第二章 欺瞞 Fraudolento. (4) 相容れない存在※

 彼に手を引かれ暗い屋敷の中へ入ると、すぐに重い扉は閉められた。


 玄関ホールの中央には二階へ続く階段が伸びている。内部も外観と同様に左右対称で、両翼に対して二つずつ白塗りのドアが備え付けられていた。天井には、見事な鏝絵と煌めくシャンデリア。


「気に入ったかな」

 コルラードは実に穏やかな口調で言った。「ここが、今日から君の住まう家だ」


「鳥籠、の間違いだろ」


 レオの発言に、彼はぴくりと眉を動かした。


 エスコートしていた手を離し、レオの真正面に立つ。そのままでは近すぎて彼の表情が見えなかったので、レオはそっと瞳だけを上へと持ち上げた。

 彼の瞳が、突如ぎらりと獰猛な色を放つ。レオの顎に触れると、そのままついと上へ向けさせた。


「生意気を言うのは、この口かな?」


 端正な顔が近付いてくる。徐々に焦点が合わなくなり、彼の暗褐色の瞳がぼやけて見えた。


 かつてのカルナーレたちもまた、こうして有無を言わさず喰われてきたのだろう。ここで大人しく喰われるのが正解なのだろうが、ちょっと待て。


 レオは短く息を吐き、行動を起こした。


 喉元に突き当たる固い感触に、コルラードはぴたりと動きを止める。そして、微かに見えるその固さの正体へと目を向けた。

 レオの右手に握られるは、例の銀パーツの銃である。彼といつも行動を共にしていたこの銃が、今のレオに残された唯一の味方だった。


 レオの指はきちんとトリガーを引いていたが、それが作動することはなかった。仰ぐ視線の先で、コルラードの親指がハンマーに食いこんでいる。形のいい爪に亀裂が入り、赤い血液がつうっと流れ落ちるのが見えた。


「言ったろう。俺と『遊戯』を楽しむなら、そんなものじゃなくもっと色気のあるものにしてくれないか、ってね」

 そしてコルラードは再び口角を吊り上げたのだった。「それとも、痛いのが好きなの?」


「どうだか」

 鼻で嗤いながら、「ただ大人しく喰われるだけの人生なんて、まっぴらごめんだ」


 コルラードはため息混じりに、レオが掲げていた銃を無理やり下げさせた。割れた爪からこぼれ落ちる赤黒い液体は、上質なカーペットの上に音を立てて染みてゆく。一瞬、濃い色をしたガーネットみたいだな、とレオは思った。


「カルナーレは決して俺を殺せない」


 確信している口ぶりが、また神経を逆撫でしていく。ありとあらゆる自制心を胸の内に集約させながら、レオは彼をじっとり睨みつけた。未だこの男の真意が読み取れない。どうするのが正解なのか、冷静になれと叫んでいる頭の中で必死になって考えた。


 だが。


「両方狩人か。これは面白い『お遊戯』が期待できそうだ」


 ふつんと、頭の中でなにかが切れた。

 お遊戯というその一言に、レオは思わずかっとなった。左の拳が反射的に振り上げられたが、それをコルラードの右手が受け止める。瞠目する隙もなかった。

 同時に、口唇がレオのそれをきつく塞ぐ。


「んっ……!」


 舐めるような執拗なキス。口唇の縁をくすぐった後、歯列の奥まで順になぞってゆく。未知の感触にレオは目を剥き、必死にコルラードの胸板を叩いた。


「ふ、ぅんっ、ぁっ」


 歯列を割って舌体が入り込もうとした刹那、レオは容赦なく噛みついた。その痛みに驚いて、ようやくコルラードは飛び退くように彼から顔を離す。

 喘鳴混じりのレオがより一層怒気を孕んだ瞳を向けると、コルラードは己の口唇に垂れた血をぺろりと舐め取った。


「噛み切られるかと思った」


 そこでふと、コルラードはレオの口唇へと目を落とした。彼の薄い口唇は、どちらのとも言えない唾液で微かに艶めいている。そっと親指を伸ばし、壊れものに触れるかのようにそっと唾液の痕を拭ってやった。


