回想──志岐淳弘
それは十年前の出来事だった。
なめらかな感触が顔を撫でて、それから、誰かの手──小さくて柔らかい手がゆっくりと繰り返し髪を梳いて整えているような、そんな感触に心地好い安心感を覚えて、再び意識を落としかけたのだが、全身に走った痛みのせいで、まどろみのような心地好さは吹き飛び、急速に意識が覚醒していった。
右目は熱を持ってじんじんと痛み開けられなかったので、左目だけを開いた。
目を開くと、最初に映ったのは自分の顔を覗き込む少女の姿だった。
歳は淳弘と同じくらい、八才くらいだろうか。
艶やかな黒髪。すっきりした輪郭。抜けるような白い肌。形のよい唇。長い睫毛に縁取られた瞳。濃い赤の和服がよく似合い、まるで人形のようだった。
美しい少女だった。
何もかも忘れて少女に見とれた。
もしも、この世に『お姫様』というものがいるのなら、きっと、この子がそうなのだろう、そう思った。
「気が、ついたか?」
少女の声が耳朶を打った。
子供らしく少し舌足らずだが、涼やかで綺麗な声だった。
それから、淳弘はようやく自分が少女に膝枕をされているのだという事に気が付いて、かあっと顔に血が上るのがわかった。
「顔が赤い。痛むか?」
正直、体中がズキズキ痛んでおり、右目は痛みを通り越して感覚もなくなりかけていたのだが、見栄を張って首を横に振った。
「そうか。あちこち打っておる。後で痛むようになるやも知れぬぞ」
やけに古めかしいしゃべり方をする少女の声を聞きながら、淳弘は少しずつ今の状況について考えを巡らせていった。
少女の顔の向こうには、生い茂る木々の枝が絡み合い、遠く狭い夜空が微かに見えた。
「そうだ、車が……」
思い出したのは急ブレーキとタイヤが滑る音。ガードレールを突き破った車が崖下へ落ちていき、そのまま意識を失って──。
はっとして辺りへ視線を走らせると、遠く離れた場所に車の残骸が見つかった。
「ならぬ」
車の方へ目を向けた淳弘の頭を少女が抱え込んだ。
「あれは見てはならぬ」
悲しそうな少女の瞳が真っ直ぐに淳弘を見据えた。
その瞳の色に淳弘は悟った。
自分が乗っていたあの車の中には──他に両親が乗っていたはずの車の中には、もう、生きた人は誰もいないのだ、と。
「泣くでない」
少女が淳弘をぎゅっと抱く腕に力が込められた。
「男の子は泣かぬものじゃ」
「泣いてなんか……」
そう言いかけた声が震えて喉が詰まった。
「そうか。ならばよい」
涙を零す淳弘を少女は優しく抱き締めた。少女の着物の片袖が泥と血でひどく汚れていたが、それが自分の顔を拭ってくれたからだという事にまでは気が回らなかった。
少女の体からは、清々しく甘い香りがして、その香りに包まれていると、淳弘の気持ちも和らいでいった。
「目蓋が切れておるな」
少女がぽつりと呟くように言った。先からずっと熱を持った右目は痛みが麻痺して感覚が薄れていた。
「目を閉じて、じっとしておれ」
言われるままに目を閉じると、目蓋に温かくてぬるっとしたものがふれた。
「じっとしておれと言うに」
思わずびくっと身を震わせると、少女が少し怒ったように言った。
再び、目蓋にぬるりとした感触。
少女は淳弘の目蓋をなめているのだ。
唾液に濡れた舌の感触だけでなく、少女の吐息が目蓋にかかり、たまらなくくすぐったいながらも、どこか恍惚とした感覚が染み入ってくるようで、淳弘の体から無駄な力と緊張が抜けていった。
少女の舌は目蓋の上を這うだけではなく、目蓋の合わせ目を押し広げてその奥にまで滑り込んだ。少女の舌先が眼球をちろちろと舐め回し、淳弘は驚愕に息を呑んだが、痛みや不快感はなく、目蓋をなめられていた時よりも深く奥へと染み込んでくるくすぐったさに、呑み込んだ息を大きく吐き出した。
