2.

 冬の夕方は陽が落ちるのも早く、淳弘あつひろが帰宅した頃には既に辺りは宵の模様に染め上げられていた。

 閑静な住宅街の一角にたたずむ二階建ての一軒家。八才の淳弘が両親を失ってから、親代わりとなってくれた祖父母の家、淳弘が十年を過ごしてきた家だ。

 明かりの消えた家のドアの鍵を開け、「ただいま」と口に出しても答える声もないまま、玄関を上がって灯りをつけた。

 蛍光灯の光の下、コートを脱ぎながら、外と変わらない冷え切った空気にぶるっと身を震わせると、エアコンのスイッチを入れる。人工の風の音を耳にしながら階段を上がり、二階の自室のドアを開け、鞄を床に下ろし、歩きながら脱ぎ終えていたコートをハンガーにかけると、続いて手早く制服からジーンズとトレーナーの部屋着に着替えて、再び階下に取って返した。

 エアコンで暖まり始めた居間のテレビをつけると、夕方のニュースを読み上げるアナウンサーの声が響く。エアコンとテレビの音だけが流れる居間を背にしてキッチンに向かった。

 炊飯器に無洗米を夕食と明日の分とで二合セットしてスイッチを入れる。本当はしばらく米に水を吸わせておいた方が良いのだが、そこはついつい手抜きをしてしまう。

 あとは炊き上がりに合わせて、前日に作ったカレーを温め直せば夕食の準備は完了だが、もう一品くらいあってもいいだろうと、食材を確認しながら思案していると、来客を告げる呼び鈴の音が響いた。

 早足で玄関に向かった淳弘は、「はい」と答えながらドアを開き、そして、目の前の光景に息をするのも忘れた。

 薄闇の中、電灯に照らされてたたずむ姿に目を奪われ、瞬きも忘れた。

 美しかった。

 薄紅のあわせをまとう華奢な体は背筋をすらりと伸ばしながらも、恥ずかしそうにうつむいて目を伏せる。流れるようなつややかな黒髪の鬢に着物と揃いの色の組紐を結わえる他に装飾品はないが、その控えめな飾りだけでも十分すぎるほどに、自身が持つ美しさが色めいている。

 細い輪郭に、黒目がちの大きな瞳が長い睫毛に縁取られ、真っ白な肌の中で唇の赤さとほんのり染まった頬の桜色が鮮やかに際立つ。

 楚々としたたたずまいで、そっと淳弘に上目遣いの視線を向ける彼女の名が、自然と唇から零れ落ちた。

「……景都けいと

 十年前、一度だけ会ったきりの少女の姿が、目の前の美女の姿と確かにつながった。

「覚えていてくださいましたか」

 花のような笑みが綻ぶ。

 その笑顔、その眼差し、耳に流れ込む涼やかな声、そのすべてが淳弘の全身を貫いていくようで、意識がふらつき、立っている足の感覚さえあやふやになってしまった。

「ようやく、会えました。……淳弘」

 十年振りに再会した少女は、小さな声で淳弘の名を呼んで、照れ臭そうに微笑んだ。

 

§


 時間をしばらくさかのぼる。

 景都はようやく訪ねあてた家の前で足を止め、小さく息を吐いた。

 不慣れな人里に降り、不慣れな道をたどって来た気疲れが背中にのしかかって体が重く感じられるが、疲労感よりも湧き上がる緊張で喉に息が詰まるような思いだった。

 門扉を押し開けて数歩の玄関の扉の前に立つと、ゆっくりと深呼吸を繰り返して気持ちを幾分か落ち着けて、それから、おずおずと扉を叩いた。

 しかし、ノックの音に答えはなく、しんと静まり返るばかり。

「あの……、どなたか、おりませぬか?」

 もう一度、今度はもう少し強めにノックをして、扉の向こうへ声をかけるが、やはり答える気配はない。

 景都の顔に不安の影が落ちるが、巡らせた視線の先、扉の脇に取り付けられたボタンに目が留まり、少し考え込んだ後にそれが呼び鈴である事に思い当たって、赤面しながらそっとボタンを押した。

 扉の向こうにチャイムの音が響くのが聞こえたが、一向に誰かが応じる気配はなかった。

「……留守でしょうか?」

 寂しげに呟くと、景都は肩を落として扉に背を向けて、家の前の通りにまで戻って足を止めた。

 そのまま、塀に身を寄せるようにして、景都はじっとたたずんで足下に目を落とした。

 足袋と下駄を履いた足の下には歩きなれないアスファルトの道。その感触にやけに心細いものを感じて、景都は無性に寂しさを覚えていた。

 夕暮れの住宅街で、憂い顔でたたずむ和装の美少女の姿は人目を引くはずだったが、道行く人は景都に注意を払う事もなく通り過ぎていく。

「──お嬢さん」

 不意にかけられた声に顔を上げると、景都の目の前には一人の老女の姿があった。

 黙っていても品の良さがにじみ出る老女で、穏やかな笑みを景都に投げかけていた。

「志岐さんにご用? 今、お留守でしょう?」

「ええ……、はい……」

 少しとまどいながら、景都はどうにか頷いた。

「私は石田いしだ小雨こさめ。志岐さんのお向かいよ」

「……景都です」

「景都さんね。響きの綺麗ないいお名前だわ」

「あ……、ありがとう、ございます……」

「あらあら、照れる事はなくてよ。さあ、そんな所にいては寒いでしょう? 待つ間、うちへ上がっていてはいかが? お向かいだから、帰ってきたらすぐにわかるわ。それとも、こんなお婆さんの茶飲み話に付き合うのはお嫌かしら?」

「いえ、そのような事は……」

「あら、よかった。それじゃあ、いらっしゃいな」

 ゆったりとしたペースで話す穏やかで害意のない言葉に受け答えするうちに、景都は小雨の家に上がらせてもらう事になってしまっていた。

「さあ、どうぞ。大したお構いはできないけれど、風をしのぐくらいはできるでしょうからね」

「はい、その……よろしいのでしょうか?」

 小雨の誘いに口を挟む事もできず、また、その柔らかな人当たりに流されてしまいそうだったが、どうにか遠慮がちに声をかけた。

「見ず知らずの人を簡単に家に上げるなんて、不用心だと思う? 私もね、随分と長く生きているから、人を見る目には多少の自信はあるのよ。大丈夫、あなた、絶対に悪い事をするような方ではないわ」