 コルラードの目は、今もまるで肉食獣を連想させるギラギラとした光彩を放っていた。

 だが、レオも負けてはいない。冷たい怒りの炎を纏う瞳が、より一層激しさを増す。


「最初に言っておく。おれの血は一滴たりとも呑ませないからな」


 レオが吐き捨てるように言うと、コルラードは曖昧に微笑み、ひとつ頷いた。


「『待て』くらいできるよ。俺だって躾のなってない犬じゃないんだから」

 さて、とコルラードはレオの肩を叩いた。「仲直りしよう。おいで、家の中を案内してあげる」


 疑いの眼を向けるレオは、未だトリガーに指をかけたまま彼の様子を窺っている。しばらくにらめっこを続けた二人だったが、唐突にコルラードがため息混じりに肩を竦めた。


「ああ、うん。俺が悪かった。だから機嫌直して」

「伯爵。おれがどのあたりについて怒っているか分かりますか?」


 敢えて丁寧な文句をつきつけたレオに対し、コルラードはきょとんとして首を傾げた。


「え? 多分、キスのあたり」

「違う!」


 その辺りについてはある程度諦めていた。降嫁した以上仕方がないし、別にキスひとつくらい減るものじゃない。というか、貴族間の所謂「嗜み」というものを経験している段階である意味接吻の安売りしていた訳だから、レオにとってその点は論点にすら挙がっていないのだ。


「伯爵は、今までのカルナーレにもそういう態度だったんですか」

「なに?」


 本当は言うべきことではないのかもしれない。しかしながら、レオはどうしても許せなかった。


 彼の言う『お遊戯』という言い回しが。


「我々カルナーレは、エゼクラートの民を一身に担って降嫁に臨んでいます。それを『お遊戯』で片付けるのは許さない。こっちが一体どんな気持ちでここにいるのか、あなたは全く分かっちゃいない!」


 完全なるやつ当たりだということは分かっている。

 だが、彼の言い草はあんまりだ。同じカルナーレとして、過去の花嫁たちに同情してしまった。所詮、ノスフェラトゥと人間は相容れない存在なのだ。それを今、痛いほどに思い知らされた。


 だから一発、コルラードの右頬を左手で叩いてやった。乾いた音と同時に訪れる痛みに、さすがのコルラードもぽかんと目を丸くしている。


「これは、今までのカルナーレの分」


 それから、ともう一発、今度は堅く握った拳を同じく右頬にぶちかます。ちょっとやりすぎかと思ったが、これくらいの仕打ちを受けてもおかしくないだろうと判断した。


「これは、おれと現領主・ブルーノの分だ。よく覚えておけ」


 案内は結構だ、と吐き捨てると、レオは勢いに身を任せ早々に屋敷から出て行こうとした。


「待って」


 それを、コルラードが引き止める。先程拳をぶちかました左手を掴み、切実な声で訴える。


「手、痛いでしょ。ああ、こんなに腫れてる」


 ぴたりと、レオの足取りが止まった。そしてのろのろと振り返ると、微かに目線を上げ彼を仰ぐ。鉄槌を喰らった右頬が腫れている。わざわざ痛くする方法で殴ったのだ、腫れないはずがない。


「……そっちのが痛いだろ」

「俺はいい。それより君の手がこんなにも痛ましくなっていることの方が重大問題だよ。ブルーノに申し訳が立たない」


 とにかく冷やそう、とうろたえているこの吸血鬼を見て、レオはひとつ発見をした。


 カルナーレの外傷に対する治癒速度を考えたら、この程度の腫れは三分もあればひくのである。それに気づかないほど気が動転しているとは、この伯爵――なんだかよく分からないが――意外と莫迦だ。

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