6. 夢うつつの面影探し
「ベリーズ。The Who。セックス・オン・ザ・ビーチ。エコール・ド・パリ。ホチキス。アダムスキー。スカイハイツ。四葉のクローバー。レインマン。セカンドスクール」
僕は呪文を唱えるように、言葉を発していく。全ての単語を言い終わると、背後から拍手が起こった。振り返ると、大勢の人が僕のことを注視していた。僕がいたのは教室の最前列の席だった。
机の上には、超記憶術セミナーのパンフレットがあった。
「完璧な回答だったね。ありがとう」と老人は言った。「このとおり、なんの脈絡もない10の単語だが、超記憶術によりイメージを焼き付けることで、決して間違えることなく、人間は物事を詳細に記憶することができるようになる」
僕は夢見心地のままだった。UFOにアブダクトされたという確かな記憶があり、その次の瞬間には超記憶術セミナーに初めて通った日の中にいるのだ。どちらが現実なのか。何が本当なのかの判別がつかなかった。
「諸君らが体験したとおり、超記憶術はナラティブ、つまり物語を作ろうとする精神に直結させることで、記憶したいものを強烈なイメージとして脳内に結びつける。絵画的な記憶術では抽象的な概念の記憶が難しいとされていたが、この記憶術を使用すれば、絵画的には表現ができないようなものも簡単に記憶できる」
何か大事なものを失ってしまったかのような喪失感で、その後も男の言葉は全然頭の中に入ってこなかった。ベリーズ。The Who。セックス・オン・ザ・ビーチ。エコール・ド・パリ。ホチキス。アダムスキー。スカイハイツ。四葉のクローバー。レインマン。セカンドスクール。それらの言葉は思い出すことができた。ただ、それよりも忘れてはならない人のことが、どんなに思い出そうとしても思い出せないのだ。この腕の中にあった身体は誰のものだったのだろうか。その感触や温もりだけが残り香のようにあるのだが、それが誰だったのかが分からなかった。
ただ、分からない中でも、とても大事な人だったという確信だけはあった。「絶対に私のことを忘れないで」という声が伽藍堂になった脳裏に響きわたる。
セミナー終了後、会場を出ようとする僕を、先ほどの老人が引き止めた。
「君、まだ地に足がついていないようだね。一度、休憩室で休んでから帰ると良い」
「何か忘れてはいけないものを忘れているような気がするんです」と僕は言った。
「初めて超記憶術を使った人のうち、何人かに一人は君と同じようなことを言う」と男は言った。「現実の世界では出会ったことがない女性が物語の中で、自分のことを忘れるなと叫ぶ。そういう経験をしている」
「或いは、今僕がいるここが夢の中で、彼女と生きていたあちら側が現実の世界なのではないかと、そういった考えが僕の中にはあるのです」
「ウロボロス症候群だな」と男は言った。「自分が作り出した物語によって君自身が食べられようとしている。その考えはとても危険だ。すぐに捨て去らなければならない」
「では、あなたは今自分がいるのが夢の中ではないとどうやって証明されるつもりですか。頬っぺたでも抓るおつもりですか。その痛みすら、脳が作り出した幻覚ではないとどうやって言い切れるのでしょうか」
「困ったものだな。きっと一晩眠れば、いやでも今の君が現実世界の中にいると実感できるはずなのだが、いかんせん今は物語の中で作り出した経験が鮮明すぎて、見分けがつきにくくなっているのだ」
「そういうものなのかもしれないですね」と僕は渋々、男の提案を受け入れることにした。つまり一旦は結論を出すのを見送り、一晩ぐっすり寝ることにした。
「君が物語の中で出会った女性だが」と男は言った。「僕たちはそれをミューズと読んでいる。それはギリシャ神話における芸術の女神の名前だ。物語を紡ごうとする時、いつでもミューズは僕たちの側にいて、静かに力を貸してくれているのだと、私は好意的に解釈することにしている」それから「君は物語を紡ぐのは初めてかね」と訊いた。
「子供の頃にはよく作り話をしていたような気がしますね。おぼろげな記憶ではありますが、小学校の頃にはよく自分で漫画を描いては友達に読んでもらっていました」
「興味深い」と男は、顎に手をあてて物思いに耽るような仕草をしながら言った。「幼い頃に創作することや表現することの喜びを知っていたということだね。もしかすると、それがミューズからの寵愛を受けるための条件なのかもしれないな」
明日になってもまだ現実と夢の見分けがつかないようならと、男は自分の電話番号を書き記したメモ用紙を僕に渡した。僕はそれをポケットにしまってから、お礼をしてセミナー会場を出た。
できるだけ余計なことを考えないようにしながら歩いた。駅前のスクランブル交差点の渡りしな、雑踏の中から不意に「絶対に私のことを忘れないで」と言った彼女の声が聞こえた気がした。僕は足を止めて、周囲を見渡し、彼女がいないかどうかを探した。顔も覚えていないのだから、見つかるわけもないのだが、それでも諦めずに見渡した。
歩行者用の信号が明滅し、周囲の人たちが慌ただしく信号を渡りきろうと走り出す。僕も急かされるように信号を渡りきった。それからもう一度、振り返る。スクランブル交差点の向こうで、よく知った笑顔が見えた気がしたけれど、車が行き交った後にはもう彼女の姿は見えなくなっていた。
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