 屈託のない童女のような笑みを浮かべて、小雨は先に立ってしっかりした足取りで道を横切り、家の前で振り返って、景都を促すようにじっと見つめた。

「はい、では、お邪魔いたします」

 景都は素直に好意に甘える事にして、深々と頭を下げた。

 

「ごめんなさいね。お婆さんの一人暮らしだから、手が行き届かなくて散らかっていて」

「いえ、そのような事は」

 居間の炬燵に座らせた景都に茶を淹れながら小雨が言ったが、謙遜もいい所だ。

 慎ましくまとめられた室内は整頓と掃除が行き届いており、整然とした清潔さが保たれている。落ち着きがあり、安心感を与える雰囲気が満ちていて、景都も何だかほっとするものを感じていた。

「お茶請けも、若い人向けのお菓子は切らしてしまっているけれど、よかったら召し上がってね」

 そう言って、景都と差し向かいに座った小雨は、菓子盆に用意した金鍔を口に運んだ。

「このお店の金鍔、とても美味しいのよ」

「はい。いただきます」

 茶を啜ってにこりと微笑む小雨につられて、景都も茶菓子を囓った。品の良い甘さが口に広がり、しつこさを残さず溶けていく。

「……美味しい」

 思わず言葉が洩れた。

「あら、お口に合ってよかったわ」

 にこりと微笑む小雨の仕種もどこまでも穏やかで品が良く、景都のこの老女への印象は好感に満ち、既に気を許し始めていた。

「ありがとうございます、石田様」

「あら、そんな呼び方は嫌だわ。『小雨さん』と呼んでちょうだい」

「……はい、小雨さん」

 答える景都の頬にも小さく笑みが浮かんだ。

「それで、景都さんは淳弘くんのお知り合いかしら?」

「……ええ、その、一応は、そのような……」

「恋人なの? 淳弘くんたら、ちっともそんな話をきかないと思ったら、こんなかわいらしい方がいたなんてねえ」

 景都は思わず咳き込んで茶を噴きそうになった。

「いえ……、それは……! その……、そのような、仲では……」

 真っ赤になった景都がたどたどしく絞り出す声がどんどん小さくなっていった。

「……それに、淳弘と会うのは十年振りで……」

 最後はほとんど消え入るような声になって、景都は恥ずかしそうにうつむいて黙り込んでしまった。

「あら、そうなの。でも、それなら楽しみね。十年越しの再会だなんて、何だかロマンチックだわ」

 そう言って、小雨は微笑ましそうな視線を景都に向けた。

「景都さんは普段から着物なの?」

 と、小雨が話題を変えた。

「え? はい」

「やっぱり。随分と着慣れてらっしゃるから、そうだと思ったわ。今時の若い方でそれだけ自然に着こなす方は珍しいものね。うふふ、育ちがよろしいのかしら」

「いえ、ただ、洋装をした事がないだけで。山奥の育ちで、何も知らないものですから。着物も自分で仕立てた物ですし……」

「まあ!」

 小雨が歓声を上げた。

「景都さんがご自分で? 素敵だわ。とても立派な仕立てだし、ちょっと見せて下さる?」

 そう言って、小雨は景都の隣へ寄り、袷に手をふれてじっくりと見つめた。

「あらあら、縫い目も丁寧で綺麗で、しっかりした仕立てね。まるで、職人さんのお仕事みたい。美和さん──、淳弘くんのお婆さんだけれど、美和さんも裁縫の上手な方で、和裁の先生をなさっていたけれど、ちっとも負けないくらいだわ」

 小雨が褒めそやす言葉に恐縮して、景都は恥ずかしそうに縮こまった。

「景都さんはかわいらしくて、気立てもよさそうだし、素敵なお嫁さんになれるわね」

「……いえ、私は……」

 うつむく景都の声が沈んだ。

「私など、山猿と変わりませぬ。人里の事など何もわからず、街を歩いても途惑うばかりで、とても……」

「あら、だったら私と同じだわ」

 しゅんとする景都だったが、小雨の言葉に思わず顔を上げた。

「私も山育ちの世間知らずで、主人に連れられて街へ降りて来たのだけれど、右も左もわからなくて大変だったわ。随分と苦労もしたわねぇ」

 と、小雨がくすくす笑った。

「でも、新しい事を覚えるのって、大変だけど楽しいものだわ。私もこの歳になってパソコンの使い方を覚えて、ブログも書いているのよ」

「はあ……」

 わかったようなわからないような曖昧な顔で小首を傾げる景都は、小雨の言わんとする所は理解できたが、パソコンなるものはそれらしき名前を耳にした事はあっても、実物を見た事もさわった事もないので、馴染みのない単語に少し気後れを感じていた。

「一昨年、主人を亡くしてからというもの、暇を持て余してしまって。ずっと、あの人の世話を焼く事ばかりに夢中だったものだから、いなくなってしまうと、本当に何もする事がなくなってしまったのよね。だから、色々と新しい事を始めてみようと思ったの、それも、なるべく難しそうな事をね。

 難しくて、頑張って打ち込まないといけないような事に必死になっていたら、あの人がいなくて寂しい気持ちも紛らわせられるかと思ったのよね。ふふ。おかげで今ではこんなお婆さんがいっぱしにパソコンなんて使っているわ」

 小雨がにこにこ笑う一方で、景都が神妙な顔で肩をすくめた。

「あら? そんな湿っぽい顔しないで。主人も随分と長生きした方だし、寂しい気持ちは変わらないけれど、それでも、私は幸せなのよ」

 穏やかな小雨の言葉につられて、景都は顔を上げた。

「あの人ね、最期にこう言ったのよ。『後からゆっくり来なさい』って」

 その短い言葉にどれだけの思いが込められていたのか、それはきっと半世紀以上を一緒に過ごした当人同士でなければわからないかも知れない。ただ、そのほんの一角くらいは景都にもわかる気がした。

