回想──景都
夢を見た。
幼い頃の事を何度も繰り返し夢に見てきた記憶の再現。今でも昨日の事のように思い出す。
森の中をさまよう内に、崖の上から落ちた車を見つけた。山中で暮らし人の社会の物事には疎い
車体はひしゃげ、フロントガラスには突き刺さった太い木の枝を中心に中が見えないほどのひびが走っているが、内側からべったりと赤く染まっている事だけは見て取れる。近付いて前部座席をドア側から覗いてみれば、運転席の男と助手席の女が無惨な屍をさらしていた。女の方は頸骨が折れているようで、男の方はフロントガラスを突き破った木の枝に頭部を貫かれていた。
そして、後部座席の方へ目を向ければ男の子の姿があった。
景都と同じ年頃であろう。ぐったりとした体をシートベルトに預けて、血に染まった顔を伏せている。
──生きている?
ひしゃげた後部座席のドアは引っ張っても開かなかったので、力ずくで強引に引きはがした。鉄屑と化したドアを無造作に放り捨てると、車内に体を潜り込ませてシートベルトを素手で引きちぎり、解放された少年の体を抱えて車外に引きずり出した。
完全に意識を失っているが、生きてはいる。
目立った外傷は、何かの破片ででも切ったのか、深く切り裂かれた右目蓋。
景都は少年の頭を抱きかかえるようにして、汚れた顔を袖で拭った。優しげな顔立ちだが、青褪めた顔色ににじむ脂汗が痛々しい。景都は少年の様子を観察しながら、乱れた髪を指で梳いて整えた。
ぴくり、と少年の体が震えた。
睫毛が震え、ゆっくりと左目が開く。ぼんやりした様子の瞳が徐々に焦点を結び、少年の顔を覗き込む景都の目と少年の目が合った。少年の顔が赤く染まる。
「顔が赤い。痛むか?」
景都の問いに少年は首を振ったが、無理をしているのは明らかだ。しかし、わざわざそれを指摘して、意地を張って耐えている少年の心意気を踏みにじる事もない。
「そうか。あちこち打っておる。後で痛むようになるやも知れぬぞ」
それだけ言うと、景都は再び少年の傷に目を向けた。
一方、少年は途惑ったように辺りへ視線を巡らせて、
「そうだ、車が……」
と、呟きを洩らした。
途端に景都の脳裏には車内の惨状が蘇った。少年の両親であろう男女の酷たらしい屍。
「ならぬ」
車の方へ目を向けようとした少年の頭を抱え込んだ。
「あれを見てはならぬ」
そう言い聞かせる景都の瞳の色に、少年は何があったかを悟ってしまった。少年の目に涙が浮かぶ。
「泣くでない」
景都は少年を抱く手に力を込めた。痛ましさに胸が苦しくなる。
「男の子は泣かぬものじゃ」
「泣いてなんか……」
そう言いかけた少年の声が詰まる。
「そうか。ならばよい」
涙を零す少年をそっと抱き締めながら、景都の目は少年の傷を追う。あまりいつまでも放っておいていいものではない。
「目蓋が切れておるな」
不安がらせないように、努めて大した事ではないように言った。
「目を閉じて、じっとしておれ」
少年が言われるまま素直に目を閉じると、景都は目蓋に唇を寄せ、そっと舌を這わせた。驚いた少年がびくっと身を震わせる。
「じっとしておれと言うに」
軽くたしなめるように言うと、少年は大人しく動きを止めたので、景都は再び少年の目蓋に舌を這わせた。
丁寧に傷をなめて唾液を塗りつける。
鬼喰いは自身の生命力が強いだけでなく、その体液は他者の傷をも癒す。ざっくりと切れた少年の目蓋の傷が徐々にふさがっていくのが、舌にふれる感触でわかった。
