7. セックス・オン・ザ・ビーチ
一晩寝ても、二晩寝ても、僕の中にあるもう一つの現実は消えてなくならなかった。決して醒めない夢の中を生きているかのような、或いはちょっとした綻びで何もかもが瓦解してしまいそうなほど、現実は儚くて脆いものだった。
千代子に連絡を取ろうとも思ったが、もし彼女が本当に死んでしまっていた場合、僕はもう一度、あちら側の世界で感じた孤独や悲しさを体験しなければならない。そう思うと二の足を踏んでしまうのだった。
エコール・ド・パリへ行こうと思ったのは、そんな現実の中でたった一つでも確かなものを得たいという願望があったからだろう。その店すら存在しなかったらという恐れもあった。
有楽町線の東池袋駅で降りて、通い慣れた道をゆるりゆるりと辿った。早く確認したいという気持ちと、確認するのが恐ろしいという気持ちが半々だった。しかし、その恐れは杞憂だった。エコール・ド・パリは確かにその場所に存在していた。
店へ続く階段を降りて、入り口のドアを開くと、カランコロンと乾いた鈴の音が鳴った。店内にはまだ客がなかった。カウンターの奥のマスターが、いつも通りの乾いた声で、いらっしゃいませと言った。それら一連の流れがとても懐かしく、自分が現実世界を生きているという実感が少しだけ湧いてきた。
僕はカウンターについて、アルコールの注文をしても良いかとマスターに訊いた。マスターは静かに頷いて、夜用のメニューをカウンターの上に置いてくれた。ページをめくってみると、どれも見知った内容だった。
「前に僕がいつ来たのか覚えていますか」と僕はマスターに訊いた。
「2週間ぐらい前だったと思うけど」と彼は言うのだった。
「その時、僕は誰と一緒でしたか?」
「頭でも打ったのかい」とマスターは茶化しつつ、「千代ちゃんと一緒だったじゃないか」と言った。マスターは千代子のことを千代ちゃんと呼んでいた。つまり、彼女は一週間前までは生きていて、僕と一緒にここにいたということになる。
居ても立ってもいられず、僕は携帯を取り出すと千代子に電話をかけた。コール音を数える。一つ、二つ、三つと鳴るあいだ、冷や汗をかきながら、僕は祈り続けた。お願いだから出てくれ。声を聞かせてくれ、と。一つコール音が増えるたびに、千代子の死に顔が脳裏に浮かんだ。
「もしもし?」という、ひどく懐かしい声が聞こえて、僕の身体からは力という力が抜け落ちていった。それは紛うことなく千代子の声だった。彼女は生きていたのだ。
「話したいことがあるんだ」と僕は切り出した。「エコール・ド・パリまでこれないかな」
「もちろん、それは良いんだけど。何があったのかな」
「いろいろなことがありすぎて、一人では整理がつきそうにない。だからどうしても力に鳴って欲しいんだ」
千代子は分かったと答えて電話をきった。
どこからどこまでが偽造された記憶の中の話で、どこからどこまでが現実で実際に起こったことなのか。或いは、今自分がいる場所が、記憶の中ではなく、本当に肉体の根ざすところの現実の世界なのか。はたまた、それらの二項対立は当人にとって見分けがつくものなのか。
「ベリーズ。The Who。セックス・オン・ザ・ビーチ。エコール・ド・パリ。ホチキス。アダムスキー。スカイハイツ。四葉のクローバー。レインマン。セカンドスクール」と僕はひとりごちる。
四葉のクローバーは、お台場の公園で、僕と千代子がお互いにプレゼントをし合ったものだった。少なくとも僕の記憶の中では。そしてセックス・オン・ザ・ビーチはエコールドパリの今僕が座っている隣のスツールで、千代子がよく頼んでいたメニューだった。それら全ては本当に現実世界での記憶なのだろうか。
疑惑が生まれては弾けていったが、どんなに考えたところで答えは一向に出ないのだった。大丈夫だ、千代子がここへ来れば見えるものがあるはずだ。
「ゾンビみたいな顔して。何があったの?」しばらくしてやってきた千代子は僕の顔を見るなりそういった。本当にひどい顔だったのだろう。僕自身、疲労で困憊しているのが分かるぐらいだった。
千代子はいつものようにスツールに座ると、「いつものをちょうだい」とマスターに注文をするのだった。いつものというのはセックス・オン・ザ・ビーチのことだ。そのカクテルの見た目のことを僕は思い起こす。足の長いグラスに満たされるのは、ブラッドオレンジジュースのような赤みの強いオレンジ色の液体で、グラスの縁には輪切りになったライムが差し込まれていた。
想像した通りのカクテルが、カウンターの上にそっと置かれた。千代子はありがとうと言って、ストローに口をつけた。確かにセックス・オン・ザ・ビーチのはずだった。しかし、彼女の口からその名前を聞けるまでは安心ができない。
「それって、意外とアルコール度数が強かったよね」と僕はそれとなくいった。「何ていうお酒だっけ」
「ちょっと飲んでみる?」と千代子はいって、僕の前にグラスを置いた。「どうぞ」
僕はストローからその液体をすすってみた。思った通り、柑橘系の爽やかな飲み口だった。ただ想像していたよりずっとアルコール度数は弱かった。というより、ほとんどアルコールが感じられないほどだった。
「そんなに強くないんだね」と僕は言った。
「シャーリー・テンプルはノンアルコールのカクテルだからね」と彼女は言った。「私はお酒に弱いって言っていなかったっけ?」
言われてから初めて思い出した。千代子はアルコールに弱かったのだ。そんな人間がカクテルを好んで飲むわけがなかった。
というのと、僕の中でシャーリー・テンプルという響きにとても懐かしい何かを感じていたのだった。子供の頃に好きだったキャラクターか何かのことだろうか。僕はその何かのことをとても気に入っていたのが分かった。ただ、それがいつの頃に感じていた気持ちなのかは全く思い出せないのだった。
「それで」と物思いにふけたままの僕に千代子は訊いた。
超記憶術セミナーで暗唱した単語に纏わる記憶は全て作られたものなのだろうと僕は悟った。ただ、作られた記憶の全てが悪であるということはないはずだ。もし混乱するようであれば、実体験で上書きをしてしまえば良い。
「こんなことを言うと馬鹿だと思われるかもしれないけれど」と僕は切り出す。「今からお台場の海浜公園に行かないか。そこで四葉のクローバーを探したいんだ」
「馬鹿だね。でも、とても良い提案だと思う」と千代子は笑った。
君がセックス・オン・ザ・ビーチを頼むなら、そこはエコール・ド・パリ proxy @axhill
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