「ご主人は……、最期まで小雨さんを気にかけていらしたのですね」

「ええ。一生かけて愛してもらえたわ。だから、今でもとても幸せよ」

 亡き夫を惚気て微笑む小雨の姿を、景都はうらやましいと思った。

「あら、私ばかり話してしまったわね。少し景都さんのお話しも伺いたいわ」

「えっ……」

「と、言いたい所だけれど、時間切れね。待ち人来たり、みたいだわ」

 そう言って、小雨が向ける視線の先、窓から見える外の風景は既に暗がりに沈み、道路を挟んだ向かいの家には光が点っていた。

「淳弘くん、帰ってきたみたいよ。行くのでしょう?」

「あ、は、はい」

 頷く景都の慌てた様子が微笑ましく、小雨は頬をゆるめた。

「ふふ。名残惜しいけれど、今日はこれまでね。お話に付き合ってもらって楽しかったわ。どうもありがとう」

「いえ、こちらこそ、厚かましくお邪魔しまして。ごちそうさまでした」

 そわそわしながらも丁寧に礼を述べる景都を送り出してから、小雨は二人の茶を片付け終えると、静かに仏壇の前に座った。

「あなた──、」

 仏壇の奥の長年連れ添った夫の遺影にそっと語りかける。

「あんな娘さんに会えるだなんて思わなかったわ。長生きしてみるものですね。いい娘さんですし、ああいう方には幸せになって欲しいですわねえ」

 そう言いながら、小雨は線香に火を点し、そっと手を合わせて目を閉じた。

 

§


 再び志岐家。

 今のテーブルを挟んで向かい合う淳弘と景都。

 紅茶のカップから立ち上る湯気の向こうで、景都が少しうつむいて顔を上気させている。

 淳弘も緊張に何を話していいかわからず、二人の間にもどかしい沈黙が漂っていた。

「その──」

 先に景都が口を開いた。

「よく、覚えていてくれましたね」

 おずおずと口にする景都の頬が、恥ずかしそうに、それでいて、嬉しそうに小さくゆるむ。

「私の事など、とうに忘れてしまったのではないかと不安でした……」

「忘れるはずないよ」

 景都に答える言葉が淳弘の口から自然に流れ落ちた。

「ずっと、覚えてたよ。景都は僕の命の恩人だし、忘れるはずないよ。……ずっと、また、会えたらって、そう思ってた……」

 言っていて気恥ずかしさが湧き上がり、淳弘は最後の方ではもごもごと口籠もってしまった。

「そう……」

 と景都は小さく呟いた。

「私も……、思っていました……。その……、ずっと、会いたいと……」

 うつむいたまま、真っ赤になってもじもじしながら消え入るような声で呟く景都のあまりの愛らしさに、淳弘は目が眩むようだった。

 可憐。

 その言葉がふっと頭に浮かんだ。

 日常で人をほめる言葉にしても、「かわいい」とか「綺麗」とは言っても、あまり「可憐」という言葉は出てきた覚えがない。文章で目にする事はあっても、少なくとも友人との会話の中ではそうそう出てくるような言葉ではないだろう。

 しかし、今の景都の姿を言い表すには、ありふれた平たい言葉では足りない気がした。

 十年前、初めて景都に出会った時、こんな女の子は他にいないと思った。その思いは十年間ずっと胸の内にあったが、もしかしたら、思い出を美化しすぎているのではないかと思う事もあった。

 しかし、そんな不安は間違いだった。

 再会した景都は、思い出の中の十年前の姿から、面影をそのままに、美しさを更にいや増して、一目で十年前の少女が育った姿だと確信した。

「あの……」

 か細い景都の声が、ぼうっとしていた淳弘の意識を引き戻した。

「……そのように、じっと見つめられると、恥ずかしい……」

「え! あ、ごめん」

 淳弘は自分がずっと景都に見とれていた事に気付いて、慌てて視線を外した。

「えっと、その、景都は……、景都も、よく覚えていてくれたね、僕の事を」

 動揺を取り繕うように、淳弘は思いつくままの言葉を口にした。

「忘れたりしません」

 小さいが、はっきりとした声で景都が言った。

「助けられたのは私の方。淳弘は身を投げ出して私をかばってくれました。それを忘れる事などできません」

「いや、それは……」

 確かに、十年前のあの時、淳弘が景都をかばって魑魅の爪に切り裂かれたのは事実だ。

「私は淳弘を助けられませなんだ。淳弘が倒れて私はすっかり取り乱して、あの後、母上が駆けつけてくれなかったら、私は淳弘を死なせてしまっていたかも知れません」

「いや、そうじゃなくて!」

 景都の瞳にうっすらと涙がにじむのを目にして、淳弘は思わず叫び声を上げていた。

「それは、ええと、そうだとしても、景都はその前に僕を助けてくれていたじゃないか。景都が僕を見つけて助け出してくれなかったら、僕はあそこであのまま死んでいたかも知れない。だから、やっぱり僕が今こうして生きていられるのは景都のおかげだし──」

 とにかく、自分を責めるような顔をしている景都を何とかしたくて、頭で整理する間もなく思いつくままの言葉を吐き出した。

 淳弘の勢いに呑まれたようにして顔を上げた景都と視線がぶつかる。

「だから、それは、いいんじゃないかな。その、つまり、景都は僕に助けられたって言うけれど、僕も景都に助けられてて、そこはおあいこ、なのかな? 後は、お互い景都のお母さんには助けられたんだから、それはそれで別にすごく感謝する事なのかな。まあ、ええと、そういう事で、いいのか、どうなのか……」

 淳弘は自分でも取り乱して目茶苦茶にまくし立てているだけのなのはわかっていたが、景都の潤んだ瞳を見てしまったら動揺が頭の中を走り回って、心臓は激しく脈打って息苦しく、顔は火が出そうなほど熱く、どうにも抑えが効かなかった。

