つ吐き出した。


 一度、繁華街の方へ出ると、その後で再び知月の家へ戻ってから帰途へ着くとなると、茉莉花も美佳子もかなり回り道になってしまうので、そのまま解散できるように荷物はまとめてから表へ出た。

「ねえ、眼鏡かけてる同士だと、やっぱ、キスする時に邪魔なのかな?」

 道すがら、不意に美佳子が言った。

「えっ?」

「いや、だって、ほら、マリも志岐もどっちも眼鏡だから、と思って」

「さ、さあ、どうなんだろ……」

 茉莉花は真っ赤になってもごもごと口籠もった。

「知月、わかる?」

「さあ、どうでしょう。私にもわかりかねます。気になるのなら、試してみればよいかと」

 さらりと答える知月の言葉に、美佳子がにんまりと笑った。

「おーう、さすが知月、冴えてるう。マリぃ、早く志岐とキスできる仲になりなよ」

「えっ、その、そんな……」

 からかわれて耳まで赤く染め、寒い中で額に汗までにじませる茉莉花の様子に、美佳子は自然と頬がゆるんだ。

「あー、でも、そういや、志岐のって伊達だよね、確か」

「……うん。でも、もしかしたら、ちょっと調整とかも入ってるのかも。左目は普通だけど、右目だけすごく視力がいいんだって。視力検査のとか、右目だと全部見えちゃうらしい……って、何?」

 美佳子がやけににやににやしながら見ているのに気付いて、茉莉花は思わずたじろいだ。

「いやぁ、やっぱ志岐の事には詳しいなぁ、って思って」

 びくっと震えて固まった茉莉花の赤い顔が更に赤くなり、これ以上赤くなったら本当に火を噴くのではないかというような顔色に、美佳子は人間の顔はここまで赤くなるものかと感嘆の念すら覚えた。

「──おや」

 ふっと風が差し込むように、知月が小さく声を洩らした。

 釣られて顔を上げた視線の先で目にした姿に、美佳子は隣で茉莉花の血の気が引く音を聞いたような気がした。

「──志岐くん?」

 茉莉花がかすれるような声を洩らした。

 少し離れた前方に見えるのは、志岐淳弘の後ろ姿に間違いない。

 ただ、問題はその隣。一緒に買い物袋を提げて仲睦まじく並んで歩く和服の女の存在だ。

「綺麗な、人だね……」

 茉莉花の呟きが震えた。

 二人が歩きながら楽しげに笑う横顔が見えた。

 一目で清楚な可憐さが見て取れる。誰が見ても、掛け値なしに美少女と言わざるを得ないだろう。

「えっと、志岐って妹とかいたっけ。それとか、親戚とか──」

「志岐くん、一人っ子で、親戚もあんまりいないって、前に聞いた事ある……」

 暗く沈んだ茉莉花の声に、美佳子の言葉の白々しさが余計に増した。

「まあ、でも──」

 と言いかけて、美佳子は続ける言葉が見つからなかった。

 淳弘達が互いに見交わすあの目は、あの表情は、よく知っている。茉莉花が淳弘に向けるものと同じ──恋する者のそれだから。

「えっ……」

 次に茉莉花が洩らした声、それはほんの一息の小さな呟きだが、そこに込められたものが何なのかは美佳子にもはっきりと感じられた。

 絶望。

 その二文字を茉莉花の吐息が雄弁に語っていた。

 よろめいた和服の美少女を淳弘が抱き止めると、二人の顔が重なりあった。はっきりと見て取れる訳ではないが、それはキスでもしているようにしか見えなかった。

 呆然、としか言いようもなく、いつの間にか足も止めてしまっていた。美佳子が茉莉花に目を向ければ、その顔色は血の気を失って紙のように白く、先程の真っ赤な顔が嘘のようだった。

「マリ──」

 恐る恐る名前を呼ぶと、茉莉花は我に返ったように目を瞬かせた。

「あ──、ごめん、ニカコちゃん、知月ちゃん、えっと、私、今日は帰るね、ごめん」

 それだけ言うと、茉莉花はくるりと踵を返し、ふらふらと歩み去っていく。

「待って、マリ──、あっ」

 美佳子が茉莉花に向けて手を伸ばしかけると同時に、じっと沈黙を保っていた知月がすり抜けるようにすっと前へ歩き出し、気を取られた間に雑踏へ消えていく茉莉花を追いかけるタイミングを失った。

 早足で人の流れを泳ぐように抜けていく知月は、あっという間に淳弘達に追い付いた。茉莉花と知月のどちらを追えばいいのか迷って美佳子が立ち尽くす間に、茉莉花の姿は見失い、知月は淳宏達を二言三言交わしてすぐに引き返して来た。

「えっと、知月?」

「美佳子、少し相談したい事があります。すみませんが、私の家まで一緒に戻ってもらえますか?」

 美佳子が何事かと問うよりも、重ねる知月の有無を言わせぬ勢いに圧されて、美佳子はこくりと頷いた。


§


「志岐君」

 名前を呼ばれた淳弘が声の方に目を向ければ、そこにはクラスメイトの美島知月の姿があった。

「あ、美島さん」

「こんばんは。姿を見かけましたので、一言ご挨拶をと思いまして。そちらはガールフレンドですか? 仲の良さそうな事で、志岐君もなかなか隅に置けませんね」

「えっ、と……」

 知月の言葉に、淳弘は思わず照れて口籠もった。

「ふふ。お邪魔するつもりはありませんので、それでは失礼しますね」

 淳弘が途惑っている間に、知月は会釈して踵を返したが、最後に景都の方にちらりと視線を投げかけて、何か言うように唇を動かした。実際に声に出したのか、唇を動かしただけなのかわからないが、少なくとも、淳弘の耳には何も聞こえなかった。

 ぎゅっ、と淳弘は袖を強くつかまれた。

「景都──?」

 淳弘の袖にしがみつく景都は、顔色を真っ青に変え、体をガタガタ震わせていた。知月が歩き去って行った方に向けたまま大きく見開かれた目には、はっきりと恐怖の色が浮かび上がっていた。

「あれは……、今のは……」

 歯の鳴る音とともに震える呟きが零れる。

「景都、どうしたの? 具合でも悪いの?」

 今にも崩れ落ちそうな景都に腕を差し伸べて、淳弘は震える体をしっかりと抱き止めた。

「そんな、嘘……。どうして、こんな事に……」

 淳弘の胸に顔を埋め、景都は嗚咽を洩らした。

「あの方……、私を呼んだのです……、『弱虫景都』と……」

 景都の手が淳弘のシャツをぎゅっとつかんで、引きちぎれそうに布地が軋んだ。

「あの方は……、人間ではありません……。あの方は……、私の、姉上です……」

 景都は淳弘にしがみつき、震えて泣きじゃくる事しかできなかった。

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