続いて、舌先で目蓋を押し広げて眼球を直になめた。舌で少年の眼球をそっと探りながら、たっぷりと唾液を流し込んで染み込ませる。目蓋の上からでも衝撃を受けた眼球は、毛細血管が破裂して痛々しく真っ赤に染まり、景都にも正確な診断など下せはしないが、放っておいては差し支えがあるように思えた。
「どうじゃ? まだ痛むかや?」
目から舌を離した景都が声をかけると、ぼうっとしていた少年は我に返ったように目をしばたたいて、小さく首を横に振った。
「そうか。よかった」
少年の無防備な様子が微笑ましく、景都は少し照れ臭くなった。
「深い割に大した事はない。大事ないが、もう少しよくなめておいてやろう」
少年を安心させるようにさらりと言うと、景都は再び目蓋に舌を這わせた。
「うっ!」
「む? 痛むかや?」
景都の声音に不安そうな響きがにじんだせいか、少年は慌てて首を横に振った。
「そうか」
景都は短く答えて、再び少年の目蓋に舌を落とした。
少年が途惑いながら照れているくせに、強がっている上に景都を気遣うような素振りを見せるのが何だかかわいらしく、景都の方も胸の奥にほのかな温かさを覚えて──気がゆるんだ。
景都の舌が少年の目蓋を這い、唾液が傷口に染み込んでいく。
そして、舌になめ取られた少年の血が景都の喉を流れ落ち、体の奥へと染み込んでいく。
甘く、芳しい、生命の味。
意識に靄がかかる。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、そのすべてが遠く霞む。
ぼやけた感覚の中で体の奥へ流れ込んでいく生命の感触だけが熱く焼き付いていき、瑞々しい生命の熱さは、いったん、体の奥まで潜り込んでから、今度は体の隅々にまで広がっていく。
恍惚に捕われて下腹が疼き、無意識に少年の目蓋にむしゃぶりついていた。自分の唾液でふさがっていく傷口に舌先をねじ込んで、ほじくり返すようにひたすらねぶる。
傷から吸い出す少年の生命の甘美さに、景都の体の奥底から湧き上がる飢餓の衝動が高まっていく。
ホシイ、ホシイ、モットホシイ、スイツクシテシマイタイ──。
「あ……」
ふっと我に返った。
何をしていた?
何をしようとした?
流れ込む少年の生気に我を忘れて、自ら吸い取ろうとしていた。
少年を喰い殺してしまおうとしていた!
「これは……、その……」
愕然として声が震えた。自分の血の気が引いていくのがよくわかる。
「すまぬ……。そんなつもりでは……」
震える手から力が抜けた。
自分はこの少年を助けようとしていた。そのはずが取り返しのつかない事をしようとしてしまった。
人を喰い殺しかけた。
鬼喰いにとって、人喰いは絶対の禁忌。あさましく、汚らわしく、決して許されない最低最悪の所業だ。
景都は目の前が真っ暗になったように感じた。体が強張って指一本どころか目蓋さえ動かせない。息をするのも苦しいほど。心を打ち据えた衝撃に意識さえ遠のく──。
「傷……、ふさがってる」
少年の声が景都の意識を引き戻した。
「うわ……、これ……」
怖くて目を閉じた。少年は景都に何を言うだろうか。少年自身は気付いていなくとも──少年を殺しかけた化け物のした事を見て、何を思うだろうか。景都は深く考えもせずに少年の傷をふさいだが、それは人の技ではない。その異常に対して、嫌悪なり恐怖なりを感じるではなかろうか。
「治ってる! すごい!」
少年の弾んだ声に、景都はつられて顔を上げた。
「傷、ふさがってる、治っちゃってる。君が、治してくれたん、だよね? ありがと! なめると治るの? すごいや。魔法使いみたいだ」