 そんな淳弘の取り乱す様子を見て、自分の方の気持ちに張り詰めていたものがほぐれたのか、景都は頬をゆるめて、くすりと小さく笑みを零した。

「おあいこ。そうかも知れませぬ。ふふ、私と淳弘はおあいこなのですね」

 景都の笑顔を見て、淳弘はまた目眩を感じた。

 とても冷静ではいられない。

 少し頭を冷やさなくては。

「景都、お腹空いてない?」

「え?」

「晩ご飯作るから、一緒に食べよう。すぐにできるから、テレビでも見て、ちょっと待ってて!」

 淳弘は呆気に取られる景都をその場に残してキッチンへ逃げ込んだ。


§

 

 その場に取り残された景都は呆気に取られて目をしばたかせ、手持ち無沙汰気味に紅茶のカップに手を伸ばし、それから、ふわりと口元に笑みを浮かべた。

 十年もの月日が流れ、景都も淳弘も姿形は大きく変わった。景都が美しく育ったように、十年前のあどけない少年もまた立派な若者になっていた。

 しかし、淳弘の態度に子供のような純朴さを見て取って、景都の薄い胸の奥がじんわりと熱を持った。

 両親を失った淳弘は傷つき辛い思いをしたに違いない。しかし、それでも心を歪める事なく、純粋な善良さを失わずにいるのだろう。ほんの少しのやり取りを交わしただけだったが、景都はそう感じた。

 景都のために、母が淳弘の事をいくらかは調べて教えてくれていた。とは言っても、今の住まいと、両親を亡くした後、祖父母の元に引き取られたという事くらいではあったが。淳弘がどのように育ったかも、その近況も何も知ってはいなかったが、きっと、家族に愛されて幸せに暮らしていたに違いない。

 ごく当たり前の、人間らしい生活を送ってきているのだろう。

 ──そして、それを感じるがゆえに迷った。

 自分の都合に淳弘を巻き込んでしまう事、淳弘の生活に自分という異質な存在が立ち入ってしまう事を。

 瞳に影を落としてうつむく景都の鼻腔にキッチンから漂ってくる食欲を誘う香りが刺激し、腹の辺りでくぅと音が鳴った。

 景都は恥じ入って頬を赤く染めた。


§

 

 キッチンに逃げ込んだ淳弘は、大きく深呼吸をすると、ぐるりと辺りを見渡しながら、夕食のメニューを何にするか思案を巡らせ始めた。景都の事でくしゃくしゃになった頭を落ち着かせるために、まずは気持ちを切り替えて別の事に集中して、その間に頭を冷やそうと思った。

 米は炊いており、鍋のカレーを温めれば一応は出せる物にはなるが、来客に振る舞うのであれば、もう少し格好をつけたい。

 カレーの鍋を弱火にかけながら、別の小鍋に少なめの湯を沸かす。その間にキャベツを数枚はがして水洗いし、千切りにした。

 包丁を刻む手並みも慣れたもので、鮮やかでさえあった。

 思えば、料理に手を出すようになったのは、祖父母に引き取られて間もない事からだった。

 世話になる祖父母に子供ながら気を遣っていたので、何かと家で祖母の仕事を手伝うようにしていた。最初の頃はお互いに遠慮があってぎこちない所もあったが、やがて、祖母も淳弘が積極的に手伝いをしてくれるのを素直に喜んでくれるようになった。いつしか、家事の手伝いはほとんど習慣のようになってしまい、掃除や洗濯等の一通りの仕事はこなせるようになっていたが、中でも料理は楽しかった。

 楽しいので熱も入るし、腕も上達する。休日などに、すっかり趣味の一つになってしまった料理の腕を振るうのを家族も喜んでくれた。

 そうこうする間に、炊飯器の炊き上がりまでの残り時間を示す数字が少なくなり、小鍋では湯が沸騰した。温まってきたカレーを焦がさないようにかき回してから、小鍋に小さめに切り分けたブロッコリーを入れ、蒸し茹でにするために蓋をした。後は数分で蒸し上がるので、ザルに上げて水気を切ればいい。

 その数分を待つ間に、更に品数を増やすべく手をかける。

 カレーの添え物の定番と言えば、らっきょうや福神漬けなのだろうが、淳弘はどちらも苦手なので常備していない。代わりに味噌汁の具にしようと思って買ってあったミョウガを刻んで青じそ風味のノンオイルドレッシングをかけたものを小鉢に盛って箸休めに用意した。ついでに、前日に作った残りの叩きゴボウも冷蔵庫から取り出す。こちらは胡麻だけでなく山椒を少し振ってアクセントを加えている。

 炊き上がったご飯とカレーを皿に盛り、ブロッコリーと先のキャベツの千切りを添えて彩りを加えれば、見栄えもそう悪くない仕上がりだった。小品も二つ用意したので、食卓が寂しい事もないだろう。

「よし──、あ、しまった」

 と、頷きかけて、淳弘は舌打ちした。

 やはり、動揺していたせいだろう。景都に食べ物の好みを何も聞いていなかった事に今更ながら気が付いた。

 とは言え、今となっては後の祭りだ。

 淳弘は小さく溜め息を洩らし、景都の口に合う事を祈って、不安を胸に皿を手に取った。


§

 

「まあ」

 と驚きの声を上げ、景都は目の前に置かれた皿を見て目を丸くした。

「ごめん。食べ物の好みとか訊くの忘れて勝手に用意しちゃったから、苦手だったら遠慮なく言って」

「いいえ、そのような事は! とても美味しそうです。淳弘は料理が上手なのですね」

 テーブルの上にはカレーの皿と、刻んだミョウガと叩きゴボウの小鉢、冷水のコップ、それと、スプーンと小鉢を摘むための箸が並んでいた。

「そんな大した事はないよ。半分くらいは温め直しただけみたいなもんだしね」

 景都の賞賛が照れ臭く、淳弘は謙遜するが、その手並みは確かなものだった。

「これは……カレーライスですね?」

「うん?」

「私、いただくは初めてです。ええと、この匙でいただけばよいのですよね?」

「え! あ、ああ、うん」

 意表を突く景都の発言に面食らいながら、淳弘はそれを表に出さないように抑えて頷いた。言われてみれば、景都がどこでどのような暮らしをしていたかなど何も聞いていないのだ。淳弘の生活ではごく当たり前の事が景都の生活にはなかったのか知れないし、また、その逆もあるのだろう。