心地好いぬるま湯に包まれるような穏やかさに身を委ね、されるがままに任せているうちに、やがて少女が舌を引いてすっと顔を離した。
「どうじゃ? まだ、痛むかや?」
言われて我に返った淳弘は、目の上にわだかまっていた痛みがすっかり消えている事に気が付いて、言葉をなくしたまま、小さく首を横に振った。
「そうか。よかった」
そう言って、少女はほのかに頬を赤く染めて微笑んだ。その笑顔に、淳弘はどきりとして自分も顔を赤くした。
「深い割に大した事はない。大事ないが、もう少しよくなめておいてやろう」
そして、少女は淳弘の目蓋に舌を這わせた。
「うっ!」
「む? やはり痛むかや?」
思わず声を上げた淳弘に、少女は気遣うような顔を向けたが、淳弘が慌てて首を横に振ると、「そうか」と答えて、再び目蓋の傷をなめ始めた。
ぞくぞくするような感覚が背筋を駆け上がっていき、淳弘は声を洩らさないようにぐっと唇を噛んだ。
少女の小さな舌が傷の汚れを綺麗になめ取って、代わりに唾液を塗り込んでいくごとに、不思議と痛みが和らいでいった。
「ん、ふん……」
喘ぐような吐息を洩らして、少女は淳弘の目蓋をなめ続けた。
「ん……」
淳弘もこらえ切れずに声を洩らした。
唾液をたっぷりと含んだ口で淳弘の目に吸いついて、少女は舌先で傷をほじるかのようになめ回した。傷口をいじり回されてもまったく痛みはなく、逆に今まで味わった事のない愉悦が肛門から脳天まで貫き通すかのように走った。
目を閉じた少女が頬を真っ赤に染めて、一心に自分の目蓋をねぶる様子は、ぴったりとくっつきすぎていて、はっきりと見て取れるようなものではなかったが、自由な左目には少女の襟元からほのかに汗ばんでピンク色に染まった
柔肌がはっきりと映り、少女の甘い体臭と湿り気を帯びた体温に包まれていくようだった。
淳弘の体中で、少女がなめた目蓋だけがじわじわと炙られるように熱く、それ以外の場所は麻痺してしまったかのように力が抜けていった。
高鳴る心臓の音と、乱れる呼吸の音と、少女の舌が奏でる水音だけが意識に響き、そのまま、眠りに落ちていきそうになる──。
「あ……」
不意に少女が目蓋から口を離し、その瞬間、淳弘の意識も靄のかかったような状態から、すっと明瞭に晴れ渡った。
「これは……、その……」
少女は淳弘から身を離して、悲しみや恥じらいや罪悪感や、様々な感情がないまぜになったような混乱した表情で言葉を詰まらせた。
「すまぬ……。そんなつもりでは……」
少女は淳弘の手を離して、ひどく落ち込んだように力なくうなだれた。
淳弘はそんな少女にどう声をかけていいかわからず、途惑いながら自分の右目蓋に指でふれた。
「傷……、ふさがってる」
驚きに目を見張った。
痛みが消えただけではない。指でふれた感触には、傷口が開いている様子はなかった。淳弘自身で見て確かめる事はできないが、少女の唾液に濡れてぬらぬらと光る傷跡は、うっすらと白い筋が残るだけになっており、さっきまでぱっくりと口を開けて肉を覗かせていたとは信じられない。
恐る恐る右目を開けてみれば、森の風景と少女の姿がはっきりと映る。
「うわ……、これ……」
うなだれた少女は、淳弘の声に怯えるように肩をすくませて縮こまっていた。
「治ってるんだ! すごい!」
喜色に満ちた淳弘の声に弾かれるように、少女は思わず顔を上げると、賞賛にきらきらと輝く瞳と真っ直ぐ目が合った。
「傷、ふさがってる、治っちゃってる。君が、治してくれたん、だよね? ありがと! なめると治るの? すごいや。魔法使いみたいだ」
