1.
十二月も後半、冷たく澄んだ朝の空気の中、高校へ向かう通学路。
見通しが悪い曲がり角の先、車が突っ込んできて危ないと苦情が出ていると噂で聞いた辺りで、つい最近も、小学生が車に轢かれて死亡する事故があったというニュースを聞いていた。
道端で腰を屈め、植え込みの奥に腕を押し込んで何やらごそごそ探っている男子生徒の後ろ姿から、振り返らずともそれがクラスメイトの
足を止めた茉莉花は声をかけようとして、淳弘の一心な様子に気後れし、そのまま開きかけた口をつぐんだ。
ちょっと声をかけるくらいの些細な事でもためらってしまう。あまりの気の小ささには、毎度の事ながら自分でも呆れていた。
そんな茉莉花の性格は、外見から受ける印象とほぼ相違なかった。
高くも低くもない平均的な背丈。着やせする体つきは、実はかなり肉感的で色香があるのだが、自身では寸胴だと思い込んでいてコンプレックスの元になっている。
どうも鈍くさそうな雰囲気があり、あまり運動が似合わなさそうで、実際、体力もあまりなく運動は苦手だ。
今時の高校生には珍しいナチュラルブラックの髪を一本に編んで背中に垂らし、顔立ちは素地こそ悪くないが、化粧っ気もなく、伏目がちで静かに縮こまっているせいで印象が薄い。濃いピンクのメタルフレームの眼鏡だけは洒落た所もあるのだが、スカートの丈を詰める事もなく、制服をぴっちりと着込んだ姿は、いかにも真面目な優等生だ。
総合すれば、真面目そうで地味な垢抜けない女の子、というのが茉莉花のイメージであり、それに間違いはなかった。
人通りの少ない路地ではあるが、皆無という訳ではない。
植え込みを必死にごそごそ探る男子高校生と、離れた所からその姿を熱っぽい視線で見つめる女子高校生の様子は、奇異なものではあったが、行き交う人々は関わり合いを避けるように通り過ぎていき、当人達も周囲の出来事など目に入っていないようだった。
「ん……、取れた」
淳弘の声がして、茉莉花は思わず緊張して背筋を伸ばした。
植え込みから引き抜いた手に何か小さな物をつまんで、淳弘は少し離れた塀の傍へ移って屈み込んだ。
塀の下には供えられた花束。
それを見て、茉莉花ははっとした。
つい最近、小学生の女の子が交通事故で亡くなったのが、まさにその場所だった。
「これでいいかな?」
そう言って、塀に向かう淳弘の姿は、まるで、屈んだくらいの背丈の相手に向かって手にした物を差し出しているようにも見えた。
それから、淳弘は手の中の物を花束に並べるようにして丁寧に置くと、立ち上がって後ろを振り向いた。
「あ、菅藤さん。おはよう」
「あ! うん、はい、お、おはよう、志岐くん」
茉莉花の姿を見つけて爽やかに微笑む淳弘と真っ向から視線がぶつかって、茉莉花は慌てふためきながら何とか挨拶を返した。
志岐淳弘とは、高校に入学して一年から三年まで、ずっと同じクラスだった。
背は人並み。美男子と言う程はないが、目立って不揃いな所もないので、結果として、そこそこ整った容貌とも言える。
丸みを帯びた濃いグリーンのプラスチックフレームの眼鏡は伊達だ。子供の頃に事故で負った傷跡が右の目蓋の上に残っており、そのせいで不要な迫力が出てしまうため、なるべく柔らかい印象を与える眼鏡をかけてカバーしているらしい。
「えっと、何してたの?」
と言った次の瞬間、茉莉花は慌てて付け足した。
「あ、あの! そんな、余計な事を詮索するつもりじゃなくて……、その言いたくなかったら、別に……」
「いいってば、そんなに慌てなくて。菅藤さんは気を遣いすぎだよ」
赤くなって弁解する茉莉花の様子に、淳弘は微笑ましげに頬をゆるめた。
「でも、そこが菅藤さんのいい所なんだろうね」
さらりと付け加えた淳弘の言葉に、茉莉花はどきりとして顔が熱くなるのを感じた。
そんな茉莉花の心情を知ってか知らずか、淳弘は先を続けた。