「はい。では、いただきます」

「うん、どうぞ。口に合うといいけど」

 淳弘はじろじろ見ては悪いと思いつつも、景都がどんな反応をするのか気になって、つい、静かにスプーンを口に運ぶ姿に目を向けてしまう。

「まあ……」

 一口、カレーを食べた景都が声を洩らした。

「……美味しい」

 その言葉に、淳弘もほっと安堵の息を洩らした。景都の嬉しそうな表情を見るに、お世辞で言っている訳ではなさそうだ。

「カレーライスとは、こんなに美味しい食べ物なのですね。私、驚きました」

「良かった。気に入ったら、どんどん食べてよ。少しならお代わりもあるから」

「まあ! 私、そんなに意地汚くはありません」

 と、景都は眉根に小さく皺を寄せた。

「あ、ごめん。別にそんなつもりじゃ」

「いえ……。ただ、ですけれど、その、もし……、お料理が余るようでしたら……、少しくらいなら、いただけるかも知れません……」

 そう言って、景都は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。

「うん。たくさんあるから、食べられそうなら片付けるの手伝ってね」

 淳弘は景都に笑みを向けて、自分もスプーンを手に取った。


§

 

「私、こんなハイカラで美味しい料理をいただいたのは初めてです。本当に驚きました。それと、叩きゴボウに山椒って良く合うのですね」

 夕食を終え、皿をキッチンに下げた淳弘が戻ると、景都が幸せそうに微笑んだ。

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」

 と、淳弘は緑茶の湯飲みをテーブルに出しながら素直に喜びを口にした。

 景都は淳弘の料理を残さず喜んで食べてくれて、カレーは半皿分ほどお代わりもしてくれた。

 色々とアイデアを練って工夫したり、実際に料理をするのも楽しいが、やはり、作った料理を食べてもらって喜んでもらえるのが何よりも嬉しい。

 腹もふくれ、茶を啜って一息吐いた穏やかな空気の中ではあるが、その中に一筋緊張の糸が残っている。

 そこから目を背けたままでいる事はできず、いつかはふれなくてはいけないが、互いにそこにふれるのをためらっていた。そこにふれてしまえば、今、この場にある穏やかな空気は消え去ってしまうから、それが惜しくてたまらなかった。

 しかし、本来ならば、それは真っ先にふれるべきものなのだ。

「景都──」

 先に淳弘が口火を切った。

「その、何から聞けばいいのか──」

「──淳弘」

 言いかけた言葉を景都がさえぎった。

「話します。私から、何もかも話しますから聞いて下さい。巧く話せるかわかりませんが、まずは聞いて下さいますか?」

 景都は真剣な瞳で唇をきゅっと引き締めた。おどおどした雰囲気が抜けた訳ではないが、それでも凛とした懸命な表情で背筋をぴしっと伸ばしている。

「うん、わかった。景都の話、聞かせて」

「はい」

 こくりと頷いた景都は、静かに一つ深呼吸をしてからゆっくりと話し始めた。

「淳弘も承知かと思いますが、私は見た目はこのようですが、人間ではありません」

 その言葉に、淳弘は黙って頷いた。

 十年前の事故の日、景都は淳弘の怪我を治し、奇怪な化け物を相手に尋常ではない身のこなしで丁々発止の立ち回りを繰り広げた。到底、あれが人間業とは思えない。

「あやかし、妖怪、化生けしょう、そう呼ばれる類のものです。私の一族は『鬼喰い』と言います」

 その名前は淳弘の記憶にもあった。魑魅相手に啖呵を切る景都が自らをそう名乗っていたという覚えがある。

「その名の通り、鬼を、というよりは妖怪の類なら何でも捕食します。と言っても、実際に血肉を食する訳ではなく、生気を吸い取って獲物を死に至らしめます。そうして、吸い取った生気を我が物として、妖力や不老長生の源とするのです。そのため、あやかしからも同族殺しの天敵と恐れられ、忌み嫌われております」

 淡々と、表情を消すようにしてそこまで話して、景都は淳弘に冷たく細めた目を向けた。

「信じられますか?」

「信じるよ」

 淳弘は即答した。

 突拍子もない話かも知れない。突然、聞かされたのであれば信じがたい話だろう。しかし、淳弘は十年前に景都に会い、魑魅の群れを目にし、景都と景都の母に命を救われているし、今朝も少女の幽霊と出会って世話を焼いていた。既に人知の域外を体験しているのだ。その存在を疑う必要はなく、後はその実体を知るだけの事だ。

「では、私が恐ろしくはありませんか?」

「怖くないよ」

 再び即答した。

「確かに、本当は怖いものなのかも知れない。妖怪っていうのは、僕もよくは知らないけれど、もし、色々な言い伝えにあるような通りなんだとしたら、人間にはないような強い力を持っていて、喧嘩をしたら敵わないような相手なのかも知れないけれど──」

 景都を真っ直ぐに見つめ返せば、感情を押し殺すようにしながら、わずかに不安そうな色が隠しきれずににじんでいる。

「──でも、景都は怖くない」

 そう言って、にこりと笑った。

「やっぱり、景都にまた会えたのは嬉しいんだ。景都の事を怖がったりなんてしないよ」

 見る見るうちに景都の顔が真っ赤に染まった。

 正体が恐ろしい妖怪なのだとしても、目の前の景都は可憐な少女にしか見えない。

 おそらく、自らがどういう存在であるかを明かすのは、景都にとっても抵抗のある事だったはずだ。話してしまえば、恐れられ、拒まれるかも知れない。それでも、包み隠さず正直に話してくれたのは、景都の淳弘に対する誠実さなのだろう。ならば、誠実さには誠実さで応じるべきだ。だから、淳弘も素直な気持ちを正直に話した。