純粋な驚きと賞賛を満面にたたえて輝く瞳に、景都は嬉しくて涙がにじみそうなのを必死にこらえて微笑みを返した。
「えっと、僕は──」
と、何か言いかけた少年が、口を開いたまま凍りついた。恐怖に強張った顔に景都の胸がずきりと痛んだが、少年の目は景都ではなく、その背後へと向けられていた。
「何事か──っ!」
振り向いた景都は息を呑んだ。
人面獣身、獣面人身の怪物が十数体、二人を取り囲むように輪を作ってじわじわと近付いてくる。
「魑魅の群れか、小癪な──」
ぎりりと歯噛みして苛立ちを吐いた。
山川の精霊である魑魅の中でも、相当に下等な輩であろう事は一目で見て取れた。恐らく、知性も低く本能に従うだけの、獣ともそう変わらない連中であろう。景都と少年の二人を獲物のと見なしているのだろうが、自分達が襲われかかっているという事よりも、この程度の輩に取り囲まれるまで気付かなかった自分の失態に腹が立った。もし、少年が気付かなければ──。
と、そこまで考えた所で、景都は少年が魑魅を見ていたという事に思い至ってはっとした。
「そなた、魑魅が見えておるのか?」
卑しく格の劣る輩とはいえ、魑魅は山川の精霊だ。その実体は人間の目には映らない。それなのに、少年の視線ははっきりと魑魅の方に向けられていた。
景都の言う意味が飲み込めないのか、少年は途惑った様子を見せていたが、口に出さずともその視線が語る答えは明らかだった。
しかし、今はそれを追求するよりも、目の前に優先すべき事がある。
景都は魑魅の方へ向き直ると、少年を背中にかばうようにしてじりじりと数歩後ずさった。景都に押された少年が一緒に後ろへ下がり、そのまま、大木が背に当たるまで後退した所で足を止めた。今の所、魑魅の姿は目の前にしかないが、もし、背後に回り込まれても、こうしていれば少年の背中は大木が守ってくれる。
「私が奴らを引きつけるゆえ、そのまま、木を背にしておれ。決して前には出てはならぬ。隙あらば逃げよ」
そう告げて、景都は一気に正面へ駆け出した。そして、一番近くにいた猿面の魑魅の頭をつかんで首を折った。
「卑しき魑魅ごときが何を思い上がっておるか! 私を『鬼喰い』と知っての狼藉か! 痴れ者どもが、身の程を知れ! 一匹残らず喰ろうてくれようか! 我が身が惜しくば疾くと去ね!」
景都は折れた魑魅の首をつかんだまま、朗々と響き渡る声で言い放ち、居並ぶ群れを射るように睨みつけた。
挑発された魑魅は全身から怒りを立ちのぼらせ、興奮の息も荒く、憎悪の視線を景都に叩きつける。
それでいい。敵は景都だと印象づけて、注意を一身に引きつければ、少年に目を向ける余裕もなくなるだろう。
「格の違いもわからぬ愚物が! 子の鬼喰いなら群れれば狩れるとでも思うたか! よかろう、それほどまでに死にたくばかかって参れ! こやつの後を追わせてくれるわ!」
景都は絶命した魑魅の体を別の魑魅に向かって投げつけて、同時に群れの只中へ飛び込んだ。手近な相手の首をつかんで同じようにへし折ってやろうとしたのだが、目測を誤って少し上に手がかかったので、構わずつかんだ顎をそのまま握り潰して引きちぎる。そして、下顎を失った魑魅が倒れるのを見届ける間も惜しんで、次の獲物へ躍りかかった。武器は寸鉄もなく完全に無手。それでも、景都の小さな手は、居並ぶ怪物を易々と砕き、潰し、引き裂く。細い足が地を蹴るたびに、その体は宙を舞い、あるいは、矢のごとく疾る。
鬼喰いの膂力があれば、鋼鉄でも素手で引き裂き、身のこなしは羽根のごとく軽やかに、疾風のごとく鋭く。形は童女でも、景都は妖を狩り立て喰い殺す妖の一族、魑魅ごときとは格が違う。