「ちょっと、探し物をね」
そう言った淳弘の視線の先に、茉莉花もつられて目を向けた。
「……おもちゃの、指輪?」
花束に並べて淳弘が置いた物は、小さなおもちゃの指輪だった。
ルビーを模したであろう飾りのついた、薄汚れた安っぽい子供の玩具だ。
「この子の宝物だったんだってさ。お祭りの屋台でお母さんにねだって買ってもらって、ずっと大事にしてたんだって。事故に遭った時、指から外して持ってたから、どこかに飛ばされて見つからなくなってたんだ。でも、近くにあってよかったよ」
「そう、なんだ」
呟いて、茉莉花は指輪と花束の前にしゃがんだ。
「見つかってよかったね。この子も喜んでるかな」
「うん。喜んでるよ。これで思い残す事もなさそうだよ」
淳弘も隣にしゃがんで言った。
色々と詳しく聞きたい気もした。淳弘には妙な噂もあり、それが関係しているのかな、などとも思ったが、訊かなかった。無闇に突っ込むような事ではない気がしたし、それに、茉莉花の性格では、どちらにしても訊けなかっただろう。
ただ、淳弘の優しい気持ちを覗く事ができた。それだけで満足だった。茉莉花は、淳弘のどこか浮世離れしているようで、穏やかで優しい、何だか少し不思議な雰囲気が好きだった。
茉莉花は淳弘と並んでそっと手を合わせ、見知らぬ少女の冥福を祈った。
「行こうか。少し時間を食ったけど、まだ遅刻はしないで済みそうだね」
立ち上がった淳弘が言うのを聞いて、茉莉花は一瞬、頭が真っ白になって、それから、淳弘と一緒に学校まで行くのだという事をようやく理解して、言葉も出ないまま首を縦に振った。
「あ、えっと、志岐くんはいつもこの道なの?」
「そうだね。いつもはもっと早いんだけど、今日は道草したからね」
三年間、同じ道を通っていたはずなのに、家を出る時間を正確に守り通していたせいで、道中で出会う事はなかったらしい。
それならば、もっと早く出発するようにすれば、また淳弘に会えるだろうか。そんな事を考えながら、茉莉花は頬が赤くなるのを抑えようと必死だった。
「おはよう」
「あー、マリ、おはよ、お……おおぉっ!?」
教室の扉をくぐった茉莉花を奇声が迎えた。
目を丸くして茉莉花の姿を凝視しているのは、クラスメイトの
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと来おぉぉいっ!」
美佳子は一直線に茉莉花の元へ駆け寄ると、そのまま腕を引っつかんで教室の片隅まで引きずって行った。
「な、何? どうしたの、ニカコちゃん?」
「どうした、じゃないでしょ!」
途惑いを隠せない茉莉花を抱え込むようにして顔を寄せる美佳子が声をひそめた。
ショートカットのよく似合う美佳子は明るく快活で、溌剌とした陽気さがあふれ出てくるような女の子だ。茉莉花とは逆のタイプだが、仲は非常に良い。
「志岐と一緒に仲良く登校ってどういう事よ? 遂に告った? OKだった!? どこまで行った? 聞かせなさいっ! その辺のくだりをつぶさに余す所なくっ!」
「そ、そんなんじゃないよ……。たまたま、途中で会ったから、一緒になっただけで……」
興奮に大きな目を爛々と輝かせて詰め寄る美佳子の迫力にたじろぎながら、茉莉花がしどろもどろに呟くと、美佳子は露骨なまでに失望をあらわにし、深く溜め息を吐いた。
「……ま、そんな事だろうとは思ったよ……」
美佳子は妙にしんみりして茉莉花の頭にぽんと掌を乗せた。
「ねえ、あたしらは三年で、もう十二月だよ。それがどういう事かわかってる?」
「……みんな、進路の事で大変……」
「違うっ! すぐに卒業だって事よ!」
美佳子は茉莉花の頭に乗せた手をいったん浮かせて、軽く叩いた。
「……痛い」
「あのねえ、あたしらの高校生活はもう残り少ないのよ」
茉莉花の抗議を無視して美佳子が続けた。