 淳弘は十年前に命を救ってくれた少女を信じると決めていた。もし、景都が偽りを告げるなら騙されてもいい。盲目的に信じるのは危険だとは思うが、もはや、理屈ではない。淳弘は自分の気持ちをはっきりと自覚していた。

 景都に恋をしている。きっと、十年前からずっと恋をしていたのだ。

 他の女の子に気持ちが向かなかったのも、今にして思えば納得がいく。そこにはずっと景都への想いがあって、他の気持ちが入り込む余地などなかったのだ。

「……ありがとう」

 取り繕った冷静さが崩れ落ちた景都が小さな声で呟いた。

「その、話を続けますね」

 頬に紅葉を散らしたまま、何とか表情だけは真剣に引き締め直して、景都は話を再開した。

 曰く、『鬼喰い』とは、あやかしを間引く一族なのだ、と。

 増えすぎた種があれば、これを弱いものから狩っていく。獲物から妖力を得た鬼喰いは力を増し、更に強いものを狩り、生き残れるのは鬼喰いに対抗し得る力を持つ少数のみとなる。

 獲物の数が減ると、鬼喰いは妖力の供給源を失い力が弱まり、その分、狩られずに生き残る強さのボーダーラインが下がる。

 そうして、あやかしが力を増しすぎる事も、弱まりすぎる事も防ぎ、パワーバランスを保つための調整をするのだと言う。

「ですが、『鬼喰い』という一族は不要になりました」

 景都はぽつりと呟くように言った。

「あやかしは、もう、間引くほどの数がいないのです」

 古来より、あやかしは山川と宵闇の中に潜んできた。木々の狭間に。水の底に。土の下に。霧の向こうに。影の中に。人の目の届かない所にそれは確かにいた。

 山水の精霊。土着の神。時に慈悲深く人を守り、時に残酷に人を食い殺す。崇められ、畏れられる者達は、人々の暮らしと目に見えない形でつながって、秘やかに存在していた。

 ──しかし、それはもう昔の話。

 山は切り開かれた。川はコンクリートで堰き止められた。夜の闇さえも電気の光に追い払われた。あやかし居場所は人の畏れ崇める所にあったが、人は知恵と技術の発展により、かつては手の届かなかった領域を開拓し、征服していった。

 あやかしは住み処を失い、人はその存在すら忘れた。

 もはや、あやかしは滅びゆく道しか残されていない種であり、その道を行く歩みは止まる事なく加速するばかり。そして、あやかしが姿を消すにつれ、鬼喰いも一人また一人と消えていった。いずこへともなく去り、そのまま行方の知れなくなる者もいた。あやかしを食わずに妖力を失い、老いて寿命を終える者もいた。力を失う事を恐れて無理にあやかしを狩ろうとし、返り討ちに遭って死ぬ者もいた。そうして、鬼喰いもまた絶滅を目前に控えていた。

「私は母上と二人、あやかしを喰らう事もやめて、深山でひっそりと暮らしておりました。そして、先日、母上が亡くなりましたゆえ、私が鬼喰いの最後の一人です」

 景都は静かに告げた。

「もう、鬼喰いは終わりです。私が最後で、鬼喰いというあやかしはこの世から消えます。ですが、それはそれでよいのだと思います。生きる場所も役目も失った種が滅びるのは世の定めでしょうから。

 ──ですが、役目を終えた一族として、最後の残り滓のように無為に生きていくのは、少し辛いのです」

 そう言って、景都は寂しげに微笑んだ。

 鬼喰いという種が絶え、その最後の一人である景都が避け得ぬ滅びに向かって緩慢に歩むだけの余生を送るというのなら、それがどのようなものなのか、淳弘にはとても察する事などできはしないが、きっと、悲しいものである事は違いないだろう。

「ですから、私は鬼喰いである事をやめたいのです。鬼喰いとしての力を潔くすべて手放して、人になりたいと思っています。人の住む街で、人に混じって生きていきたい。人として生きて、人として子を生み育んで、人として死んでいきたいのです」

「景都──」

 淳弘は景都の言葉を慎重に噛み締めた。真剣に切々と語る言葉は、いい加減に応じていいものではない。

「それは……可能な事なのかな? 景都が人間になって生きていくって事は。こういう言い方はどうかと思うけど、景都が持っている力っていうのは、手放す事ができるものなの?」

 淳弘も気持ちとしては、景都の言葉にただ頷きたかったが、現実としてそれがどういう事なのか、景都が真剣であればこそ、しっかりと確かめて考えなくてはならない。もし、それが難しい事ならば、景都のために何ができるのかを含めて。

「はい」

 淳弘の不安を余所に、景都ははっきりと頷いた。

「鬼喰いの力の源は、他のあやかしの生気です。あやかしを喰らう事をやめれば、妖力は衰え失われます。妖術を操る事も叶わなくなり、不老長生も失って、人と同じように年老いて死んでゆきます」

 景都の言葉を聞いて、淳弘は一つ大きく深呼吸をし、気持ちを引き締めて再び口を開いた。

「だったら、僕に力になれる事はないかな?」

 そうはっきりと口に出して言った。

「景都がこれから暮らしていこうとする中で、色々と大変な事もあるかも知れないけど、そういう時は力になりたい。景都の手助けをさせて欲しい。もし、迷惑でなければだけど」

 一度、言葉を切って景都の様子をうかがう。視線の先には驚いたように口元を両手で押さえる景都の姿があった。

「景都は、僕を頼って来てくれたって、そう思っていいのかな?」

 そうでなかったら、ひどい自惚れのようでみっともないな、と思いながら、淳弘は小さく照れ笑いを洩らしたが、それは杞憂だった。

「いいえ! いいえ、そんな……」

 うっすらと目元に涙を浮かべ、景都はふるふると首を横に振った。

「……私、不安でした。十年前に一度会ったきりなのに、図々しく押しかけて、忘れられていたり、追い返されるのではないかと……。母上も亡くなって、私、一人きりで心細くて……、誰も頼る当てもなくて……」

