第三章 紊乱 Disordinarsi. (2) 嫉妬

 鳥の囀る声でレオが目を覚ますと、案の定そこは一階のソファの上ではなかった。柔らかいマットに、真綿の布団。そして目の前には、非常に安らかなノスフェラトゥの寝顔があった。


 レオは溜息をつき、小さくみじろぎする。


 ここ一月ほど、寝る段階では一階のソファにお世話になっているはずなのだが、目が覚めると必ずこの天蓋付きベッドに身を沈めているのである。犯人は一人しかいない。この、目の前で呑気に眠っているノスフェラトゥだ。


 レオは眼球だけを動かし、銃がどこにあるかを探した。――今日は、ベッド脇に設置されたサイドボードの上にあった。ご丁寧にも、本体に傷がつかないよう夜色をしたベルベッドの上に置かれている。


 暴発を避けているのか、それとも。


「……嫉妬」


 ぽつりと呟いた。おそらくこれが正解だろう。


 初日に「この銃しか愛せない」と明言して以降、彼はなにかとあの銃に目線を向けているのである。初めは教皇庁支給の銃が珍しいのかと思っていたが、のちにそれが間違っていることに気が付いた。


 しょうもない嫉妬を積み重ねられても困る。しかも相手は生き物ではない。


 やっぱり莫迦だな、と思ったところで、コルラードがそっとレオの身体を引き寄せた。ぎゅっと抱きしめられると、厚い胸板に頬が重なる。


 彼の腕の中は、若干冷たい。そして、日替わりで種類の異なる血の臭いをさせている。それだけで、彼が自分とは違う生き物なのだと嫌でも認識させられた。


「……ん、なんだ。起きていたのか」


 そのとき、唐突にコルラードが目を覚ました。驚いた刹那、ぐるりとレオの視界が回転する。

 今は天蓋の薄い布と、悪戯っぽく微笑むコルラードの顔のみがこちらを見下ろしていた。両腕はシーツに縫い付けられ、動かそうとするたびに微かに痛みが走る。


「おはよう、仔猫さん。よく眠れた?」


 コルラードの甘ったるい囁きが、まるで死亡宣告のように鋭利な冷たさを以てつきつけられる。しかしながら、レオは全く臆していなかった。両眼をじっとコルラードの瞳に合わせ、唇を動かした。


「誰が猫だ。獅子の間違いだろ」

「どちらもネコ科だろう。何が違うんだ」

 まぁ、と彼は曖昧に微笑んだ。「俺は嬉しいよ。もっとじゃれついてくれて構わない」

「っ、そこをどけ」


 言われた通りコルラードが身を起こすと、一拍遅れてレオも起き上がった。怒気を孕んだ稲穂色の瞳は、少しでも触れれば切れてしまいそうなほどに鋭い。

 怒った彼も可愛らしいが、本音を言えばもっと別の表情も見てみたい。そんな心の声が聞こえた気がして、レオは内心舌打ちをしていた。


 観念した様子でコルラードは肩を竦め、サイドボードに向けてついと顎を動かす。


「君のあいぼうはそこだ」


 しかし、レオはちらりと目を向けただけで、そこから動こうとはしなかった。黙ったまま、じっとコルラードを睨めつけている。


「……意外とあんたって、頑固だよな」

 何のこと? と尋ねると、レオは間髪いれず言葉を吐き出した。「なんでお前は、そうやっておれに執着できるんだ」


 ここしばらく、ずっと考えていたことだった。

 先述の通り、このノスフェラトゥは割と嫉妬深いところはあるのだが、不思議と手は出さない。夜間にうっかり熟睡していることがあっても、布団に運ばれるがそれ以上のことはしていないらしい。その気になればいくらでも手出しできるはずなのだ。


 まさかと思うが、先日の「紳士でいてあげる」宣言をこんなところで発揮しているのか。

 そういった旨をまくし立てるように問い詰めると、コルラードは「なんだ、そんなこと」とでも言わんばかりな表情を浮かべているではないか。そして欠伸交じりに、


「言っただろ? 出来る限り紳士でいるって。『待て』くらいできるよ、って」


 予想通りの返答に、思わずレオはがっくりと肩を落としてしまった。


「なんというか、意外性がさっぱりない……」

「ありがとう」

「褒めてねぇよ」


 ああもう、とレオが気を取り直してベッドから降りると、その足で己の銃を取りに行った。見たところいじられた形跡はない。まぁどうせこれから分解整備をするので何をされていてもさほど支障はないのだが。


 それでもレオにとって、これを自分以外の誰かに触られるというのはとても嫌なことだった。


「あまり勝手に触るなよ。危ないから」


 稲穂色の瞳をさらに吊り上げてコルラードに向けると、彼は一つだけ肯いた。


「それは心得ている」

 というか、と彼はいつも通りの表情のまま続ける。「それは俺のことを心配していると考えていいのかな。嬉しいなぁ」


 実に悠長な言い草である。本当にこの男はいい根性をしている。レオは冗談、と言いかけたが、ふと思い立ちそれをやめた。


「大体ね、『殺し屋』であることについてのみ、プレダトーレもノスフェラトゥも同類じゃないか。大丈夫、武器の扱いは慣れている」


 その瞬間、レオの胸にコルラードの言い放った『殺し屋』の一言がずしりとのしかかった。


 まぁ、と口を閉ざしたレオに対しコルラードは言う。


「殺しなんて誰でもやるでしょ。君が気に病むことじゃない」

「そう言われるのは、……心外だ」

「人間は平気で同族を裁きという名目で殺すじゃない。それを殺しと言わないでなんと呼ぶの。もちろん、人のことは言えないけどさ」


 ――答えられなかった。


 レオがじっと俯いていると、唐突にコルラードが立ち上がり、額に唇を寄せてきた。


「君が俺のものになってくれれば、そんな悲しいこと、永遠にしなくてもいいんだよ」


 バカか、とレオは吐き捨てるように言った。両手で彼を拒絶し、さっさと部屋を出た。


 どうしてこんなにも苛々するのか、自分でもよく分からない。


 そんな悲しいこと、永遠にしなくてもいい――


 ただ、コルラードが言い放った言葉が延々と頭を駆け巡っている。

 手に握る短銃も、命を賭して戦った叔父の生きざまも。その一言によって、全てを否定されてしまったような気がした。


 レオは泣きそうになるのを懸命に堪えるべく、唇を強く噛みしめた。

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