走る。つかむ。砕く。跳ぶ。砕く。走る。潰す。走る。引き裂く。走る。跳ぶ。潰す。砕く。砕く。砕く。
一方的な殺戮だった。
景都が腕を一振りすれば、魑魅が一体骸に変わる。
それは、少年を守り、我が身を守る戦いだ。しかし、もののついでに八つ当たりの腹癒せもしていた。己の失態を恥じて落ち込み、その苛立ちと怒りで癇癪を起こして、後先も考えず、手当たり次第に魑魅を打ち据えていた。まだ幼い景都には、乱れ荒れ狂う感情を制御できるような分別は備わっていなかった。
──だから、景都は失敗した。
鬼喰いは無双のあやかしだ。その力の前に、魑魅など木っ端のごとく散らされるのは、景都が築いた屍の山が物語っている。
しかし、それでも景都は幼子でしかない。齢はわずかに八年。長生のあやかしの物差しで見れば、生まれたばかりの赤子にも等しい。膂力はあれども、幼く貧弱な体で振り回し続けるには大きすぎる力だ。
魑魅の骨を砕き、肉を引き裂くために、渾身の力を細腕に込める。高く遠くへ跳ぶために、足の筋肉を酷使する。迫る牙や鉤爪の動きを見極めて避けるために、神経を集中してすり減らす。
気が付けば手遅れだった。
手足が重い。息が苦しい。喉が焼けつくようで、心臓は痛いくらいに激しく脈打つ。全身をびっしょりと濡らす汗で、髪も着物も肌にべったりと張りついてまとわりつく。苦しさに惑わされて周りに意識を集中できない。
伸ばした手が届かない。地を蹴る足がもつれてふらつく。魑魅の動きについていけず、避けたつもりの鉤爪が髪や着物をかすめていく。
言う事を聞かない体に必死で鞭打って、ようやく捕らえた魑魅の首をへし折る。初めは片手で軽々とできた事が、今は両手で力を振り絞らなければできない。
どれだけ倒した? あとどれだけいる? あとどれだけ倒せば終わる?
疲労と苦痛が景都の焦燥をかき立てる。ざわつく胸。かすむ目。集中が続かない。
おぼつかない足が張り出した木の根につまづいた。普段なら何という事はない。そもそも、つまづく事さえないだろう。しかし、今の困憊した景都は崩れたバランスを立て直す余力すらなかった。
体が大きく傾ぐ。目の前にはぎらつく鉤爪の生えた腕を振り下ろそうとする魑魅の姿。
避けられない。
自分の体が切り裂かれる光景が目に浮かぶようだった。
そして、魑魅の鉤爪が深々と切り裂いた。──魑魅と景都の間に飛び込んできた少年の胸を。
一瞬、時間が止まった気がした。それから、スローモーションで動く視界の中で、崩れ落ちる少年が笑った。まるで、心の底から安心したように。
少年が倒れる音を聞いた次の瞬間、元の流れの速さを取り戻した時間の中で、景都は叫び声を上げた。
何を叫んだのか自分でもわからない。ただ、喉も裂けよとばかりに渾身の力を振り絞って悲鳴を上げていた。
振り払った腕の衝撃が目の前の魑魅を破裂させたが、その惨劇も目に入らない。ただ、切り裂かれた少年の胸からほとばしる血潮の赤さと、見る見る血の気を失っていく顔の白さばかりが網膜一杯に広がるばかり。
慟哭。響き渡る慟哭。
血を吐くような叫び声に、大気は震え、地は揺らぎ、鳥も獣も虫も皆その場から一目散に逃げ出した。逃げる術を持たない草木はその場で怯えて縮こまり、花を散らし、枝葉を落として枯れた。
魑魅達は金切り声を聞いた瞬間に狂った。精神を粉微塵に砕かれて知性らしい知性は欠片も残らなかったが、それも一瞬の事。次の瞬間には、すべての魑魅が体中の穴から腐った血を噴き出して死んだ。