 こらえきれずにぽろぽろ涙を零す景都は、言葉を続けられず嗚咽を洩らした。

「……嬉しい」

 そう呟いて、泣きながら微笑む景都を前にして、淳弘はどうしていいかわからなくなった。目の前で泣いている女の子をどう扱ったらいいかなど、皆目見当もつかなかった。

 ただ、泣かせたまま放っておく事などできない。

「景都、泣かないで」

 淳弘は景都の隣へ寄ると、ティッシュを取って目元へあてがった。

「……はい。ええ、大丈夫です……。ただ、嬉しくて……」

 目を潤ませる景都の姿を間近で見ると、顔がかあっと熱くなり、胸をずしんと重たい衝撃が貫いた。

 ──ああ、もう駄目だ。僕は本当にどうしようもないくらいこの子に夢中だ。

 淳弘は衝動的に景都を抱き締めたくなるのを必死にこらえながら、ただ、涙を拭う景都の姿に見とれてしまっていた。

 

「落ち着いた?」

「ええ。ごめんなさい、取り乱してしまって……」

 しばらくの後、淳弘の問いに答えて景都は赤い目を押さえて恥ずかしそうに頬を染めたが、淳弘の方こそ動揺を静めようと必死だった。

「淳弘」

「うん?」

「……ありがとう」

 恥じらう景都の仕種にどきりとする。

「それで、お願いがあるのですが……」

 景都は恥ずかしそうに淳弘の顔をうかがって言った。

「この街を案内してもらえませんか? 私、地の利がありませんので、この街の様子を知っておきたいのです」

「いいよ。そんな事くらいならおやすいご用。早速、明日にでも案内するよ」

「はい。ありがとう、淳弘」

 景都は安堵したように笑みを零した。しかし、その直後には、また困ったように目を伏せて、ちらちらと淳弘に視線を投げながら、言いづらそうに唇を震わせた。

「……あの、それと……、厚かましいとは思うのですが……」

「うん? いいよ。何でも遠慮せずに言ってよ」

「……あ、はい……」

 淳弘がおどおどする景都を促すように言うと、景都はおずおずと先を続けた。

「……その、しばらく、ここに置いてはもらえないでしょうか? 私、行く宛てがないものですから……」

「うん、そんな事なら構わな……えっ!?」

 思わず頷きかけて、淳弘は頓狂な声を上げた。

「……あ、ごめんなさい。やはり、厚かましかったですよね……」

「いや、そんな事ないよ! そんな事ないけど……」

 景都の表情が曇るのを見て、淳弘は何とかフォローしようと思いながらも、言いづらそうに言葉を濁らせた。

「そんな事はないけど……ちょっと、色々とまずいかな、って……」

「……はい、勝手を言ってすみません」

「いや、だから違うって! そうじゃなくて、別に迷惑とかじゃないし……、ただ、ええと、つまり、さ……」

 肩をすくめた景都がますます沈んでしまうものだから、淳弘は慌てて言いつのった。

「今、この家、僕一人だから……。二人きりになっちゃうけど、それは、倫理的に、さ……」

 淳弘の言葉に小首を傾げた景都は少しの間考え込んで、それから、言わんとする所に気が付いたようで、はっと頬を赤く染めた。

「……あ、その……」

 目を逸らした景都がもじもじしながら呟く。

「……私、構いません……」

「えっ?」

 耳まで真っ赤になった景都がちらりと淳弘に目を向けてから、また、恥ずかしそうに目を逸らし、顔を両手に伏せた。

「……その、淳弘が望むのなら、私は……構いません。ただ……、そうした事は、は、初めてですので、巧くできるかどうか……。ですから、できれば、その……、や、優しく、手ほどきを……」

「い、いやいや! しないから! そんな事しないからっ!」

「あ……、そう、ですか……。すみません、私、勝手な事を……。やはり、私などでは……。このような貧相な体は、殿方はお嫌いでしょう……」

「そういう事でもないから! いいから! 好きなだけ泊まってっていいから!」

 淳弘は破れかぶれで悲鳴のように叫んだ。

 

「それで、景都は荷物とかはないの? 着替えとか、色々と」

 身一つの様子の景都に淳弘が訊ねた。

 結局、景都は淳弘の家に泊まる事になったのだが、着替えやら何やら必要な物は色々とあるだろう。

「はい。身の回りの物は持参しています」

 祖母の服に何か着られるものがあるだろうか、などという事まで考え始めた所へ、景都がそう答えたが、どう見ても景都は手ぶらで、鞄一つ持ってはいない。

「着る物も何着かありますし──」

 と言いながら、景都は右手を左の袖に潜り込ませ、中から紅梅色の道行(みちゆき)と白地の筒袖を引っ張り出した。品良く華やいだ色合いの道行は、景都が羽織れば良く似合うに違いない。無地の筒袖は寝巻だろう。

 問題はそれが景都の袖の中から出て来たという事。当然、片袖の内側に収まるような大きさではない。

「私、妖術は苦手ですが、このくらいの手品でしたら何とか」

 淳弘の目に驚きの色が浮かぶのを見て、景都は小さな声で控えめに言った。

 それから、更に続けて袖から様々な品を取り出していく。着物が更に数着、硯箱、香箱、櫛に手鏡、針箱と物差し──。

 淳弘は思わず浮かんだ未来の世界の猫型ロボットのイメージを頭から振り払った。

「えっと、景都──」

 途惑いをにじませる淳弘の声に、景都は袖に入れた手を止めた。

「うん、これは、何て言うか、すごく便利だね。ただ、ちょっと──」

 淳弘は言葉を濁らせて苦笑を浮かべた。

「大変な感じになってるかな」

 言われてはっとした景都が周りを見回せば、次々と袖から取り出した荷物が山をなして辺りを埋めつくしている。

「あ……」

 惨状に気付いた景都が見る間に顔を赤くした。

「すみません! すぐに片付けます!」

 慌てふためく景都が散らかした荷物を片っ端から袖の中に詰め込んでいく様子に、淳弘は柔らかい気持ちで笑みを零した。

「そんなに慌てなくていいよ。部屋の支度とかするから、少しゆっくりしてて」

 そう告げて、淳弘は景都の茶を淹れ直すためにキッチンへ足を向けた。

 