「いいの? うだうだうだうだうだうだうだうだっ! このまま好きな人に『好き』って言わないまま卒業しちゃって離れ離れになっちゃって。後には『ああ、あの時、勇気を出して言っておけば良かった』って後悔がいつまでも残るだけ。それを会えなくなってから思い出しては虚しくなるのよ。いいの? それでいいの!?」
「……あ、うぅ……」
美佳子に詰め寄られた茉莉花が項垂れた。
高校生活は残り少ない。美佳子の言う通りだ。
茉莉花も淳弘も既に推薦入試で大学に合格が決まっているが、その行き先は別々だ。年が明けて四月になれば、毎日、同じ学舎に通って顔を合わせるという事はなくなる。
「モタモタしてる場合じゃないでしょ? もうっ! あ、
美佳子に手招きされて、ちょうど教室の入口を潜った女生徒が席の方へしずしずと寄ってきた。
「美佳子、茉莉花、おはようございます。美佳子、何か私に用事ですか?」
丁寧な口調で応じる
すらりとした長身、背中を覆うほどの黒髪、涼やかな美貌。凛々しく気品のある物腰は浮世離れした令嬢然として、迂闊に手をふれる事をためらわせる神秘的な雰囲気すら身にまとっている。
「今日の昼休み、第四回『マリを志岐に告らせよう』会議を開催するわよ」
「左様ですか。私で役に立つかはわかりませんが、相談には乗らせていただきます」
「ちょっ……、ちょっと、何でみんなそんな自然に話を進めてるの!? 知月ちゃんも……。って、第四回って何? 前に三回もあったの!?」
まったく淀みなく、自然の頷き合う美佳子と知月の脇で、茉莉花が一人慌てふためいていた。
「マリ、気にしちゃダメよ。アンタが志岐を好きなのに気が付いてない人なんて、世界中でも恐竜並みに鈍い志岐本人くらいのもんだから」
「え、えええっ!?」
さらりと告げる美佳子の言葉に、茉莉花が一人悲鳴を上げた。
§
教室に入った途端、茉莉花が駆け寄ってきた美佳子にさらわれるように連れ去られていった後、淳弘は見慣れた光景の微笑ましさに頬をゆるめた。
茉莉花と美佳子の騒ぎの内容に耳をそばだてるような下世話な真似はせずに自分の席に着くと、今朝の出来事を思い返した。
交通事故の現場で淳弘が見たのは、そこで死んだ少女の姿だった。
生きていた頃と同じ姿であろう、ギンガムチェックのワンピースを着た少女は、すがるような目をしてじっと淳弘を見上げていた。
それは淳弘の右目にだけ映った姿。
そうした相手を見る時に、決まって右目蓋の古傷に沿ってチリチリするような感触も思い出された。
十年前、事故で怪我した目を変わったやり方で治してもらって以来、淳弘の右目には普通ならば見えないものが映るようになっていた。
いわゆる、幽霊だとか妖怪だとかいう類のものだ。
事故に遭う前はそういったものが見えた事はなかったので、その時の事がきっかけで間違いあるまい。
自分の頭がおかしくなって幻を見ているのかと疑った事もあったが、すぐにそんな考えは捨てた。
もし、それが幻だとしたら、あの時の出来事もなかった事になってしまう。
あの時の出来事──出会いを否定するくらいなら、自分が狂っているのだとしても構わない。そう思ったからだ。
自分が「見える」事を無闇に口外しても、あまりいい結果にならない事はすぐに学習したので、表立ってはそういう素振りは見せないようにしているつもりだが、ふとした弾みにボロを出してしまう事はある。おかげで奇癖の持ち主だとの評判が立つのは避けられなかったが、あまり気に病んでもいない。むきになって肯定するのも否定するのも得策とは思えないので、適当にごまかして受け流しておくのが妥当な所だ。
幽霊になってしまった少女は、心残りがあってどうしてもその場所を離れられずにいた。
いつも肌身離さず持ち歩いていた大切な宝物を車にはねられた時になくしてしまったのだと言う。
少女がなくしたおもちゃの指輪。