その場のあらゆるものが死んでいった。逃げ遅れた羽虫は地に落ちるより前に粉々に砕け散った。地中の蚯蚓が腐った泥に変わった。草の若葉が白茶けてしおれ、花は黒く溶けて地に滴った。干涸らびた木の幹が裂けて、木屑の粉を零しながら崩れ落ちていった。小さな鼠がおぞましい狂気に犯されて死ぬよりはましと、自ら頭を石に叩きつけて自殺した。吹き込む風さえもその場で淀んで生ぬるく腐った。
景都の叫びは止まらない。周りを酸鼻極める地獄に変えながら、その暴風の中心で少年にすがりつき、意味をなさない狂乱の哭声を吐き続けて、ついには本当に喉が破れて血を吐いた。
叫びが声にすらならなくなった。それでも、かすれた呼気を血塊と一緒に吐き続けた。もう景都自身もまともに思考する事すらできなくなっていた。景都の心は狂気に蝕まれてぼろぼろと崩れ始めていた。
「──景都や」
凛、と響く声。
たった一言。景都の名を呼んだその声が、辺りに満ちた煮え立つ汚穢のような狂気を鎮めてしまった。まるで清水で洗い流したように、悪臭さえ放つ熱気は跡形もなく消え去り、清涼な風が吹き抜ける。
「何をそのように泣いておる」
景都の目の前に母のたたずむ姿があった。母、朱梨は美しい顔に穏やかな微笑みを浮かべ、静かに景都の泣き顔を覗き込む。
「……は、ははう、え……」
母の顔を見上げた景都は、ガラガラにかすれた声を必死に絞り出した。
「この子が……、死んでしまう……。ははうえ……、はは、うえ……、たす……、お願い……です……、たすけ、て……、この子を……、助けて……」
景都の必死の訴えに、朱梨は頷く代わりに景都の髪をそっと撫でた。
「どれ、見せてみよ」
「息をしているうちなら助かろう」
朱梨は自らの手首を口元に寄せると、糸切り歯を白い肌にあてがって力を込めた。破れた皮膚からぷつりと紅玉のような雫が浮かんで大きくふくらんでいく。そうして、血の玉が浮かぶ手首を少年の胸の上にかざして、滴る雫を傷にたらした。
ぽとり、ぽとり、と落ちた雫が少年の傷にあふれる血に混ざると、裂けた胸がびくんと震えた。
「ほれ、効いてきたわ。案ぜずともよい」
朱梨の血を浴びた少年の傷は見る見るうちにふさがっていき、あと少し放っておけば確実に死に至ったであろう深い傷は完全に癒着し、真っ白だった頬にも赤みが差す。景都が小さな傷をちまちまなめて治したのとは比べ物にならないほどの劇的な変化だ。
「大丈夫じゃ。この子は死なぬ」
母の言葉を聞いた途端、景都は張り詰めた気持ちの糸がぷつりと切れて、そのまま意識を失った。
朝靄漂う森の中、景都は膝を抱えてうずくまっていた。
正確には森の残骸と言った方がいいかも知れない。景都を爆心地とした辺り一帯は草木も枯れ果て、虫一匹動く気配がない。半ば裂けた大樹の根元にしゃがみ込む景都の周りには、時折、枯れ葉や小枝が落ちてきては散らばり、景都の肩や髪にも引っかかったが、それを避けも払いもせず、ただ、赤く泣き腫らした目を伏せて、鼻をすんと鳴らしていた。
気を失った景都は程なくして目を覚ましたが、我が子の無事を確かめた朱梨が次にしたのは、娘の手の甲を痣になるほどつねり上げる事だった。
白い皮膚の下にぷつぷつと浮かんでいた赤い内出血の点は既に治って消えているが、熱と痛みだけはズキズキとわだかまって残っているような気がした。
娘の軽挙をきっちりと叱った朱梨は、景都に事の経緯を話させた後、気を失ったままの少年を人目につく所まで送り届けるためにこの場を離れた。
独り取り残された景都は小さな体を更に小さく丸め、自己嫌悪に溺れて声を殺して泣いた。