§

 

 家の中の事を淳弘一人で切り回すのにも慣れてきてはいたが、家中すべてに手を行き届かせるのはなかなか重労働なので、つい、自室や居間やキッチンなどのよく利用する以外の空間の掃除はおろそかになってしまう。それでも、客間は不意の事にも対応できるようにと思い、ついでに掃除をする習慣がついていた。

 おかげで、客間の和室の空気を入れ換え、客用の布団を敷いて、景都の泊まる部屋の支度をするのにも手間をかけずに済んだ。

 風呂の支度をして、景都に使ってもらっている間に、洗い物を片付け、客間に床を整え、明日の都合が悪くなった旨の謝罪を智史に連絡してから、テキパキと家事をこなして明日の朝食の献立をどうしようかなどと考えてる自分を振り返って、所帯くさくなったなあ、としみじみと感じた。

 居間のテレビをつけて、特に何を見るという目的もなくチャンネルを順番に切り替えて、適当なバラエティ番組を流したまま、茶を淹れて一息吐いた。テレビの音に混ざって、風呂場から聞こえる水音に、同じ屋根の下にいる景都の存在を改めて意識して、何となく気恥ずかしくなった。

 景都の事で、一遍に随分とたくさんの事が頭に入ってきて、まだ、きちんと整理がつかないでいる。

 ──もし、何かに迷う事があれば、自分の中で大事な事の優先順位を決めて、それに従って行動すればいい。

 そう教えてくれたのは祖父だった。迷ったり、ためらったりして、大切な事をすべき時に機を逃さないよう、し損じないよう、なすべき事をせずに後悔しないよう、そうした心構えを持っておくように、と。

「僕の場合は──」

 ぽつりと言葉が口をついた。

「──景都が困っているなら、力になりたいな」

 零れた言葉の通り、何よりも先に浮かぶのは景都の事だった。

 それが景都に焦がれて目が眩んでいるせいだとしても、今、淳弘にとって第一に挙がるのが景都の事であるのは間違いない。

 だから、今は何よりも景都の事を考えて、それに従おう。

「──うん。景都のためにできる事なら何でもしよう」

 そう口に出して言う事で、自分の気持ちをきちんと固めて形を作った。

 程なくして、湯上がりの景都が居間へ姿を覗かせた。

 白の筒袖を羽織った景都のつややかな濡れ髪と桜色に上気した肌の色香に、淳弘は息を呑んだ。石鹸ともシャンプーとも違う甘く芳しい香りが湯気のように立ちのぼって鼻腔をくすぐり、意識がぼやけてまるで夢現のような心地がした。

「あのぅ……」

「あ! うん! 上がったんだ。湯加減どうだった? 熱すぎなかったかな?」

「いえ、よい湯加減で、いい気持ちでした」

「あ、そう。よかった」

 景都に声をかけられて我に返った淳弘は、呆けていた事の後ろめたさにどぎまぎしながら笑みを形作った。

「それじゃ、僕も一風呂浴びてくるから、好きにくつろいでて。何か飲みたかったら、冷蔵庫のものでも何でも好きにしていいから」

 そう言うと、淳弘は逃げるように居間を後にした。


§

 

「ふぅ」

 湯船に身を沈め、淳弘は深々と息を吐いた。体を湯にひたす心地好さに思わず安堵の声が洩れる。

 景都の来訪で緊張と動揺だったため、気を抜くとどっと疲労感が押し寄せる。浴槽に寄りかかって顎まで湯につけ、頭の中のもやもやしたものも一緒に吐き出すように深く息を吐いた。頭を空にして、全身を包む温かさに陶然として目を閉じる。

(このお湯に景都も入ってたんだよな……)

 ふとそんな考えが頭をよぎった。体の力が抜けて、顎まで湯につかった体勢が更に沈んで、口元まで水面にひたった所で我に返った。

(何を考えてるんだ! 変態か、僕は!)

 誰に見られている訳でもないが、思わず恥じ入って姿勢を正した。

 人より幾分か落ち着いた感があるとはいえ、淳弘も多感な年頃だ。多少、色めいた方面へ意識が向いても、それを責めるのは酷であろう。

 それはさておき、景都と再会した数時間前から、何をしていても景都の事が頭から離れない。他の事を考えていても、気を抜いた隙間にはすぐに景都の事が浮かび上がってくる。

「さっきの……聞かれたかな?」

 ぽろりと零した独り言を景都に聞かれたのではないかと思うと、気恥ずかしさがこみ上げて全身をかきむしりたくなるようだった。


§

 

「ほ」

 キッチンにたたずむ景都は、頬に手を当てて思わず声を洩らした。

 風呂上がりの火照った体を冷やしたくて、水を一杯コップに注いだ。口に含んだ瞬間、水道水の臭いは少し気になったが、冷たさの方が恋しくて、そのまま飲み下した。

 冷たい水が喉から体の中を流れ落ちていくと、冷たい芯が一本通ったようで、いくらか気持ちが引き締まった。

 淳弘の言葉は聞こえていた。聞いた瞬間、湯上がりの温まった体が、更にかあっと熱くなった。

 淳弘が寄せてくれる好意が嬉しい。胸が弾んで頬がゆるんでしまうのを抑えられない。

 しかし、同時に後ろめたくもある。それほどの好意を寄せてもらえる事を、無条件に信じてもらえている事を、そして、そんな淳弘に甘えて世話になり、これから迷惑をかけるであろう事を。

「決して──」

 自分がここにいるせいで、淳弘の身に危害が及ばないように、傷つく事がないように、それだけは守らなくてはならない。

 我が身に替えても淳弘だけは守ろう。そう誓って我が身を縛る枷とする。そして、その枷は景都を縛り、同時に支えとなるだろう。

「決して、淳弘を傷つけさせない」

 声に出して呟き、誓いを心に刻む。その形を強く深くするために。淳弘が景都への想いをそうしたように。

 

 そうして、夜は更けていった。

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