それは、母親にねだって縁日で買ってもらった物だった。
車にはねられた弾みで少女の指から外れて飛び出してしまった宝物は、すぐ近くの植え込みの奥へ潜り込んでしまい、誰の目にもふれず埋もれていたのだ。
どうにか土に埋もれかけた指輪を見つけて引っ張り出し、そっと差し出して見せると、はらはらしながら見守っていた少女の顔に満面の笑みが花開いた。
ただ、少女の手はもう宝物にふれる事はできない。
だから、淳弘は道端に供えられた少女を弔う花束に指輪を並べて置いた。
幽霊のような特異な存在と関わりを持つのが良い事なのかどうかはわからない。しかし、満足そうに笑って消えていった少女の事を思い返せば、自分がした事は間違いではなかったはずだと信じたかった。
不意に教室の片隅で上がった悲鳴に物思いを中断させられ、つられて視線を向けると、真っ赤になった茉莉花が美佳子にしがみついていた。
茉莉花とは一年の頃からずっと同じクラスの顔馴染みだ。
性格や身なりが大人しいために周りからは地味な子だと思われているが、顔の造形は愛らしく、真面目で控えめな人となりは茉莉花の美点だ。恋人はいないという話だが、その気になればいくらでも相手が見つかるだろう、と思いつつも、淳弘はそこに自分の存在を完全に欠落させていた。
淳弘は茉莉花に好感は持っているが、恋愛感情を抱いた事はなく、そして、それは茉莉花だけに限った事ではない。思春期を迎えた友人達が当たり前のように恋をして、誰が好きとか嫌いとかという話題で盛り上がっていても、淳弘にはそうした事柄がまるでしっくり感じられなかった。
女の子に興味がない訳ではない。しかし、特定の誰かに特別な感情が湧くという事がなかった。他の誰もが当たり前のように感じる事が感じられず、そこから得られる喜びも悲しみも知らない。自分は大きな損をしているのか、それとも、自分の精神には何か問題でもあるのだろうか、時々はそんな事に思いを巡らせつつも、深刻に悩むほどでもなく、今現在にまで至っている。
何度も繰り返された自問にそう簡単に答えが出るものでもなく、そうこうするうちに予鈴の音が鳴り響き、淳弘の物思いも頭から振り払われていった。
§
昼休み。
茉莉花と美佳子と知月の三人が各々の昼食を手にして机を囲んでいた。
「ほへひゃわ、ふぁひふぁほふぉふぉっふぇほふぉへ」
「美佳子、食べながら喋るのは感心いたしません。何か飛びました」
美佳子の口から飛んだ何かからすっと身をかわしながら、知月が冷静にたしなめた。
頬袋に食料を詰め込みすぎたリスのような様相を呈した美佳子は、中の物をごくりと飲み下すと、にいっと満面の笑みを浮かべた。
「いやー、ごめんごめん」
行儀良く背筋をしゃんと伸ばした知月に向かって、美佳子は箸を持ったままの右手を額にかざし、おどけて敬礼して見せた。
「あ……、ニカコちゃん、ご飯粒ついてるよ」
「マジ? 取って、取ってー♪」
遠慮がちに茉莉花が指摘すると、美佳子は甘えた声を出して顔を突き出した。
「もう、しょうがないなぁ……」
茉莉花がその口の端についた米粒を摘んで取ってやると、始末のためにティッシュを取り出すより先に、美佳子は米粒ごと茉莉花の指に食いついた。
「ひゃっ!」
「いひひ、ありがとー」
屈託のない笑みを浮かべる美佳子の突飛な行動に、茉莉花はい恥ずかしさを覚えてたじろいだ。
「隙ありっ。いただきぃ♪」
その隙を狙ったように、美佳子の箸が茉莉花の弁当箱に伸びて、卵焼きを一切れひょいと摘み上げて口に放り込んだ。
「うん、美味しっ。手作り弁当のこのハイスペックっぷり! 妬ましい! その腕前が妬ましいわっ! アンタ、アタイん所にお嫁に来とくれよぅ。悪いようにゃしないからさぁ。んにゃ、嫁には志岐んトコ行くからダメか。じゃあ、ウチには通いのメイドで来てくれればよしとしとこう!」
「ええっ? え、ええ、えええっ!?」
