第三章 紊乱 Disordinarsi.

第三章 紊乱 Disordinarsi. (1) 飢えと夢

 喘鳴の後に鼻腔をつくのは、独特の腐臭だ。


 コルラードはそっと瞳を閉じてから、顔面にこびりついた返り血を袖口で拭った。


 同族のものと言えど、血液には違いない。くらくらと眩暈がするほどに魅力的且つ強烈な臭いに、彼は微かに顔をしかめた。血の臭いに反応するのは、ノスフェラトゥとしては本能と言っても過言ではない。


 だが、コルラードは短く頭を振り、胸中から湧き上がる己の欲を断ち切った。


 これを飲んだら、愛する嫁に嫌われる。


 足元で血溜まりに浸かっている同胞から顔を背けたくて、心の臓を貫いている愛用の剣を引き抜いた。そして勢いよく虚空を切ると、こびりついていた真っ赤な飛沫が地面にぱたぱたとこぼれ落ちていく。仕上げにはめていた手袋で脂を拭きとると、剣は腰に纏う鞘に丁寧に収められた。手袋はもう使い物にならないので、その場に捨てていくことにする。


 東の空は、ほんのりと明るんでいる。もうすぐ人間が生きる時間となる。


 その眩しさに思わず目を細め、コルラードはのろのろと頭を振った。


 今日は三体、この手で始末した。

 どれもこれもノスフェラトゥの掟を大きく逸脱した者たちで、ここしばらく上からの命を受け捜索していたのである。ようやく見つけたと思ったら、思いの外抵抗された。なんとか息の根を止めてやったけれど、まさかこんなに時間がかかるだなんて思っていなかった。


 ――否、時間がかかった理由は、「抵抗されたから」だけではないのだ。


 コルラードは短く息を吐き、そっと呟いた。


「血が、足りない」


 肉体維持に関しては全く問題ない。だが、それはあくまで人間であるレオに合わせた「人間としての生活」上の話である。「ノスフェラトゥとしての生活」は、悲惨と称するほどにボロボロだった。


 元々さほど飲まずともある程度の力の維持が出来る身体ではあったが、ここ数日の弱り方は半端ではない。しかしながら、これ以上彼に嫌われたくなかった。


 好かれている自信はまるでないが、紳士でいると宣言した以上迂闊な真似はできない。


 必死に吸血衝動を抑えながら屋敷に戻ると、案の定レオは一階のソファで眠っていた。その右手には、いつでも撃てるよう愛用の銃が握られている。それにしては無防備な寝姿である。こうして相当な音を立てながら部屋に入ってきたというのに、彼は全く起きる気配がない。


 コルラードは苦笑しながら、血にまみれた上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。剣はその横に立てかけておく。流し場で手と顔を洗った後、眠るレオのすぐ真横まで近付く。


「ん……」


 その時、ぴくりとレオの眉が動いた。

 先程から苦しそうな表情を浮かべていると思っていたが、どうやらうなされているらしかった。額にはうっすらと汗をかき、時折苦しげに呻いている。


 実は、彼がうなされているのはこれが初めてではないのだ。

 コルラードが帰ってくる明け方付近には、必ずこんな風にうなされている。初めは慣れない環境のせいではないかと思っていたが、それはどうやら違うということに、最近になって気がつきはじめた。


 うわ言のように呟く、彼の唇。


「叔父……さ、」


 ああ、まただ。

 コルラードはレオの背と膝の裏に手を差しこみ、そっと抱き上げる。生憎自分の身体は少々冷たいけれども、こうして抱き上げてやれば苦しみは多少軽減されるらしい。こんなところで眠るからだよ、とは思いつつも、彼にそこまで強要はしたくなかった。


 二階に運ぶため、落とさぬよう身体を密着させると、苦しんでいたレオの表情が少しずつ和らいでゆく。小さく身じろぎした後、再び夢の中へ。


 普段のピリピリした様子からは想像もつかない仕草に、ついついコルラードは苦笑してしまった。


「起きているときも、これくらい素直ならいいんだけどねぇ」


 コルラードは自室のベッドに彼を運び入れると、レオが握っている短銃をそうっと抜いた。そして、とりあえずサイドボードの上に置いておくことにした。そのまま置くのでは傷をつけてしまいそうだったので、比較的毛羽立たないベルベッドの布を引き、その上に置く。


 彼が唯一愛するこの銃に対し猛烈に嫉妬しているのは事実である。故にこういう小さいことをやってしまうのだから、我ながら子供だと思う。


 しかし、これくらいの嫉妬なら許されるような気がした。寝ているときくらい独占したって構わないだろう。例えば、その寝顔。例えば、微かに唇から洩れる寝息。少し汗ばんだ首筋だって、きっと噛み付かれることを望んでいる。柔らかな肌に牙をつきたてたら、どれだけの血が流れ落ちるのか。カルナーレの血はさぞ美しいだろう。まるで宝石のような光沢と深みのある真紅に、おそらく恍惚の念を抱いてしまうはずだ。


 そこまで考えて、コルラードははっとした。


「なにを考えているんだ」


 両手で自分の頬を叩き、一瞬頭を過った妄想を断ち切る。

 やはり、自分はおかしい。こんなにも血液のことで頭が満たされるだなんて、今までに数えられるくらいしかなかったはずだ。


 仕方なくコルラードは自分の親指を噛み切り、そこから溢れ出した血液をねぶった。ノスフェラトゥの血液はあまり美味しくない。まして、自分のものを摂取するなどもってのほか。しかしながら、今はそれしか方法がなかった。


 衝動が収まったころ、彼はのろのろと着替えを済ませ、未だ寝息を立てているレオの隣にようやく潜りこむ。融け落ちるような眠気と温かさにまどろみ、それからすうっと目を閉じた。

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