ただ、あの少年を助けようとしただけだった。
それなのに、この惨状はどうであろう。
恐ろしかった、鬼喰いの力が。情けなかった、その力を使いこなせない事が。恐ろしかった、そうして目茶苦茶な暴発で惨事を招いた事が。情けなかった、少年を救おうなどと思い上がっていた事が。
そして、何よりも恐ろしかった、自分の中に暗い衝動を見つけてしまった事が、その衝動に呑み込まれそうになった事が。
「ははうえ……、ははうえ……」
声を出すまいと唇を噛み締めていたが、とうとうこらえきれず泣き声を洩らした。
「景都は……悪い子です……。駄目な子です……。鬼喰いの……恥になってしまいます……」
膝頭に重ねた腕に顔を埋めて、あふれる嗚咽を抑えようと汚れた袖に口を押しつけた。
「母上のようにはなれませぬ……。景都は……、弱い駄目な子です……。姉上の言う通りの『弱虫景都』です……」
泥だらけの袖を噛み締めると、口に広がる味に吐き気がした。それでも、止まらない泣き声を噛み殺そうと必死に噛みついて、汚れた袖を涎と涙で更に汚した。
「──何を戯言を言うておるのじゃ」
不意に頭上から降ってきた声に、景都は袖をくわえたまま顔を上げた。
「そなたはわらわの娘じゃぞ。この朱梨の娘にそのようなはずがあるものか」
穏やかに微笑む母の顔を見ると、景都は力が抜けて、噛んでいられなくなった袖が口から離れた。
「ですが……、ですが……母上……」
「『ですが』はない」
言い募る景都を朱梨はぎゅっと抱き締めた。
「そなたはあの人の子を助けようとしたのであろう? 優しい子じゃ。良い子じゃ」
泥で汚れた景都の髪を朱梨の指がそっと撫で、強張ったほつれを優しく解きほぐした。
「景都はわらわの愛しい自慢の娘じゃ」
「は、母上……、ははうえっ!」
先には厳しく景都を叱った朱梨だが、今度は慈母の顔で娘を強く抱き締める。景都はもうどうにもこらえ切れず、母の胸にしがみついて大声で泣きじゃくった。
朱梨は景都の汚れて絡まった髪を手櫛で丁寧に梳きながら、景都が自然に泣きやむまでひとしきり泣かせてくれた。すんすんと洟をすすり上げる景都のくしゃくしゃに汚れた顔を、袂から取り出した手拭いで綺麗に拭いて、腫れた目蓋に軽く口づけた。朱梨の唇がふれた箇所から目蓋の熱がすっと引いて、景都は体の芯に涼やかな流れが一本通ったような気がして、胸が穏やかな落ち着きを取り戻していくのを感じた。
大きく息を吸って、吐く。深呼吸をしても、まだ少し体が震えた。
「母上、私は──」
震えながらも顔を上げて、景都は口を開いた。言わなくてはならない。これだけは、どうしても隠しておく訳にはいかない。
「──あの子を喰い殺そうとしたのです」
そう言い終えた瞬間、続いて嗚咽がこみ上げてきそうで、きつく唇を噛んで口を閉じた。
景都は鬼喰いとして決して犯してはならない禁忌を犯そうとした。もし、その線を踏み越えてしまえば、母の手で殺されてもおかしくない──むしろ、そうされて然るべきでさえある。
娘の告白を聞いて、母はどう思うだろうか。
景都は聞くも恐ろしい答えを朱梨が告げるのを今か今かと待ちながら、彫像のように硬直して、それでも、何を言われても受け止めようと、逸らしたくなる目を必死になって真っ直ぐ母に向け続けた。
「左様か」
何でもない事のように朱梨は言った。
「喰わなかったのであろう? ならばよい」
朱梨のあっさりした反応に、一世一代の覚悟で告げた景都は拍子抜けして、思わずぽかんとして目を見開いた。何か言おうとするのだが、返す言葉が見つからず、ただ口をぱくぱくと動かすばかり。そんな景都の様子を見て、朱梨はくすりと小さな笑みを零した。