『お嫁』の一言に過剰反応した茉莉花が真っ赤になって取り乱す。
「おーう、赤くなってぇ。愛い奴、愛い奴。よーしよしよし、かわういかわうい」
「ひゃあああっ! ニカコちゃん、やめてぇ!」
美佳子に抱きつかれた茉莉花が弁当箱を取り落としそうになって悲鳴を上げた。
「ち……、知月ちゃん、助けてぇ……」
茉莉花から救いを求める視線を向けられて、騒ぎにまったく動じず自分のペースでちびちびと吸っていた野菜ジュースの紙パックに刺さったストローから口を離した。
「美佳子、茉莉花が困っています」
「てへへ、いやいやごめん」
知月に咎められて、美佳子は素直に茉莉花を離して型をすくめた。自由奔放な美佳子だが、まったく自分のペースが揺るがない知月は強引に押しづらいようで、知月がその場にいるだけで美佳子の暴走は抑え気味になる。
「ありがと、知月ちゃん。そうだ、よかったら、知月ちゃんも食べる?」
「いえ。折角ですが、私は結構です」
茉莉花が自分の弁当箱を差し出すと、知月は丁重に断った。
「まだダイエット中? ってか、ホントにそれだけで平気?」
美佳子の気遣うようにな言葉に、茉莉花の表情にも心配の色が浮かんだ。弁当を持参している茉莉花や美佳子と違って、知月が昼食として口にしているのは野菜ジュース一本だけで、しかも、それはここ数週間も続いている。
「問題ありません。必要な栄養は、必要な時に必要なだけ摂っていますから」
「なら、いいけど……。無理しないでね。知月ちゃん、スタイルいいし、ダイエットとかしなくても平気そうだけどなぁ……」
当の知月本人は涼しい顔をしていて、心配して言う茉莉花の方が自分の体重を気にして少し箸を鈍らせた。
「──美佳子、どうかしましたか? まだ、何か?」
じっと知月の様子を窺うようにしている美佳子に、知月が視線を返して訊いた。
「んー、いやー、知月がまたドヤ顔してんなー、って思って」
「ドヤ顔、とは?」
知月が小首を傾げる。
「得意げな顔、って感じかな。なーんか、最近の知月って、そういう顔してるの多い気がするな」
「ふむ……。そうですか」
知月は少しの間だけ真剣に考え込むようにうつむいてから、顔を上げてふふっと笑った。
「きっと、美佳子達といるのが楽しいので、そういう気持ちが顔に出ているのでしょう」
「おおおぅ! 知月がデレたっ! 知月ーいっ! あたしの嫁になれーっ!」
美佳子が両手を広げて抱きつこうとすると、知月は指一本で美佳子の額を突いて突進を食い止めた。
「美佳子、お静かになさい」
「……お、おおぅ。今のは結構ズッシリきたよ……。まだ、デレ度が足りなかったか……」
知月に突かれた額を両手で押さえて、美佳子はがっくりと項垂れた。
「それと、今朝の話では相談をしたいようでしたが、美佳子が騒いで時間を潰してしまったので、もう昼休みが残っていません」
「何っ!? しまったぁ、一生の不覚っ!」
慌てて時計に目をやった美佳子が大仰に頭を抱えた。
「しょうがない! 会議は延期ね。明日は土曜で休みだし、どっかお出かけして会議にしよう!」
「美佳子、それは遊びに行く口実に聞こえます。既に進路が決まっている茉莉花と違って、美佳子にはまだ余裕がないでしょう。私は賛成しかねます」
冷静な知月の指摘に、美佳子はぐっと言葉を詰まらせた。
「……い、息抜きだって必要よ!」
「息抜きが必要という点は理解しますが、過度では害になります」
「ぐぬぬ……。知月にはマリを応援してあげようって気持ちはないの?」
「私は人の色恋沙汰に口を挟むのは野暮だと思っています。手を貸して欲しいと言われればやぶさかではありませんが、不要なお節介まで焼くつもりはありません」
「マリっ! 知月が冷たいっ! 最近、付き合いも悪いし、もう、あたしの事を愛してないんだわ! 悲しいっ!」