驚きをすべて良い方に向けて、純粋な感謝と賞賛だけを浴びせてくる淳弘の笑顔に、少女は固い表情を溶かして、静かに微笑みを返した。
「えっと、僕は──」
と、名乗ろうとした淳弘が凍りついた。その視線は少女を通り過ぎてその背後に向けられており、瞳には驚愕と恐怖の色があふれていた。
「何事か──っ!」
振り向いた少女が息を呑んだ。
淳弘の視線の先──少女の背後には異形の群れの姿があった。
獣面人身、あるいは、人面獣身の奇怪な存在がざっと十数体。殺気もあらわに二人を取り囲もうとじりじりと迫り輪を作りつつあった。
「
憎々しげに吐き捨てながら、少女ははっとして淳弘の方を振り返った。
「そなた、魑魅が見えておるのか?」
少女の問いの意味が理解できず、淳弘は答えられなかったが、その視線の向きを見れば答えは瞭然だった。
少女は再び魑魅の群れに向き直り、行儀悪く舌打ちを洩らして、背後の淳弘を押すようにしながら後ずさった。そのまま数歩下がると、淳弘の背中に大木が当たった。
「私が奴らを引きつけるゆえ、そのまま、木を背にしておれ。決して前には出てはならぬ。隙あらば逃げよ」
そうささやくと、少女はぱっと駆け出したかと思うと、正面の魑魅に飛びかかり、その猿面の首を一瞬でへし折った。
「卑しき魑魅ごときが何を思い上がっておるか! 私を『鬼喰い』と知っての狼藉か! 痴れ者どもが、身の程を知れ! 一匹残らず喰ろうてくれようか! 我が身が惜しくば疾くと去ね!」
少女は折れた魑魅の首をつかんだまま、朗々と響き渡る声で言い放ち、居並ぶ群れを射るように睨みつけた。
しかし、少女の威圧はまるっきり逆効果で、魑魅達は憎悪と怒りを全身から放ち、少女を囲んで身構えた。
「格の違いもわからぬ愚物が! 子の鬼喰いなら群れれば狩れるとでも思うたか! よかろう、それほどまでに死にたくばかかって参れ! こやつの後を追わせてくれるわ!」
そう言い放ち、少女はその細腕からは信じられない力で、手近な別の魑魅の方へ向けて、絶命した魑魅の体を軽々と投げつけた。
その光景を、淳弘はただ呆然と見つめるしかなかった。
少女の小さな体が縦横無尽に跳ね回り、一斉に襲いかかる怪物の群れの合間をすいすいとくぐり抜けながら、手足をつかんではへし折り、首を捕らえてはひねり、半人半獣の魑魅を次々と屠っていく。
十数はいた魑魅は少女と交錯する都度に倒れていき、見る間にその数を減らしていった。
圧倒的だった。少女は圧倒的に見えた。
──しかし、その実は違った。
地を蹴って跳ねるたび、魑魅の爪をかわすたび、少女は研ぎ澄ませた神経をすり減らし、全身の筋肉を酷使していた。細腕で魑魅の骨をへし折るために、渾身の力を振り絞っていた。少女が走れば滝のように流れ落ちる汗が飛び散り、荒く乱れた呼吸に小さな胸が大きく上下していた。
動き回る魑魅の姿が十を割り、五を割り、確実に数を減らしていったが、それに伴って、少女の疲労の色がどうしようもないほど濃くなっていくのは、立ちすくむ淳弘の目にもはっきりと見て取れた。
動きの鈍った少女を魑魅の爪がかすめるが、少女はその魑魅の頭を両手でがっしりと捕らえてひねる。犬のような頭が明後日の方を向いて、そのまま崩れるように倒れたが、足の止まった少女の背後から、別の魑魅が飛びかかろうとしていた。とっさに振り返った少女の疲れ切った足が木の根につまずいて反応が遅れる。魑魅が振り下ろす腕を避けるのが間に合わない──。
考えるより先に駆け出していた。
次の瞬間、淳弘は少女との間に割り込んだ自分の胸に、魑魅の爪が深々と食い込むのをはっきりと見た。
一瞬遅れて、引き裂かれた胸から血が噴き出し、両足から力が抜けた。