「景都、我らが人を喰いたいという思いを感じるのは珍しい事ではない。皆がその衝動を覚え、自制して乗り越えるものよ。……しかし、そなたはませた子じゃな。ふふ、わらわもそなたの父や沙尼の父に随分と噛みついてしもうたものじゃ」
少し照れたように言う朱梨の頬に艶めかしい赤みが差した。
「鬼喰いの女はの、人を愛しいと感じると、そういう思いが湧き上がるものじゃ。景都、そなた、あの小さな騎士が気に入ったようじゃな」
途端に景都の顔が真っ赤に染まった。
「……わ、わた……、いえ……、私は……、その……!」
しどろもどろの景都の態度が如実に答えを語る姿に、朱梨は愛おしげにまなじりを下げた。
「……あの、……それは、……ええと、騎士?」
「ふふ。乙女の危機に体を張って助けに参るは騎士の役目じゃからな。形は小さくとも高潔な魂を持つ立派な騎士じゃ」
「………………」
朱梨がからかう言葉に、景都は恥ずかしさで真っ赤になってうつむくばかりだった。
「
「志岐……、淳弘……」
景都はその名前を噛み締めるように呟いて、しっかりと胸に刻んだ。
「志岐淳弘」
もう一度、はっきりと声に出して言ってみる。なぜか胸が温かくなって頬がゆるんだ。
「さて、景都、そのようににやけておるのもよいが、念のために言うておく事がある。よく聞きゃれ」
朱梨は笑みを浮かべながらも、瞳に真剣な色を宿らせて言った。その鋭い雰囲気を感じ取って、景都もゆるんだ気持ちを切り替えて頬を引き締めた。
「そなたは人を喰いたいと感じて、それを己が意志で押し留めた。じゃから、この先もそのような衝動に呑まれる事なく乗り切れるであろう。わらわはそう信じておるし、心配もしておらぬ。じゃが、それでもあえて言うておく。──決して人を喰うてはならぬ」
朱梨は景都の肩に手を置いて、真っ直ぐに瞳を覗き込んで言った。鋭い眼光は、景都に目を逸らす事も許さず、瞬きさえはばかられるように思いながら、ごくりと息を飲み込んだ。
「一度でも喰い殺してしまえば取り返しはつかぬ。もう終わりじゃ。人喰いの味を知ってしまった者は、もう人喰いを止められぬ。そうなれば、始末をつけるしかない。肝にしかと銘じておくのじゃ。よいな?」
真っ直ぐに見つめる朱梨の目を見つめ返し、景都はしっかりと頷いて、母の言葉を改めて胸に刻んだ。それを見て、朱梨も緊張を解いて表情をゆるめた。
「……ま、好いた男を喰うか喰わぬかでせめぎ合いながら……というのがなかなかのものなのじゃが……」
ぼそりと洩らした朱梨が、きょとんとした景都の様子に気付いて、ばつが悪そうに頬を染めて目を逸らした。
「……そなたには早い話じゃ……」
そして、目を覚ます。
それが景都の記憶。十年間、何度も繰り返し夢に見ては思い返してきた確かな記憶。
今では景都も大きく育ち、やんちゃだった幼い頃の暴れ振りや、母の真似をした気取った物言いを思い返すと恥ずかしくなる。
母も既にこの世にはおらず、たくさんの物事が大きく変わってしまったけれど、この思い出だけは色褪せないまま記憶にしっかりと焼き付いている。
既に朝日が昇り、明かり取りの窓から射し込む光だけでなく、澄んだ早朝の空気の気配までもが部屋の中へ染み込んでくるように感じて、景都は夢の余韻にいささかの気恥ずかしさを覚えながら床から身を起こした。
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