知月に冷静にあしらわれた美佳子は、泣き真似をして茉莉花にすり寄った。
「え、ええっと……。あ、それじゃあ、お勉強会なんて、どうかな? それだったら、私もニカコちゃん達の勉強を手伝えるし……」
「それよっ!」
おずおずと切り出した茉莉花の言葉に、美佳子は泣き真似を止めてぐっと拳を握った。
「マリはあたし達の勉強を手伝う。そして、あたし達はマリの恋を手伝う。これこそギブアンドテイクね! これなら知月も文句ないっしょ!」
「……まあ、別に構いませんが」
半ば諦めたような知月の呟きを承諾と受け取って、美佳子は「よし!」と大きく頷いた。
「じゃあ、場所はぁ……、マリん家にお邪魔していい? その方が参考書とかいっぱいあったり、お茶請けにマリの手作りお菓子が出てきたりするよね!」
「あ、ごめん。明日の午後は叔父さんの一家が遊びに来るの。小さい子がいるから、うちだとうるさくなっちゃうと思う」
「そっかー。じゃあ、マリも都合悪かった?」
「ううん。それは大丈夫。……って言うか、甥っ子が悪戯っばかりするからちょっと苦手で……、出かけてられるなら、そっちの方がいいかも、って……」
何かにつけては自分にまとわりついて放っておいてくれない悪童の小さな甥を思い出し、茉莉花はやや困り顔になっていた。
「あらら。じゃあ、知月のとこ行きたい! そう言えば、しばらく行ってなかったし、知月の家なら広いし、今って一人暮らしだし平気だよね?」
「構いませんが、私には茉莉花と違って手料理を振る舞うような真似はできませんので、もてなしは期待しないで下さい」
「いいって! じゃあ、明日は知月んとこで決まりね! あたしらと、マリのために頑張ろう、おーっ!」
宣言するように美佳子が言い切った所で昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、美佳子は慌てて弁当箱を片付け始めた。
「……何か、ごめんね」
「うん?」
不意にぽつりと呟いた茉莉花の言葉に、美佳子が手元から目を上げた。
「何か……、みんなにたくさん気を遣ってもらっちゃってるな、って思って」
自分一人では好きな人との距離を詰めようと歩み寄る事もろくにできない。そんな茉莉花だから、周りの皆が気を遣って世話を焼いてくれるのだ。そして、自分はそんな好意に甘えてしまう。
「いいって、そんなの」
と、美佳子は手をひらひら振って見せた。
「好きでやってんだもん。あたしはさ、楽しいのがいい。楽しいのって、周りの人も楽しかったら、もっとおっきな楽しいになるっしょ? その方がきっと幸せだよ。だから、周りの友達が楽しくって嬉しくって幸せになったら、一緒にあたしの楽しくって嬉しくって幸せもおっきくなるっぽいから。なーんてね、ちょっと言ってて恥ずかしいね」
気楽な調子で飄々と言う美佳子の言葉が染みた。
友達だから、友達には幸せでいて欲しい。友達が幸せなら、自分も嬉しい。
そう思える友達が、そう思ってくれる友達が、いるという事は、きっととても幸せな事だろう。
先の事などわからないかも知れないけれど、そういう友達とずっとずっと友達でいたい、そんな思いが鼻の奥がツンとするような感覚と一緒に込み上げてきた。
「うん……、ありがとう……」
茉莉花が照れ臭そうに言うと、美佳子は黙って笑いながら頷いて、空になった弁当箱に蓋をした。
知月は何も言わないが、そんな美佳子と茉莉花の様子をじっと見つめている。
騒がしかったり、穏やかだったり、色々だけど楽しい時間。
こんな風に皆で昼休みの教室で机を囲むような事は、あと数ヶ月もすれば強制的になくなってしまうけれど、それでも、こんな楽しい時間がずっと続けばいい、と茉莉花はそう思った。
──心から、そう思った。
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