意識が薄らいでいく中、ぼやける視界に少女の泣き出しそうな顔が見えた気がした。
──ああ、この子が無事でよかった。
と、頭に浮かんだのはそれだけだった。
そして、淳弘はそのまま意識を失った。
淳弘がぼんやり意識を取り戻した時、誰かの背中に負われていた。
まだ目が覚め切らないようなおぼろげな意識の中で、優しい温かさが支えてくれているのを感じた。
それは、母に背負われているようでもあり、微かに鼻孔をくすぐる甘く清々しい香りは、先の少女のものに似ていた。
やがて、淳弘は背から下ろされ、地面に座らされた。尻の下には硬いアスファルトあり、辺りは薄暗い朝靄に煙っていた。
全身が気だるく、開くか開かないかの目蓋が完全に閉じようとしていた。
「勇ましくて優しい人の子よ」
静かな声が淳弘の耳元でささやいた。優しく響く大人の女性の声で、それが、淳弘を背負ってきてくれた誰かの声だという事は何となくわかった。
「わらわの名は
「……志岐……淳弘……」
朱梨と名乗った女に促されるまま、淳弘は弱々しい声を絞り出した。
「淳弘、よう、わらわの娘を守ってくれた。感謝しておる」
──それじゃあ、この人はあの子のお母さんで、あの子は助かったのか。よかった。
そう思って、淳弘は笑おうとしたが、感覚がぼんやりとしすぎていて、実際に笑えたかどうかはわからなかった。
「そなたがわらわの娘と会う事はもうないやも知れぬ。本来なら、我らは人と関わるものではないからの」
嫌だ、と言おうとして、おそらく言葉には出せず、唇がわずかに震えた程度だっただろう。あの少女に会えないのが嫌だった。少女の姿を思い浮かべる。その黒髪を、瞳を、真っ白な肌と赤く染まった頬を、綺麗な声を、そっと抱き締めてくれた優しい姿を、凛々しく戦う姿を、失いたくなかった。離れたくなかった。
「じゃが、もし、再び会うような事があらば、それまであの子の事を覚えておいておくれ。あの子を忘れないでおいておくれ」
忘れるものか。絶対に忘れたりするものか。
そう強く念じながら、淳弘は少女の名前も聞いていない事に気が付いたが、それを見越したかのように、声は先を続けた。
「あの子の名は、
ケイト。けいと。景都。
その名前を決して忘れまいと、淳弘は心の中で何度も繰り返し唱えた。
そして、少女の名を胸に刻みつけながら、淳弘は再び意識を失って眠りについた。
次に淳弘が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
両親と淳弘が乗る車が崖下へ落下した事故現場のすぐ近く、路上で眠っている淳弘が発見されて、病院へ収容された、との事だった。
崖下に落ちた車内から両親の遺体も発見され、どうやら即死だったらしい、と後に聞かされた。
淳弘にはほとんど怪我もなく、周囲の人々は、奇跡的だ、不幸中の幸いだった、と口々に言っていた。
崖下で出会った女の子の事は、当然、誰も信じてくれなかった。ショックで幻覚か夢でも見たのだろう、崖下からも自力で這い上がってきて、記憶も混乱しているのだろう、と取り合ってもらえず、少女が治してくれた目蓋の傷も、魑魅にえぐられたはずの胸の傷も、うっすらと痕が残るだけの完治した傷跡で、事故の時に負ったもののはずはないと診断された。
周りから少女の事をなかった事のように言い聞かされるのが嫌で、やがて淳弘は口をつぐみ、少女との思い出は自分の胸の中だけに大事にしまっておく事に決めた。
そして、十年が経ち、淳弘は決して忘れる事のなかったあの時の少女と再び巡り会った。
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